長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

夏の終わりのHappy Sheep

2014-08-31 17:01:10 | 神戸便り

夏休み最後の日、日曜日の午後、神戸中央教会で地域の子どもたちのための集い、HappySheepを開きました。

校門前での案内ができなかったせいか、近くの公園で祭りがあったからか、

これまでのHappySheepに比べると、子どもたちの人数は少なかったですが、

振付付き賛美を歌い、ゲームをしながら、打ち解けた雰囲気の中、

聖書のお話を聞きました。しっかり最後までお話を聞いたあと、かき氷。

この頃になって来てくれた子たちも結構いました。

来てくれた一人ひとりに神様の祝福がありますように。

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姫路科学館

2014-08-30 08:37:44 | 長田家便り

星の子館の前にある、姫路科学館。

午前は、錯視関連の特別展、プラネタリウム、お昼をはさんで午後は、常設展示。

盛りだくさんの内容に、くたびれるほどでした。

長かった(?)夏休みも、終わりが近づいています。

 

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星の子館

2014-08-30 08:34:52 | 長田家便り

香登修養会のあと、姫路の宿泊施設、星の子館へ。

7、8年前泊まって以来、二回目。子どもたちと一緒に利用するには安くてとても良い所。

天体望遠鏡からは、ベガだけ何とか観ることができました。

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香登修養会

2014-08-30 08:30:21 | 長田家便り

休暇を頂き、香登修養会に、後半だけですが、参加。

なぜか子どもたちも青年たちの賛美に混ぜて頂きました。

竿代照夫先生のお話、聖霊の実はキリストのかおりを放つ、との部分、心に残りました。

 

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12章 その2

2014-08-26 19:59:00 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【紹介編】

ローマ書を扱うこの章、後半では三つの箇所(正確には三組の箇所)を扱います。

ローマ2:28、29、7:4-6

これら二つの箇所は、御霊(πνευμα)と文字(γραμμα)の対照により密接に関連しているので、短いコメントを要すると著者は言います。

ローマ2:28、29は単純化すれば、次のようなことである。外的儀式は内的現実と同一視されたり、混同されてはならない。外的儀式はたとえ神によって与えられたものであっても、もし対応する内的現実がなければ役に立たず、不適当である。そして、パウロが心の割礼を御霊との関係で考えているとすれば、肉の割礼と心の割礼を水のバプテスマと御霊のバプテスマとに並行させることはほんの小さなステップに過ぎない。

ローマ7:4-6は6章と8章の橋渡しとなっている。それは、恵みの下にある今、クリスチャンの律法に対する関係についての二番目の反対に対するパウロの答え(6:15-7:6)の結論である。それゆえ、御霊と文字の対照は、パウロの答えのクライマックスであり結論である。もしパウロが、自分の語ったばかりのことに照らしてクリスチャン生涯における律法の役割を説明する必要を感じなかったら、すぐにでも8章に進んだであろう。7:4では、結婚のイラストレーションを取り上げ、クリスチャンに適用している。キリストと共に死ぬと言うアイディアは、パウロにとって、またそれ以前の文脈にとって非常に重要であるので、パウロは7:1-4における並行の正確性を犠牲にしている。

なお明確にされるべき唯一のポイントは、これら二つの箇所においてユダヤ教とキリスト教との対照が決定的に新しい要素として御霊に置かれているということである。命をもたらすのは御霊だけである。

ローマ8:1-27

ローマ8章について、著者は、まず要約的に次のように説明します。この章は、ハバクク2:4からの引用に対するパウロの講解のクライマックスである。最初の5章でο δε δικαιοσ εκ πιστεωσという言葉を詳しく述べながら(そして、そこから起こる反対論に応えながら)今やζησεταιという言葉に向かう。2:28、29、5:5、7:6で予示されていたテーマが全的輝きをもって現れる。すなわち、キリストにある霊的経験と御霊による命の栄光ある開示である。

