長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

聖書が告げるよい知らせ 第30回 聖なる都への招き

2023-01-04 11:04:28 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第三十回 聖なる都への招き

黙示録二一・一‐八

 

新約聖書の最後に置かれているヨハネの黙示録は、紀元一世紀も終わろうとする頃、使徒ヨハネがその宣教活動のためにパトモス島へ島流しにされていたときに見せられた幻を書き記しています(黙示録一・一、九‐一一)。この幻を通して、神様は、この世界が世の終りに向かってどのように進んでいくのかをお示しになりながら、迫害下にあった当時のクリスチャンたちを励まされました。この書の最後に登場するのが、聖なる都の幻です。この都は、信仰者のために神が備えられた最終ゴールです。

 

一、聖なる都の出現

 

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(黙示録二一・一、二)

 

 この都の出現は、まず、宇宙的な更新の出来事と共に起こることが示されています。イエス・キリストの再臨の後のことでしょう。この世界が終わりを迎えるとき、神様は天と地全体の更新を行われます。「先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった」とありますから、部分的な領域の更新ではなく、天地全体の更新です。古い天と地とが消え去った後、新しい天、新しい地が現れる中で、この都が天から下ってくると言います。

 ですから、この都は、現在、地上に見られる色々な都とは全く別のものです。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録二一・四)現在、地上では様々な涙が流されています。この世界には死、悲しみ、叫び、痛みが満ちあふれています。しかし、この時、神様はそのようなもののない都を出現させてくださると言います。

 以前、子どもの集会で、この箇所からメッセージをしたことがあります。「神様はこのような都を用意してくださっています、このような都に私たちを入れてくださいます」とお話ししました。ふと見ると、目の前の小学生の女の子が涙を流していました。何か辛い経験をしていたのかもしれません。

 悲しみと痛みに満ちたこの世界で生きる私たち。信仰者であっても、悲しみや痛みと無縁では生きられません。しかし、私たちは永遠にこのような世界に留まるのではない、神様はそのようなもののない都を備え、そこに導き入れてくださる…これは、聖書が告げるよい知らせではないでしょうか。

 

二、聖なる都の本質

 

 しかし、この都について、信仰者である私たちはただひたすらその出現を待っているだけなのではありません。そのことは、この都の本質がどういうものであるかが理解できると、分かってきます。

 

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(黙示録二一・三)

 

 都の本質は、これらの言葉によって表現されています。神様が人と共に住む都、人が神の民として生きる都、神ご自身が彼らの神として共にいましてくださる都です。ですから、人間の罪や悲しみが満ちた今の世界であっても、私たちが日々神様と共に生きる歩みを続けるならば、私たちはこの都の恵みを先取りして生きていると言えます。

 これらの言葉の最初には、「神の幕屋が人々とともにある」ともあります。幕屋とは、神様がイスラエルの民に造らせたもので、その場所に神様はご自身の臨在と栄光を現わされました。ソロモン王の時代になると、しっかりとした神殿が建てられ、神様への礼拝がささげられました。「神の幕屋が人々とともにある」とは、栄光に満ちた神様の臨在が人とともにあるということでしょう。そこでは神様への礼拝が自然とささげられることになります(黙示録二二・三、四参照)。聖なる都とは、そのような場所だということです。

 「聖なる都」は「新しいエルサレム」とも表現されています(黙示録二一・二)。エルサレムはイスラエルの都ですが、ヨハネがこの黙示録を書いた時代、エルサレムの街はローマ軍に滅ぼされていました(AD七〇年)。そうした時代に、ヨハネは世の終わりに現われる新しいエルサレムの幻を見ました。そこでは神の栄光が輝いていました(黙示録二一・一一)。「この都には神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。」ともあります(黙示録二一・二二)。この都には命と光が満ちていました(黙示録二二・一、五)。

その昔、預言者エゼキエルも、エルサレムの町がバビロンによって滅ぼされた時代に生きました。そして、彼もまた、神殿回復の幻、聖都エルサレムの回復の幻を見ました。エゼキエル書は次のような言葉で結ばれます。「この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる」(エゼキエル四八・三五)。

 以前、小さな教会堂を訪ねたことがあります。礼拝堂の中には聖書のみ言葉が掲げてありました。「エホバ此(ここ)に在す」とありました。エゼキエル四八・三五でした(文語訳聖書)。私たちが週毎、日毎に神様の臨在を覚え、神様を礼拝し、「神がここにいます」という信仰を持って生きる時、私たちは聖なる都の恵みを先取りして生きていくことができます。

 

三、聖なる都に入る者

 

