ようやく話題の書、N.T.Wright(以下、ライトと表記します)の"What St Paul Really Said"を読了しました。英語力のない私が何とかこの本を最後まで読み通せたのは、私自身の近年の個人的テーマ「福音とは何か」「救いとは何か」ということに深くかかわる書だったからでしょう。ライトは、神学の世界ではかなり大きな反響をもたらしている方ですが、中でもこの書はパウロの義認論や福音理解の問題にかなり直接的に触れている書です。翻訳も間もなくされるのだろうとは思うのですが、それまで待っていると上記テーマについての取り組みが遅れそうで、いつものごとく英語の辞書片手に読みました。
当初、この本を一通り読めばライトの義認論、福音理解について一定の理解が与えられると共に、彼の見解に対してどう考えたらよいか、自分なりの考えもまとめられるのではないかと期待していました。しかし、読んでみると、この予想の前半は確かにその通りになりそうですが、後半については期待通りにはいかないようです。というのも、この本はパウロ研究に基づくライトの見解のアウトラインを示した書、とでも言えるような内容で、彼の主張点のポイントを明らかに知るためには良いと思いますが、検討を加えるためにはより詳細に彼の見解を調べていく必要がありそうです。おそらく、それ以降に出版された彼の著作を順次検討していく必要があるのかもしれません。特に、釈義的な面での議論はかなり要約的にまとめられていて、その方面の検討を加えるには、最低彼のローマ書についての注解書などを買って調べる必要があるのでしょう。
ただ、私の英語力では、読み終わった時点で既に初めのほうの章の内容がおぼろげになっているような部分もあります。先に進む前に、まずは、この本を読み返しながら、各章の内容を私なりに要約しておきたいと思いました。各章ごとに多少のコメントもつけてみたいとは思いますが、疑問点を挙げてみたり、感想を述べてみたり、論点を整理したりと、今後の検討のための手がかり、方向性を探っていくための予備的コメント、ということになりそうです。全体としてはいつものごとく私自身の個人的覚書のような内容となると思います。英語力も神学的知識も大変貧しい者ですので、誤解、誤読の余地も大いにあります。その点ご了解の上、お読みください。
第1章 パウロについての戸惑い
【要約】(ここで「私」というのは、ライトのことです。)
キリスト教について考えたいと思う者で、パウロを無視する者はいない。しかし、ある者は、彼を乱用し、誤解し、自分自身のカテゴリーを彼に押し付け、間違った質問をもって彼のところに行き、どうして彼は明快な回答を与えないのかと疑問に思い、ずうずうしくも彼が承認しようとしない他の枠組みに合うよう、彼から素材を借りてくる・・・そういうことができるし、そうしてきた。
パウロの学術研究の歴史においてはあらゆる本が書かれてきており、ここでは重要な一、二の人物を概観する以上のことはできないが、少なくとも概観はしておかなければならない。
1.20世紀におけるパウロ
○シュバイツァー
アルバート・シュバイツァーは、多くの著作者を、次のような二つの簡単な質問を突き付けることによって分析した。
(1)パウロは、ユダヤ的思想家であったのか、ギリシヤ的思想家であったのか。
(2)パウロの神学の中心は何だったのか。「信仰義認」か、「キリストにあること」か。
シュバイツァー自身の回答は明快で、(1)については、パウロは完全にユダヤ的であったと言い、(2)については、パウロ神学の中心は信仰義認ではなく、「キリスト神秘主義」(「キリストにあること」についての彼の表現)だと言う。そして、この二つのことは彼において連結しており、イスラエルの神はメシヤ・イエスを通して劇的に、黙示的に世界において行動された、真の神の民は今やこのメシヤ、このキリストに結びつけられており、彼らは彼の「中に」組み入れられたのだと言う。
このような分析と共に、シュバイツァーはパウロ文書について釈義上大切な多くの決断をした。恐らくその中でも最もよく知られているものはローマ書の読み方についての見解だろう。もしパウロの神学の中心を「信仰義認」と考えるなら、この手紙の中心としてローマ1-4章を強調しようとするだろうし、シュバイツァーのように、「キリストにあること」がパウロの中心にあると考えるなら、替わりにローマ5-8章を強調したいであろう。
シュバイツァーはパウロの今日的意義について、二つの点を指摘した。「キリストにあること」が大切であるなら、キリストの生き方を新しい、もっと違った仕方で自由に生き抜くことができるということ、そして、公的教会が行なっていることにあまり注意を払いすぎる必要はないということ。
簡単にいえば、彼はパウロについて常に尋ねられるべき4つの質問を私たちに残したことになる。
(1)パウロは一世紀の宗教の歴史のどこに位置づけられるべきか。(歴史)
(2)我々は彼の神学、そのスタート地点と中心点をどのように理解すべきか。(神学)