ここで、著者は、一般の(ホーリネス)説教者の説明について触れます。彼らは、時々ローマ7、8章を次のように説明する。パウロはクリスチャン生涯において長い間7章の敗北と絶望を経験した、しかし、彼は勝利の秘訣を見つけ、経験的に7章の闇と圧迫から8章の光と確信に進んだ、その後、彼の生涯の残りの間、それを楽しんだのだと。しかし、しかしむしろ、我々が言わなければならないのは、回心は新しい原理と力の人、命の御霊の法則への入口であり、上に引き上げ、古い原理と力、罪と死の法則を退けるのであり、回心は古い契約から新しい契約、死の支配から命の支配(6、13節)、肉による支配から御霊による支配(2:28,29、7:6)への移行である。但しこれらの明確な対照が示唆するほどその移行は最終的なものではない。というのは、クリスチャンは絶えず肉によって生きるよう誘惑される。すなわち、古い契約との関わりで神に向かって生きるように、キリストから断たれ、恵みから落ち、再び死の道へと生きるように誘惑されるのである(8:5-8、12、13。ガラテヤ3:3、5:2-4、16-18も参照)。そして、あまりにもしばしば彼はその誘惑に屈服し、そこに含まれるフラストレーションと絶望を経験するのである。彼はあらゆる新しい状況において御霊の自由にする力を新しく発見しなければならない。肉によって生きるのでなく体の行いを御霊の力によって死なせることを学ばなければならない(13節)。すなわち、クリスチャン生涯は最初から最後まで唯一命を与える御霊に日々より頼むということなのである。

この節はペンテコステ派(及び堅信主義者)の教えに対する新約聖書でもっとも粉砕的否定の一つでもあると指摘しつつ、著者は、特に重要と思われるいくつかの節を取り上げながら、以下のような検討を展開します。(この部分、かなり大切な釈義的見解が含まれているので、ほぼそのままに翻訳しますが、小見出しは私が勝手につけたものです。)

(1)1-10節:御霊=命、御霊の賜物=義の賜物

2節がキリストにある者の「罪に定められない」ということをどう定義し、説明しているかに注意せよ(γαρ)。すなわち、命の御霊とこの方がもたらす自由との関連で説明しているのである。更に、3、4節は2節を説明しているが(γαρ)、キリストが彼の死によってもたらしたものを御霊が経験的にもたらすということを示唆することによってそうしている。実際御霊と人をクリスチャンにする新しい命とは密接に関連しているので(2、5、6節)、パウロが10節でそれらを等しいものとしても驚きではない―the Spirit is life(KJV)。同様に、義認、あるいは正しい関係と御霊とは、パウロにとってとても密接に関連しているので―とても密接なので互いに他の結果として表現されうる(4、10節)―同様の等式を作ることができる。「御霊の賜物」=「義の賜物」。

(2)9-11節:クリスチャンになる=御霊を持つ

9節は、ありのままのペンテコステ派の見解(回心はキリストを受け入れることであり、御霊のバプテスマは御霊を受けることである)に対する新約聖書で最も当惑させる節である。というのは、この節は直截的に次のように述べる。もし、キリストの御霊を持たないなら、彼はキリストに属するものではない、あるいは、「彼はクリスチャンではない」(NEB)。

(ειπερとειの区別の議論省略)

ローマ8:8-11、第一コリント6:17、12:4-6、15:45が私たちに突きつける結論は避けられない。すなわち、パウロの経験においてキリストと御霊とは一つであり、キリストは御霊において経験される。それはここで特に明確になっている。すなわち、10節は9節後半を取り上げ、繰り返し、「キリストの御霊」を「キリスト」と置き換えている。更に11節は先行する二つの節の思想を取り上げ、繰り返すが、ただ「神の御霊」という用語を用いる。これら三つの表現は、正確に同じ事実、経験を描くものである。

(ここでの「キリストの御霊」は聖霊のことではなくて、キリストのような生き方だとする少数のペンテコステ派の議論については省略)