 この都にはどのような人が入るのでしょうか。ヨハネに告げられた言葉はこのようなものでした。

 

また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録二一・六‐八)

 

 「渇く者」、すなわち、神様と共にあることを慕い求める者がこの都に入ります。「ただで」とあります。これまで神様に背を向けて生きてきたとしても、神様に顔を向け直し、悔い改めと信仰によって神様に近づくなら、神様はこれまでの罪過ちを御子イエス様の血潮のゆえに赦し、「ただで」この都に導き入れてくださいます。

「勝利を得る者は」ともあります。信仰のゆえに戦いもあるでしょう。当時のような迫害の中に置かれることはなくとも、罪の誘惑、世の惑わしを受けるでしょう。しかし、「勝利を得る者は、これらのものを相続する」、聖なる都に入れて頂くことができます。

 この都に入れない者については、罪深い生き方のリストが挙げられていますが、その最初には「臆病な者」が挙げられています。戦いを避け、神の招きに背を向ける臆病さは、この都の入口に立つことを不可能にします。

神様は私たちをこの都に招いてくださっています。この招きに信仰の勇気をもってお応えしませんか。

(このシリーズは今回で終りです。お読みいただき、ありがとうございました。)

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聖書が告げるよい知らせ 第29回 神との交わりへの招き

2022-12-29 14:03:24 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第二十九回 神との交わりへの招き

Ⅰヨハネ一・一‐一〇

 

(毎週一度行われていた聖書の学びは、受講者のご事情により中断しています。しかし、このシリーズはあと少しですので、ブログには最後まで掲載したいと思います。)

 

使徒ヨハネはイエス・キリストによる救いをしばしば「永遠のいのち」と表現しました(ヨハネ三・一六、Ⅰヨハネ五・一三)。それは来たるべき終わりの日に肉体がよみがえらされることを含んでいます(ヨハネ六・四〇)。しかし、それは単に肉体が永遠に生きることだけを意味するのではありません。その本質は、永遠の神との交わりの中で生きることにあります(ヨハネ一七・三)。世の終わりになって初めてその恵みを受け取るというのではなく、今この時、私たちはこの恵みに招かれています。「ヨハネの手紙第一」では、そのことを明確にしながら、神との交わりに生きる道を明らかにしています。

 

一、神との交わりのために―いのちのことば

 

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。(Ⅰヨハネ一・一‐四)

 

 冒頭、ヨハネは何について語っているのでしょうか。「初めからあったもの」でありながら、「私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの」…これらは御子イエス・キリストのことです。神の御子は永遠のはじめからおられた方ですが(ヨハネ一・一)、人として私たちが生きる世界に生まれてくださいました(ヨハネ一・一四)。使徒ヨハネは他の弟子たちとともに、このお方を間近に見、このお方の声を直に聞き、触れさえしました。このお方は「いのち」を与える方であり、永遠のいのちそのものでした(ヨハネ一一・二五)。そのお方が私たちの生きる世界に来てくださり、現れてくださいました。

 使徒ヨハネも、他の使徒たちも、このお方を人々に証ししました。「いのちのことばについて」とあります(Ⅰヨハネ一・一)。素直に読めば「いのちを与えることば(メッセージ」」と理解できます。しかし、神の御子が「いのち」と呼ばれますので、御子を伝えることばとも理解できます。さらに言えば、神の御子が世に現われてくださって、神を明らかに示してくださったのですから、御子は「ことば」とも呼ばれ得ます。「いのちのことば」とは、いのちでありことばでもある神の御子ご自身を示唆しているとも考えられます(ヨハネ一・一、一八)。ヨハネはそのような「いのちのことば」を人々に語りました。

 ヨハネの宣教の働きには、明確な目的がありました。「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。」ヨハネが「いのちのことば」なる御子イエス様を人々に証ししたのは、人々が神との交わりに入るためでした。もう少し詳しく言えば、「御父また御子イエス・キリストとの交わり」とあるように、三位一体の神様との交わりに入るためでした。あるいは、神様の中心にした信仰者の交わりの中に入るため、と言ってもよいでしょう。それは喜びに満ちた交わりであり、ヨハネはぜひとも人々がこの交わりの中に入り、その交わりの中に留まって生きてほしいと願っていました。

 

二、神との交わりのために―光の中を歩む

 

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。(Ⅰヨハネ一・五―一〇)

 