(3)個々の手紙をどのように読み、それらからパウロ自身が言いたかったことをどのように引き出すべきか。(釈義)
(4)今日における我々自身の生活と働きとの関連で、結末、結論は何か。(適用)
彼自身の答えは質的に様々であるが、これらの問いを明確に見たことのゆえに、彼は続く研究において一つの基準を提供している。
○ブルトマン
4つの質問に対するルドルフ・ブルトマンの答え。
(1)パウロはヘレニズムの文脈に属する。
(2)パウロ神学の中心は人類の苦境(罪・律法・死)とそれから逃れるための決断(信仰)についての分析である。
(3)ローマ書の中心は5-8章、特に7,8章である。そこにはブルトマンが言うところの「律法のもとにおける人」の苦境が絵画的に描かれている。
(4)パウロの今日における要点は、クリスチャン宗教の世界を含め、世界が崩れつつある中、クリスチャンたちの信仰を支えることである。
○デイヴィーズ
ブルトマン以降、20世紀の前半、パウロはヘレニズム的背景で考えられてきたが、第二次大戦後、大きな変化があった。W.D.デイヴィーズは、ユダヤ人ラビの研究を行い、ブルトマンたちがパウロのギリシヤ的背景としてきた諸特徴がユダヤ教においてはっきりと認められることを発見した。彼は、パウロが黙示的ユダヤ人であるとするシュバイツァーの道を辿らなかったが、彼の著作はシュバイツァーの方向への回帰を表明した。
○ケーゼマン
4番目の学者は1960年代、1970年代、テュービンゲン大学教授だったエルンスト・ケーゼマン。ローマ書についての彼の重要な注解書で、彼はパウロ神学の新しい統合を提供した。彼は、シュバイツァーとブルトマンの両方の強調点を保持しようとした。一方で彼は、パウロの真の背景は黙示的ユダヤ教の中に見い出されるというシュバイツァーに同意した。もう一方では、パウロの中心が義認の神学の中に見い出され、それは全人類の律法主義や宗教的プライドを撃つものだというブルトマンや他のルター派学者に同意した。このようにして、ケーゼマンはブルトマンの分析が床に散らかし残したパウロの多くの部分を取り戻すことができた。中でも重要なのは、パウロがユダヤ教を批判したのは、ユダヤ教の文脈の中でのことであったという最初の示唆を彼が与えたことだった。
○サンダース
E.P.サンダースの業績は今や世界中のパウロ学者から「サンダース革命」と呼ばれており、サンダース以前に書かれた本やサンダース以前の視点から書かれた本は時代遅れとみなされる。
サンダースのパウロについての主要な作品は"Paul and Palestinian Judaism"(1977)である。デイヴィーズはサンダースの教師の一人であったので、デイヴィーズの響きがするのは故意のことであった。彼はパウロ当時のパレスチナのユダヤ教について、死海写本(もちろん、デイヴィーズが書いた時には利用できなかった)、黙示文学、儀典、知恵文書等を見ながら、ずっと広いカンバスを描いた。彼の主要なポイントは単純に次のように提示されうる。パウロの時代のユダヤ教は、通常思われているように、律法主義的行為義認の宗教ではなかった。ほとんどのプロテスタント釈義家たちは、パウロとユダヤ教について読むとき、まるでユダヤ教が古い異端のペラギウス主義の一形態のように読んできた。しかし、サンダースは、違うと言う。ユダヤ教において律法を守ることは、常に契約的枠組みの中で機能してきた。神はユダヤ人との契約を結ばれたとき、主導権を取られた。神の恵みは人間(特にユダヤ人)が応答して行うすべてのことに先立っている。ユダヤ人は感謝の思いから、恵に対する適切な応答として律法を行なう。言い換えれば、契約の民に加わるためにではなく、契約の民にとどまるためにそうする。最初の場所の「中に」いることは神の賜物である。この枠組みをサンダースが「契約規範主義」となづけたことは有名である。ユダヤの律法を守ることは、神の契約的主導権に対する人間の応答である。
従って、ユダヤ教は完全に妥当で適切な宗教形態であって、パウロがユダヤ教を批判した唯一の点はそれが「キリスト教ではない」ということであった。パウロは、キリスト教における救いを見いだし、ユダヤ教は十分ではないと結論づけざるを得なかった。パウロの思想の中心は、義認やイスラエル批判でなく、サンダースが呼ぶところの「参与」であった。この言葉は「キリストにあること」に焦点を置くパウロ思想の複合物のためのサンダースの用語である。
サンダースの位置の皮肉の一つは、彼の改革をパウロ思想の完全な再思考にまで実際には至らせなかったということである。彼は、パウロの様々なテーマをいくらか組織立っていない仕方で取り扱うのに満足している。しかし、彼の実際的アジェンダは大変明瞭である。クリスチャンは、ユダヤ教を過去よりずっと尊敬を持ってみるべきであるし、特にユダヤ教に対して、無実の宗教形態の責任を負わせるべきではないということである。