一般に新約聖書にとって、また特にパウロにとっては、回心の最重要点は聖霊の賜物であり、聖霊を受けることであり、回心後聖霊はキリストの御霊としてクリスチャンの内に住み、「キリストがわが内に」という経験を与える(ガラテヤ2:20と3:2-2、ローマ8:10(the Spirit is life)とコロサイ3:4(私たちの命であるキリスト))。このことはここで特に明確である。ノンクリスチャンは「御霊を持たない」し、「御霊を持つ」者だけがクリスチャンであるので、人がクリスチャンになるということは御霊を持つことによってである(8:9、15)。このことは、重要な結論を持つ。というのは、それは、次のことを意味するからである。人がクリスチャンであるかどうかを決めるのはキリストへの信仰告白ではなく、御霊の臨在である。「もし誰かが御霊を持たないなら」とパウロは言う、「彼は決してクリスチャンではない。」すなわち、「神の御霊に導かれるものだけが神の子である」(14節)。彼は次のように言うのではない。「もしあなたがキリストのものであるなら、あなたは御霊を持っている。あるいは、もしあなたが子であるなら、御霊を持っている」。あるいは、次のように言うのではなおさらない。「もしあなたが正しいことをすべて信じたなら、そして(あるいは)、バプテスマを受けたのなら、(それゆえクリスチャンであるなら)あなたは御霊を持つ。」初期のキリスト教においては、御霊の所有は直接的所有の事実であって、教会儀式の執行から引き出される論理的結論ではない。このことは、既に見たように、使徒行伝で強調されている。

(3)14-17節:御霊を受ける=子とされる

子であることを有効にするのは御霊であって、それは単に子としての意識を強めるというだけのことではない。NEBはπνευμα υιοθεσιασを適切に次のように訳す、「私たちを子とする御霊」と。というのは、もし御霊を所有することが子であることを所有することでなければ、パウロは14節を書くことができなかったであろう。「パウロは特に御霊を子とする御霊とみなしている。その結果、御霊を所有することを子であることを所有することとを等しいものとしている。」(Hester64頁)。御霊を経験することは子であることを経験することである。このことはただ、御霊が御子の御霊であるからである(ガラテヤ4:6)。

(4)23節:御霊=απαρχη

最後に、23節に注目すべきである。御霊は、将来の完成のαπαρχηである―「私たちのからだの贖われること」。贖いは二段階である。すなわち、内なる人の贖い、そして体の贖いである。両方とも神によって御霊を通して有効とされ、共に死の経験を含む。前者は、一回限りキリストの死にあずかり、その復活の命、すなわち御霊にあずかる(ローマ8:2、9、10)。後者は、キリストの死の生涯にわたる経験であり、死の体が衰え、死または再臨によって最終的に滅び、復活の体に変えられる(第二コリント4:7-5:10、ローマ8:11,13,17,23)。それだから、回心の時御霊が来られることによって子となり(8:15)、御霊の生涯にわたる働きによって子としての成熟がもたらされ、完全な子とされ(8:23)、キリストへの隠された似姿や、神にあってキリストと共に隠された命だけでなく、神ご自身のかたちで栄光のうちに現わされるようになる(8:29、他)。これは、御霊の完結する最終的な働きである。こうして、、おた、御霊はご自身、απαρχηである。単にその予表でなく、その始まりであり、最終的な取り入れと喜びの時まで、ゆっくりと、しかし確実に刈り取りが続く収穫の始まりである。

ローマ10:9-17

著者は、この節について、信仰とバプテスマとの関係についてのパウロの理解に投げかける光のゆえに重要であると言います。(以下、要約のみ)

(1)9、10節の動詞(告白する、信じる)の順序が逆転していることは、二つの動詞が時間的に区別されると考えられてはおらず、同時であると考えられていることを意味する。信仰の行為(コミットメントの行為)は告白の行為である。信仰は、告白の行為とその瞬間なしには、またそれに至るまでは、その絶頂のポイントにまで至らない。

(2)信仰の行為と告白の行為が等しいということは、10:33でヨエル書が引用されていることからも示唆される。επικαλεσηται(呼び求める)は、この文脈においては、ομολογησησ(告白する)とだけ同一視されうる。それは、救いをもたらす信仰の(バプテスマにおける)公的告白において主の名を呼び求めることである。

(3)これは、14節とは矛盾しない。そこには時系列的順序があるのではなく、論理的順序がある。信仰の行為が主の名を呼ぶ行為の前に救いをもたらすとパウロが言ったはずがない。というのは、彼は救いをもたらすのは後者であると語ったばかりであるから(13節)。