 神との交わりに生きるためにはどうしたらよいのでしょうか。ヨハネはこのところに、その道を明確に示しています。

 まずよく理解しておかなければならないのは、神様がどのようなお方であるかということです。「神は光」です。「神には闇が全くない」とも言われています。聖なるお方、光の中に住んでおられる方であって、不正や不義、偽りや汚れ、隠れた闇のわざとは一切関わりを持たない方だということです。

 このお方と共に生きることは、必然的に光に照らされ、光の中を歩むことを意味します。しかし、私たちの中に、あるいは私たちの歩みにおいて、暗い部分、闇のわざ、すなわち罪があったとしたらどうしたらよいのでしょうか。

 ある人々は、闇のわざを行ない、闇の中を歩んでおりながら、神と交わりがあると主張しました(Ⅰヨハネ一・六)。しかし、そのような人々は「偽りを言っているのであり、真理を行っていません」とヨハネは指摘します。またある人々は、「自分には罪がない」とか、「罪を犯したことがない」と言い張りました。しかし、そのような人々は「自分自身を欺いており」、「神を偽り者とすることにな(る)」とヨハネは言いました(Ⅰヨハネ一・八、一〇)。

 それではどうすればよいのでしょうか。まずは光の中にとどまることです。闇の中に逃げ込むことをせず、光の中にとどまるなら、私たちの中に隠されていた闇のわざも明らかになるでしょう。しかし、その時こそ、御子イエス様の十字架を仰ぎましょう。そして、示された罪を率直に神に告白し、言い表すことです。そうするならば、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」「その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

罪がゆるされ、きよめられる根拠は私たちの中にはありません。御子イエス・キリストが私たちの罪のために十字架に血を流し、死んでくださったこと…そこに根拠があります。御子への信仰のうちに罪を告白するとき、必ず罪をゆるし、きよめてくださる…それは神様がご自身の真実をかけて約束してくださったことですので、条件さえ果たすなら、ゆるされ、きよめられたと確信することができます。

 私自身、青年期、罪の問題で悶々としていたとき、キリストの十字架を仰いだときのことを思い起こします。「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめてくださいます。」「すべての罪」ですから、あの罪、この罪、どんな罪もと思うと、感謝があふれてなりませんでした。

 神様は常に私たちをご自身との隔てのない愛の交わりへと招いてくださいます。御子イエスの血が流されています。示された罪を悔い改め、神の前に率直に言い表すなら、ゆるされ、きよめられます。信仰をもって神の御前に進みましょう。神様の愛の光の中で、喜びつつ生きてまいりましょう。

 

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「聖書が告げるよい知らせ」第28回 将来の救い、現在の救い

2022-09-16 13:10:47 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第二十八回 将来の救い、現在の救い

第一ペテロ一・三‐九

 

使徒ペテロもまた、生まれたばかりの教会指導者として活躍する中、二つの手紙を残しています。これらの手紙は、信仰者がやがて再び王としておいでになるイエス・キリスト(キリストの再臨と言います)を待ち望みつつ、苦難を忍び、神に喜ばれるきよい歩みを続けていくよう励ましています。

第一の手紙の冒頭、ペテロは、信仰者が神から与えられた救いの恵みがいかに大きなものであるかを書き記します。この恵みに立つとき、あらゆる苦難を乗り越え、きよい歩みを続けていくことができると、彼は感じていたのでしょう。そして、彼はここで、この救いが信仰者の将来と現在、両方に関わることを明確にしています。

 

一、生ける望み、将来の救い

 

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。(Ⅰペテロ一・三、四)

 

 ここでペテロは、キリストが与えてくださる救いは、「生ける望み」を持たせるものだと書いています。信仰者は将来に対して望みを持つことができます。 望みの内容は何でしょうか。「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐ」と言います。ペテロはこの資産について、二つの手紙の中で色々な言葉で表現しています。「栄光の冠」(Ⅰペテロ五・四)、「イエス・キリストの永遠の御国」(第二ペテロ一・一一)、「義の宿る新しい天と新しい地」(第二ペテロ三・一三)。神様の恵みに満ちたご支配が行きわたっている永遠の御国です。

世の中、お父さんが大金持ちだと言う人もいます。そういう人であれば、将来、大きな資産を受け継ぐことになるでしょう。しかし、その財産は運用管理してかなければ、減って行ってしまうこともあります。実際、一代目の社長が苦労して築いた財産が、二代目にはあっと言う間に消え失せてしまうこともあります。しかし、イエス・キリストが備えてくださる資産はそのようなものではありません。「天に蓄えられて」いる資産、使えば失せてしまう一時的、物質な資産ではなく、「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産」、恒久的、永遠的な資産です。