「サンダース革命」の余波は明らかであり、慌てて時流に乗ろうとする者もあれば、敵意をもって反応する者もあった。しかし、私自身は、重大な改良が必要ではあるが、彼の基本点は確立済みと考えている。
2.今日の問題
パウロ研究の現代的状況はますます混迷を深めている。
4つの主要な問題の各々について研究されている。
○歴史
今やほとんどすべての学者はパウロがユダヤ人思想家であると考えている。彼がユダヤ教のどの部分に最も近くあるか、彼のユダヤ主義は福音の光によってどれほど再考されたかといった問題は大いに議論されているが。パウロを完全なヘレニストと考える一、二の著者はなおいるが、大方の承認を得ていない。
○神学
パウロの神学の中心については意見の一致がない。ほとんどのドイツのパウロ著述家と北米の保守的陣営の何人かは、なお十字架と義認がパウロ思想の中心だと主張しているが、これは広く否定されている。そして実際誰かの思想の中心が何であろうかとどのように語ることができるのか、また実際その質問は意味があるのかということさえ、この十年の主要な学者たちは気をもんでいる。「ストーリー」や「ナラティブ」といった現代流行のカテゴリーが彼の神学に入って行く方法として採用されてきているが、そのカテゴリーをどう使うのか、またそうするとどういうことが起こるのか、現在のところ意見の一致はない。
○釈義
ユダヤ人や異教徒の著述家の間でパウロの用法や概念に並行したものを提供しようとより多くの一次資料が考慮されるようになり、パウロ書簡の研究はたちまち詳細に渡って前進してきた。同様に、様々な質の二次的文献が出てきており、完全であろうとする注解者は、雑誌の中を骨折り進み、そこに見い出されるものを正当に扱おうとする膨大な作業に直面している。
○適用
パウロを今日のためにどのように用いるのかという問題はこれまで同様テーブルに乗り続けている。パウロを歴史的文脈に置けば、彼をそこに置いたままにしておけると想像して、還元主義のゲームをしている者たちもなおいる。基本的問題は人間の罪とプライドであり、基本的回答はキリストの十字架であるという古いスタイルの「福音宣教」を正当化するために彼を用いる者もなおいる。他の者たちはこれがパウロのメッセージの一部出合うことを否定したいとは思わないが、パウロの教え全体の譲渡できない部分と思われるより広いカテゴリーやより広い問題を正当に取り扱おうと格闘している。本章が明らかにしている通り、実際この立場の中に私は私自身を置いている。ここには1990年代、あるいは実際2000年代のあらゆる問題を取り扱うすべての種類の可能性がある。(たとえば、西洋世界の深刻な新異教主義など。)
我々が把握しつつあるより大きな問題は、キリスト教創設におけるパウロの役割が何であったかということである。[パウロが、イエスの教え自体からは離れた形でヘレニズム的な新宗教としてキリスト教を創設したと考える、ハイヤム・マッコビー、A.N.ウィルソンを紹介]
この本は、パウロが実際に何を語ったのかについて把握しようとするものである。
【コメント】(ここで「私」というのは、長田のことです。)
この章で特に印象深く感じたのは、以下のような点です。
1.パウロ研究における4つの問題
ライトは20世紀のパウロ研究の動向をよく把握しながら、そこでの議論点を要領よくまとめています。パウロ研究において、歴史・神学・釈義・適用の4種の問題を把握することは、パウロ研究全般を整理する上でも、更にはライト自身の見解を把握、整理するためにも肝要な点かと思いました。
2.パウロ=ユダヤ思想家かヘレニズム思想家か
歴史的方面では、パウロをユダヤ思想家として見るか、ヘレニズム思想家として見るかという問題があります。この点はライト自身の見解を位置づける上でも重要で、ライトは明らかにパウロをユダヤ思想家として位置付けています。また、ライトによれば、混迷を深めているパウロ研究の中で、この点についてはほとんど合意が取れてきているそうで、新約学の動向に疎い私には少々意外なことでした。
3.パウロ神学の中心
神学的方面では、パウロ神学の中心は何か、「信仰義認」か、「キリストにあること」(サンダースの表現では「参与」)か、という問題設定がなされます。この問題について、ライトはこの章では自分自身の回答を明確にしていません。ただ言えるのは、パウロの神学思想を義認中心にとらえる従来の理解に対してはかなり否定的だということです。そして、第9章初めの部分など、後の諸章を見ると、「信仰義認」か「キリストにあることか」という二律背反は、パウロ思想の契約的性質を理解することによって解消されると示唆しているように思われます。
私自身は、ホーリネス系の教団に所属しますので、義認と聖化(更に言えば栄化)を救済論の核として位置付ける神学的伝統の中にいます。義認に限定して考えない点はライトと共通のものがありますが、義認を救済論的というよりは契約思想を背景として教会論的にとらえる点など、違った角度から見ている部分が大きいようです。詳細については、続く章、特に第7-9章あたりを見ながら、考えを深めていきたいと思います。