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夏休みの宿題

2014-08-22 20:45:25 | 恵便り

瞳はさっさと夏休みの宿題を片付けてしまったのですが、

恵は、読書感想文だけ残ってしまいました。

現在、『ロビンソン・クルーソー』をがんばって読んでいます。

フライデーとの出会いのところまで来ました。

もう一息、がんばれ。

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ボランティア

2014-08-22 20:38:19 | 貞美便り

貞美が久しぶりにラグビーボールのような行動に。

火曜日、テレビを観ていて思い立ったようで、土砂災害に見舞われた丹波市での支援活動に、

ボランティアとして参加。水曜日、木曜日と、泥だし作業を中心にお手伝いしてきました。

「今は元気だから」とのことででかけましたが、最後まで体力も支えられ、無事帰ってきました。

ボランティア参加者は、柏原の人が多いようで、柏原教会に行ったことがあるという人も。

また、韓国人の方もおられて、よくして頂いたようです。

帰りの電車で一緒になったおばあちゃんは、尼崎福音教会に行ったことがあるという話だそうで、

色々な出会いがあったようです。

丹波市は、今日あたりからは、再び雨が降っているようで、心配です。

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12章 その1

2014-08-22 14:28:45 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

※このブログでは、本書の内容要約・紹介の部分と、それに対する私なりの吟味・検討の部分とがあります。翻訳・要約の部分は、「である調」で、それ以外の私自身の文章部分は「です・ます」調で書いていますので、概ね、その区分けは分かって頂けるかと思いますが、色々なところからこのブログに来て途中から読み始める方にとっては、そのあたりが分かりにくいかもしれません。今後は、毎回の最初に、【紹介編】であるか、【検討編】であるかを明記したいと思います。

今回は、【紹介編】です。

本章は、ローマ書を扱います。著者は、「パウロの神学的自己告白」としてのローマ書により、当該課題に対するパウロの思想に対するなお十分な理解を望むことができるだろうと言います。5つの箇所を取り上げていますが、今回はその内2つの箇所です。

ローマ5:5

「私たちによって与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」という一文の中で、著者は、εκκεχυται(注がれている)という語に注目します。この語が御霊に結びつくと、ペンテコステを生き生きと思い起こさせると言います。弟子たちがそのクリスチャン生涯を始めたのが彼らの心にキリストの御霊と神の愛の注ぎを伴うペンテコステにおいてであったように、現代のキリスト教においても各人がそのクリスチャン生涯を始めるのは同様である。完了形のεκκεχυταιが示すように、ここでは、神の愛の初期的経験が言われており、この経験を聖霊の初期的賜物によって特徴づけることは問題がない。パウロにとってそれらは一つである。クリスチャンの回心は、聖霊の人格において神の愛によって捉えられ、圧倒されることに他ならない。

ローマ6:1-14

著者は、この箇所の文脈を注意深く扱いながら、3、4節の「バプテスマ」の用法が比喩的なものであることを論証します。パウロはここで、信仰と行いの論争において彼が用いてきた議論の無律法主義的な行き過ぎた論理を点検しようとする。これまでの議論では、当然信仰が大変強調されたが、続く部分で主要なテーマとなるのは、死と命のテーマである。

以下、著者の議論の概要です。

(1)ローマ6章の主題は、バプテスマではなく、罪に対する死とそれに続く命である。1節の問いに対する答え「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」(2節)こそ、ここでの中心テキストである。

(2)パウロは罪に対する死(と神に対する命)という霊的現実を扱っており、3-6節でパウロはこのテーマを一連の違ったイメージで描いている。

第1は、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた(βαπτιζεσθαι)」(3節)である。これはバプテスマから導かれているが、それ自体バプテスマを描いているのではなく、「キリストを着る」(ガラテヤ3:27)とか、「御霊に浸される」(第一コリント12:13)といった比喩と同様のものである。ローマ6章で水のバプテスマについての唯一完全な言及は、「(キリストの死にあずかる)バプテスマによって(του βαπτισματοσ)」(4節)である。この節は、パウロの思想の展開が水のバプテスマを包含しており、回心-入信式の現実の出来事において、(バプテスマと葬りという)比喩と儀式自体とのの関連を示唆している。しかし、βαπτιζεινが比喩的意味で用いられるとき、そこに含まれる要素は御霊であり、それが描いているものは神によるキリストとの結合と言う霊的、神秘的現実である。この死の完全さについて、バプテスマの儀式は優れた象徴である。