 将来受け継ぐべき資産は、続く節では、「終わりの時に現されるように用意されている救い」と言われています。主イエス様のご再臨により、「終りの時」を迎えます。この時、信仰者が受け継ぐ天的な資産がどのようなものか、明らかにされます。これが私たちの将来に備えられた救いです。

 

二、試される信仰

 

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、賞賛と栄光と誉れをもたらします。(Ⅰペテロ一・六、七)

 

 将来の救いにあずかるために鍵となるのは信仰です。しかし、この信仰は、しばしば試されます。実際、ペテロの第一の手紙は、試練や苦しみについて繰り返し教えています(二・一八‐二一、三・一四、一七、四・一二、一三、一九、五・九)。しかし、それらの苦しみは神様の許しなしに起こるわけではありません。そのような試練は、私たちの信仰をさらに練り、きよめ、純粋なものとするために役立てられます。

 金や銀、その他の金属は、純粋なものを得るために、火で精錬されます。そのように信仰も、様々な試練によって錬られます。世の中では、様々な金属の中でも金が永遠的な価値を持つものとして尊ばれます。しかし、そのような金でさえも永遠の視点から見れば、「火で精錬されてもなお朽ちていく金」と呼ばれます。ですから、私たちの信仰は「金よりも高価」であり、そのことは、私たちの信仰が試されることを通して明らかにされます。

 私たちは信仰の歩みを続けていると、時々他の信仰者が大変な試練を受けるのを見聞きすることがあります。あまりに厳しい試練であると、「信仰者なのに、なぜ」という気持ちが起こってくることもあります。しかし、そのような厳しい所を通った信仰者の後々の姿を見ると、何となく納得させられることがあります。穏やかでありながら揺れない、どこか芯の通った信仰を感じることがしばしばあります。

 

三、現在の救い

 

 さて、ここまで見てきたところでは、キリストが与えてくださる救いは、主に将来に関わることのように思えます。しかし、この救いは私たちの現在をも新しくします。

 「生ける望み」について書く際、ペテロは同時に、「私たちを新しく生まれさせ」と書きました。それは、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」、神様が私たちの内側に起こされたことでした。

 ですから、信じる私たちの内側には既に新しい何かが始まっています。このことをペテロは続く節で明らかにしています。

 

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。(Ⅰペテロ一・八、九)

 

 信仰者は現在、既に「たましいの救い」を得ていると言います。その表われは輝きに満ちています。その生活には、イエス・キリストへの愛があふれています。言葉に尽くせない喜びがあると言います。

信仰は見えないものを見る力です。私たちは「イエス・キリストを見たことはない」ですが、信仰によりこのお方の愛を受け取り、このお方を愛する者とされています。このお方を「今見てはいない」ですが、救われて、ことばに尽くせない喜びを持って生きることができます。

 随分以前のことになりますが、重度の障害を持ちながら、いつお訪ねしてもニコニコとしておられる信仰者にお目にかかったことがあります。お話することも不自由そうでしたが、その言葉はいつも感謝に溢れていて、マイナス的な言葉をお聞きすることはありませんでした。将来に対して御国の希望を持っておられることはもちろんですが、「信仰の結果であるたましいの救い」を得ておられるのだと感じました。

 信仰によって、将来の救いを望み見、今置かれている状況の中で、今も生きておられるキリストを信じ見上げながら、輝きつつ、喜びつつ、歩んで参りましょう。

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「聖書が告げるよい知らせ」第27回 和解への招き

2022-09-08 16:02:05 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第二十七回 和解への招き

Ⅱコリント五・一八‐六・二

 

 地中海世界一体に福音を宣べ伝えたパウロは、自分の宣教によって生まれた諸教会のことをいつも心にかけていました。中でもコリントの教会は様々な問題をいつも抱えており、何度か手紙を書いています。その内の一編『コリント人への手紙第二』を書いたとき、コリント教会の中にはパウロが使徒であることを疑ったり、否定したりする者もいたようです。彼はこの手紙の中で、神から与えられた使徒としての務めについて弁明するとともに、彼が伝えてきた福音の内容を何度も確認しています。パウロの使徒性を疑うことは、パウロが伝えた福音を疑うことにつながるからです。

 五章終りから六章はじめにかけて、パウロは自分の務めを「和解の務め」と言い、彼が伝えた福音を「和解のことば」と言いました。福音とは神との和解への招きである…そのようなパウロの理解を見ることができます。

 

一、和解の務め

 

これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。(Ⅱコリント五・一八、一九)

 

