※このブログでは、本書の内容要約・紹介の部分と、それに対する私なりの吟味・検討の部分とがあります。翻訳・要約の部分は、「である調」で、それ以外の私自身の文章部分は「です・ます」調で書いていますので、概ね、その区分けは分かって頂けるかと思いますが、色々なところからこのブログに来て途中から読み始める方にとっては、そのあたりが分かりにくいかもしれません。今後は、毎回の最初に、【紹介編】であるか、【検討編】であるかを明記したいと思います。
今回は、【紹介編】です。
本章は、ローマ書を扱います。著者は、「パウロの神学的自己告白」としてのローマ書により、当該課題に対するパウロの思想に対するなお十分な理解を望むことができるだろうと言います。5つの箇所を取り上げていますが、今回はその内2つの箇所です。
ローマ5:5
「私たちによって与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」という一文の中で、著者は、εκκεχυται(注がれている)という語に注目します。この語が御霊に結びつくと、ペンテコステを生き生きと思い起こさせると言います。弟子たちがそのクリスチャン生涯を始めたのが彼らの心にキリストの御霊と神の愛の注ぎを伴うペンテコステにおいてであったように、現代のキリスト教においても各人がそのクリスチャン生涯を始めるのは同様である。完了形のεκκεχυταιが示すように、ここでは、神の愛の初期的経験が言われており、この経験を聖霊の初期的賜物によって特徴づけることは問題がない。パウロにとってそれらは一つである。クリスチャンの回心は、聖霊の人格において神の愛によって捉えられ、圧倒されることに他ならない。
ローマ6:1-14
著者は、この箇所の文脈を注意深く扱いながら、3、4節の「バプテスマ」の用法が比喩的なものであることを論証します。パウロはここで、信仰と行いの論争において彼が用いてきた議論の無律法主義的な行き過ぎた論理を点検しようとする。これまでの議論では、当然信仰が大変強調されたが、続く部分で主要なテーマとなるのは、死と命のテーマである。
以下、著者の議論の概要です。
(1)ローマ6章の主題は、バプテスマではなく、罪に対する死とそれに続く命である。1節の問いに対する答え「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」(2節)こそ、ここでの中心テキストである。
(2)パウロは罪に対する死(と神に対する命)という霊的現実を扱っており、3-6節でパウロはこのテーマを一連の違ったイメージで描いている。
第1は、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた(βαπτιζεσθαι)」(3節)である。これはバプテスマから導かれているが、それ自体バプテスマを描いているのではなく、「キリストを着る」(ガラテヤ3:27)とか、「御霊に浸される」(第一コリント12:13)といった比喩と同様のものである。ローマ6章で水のバプテスマについての唯一完全な言及は、「(キリストの死にあずかる)バプテスマによって(του βαπτισματοσ)」(4節)である。この節は、パウロの思想の展開が水のバプテスマを包含しており、回心-入信式の現実の出来事において、(バプテスマと葬りという)比喩と儀式自体とのの関連を示唆している。しかし、βαπτιζεινが比喩的意味で用いられるとき、そこに含まれる要素は御霊であり、それが描いているものは神によるキリストとの結合と言う霊的、神秘的現実である。この死の完全さについて、バプテスマの儀式は優れた象徴である。
第2は、5節である(「キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっている」)。パウロはここで、傷や骨の破れた端が破られない全体として結合するといった、身体的あるいは自然的成長のイメージを持っていると言えよう。(συμφυτοσは、一つとされて一緒に育つという意味で理解すべきである。)キリストと結ばれるということは、我々が一緒になり、キリストの死のομοιωμα(似た様)となり、その結果その死と分かつことができないように結ばれて、継続的に成長発展することである。
第3の比喩は、συνεσταυρωθη(ともに十字架につけられた)である(6節)。それは、新しい創造に参与するようになることの消極的面、すなわち、古い創造のきずなの完全破壊を描いている(ガラテヤ2:19、5:24、6:14、15、第二コリント5:14、15、17)。罪の体の滅びをもたらし、アダムすなわち古い秩序のメンバーとしての罪に対する従属を終わらせるのは、霊的局面におけるこのような神の働きだけである。
要約すれば、各比喩はバプテスマを指すのではなく、直接に霊的現実を指している。
(3)ομοιωμα(似た様、5節)はここでのパウロの思想を理解するために重要である。完全な同一性を言っているのでもなく、単なる類似を言っているのでもなく、非常に近い類似を言っている。従って、それはバプテスマ自体について語っているのでもキリストの死自体について語っているのでもなく、回心の時に起こる霊的変革について語っている。その時、我々はキリストのように罪に対する死と結び付けられるのである。ここでのパウロに関する限り、死と呼ばれうる何かが回心の時に実際に起こる。その結果、我々の行為を決定づけ、動機付けるものはもはや罪ではない。それ(罪に対する死)が我々の霊的歴史と経験において実際の事実であるのと同様、将来の完成における我々の共有も実際の事実であろう。これらの事実は共に、キリストの死と復活のομοιωματαである。両方ともにキリストの死と復活に正確に模造される。従って、5-7節と8-10節は並行している。前者がクリスチャンについて肯定していることは、後者がキリストについて肯定していることである。