第2は、5節である(「キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっている」)。パウロはここで、傷や骨の破れた端が破られない全体として結合するといった、身体的あるいは自然的成長のイメージを持っていると言えよう。(συμφυτοσは、一つとされて一緒に育つという意味で理解すべきである。)キリストと結ばれるということは、我々が一緒になり、キリストの死のομοιωμα(似た様)となり、その結果その死と分かつことができないように結ばれて、継続的に成長発展することである。

第3の比喩は、συνεσταυρωθη(ともに十字架につけられた)である(6節)。それは、新しい創造に参与するようになることの消極的面、すなわち、古い創造のきずなの完全破壊を描いている(ガラテヤ2:19、5:24、6:14、15、第二コリント5:14、15、17)。罪の体の滅びをもたらし、アダムすなわち古い秩序のメンバーとしての罪に対する従属を終わらせるのは、霊的局面におけるこのような神の働きだけである。

要約すれば、各比喩はバプテスマを指すのではなく、直接に霊的現実を指している。

(3)ομοιωμα(似た様、5節)はここでのパウロの思想を理解するために重要である。完全な同一性を言っているのでもなく、単なる類似を言っているのでもなく、非常に近い類似を言っている。従って、それはバプテスマ自体について語っているのでもキリストの死自体について語っているのでもなく、回心の時に起こる霊的変革について語っている。その時、我々はキリストのように罪に対する死と結び付けられるのである。ここでのパウロに関する限り、死と呼ばれうる何かが回心の時に実際に起こる。その結果、我々の行為を決定づけ、動機付けるものはもはや罪ではない。それ(罪に対する死)が我々の霊的歴史と経験において実際の事実であるのと同様、将来の完成における我々の共有も実際の事実であろう。これらの事実は共に、キリストの死と復活のομοιωματαである。両方ともにキリストの死と復活に正確に模造される。従って、5-7節と8-10節は並行している。前者がクリスチャンについて肯定していることは、後者がキリストについて肯定していることである。

(4)パウロがバプテスマを復活の概念に結び付けていないのは驚くべき事実である。バプテスマの水から出ることを復活の描写として見ることはバプテスマの象徴の自然な延長であると考えられるであろう。しかし、このようなイメージを使うことをパウロが拒んでいることによって、文のバランスが途絶えているので、4節後半は驚くべきものとなっている。というのは、ここでは復活はなお将来のものである。キリストの復活に似た有様とは、体の復活のことである(ローマ8:11)。その「現在的」経験(4節後半、11、13節)はここでは死の入信的経験の産物であり、結果である。その経験はキリストと共なるものであり(9-11節)、バプテスマの経験ではない。この命の現在的経験に対しても、あるいは将来の復活に対しても、パウロはバプテスマを関連付けてはいない。象徴的にも礼典的にもそうである。パウロが現在の命についてより十分に考えようとするとき、彼は全く御霊との関係でそうしている(8章)。

パウロがバプテスマをキリストの復活に関連付けていないのは、少なくともパウロにとっては二つの礼典共、第一義的には死―彼らのためのキリストの死とキリストと共なる彼らの死―を表現するよう意図されていたからであろう。キリストの復活と、キリストにある彼らの命について思い起こさせる必要がなかったのは、御霊の命が彼ら自身の経験においても他のクリスチャンたちの経験においてもとても現実的で明らかであったので、そのように思い起こさせることが余分のことであったのだろう。

(5)この節によれば、水のバプテスマは二つの機能を持つ。

第一に、象徴としての機能。バプテスマの儀式は生き生きと葬りを描く。このためにこそ、パウロは罪に対する死としてクリスチャンを解説する際、直ちにバプテスマの比喩を用いた理由である。

第二に、実際的に変革を与え、働きかける機能。しかし、著者はそれがどのような意味でそうであるのかを注意深く限定します。

まず、用語の問題として、βαπτιζεσθαι εισは単に比喩的重要性しか持たないが、βαπτισμαは、水の儀式自体をも言及するし、一義的にそうであると指摘します。その上で、4節は水のバプテスマの儀式がキリストと共なる葬りを象徴するだけでなく、ある意味でそれを有効化することを示していると言います。

ここで、欄外注は重要です。「この節だけが伝統的反礼典主義的見解を退けるに十分なものである。反礼典主義的見解とは、バプテスマが『既に』(本文イタリック)起こった回心の象徴だというものである。」(145頁注19)著者は、この見解を退けつつ、ある面、バプテスマが回心をもたらすために一定の役割を果たすと主張していることになります。