 パウロは、かつて自分自身、神との敵対関係にあったことを認めています。自分ではユダヤ人として神を信じ、神に従っている、神のために生きていると考えていました。しかし、実際には神が遣わされたキリスト、イエス様を否定し、神に敵対していました。しかし、神様は彼をあわれみ、幻のうちに復活のキリストと出会う経験を与え、彼は自分の間違いを悟りました。それまではクリスチャンの迫害者であった彼が、一八〇度の転換をし、キリストの使徒として生きるようになりました。

 彼はここで、自分に与えられた務めを「和解の務め」と呼んでいます。かつての自分がそうであったように、神に敵対して歩んでいる者たちが神との和解へと導かれるよう福音を伝える…これが「和解の務め」でした。

 彼は自分の過去の過ちが赦されたばかりか、このような大切な務めが与えられたことをどんなにか喜んだことでしょうか。多くの苦難もありましたが、大切なこの使命のために命がけで働き続けました。

 

二、和解への招き

 

 彼は、自分に与えられた務めを「和解の務め」と呼び、自分が伝えるよう召された福音を「和解のことば」と呼びました(Ⅱコリント五・一九)。そして、その内容を、以下の二節の中に簡潔に書き記しました。

 

こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(Ⅱコリント五・二〇、二一)

 

 「神が私たちを通して勧めておられる」、「私たちはキリストに代わる使節」、「私たちはキリストに代わって願います」…このような表現を見るとき、福音とは単に人間の思想、考えでないことが分かります。福音は、神が人々に語りかけておられるのであり、キリストが人々に願っておられることを伝えるものです。 神様は私たちに何を語り、キリストは私たちに何を願っておられるのでしょうか。

「神と和解させていただきなさい。」…ここに神の勧め、キリストの願いがあります。

パウロがかつてそうだったように、私たちも知らず知らず、神の御心を無視し、神様に背を向け、神様と敵対して歩んでいる…そうだとしたら、もう一度神様に顔を向け直し、神様との和解へと進む必要があります。

しかし、神との敵対関係の原因が私たちのほうにあったのであれば、私たちはどのようにして神との和解を成り立たせたらよいのでしょうか。パウロは言います。そのために必要なすべてのことは、神が備えてくださったのだと。

「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。」…「罪を知らない方」とは罪なき神の御子イエス・キリストです。このお方を私たちのために「罪とされた」と言います。このお方は罪なきお方であるのに、十字架の上で、罪ある者として定められ、断罪されました。なぜでしょうか。

「それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」罪なきお方が罪とされた、それは、罪ある者たちがその罪を赦され、「神の義となるため」だと言います。

「神の義」とは、ローマ人への手紙の中でも繰り返し現れる表現で、複雑な意味を持っています(ローマ一・一七、三・二一等)。しかし、その中で見逃せない大切な意味は、神の恵みにより、信仰によって与えられる「神からの義」というものです。本来、神の前に罪ありと宣告され、断罪されるべき私たちが、ただ神の恵みにより、キリストの贖いのみわざゆえに、神の前に義としていただく、神からの賜物としての「神からの義」です。この恵みにより、私たちは、かつては神との敵対関係にあったとしても、神と和解し、神様のご愛の中で、自由に、喜びをもって、生きていくことができます。

 

三、恵みの時、救いの日

 

 このような和解の福音を書き記した後、パウロは次のように書き加えます。

 

私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です。(Ⅱコリント六・一、二)

 

 先には、神の代理人、キリストの使節として、神の招き、キリストの願いを書き記しました。ここでは「神とともに働く者」として、読者に向かって呼びかけ、勧めます。「神の恵みを無駄に受けないように」と。

 コリント教会の人々がパウロの使徒性を疑い、パウロの語った福音をあいまいに受け取り、結局はこれを否定して進むこともあり得ないことではありませんでした。しかし、そうだとすれば、自分が折角伝えた「神の恵み」は無駄になる、神の絶大なご犠牲、キリストの贖いのみわざは、無駄に帰する、少なくともあなたがたにとっては…。そんなパウロの切実な訴えが聞こえてきます。

 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」これは、イザヤ四九・八の引用です。かつて神様は預言者イザヤを通して、イスラエルの人々に語りかけました。「あなたがたの罪がいかに深く、そのためにどれほどの悲惨をあなたがたが経験するとしても、私はあなたがたのために恵みを備え、救いを備える」と。ユダヤ人はそれがいつ、どんな時かと考えたかもしれませんが、パウロは言います。「見よ、今は恵みの時、今は救いの日」と。今こそが、神が備えられた恵みの時であり、救いの日なのだ、今こそ、神の招きに応えて、神の恵みを受け取りなさいと。