(4)パウロがバプテスマを復活の概念に結び付けていないのは驚くべき事実である。バプテスマの水から出ることを復活の描写として見ることはバプテスマの象徴の自然な延長であると考えられるであろう。しかし、このようなイメージを使うことをパウロが拒んでいることによって、文のバランスが途絶えているので、4節後半は驚くべきものとなっている。というのは、ここでは復活はなお将来のものである。キリストの復活に似た有様とは、体の復活のことである(ローマ8:11)。その「現在的」経験(4節後半、11、13節)はここでは死の入信的経験の産物であり、結果である。その経験はキリストと共なるものであり(9-11節)、バプテスマの経験ではない。この命の現在的経験に対しても、あるいは将来の復活に対しても、パウロはバプテスマを関連付けてはいない。象徴的にも礼典的にもそうである。パウロが現在の命についてより十分に考えようとするとき、彼は全く御霊との関係でそうしている(8章)。
パウロがバプテスマをキリストの復活に関連付けていないのは、少なくともパウロにとっては二つの礼典共、第一義的には死―彼らのためのキリストの死とキリストと共なる彼らの死―を表現するよう意図されていたからであろう。キリストの復活と、キリストにある彼らの命について思い起こさせる必要がなかったのは、御霊の命が彼ら自身の経験においても他のクリスチャンたちの経験においてもとても現実的で明らかであったので、そのように思い起こさせることが余分のことであったのだろう。
(5)この節によれば、水のバプテスマは二つの機能を持つ。
第一に、象徴としての機能。バプテスマの儀式は生き生きと葬りを描く。このためにこそ、パウロは罪に対する死としてクリスチャンを解説する際、直ちにバプテスマの比喩を用いた理由である。
第二に、実際的に変革を与え、働きかける機能。しかし、著者はそれがどのような意味でそうであるのかを注意深く限定します。
まず、用語の問題として、βαπτιζεσθαι εισは単に比喩的重要性しか持たないが、βαπτισμαは、水の儀式自体をも言及するし、一義的にそうであると指摘します。その上で、4節は水のバプテスマの儀式がキリストと共なる葬りを象徴するだけでなく、ある意味でそれを有効化することを示していると言います。
ここで、欄外注は重要です。「この節だけが伝統的反礼典主義的見解を退けるに十分なものである。反礼典主義的見解とは、バプテスマが『既に』(本文イタリック)起こった回心の象徴だというものである。」(145頁注19)著者は、この見解を退けつつ、ある面、バプテスマが回心をもたらすために一定の役割を果たすと主張していることになります。
(以下、大切な議論と思われるので、ほぼそのままの翻訳です。)
パウロの見解において、神は働き、水のバプテスマの儀式が象徴する霊的変革を有効化するために「バプテスマを通して」、バプテスマによって働くと人が議論するとき、正当化されるのはただローマ6章の証拠によってである。しかし、パウロが他の所で言っていることの文脈の中でローマ6章を見るとき、(何らためらいもなしにというのではないが、)「δια του βαπτισματοσ(バプテスマによって)」を次のように受け取るべきである。すなわち、神のみわざに対する信仰者の信仰の従順を表現していると。それは、キリストの復活に対するクリスチャン生涯における従順に並行もしている(4節b)。これは、他の者よりも確かにルカの見解である。また、第一ペテロ3:21の教えに最もよく調和する。(「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」)それは新約聖書が提供するバプテスマの定義に最も近いものである。そこでは、ノアの解放(救い)は「δι υδατοσ(水を通って)」として描かれており、これは人々を救うクリスチャン・バプテスマの型であるが、それはただ、バプテスマが神に対する人の祈り、あるいは誓願であるということにおいてである。更に、救いにおける福音と信仰のつながりにおいては、バプテスマは福音を有効にするものとしてよりも、福音に対する応答の表現として見られる。もしパウロがバプテスマを前者のように見ていたとしたら、第一コリント1:17を書いたり、それほど明確に信仰を割礼と対照させたりすることはできなかったであろう。ここ(δια του βαπτισματοσ)でのバプテスマの手段的役割はコロサイ2:12b(δια τησ πιστεωσ)と並行している。それゆえ、バプテスマは新しい命をもたらすキリストへのコミットメントの手段また段階として見られるのが最上である。古い命の放棄と新しい命へのコミットメントなしには、死もなく命もない。バプテスマはこれらをもたらすが、バプテスマはそれらの表現の決定的媒体でありうる。すなわち、入信者が司式者に自分自身を委ね、司式者に自分の体の支配権を与え、水面下に沈めることが全く彼の手の中にあるように、彼は自分自身を神に委ね、神が彼の古い自己を死と葬りに追いやるようにする。死と命をもたらす神へのコミットメントが十分絶頂の表現となるのは、司式者に対して委ねる行為において、またそれによってであるとさえ言えるだろう。