(以下、大切な議論と思われるので、ほぼそのままの翻訳です。)

パウロの見解において、神は働き、水のバプテスマの儀式が象徴する霊的変革を有効化するために「バプテスマを通して」、バプテスマによって働くと人が議論するとき、正当化されるのはただローマ6章の証拠によってである。しかし、パウロが他の所で言っていることの文脈の中でローマ6章を見るとき、(何らためらいもなしにというのではないが、)「δια του βαπτισματοσ(バプテスマによって)」を次のように受け取るべきである。すなわち、神のみわざに対する信仰者の信仰の従順を表現していると。それは、キリストの復活に対するクリスチャン生涯における従順に並行もしている(4節b)。これは、他の者よりも確かにルカの見解である。また、第一ペテロ3:21の教えに最もよく調和する。(「そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。」)それは新約聖書が提供するバプテスマの定義に最も近いものである。そこでは、ノアの解放(救い)は「δι υδατοσ(水を通って)」として描かれており、これは人々を救うクリスチャン・バプテスマの型であるが、それはただ、バプテスマが神に対する人の祈り、あるいは誓願であるということにおいてである。更に、救いにおける福音と信仰のつながりにおいては、バプテスマは福音を有効にするものとしてよりも、福音に対する応答の表現として見られる。もしパウロがバプテスマを前者のように見ていたとしたら、第一コリント1:17を書いたり、それほど明確に信仰を割礼と対照させたりすることはできなかったであろう。ここ(δια του βαπτισματοσ)でのバプテスマの手段的役割はコロサイ2:12b(δια τησ πιστεωσ)と並行している。それゆえ、バプテスマは新しい命をもたらすキリストへのコミットメントの手段また段階として見られるのが最上である。古い命の放棄と新しい命へのコミットメントなしには、死もなく命もない。バプテスマはこれらをもたらすが、バプテスマはそれらの表現の決定的媒体でありうる。すなわち、入信者が司式者に自分自身を委ね、司式者に自分の体の支配権を与え、水面下に沈めることが全く彼の手の中にあるように、彼は自分自身を神に委ね、神が彼の古い自己を死と葬りに追いやるようにする。死と命をもたらす神へのコミットメントが十分絶頂の表現となるのは、司式者に対して委ねる行為において、またそれによってであるとさえ言えるだろう。

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韓国人のお客様方

2014-08-16 11:53:07 | 長田家便り

私が留守をしていた間に、3人の韓国人のお客さんが我が家を来訪。私たちが結婚したころ、函館でお会いした方々で、懐かしい再会でした。

その頃は同じ教会に所属していた3人ですが、その後まもなく一人はクリスチャン男性と結婚、一人は女性牧師として奉仕、一人は北海道で福祉関係の働きに。彼らにとっても、お互いの旧交を温めるよい機会だったようです。

それぞれ、年を重ねながらも、ほとんど変わらない一面をお互いに感じながら、それでも大きな子どもがいたり、人格的にも成長を感じたりと、主の御手の中で時を過ごしてきたことをも感じながら、家内にとっては充実した、私にとっては短い時間での、よき交わりとなりました。

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宣教大会

2014-08-16 11:46:29 | 栄一便り

8月12日ー14日、教団の青年宣教大会が須賀川シオンの丘を会場に開催。

5つの集会は、賛美ゲスト(サルーキ=、神山みさ姉)の演奏、9名の方々の証し、5名の先生方によるメッセージなど。二日目には、被災地訪問、郡山駅前イベント、郡山の牧師木田恵嗣先生のお話をお聴きする集いなどのプログラムも。屋台が出たり、サッカー場やバスケットゴールがあったり、楽しい大会。

裏方を担う事務局としては、かなり大変な大会でもありましたが、次々に押し寄せる諸問題が、ぎりぎりのタイミングで解決していく様は、まるで映画を見るようで、主の守りを感じつつ、楽しく過ごすことができました。

集われた青年たちも、色々な形で神様の語りかけを聴き取ったことと思います。続いて、彼らの中に、神様の確かな導きと祝福がありますよう、祈っていきたいです。

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