 神のご計画の中で、今も「恵みの時」、「救いの日」であることに変わりありません。神の招きに、信仰をもってお応えしましょう。

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「聖書が告げるよい知らせ」第26回 福音―救いをもたらす神の力

2022-08-03 17:25:29 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第二十六回 福音―救いをもたらす神の力

ローマ一・一三‐一七

 

ですから私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(ローマ一・一六)

 

紀元一世紀、福音宣教のためにパウロほど大きく用いられた人はいないでしょう。彼は、「神の福音のために選び出され、使徒として召された」人物でした(ローマ一・一)。地中海世界を何度も周りながら、多くの人々に福音を伝えました。しかし、彼の心の中にはなお一つの願いがありました。それは、いつの日かローマに行って福音を伝えたいという願いでした。世界の都ローマにおいて、福音にしっかりと根差した教会が形作られることは、その後の宣教の進展のために欠かせないと考えたことでしょう。

 当面、他の予定があったため(ローマ一五・二五)、ローマに行くことはできないことでした。そこでまずはローマのクリスチャンたちに宛てて手紙を書きました。それが『ローマ人への手紙』です。この手紙の中で、彼は福音がどういうものであるのか、その内容を組織立てて書き表しています。

 この手紙の序文部分を通して、福音の中核的な内容を確認してみましょう。

 

一、福音―御子に関する使信

 

この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。(ローマ一・二‐四)

 

 福音の中心は御子イエス・キリストです。福音はこのお方についての使信です。約束されたメシア、ダビデの子孫として生まれたお方、死者の中から復活され、神の御子として示されたこのお方が、福音の中心におられます。このお方を抜きにしたり、このお方を横に置いたりすれば、福音の中心から外れることになります。

 

二、福音―神の力

 

福音は、…神の力です。(ローマ一・一六)

 

 福音は神の力です。神がこの世界に変革をもたらすために、人間の思想や政治的力を用いようとはされませんでした。神様は福音を通して人を変え、世界を変えようとされました。

私たち人間も、私たちが住むこの世界も、本来のあり方から遠く離れた状態にあることを自覚しつつも、容易には変えられないものを持っています。人を変えよう、世界を変えようと志した人がいれば、そのことはすぐ身に染みて感じることです。しかし、福音には人を変え、世界を変える力があります。

「力」と訳される言葉(ドュナミス)は、ダイナマイトの語源となった言葉です。容易には変わろうとしない人間の性質を内側から変革する大きな力を持つのが福音です。

 

三、福音―救いをもたらす神の力

 

福音は、…救いをもたらす神の力です。(ローマ一・一六)

 

 福音は神の力ですが、その力はまず人に救いを与えるところに現わされます。なぜなら、人間は神によって救われなければならない窮状に陥っているからであると、パウロは指摘します。「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」と言います(ローマ一・一八)。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」とあるように(ローマ三・二三)、神の栄光ある御姿を仰ぎ見て生きるはずの人間が、罪ゆえにその栄光にあずかることができない状態にあることをパウロは指摘します。しかし、そのような状態にある私たちを神はあわれみ、神は福音を通して神の力を現わされ、私たちを救いに至らせます。

救いとは何でしょうか。パウロはこの手紙全体でそのことを明らかにしています。それは、神の前に罪ある者たちを義とします(ローマ三・二二、二三)。義とされた者は、神との和解を与えられ、神の御怒りから救われます(ローマ五・九、一〇)。また、罪の奴隷状態から解放され、きよい実を結び、永遠のいのちに至ります(ローマ六章)。御霊により神の子としての新しい生き方に導かれ、世の終わり、万物の更新とともに私たちも栄光あるからだに変えられます(ローマ八・一‐二五)。罪と滅びの中に歩んでいた者のために、神は何と大きな恵みを備えてくださったことでしょう。

 

四、福音―信じるすべての人に

 

福音は、…信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ一・一六)

 

 福音に啓示された神の救いは、「信じるすべての人」に与えられます。「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。」(ローマ三・二一、二二)「神の義」とは、信じる者が神から与えられる義、神からの義のことでしょう。

私たちは神の前に罪を犯したゆえ、神様から義と認められ得ない者でしたが、ただ「キリスト・イエスによる贖い」のゆえに、「神の恵みにより」、「価なしに義と認められる」幸いがあります(ローマ三・二四)。この無代価の恵みを受け取るためには、イエス・キリストへの信仰だけが求められます。救われるために必要なすべてのみわざは、既にキリストが成し遂げてくださったと、完成された主のみわざに信頼して、神の恵みを受け取ることです。

 

五、福音―ユダヤ人をはじめギリシア人にも

 

福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ一・一六)

 

 ローマ教会には、ユダヤ人クリスチャンもいれば、ギリシア人など異邦人クリスチャンもいました。彼らの間には、特に律法の取り扱いを巡って理解の相違が生まれる危険性が常にありました。しかし、パウロは、神の救いにおいて両者に区別のないことを示しました。律法を持つユダヤ人たちは、律法によって神の御心を示されていましたが、知ってはいても行うことができませんでした。律法を持たない異邦人たちも、心に書き付けられた律法、すなわち良心によって裁かれるならば、罪なしとはされ得ませんでした。「ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にある」…これが罪の問題に関するパウロの結論でした(ローマ三・九)。ですから、律法を持つ、持たないにかかわらず、彼らが神の前に義とされ、救われるのは、「イエス・キリストを信じることによって」であって、「そこに差別はありません」(ローマ三・二二)。

 世界中のすべての人々に提供されているこのよい知らせ、福音を、あなたも信仰によって受け取りませんか。

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「聖書が告げるよい知らせ」第25回 救われるためには

2022-07-21 19:28:26 | 聖書が告げるよい知らせ

第二十五回 救われるためには 使徒一六・二五‐三四

 

聖霊の注ぎを受けた弟子たちは、復活の主の証人として立ち上がり、大胆な宣教活動が始まりました。その中で、最初はクリスチャンたちへの迫害者であった人物が主イエスを信じ、宣教の働きに加わります。彼は後にパウロと呼ばれ、特に異邦人への宣教に重荷を持ち、地中海世界一帯に福音を宣べ伝えました。今回は、彼の働きを通してピリピの町のひとりの牢獄看守が信仰に導かれた経緯を学びます。

 

一、不思議な囚人たち

 

真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。(使徒一六・二五)

 

 ピリピの牢獄に連れて来られた二人連れは、不思議な囚人たちでした。彼らは見たところ、粗暴な振る舞いをせず、言動も落ち着いていましたから、犯罪者のように見えませんでした。

聞くところによると、彼らはイエス・キリストを伝える宣教者たちでした。彼らに「占いの霊につかれた若い女奴隷」が付きまとい(使徒一六・一六)、彼らの働きを妨げたため、彼らのうちの一人、パウロという人物が「イエス・キリストの名によって」霊を女から追い出したというのでした(使徒一六・一八)。彼女はそれでおとなしくなったのですが、占いの霊が出て行ったため、彼女は霊的な力を失い、以後、占いができなくなります。彼女の主人たちは、金儲けの手段が消えてしまったことを怒り、二人の宣教者たち、パウロとシラスを長官たちに訴えます。長官たちは二人をむちで打たせたのち、牢に入れ、看守に厳重な見張りを命じたというのが、事の次第でした。

そんな目に遭いながら、二人の囚人はなお不思議な落ち着きを見せていました。夜中になると、彼らは神に祈りをささげ、神を賛美する歌を歌い始めます。日頃は怒声やつぶやきしか聞こえない牢獄に、神への祈りと賛美の歌声が響いたことにより、ほかの囚人たちも思わずその声に聞き入っていました。

ところが、その時、大きな地震が起こります。牢獄の土台が揺れ動くような大きな地震でした。この揺れのため、牢獄の扉は全部開いてしまい、すべての囚人の鎖も外れてしまいました。いつの間にか寝入っていた看守は、慌てます。見ると、牢の扉が開いてしまっていますから、囚人たちが逃げてしまったと判断しました。とっさに彼が考えたのは、見張りを命じられていた自分が責任を問われるだろうということでした。絶望に陥った彼は、剣を抜き、自殺しようとします。

ところが、夜の闇の中から、彼の行動をとどめる声が響きます。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」…パウロの声でした(使徒一六・二八)。

 

二、救われるためには

 

 パウロの声に、看守は明かりを手にした上で、もう一度夜の暗がりの中、目を凝らします。すると、確かに囚人たちは牢の中に留まっており、逃げてしまったわけではなさそうです。状況の把握ができたとき、彼はもう一度パウロの言葉を思い返さずにはおれませんでした。もしパウロが黙っていたらどうだったでしょう。剣は自分を刺し貫き、その場で命果てたことでしょう。そうなれば、囚人たちに紛れてパウロたちはその場から立ち去ることもできたはずです。しかし、パウロは判断を誤って自殺しかける自分をそのままにはしておかず、大声で止めてくれました。看守にとって、パウロは命の恩人となりました。

 この時、看守は牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏します。そして、二人を外に連れ出した上で、思わず彼らに問いかけます。

 

そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。(使徒一六・三〇)

 

 救われなければならないと、彼はどうして思ったのでしょうか。救われるとはどういうことで、救われたらどうなると考えたのでしょうか。詳細は分かりませんが、パウロとシラスから多少なりとも聞いていたところがあったのかもしれません。人間が神に背き、罪を抱えていること、そのことが人間を神の祝福から遠ざけ、彼らにのろいと滅びをもたらすものとなっていることを、多少なりとも聞いていたかもしれません。いずれにしても、彼はこの時、自分が救われなければならないと感じました。そして、そのためにどうしたらよいか、パウロたちに尋ねたのでした。

 

三、主イエスを信じなさい

 

二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒一六・三一)

 

 これがパウロたちの答えでした。「何をしなければなりませんか」という看守の問いは、自然なものでした。しかし、パウロが示したのはただ、主イエスを信じることでした。救われるために必要なすべてのことは主イエスが成し遂げてくださいました。このお方は、私たちの罪のために十字架に死に、三日目によみがえられました。そして、私たちを罪の赦しと聖霊による新しい生涯へと招いてくださいます。私たちがなすべきことは、自分の罪を率直に認め、このお方を主、救い主として信じ仰ぐことだけでした。

 「あなたもあなたの家族も」と言ったのは、その場に彼の家族も居合わせていたのでしょう。パウロたちは彼ら全員にさらに詳しく「主のことば」、すなわち、主イエスについての教え、福音を語りました。看守は、二人を引き取り、打ち傷の手当てをしました。そして、彼とその家の者全員が、主イエスに対する信仰を言い表し、バプテスマを受けました。

 それから看守は二人を自分たちの家に案内し、食事のもてなしをしました。「神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ」とあります(使徒一六・三四)。その食事会は、神を信じ、主イエスを信じたことによる喜びに満ち溢れていました。

 私たちは、福音を思いがけない時に、思いがけない形で聞くかもしれません。しかし、どんな状況で語られたとしても、福音は私たちを主イエスに対する信仰へと招きます。私たちはこのお方への信頼を人生の土台に置いて生きるとき、神が備えられた救いを受け取ります。それは神を信じる喜びに満ちた生涯の始まりです。

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「聖書が告げるよい知らせ」第24回 聖霊が注がれた日

2022-07-14 19:22:11 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第二十四回 聖霊が注がれた日

使徒二・一‐六、一四‐一八、三二‐三九

 

イエス様はよみがえって後、四十日にわたって弟子たちに姿を現されましたが、その後天に挙げられました。しかし、その際、一つの命令と約束を残されました。それは、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」というものでした(使徒一・四、五)。

ご命令に従い、弟子たちは祈り続けました。ちょうどユダヤ人の祭り、五旬節(ペンテコステ)の日に、次のようなことが起こりました。

 

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。(使徒二・一‐四)

 

 物音を聞きつけた人々が集まってきました。ユダヤ人の祭りに参加するため、色々な国々に住む離散したユダヤ人たちも集まってきましたが、彼らは生まれ故郷の言葉で弟子たちが神のみわざについて語っているのを聞いて驚きます。中には、「酒に酔っているのだ」とあざ笑う者もいました。

その時、使徒ペテロが立ち上がり、人々に語り出します。彼の言葉を通して、私たちはこの日の出来事の意味をよく理解することができます。

 

一、約束の成就

 

 「酒に酔っている」という声に対して、「今は朝の九時ですから、(略)酔っているのではありません」と答えた後、ペテロは次のように言いました。

 

これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。(略)』(使徒二・一六‐一八)

 

 ヨエルは、神に背いた民に対して、いなごの襲来という形で神の裁きがもたらされたことを告げた預言者です。そうしながら、ヨエルは人々に神への悔い改めを迫ると共に、回復の時が備えられることも預言しています。そのような中で語られたのが、すべての者に神の霊が注がれる時が来るという預言でした(ヨエル二・二八‐三二)。限られた預言者たちだけに聖霊が注がれていた時代は過ぎ去り、すべての神の民が聖霊により神を証しする者となるというのでした。

 ヨエルに限らず、イスラエルの預言者たちは皆、民の罪が神の祝福を失わせていることを指摘します。同時に、回復の道が備えられていると告げます。そのカギとなるのがメシアの到来であり、神の霊の注ぎでした(イザヤ三二・一五、エゼキエル三六・二五‐二七)。神の霊の注ぎこそは、神の祝福回復の中心的な出来事であり、神の民としてふさわしい歩みをもたらすものでした。

 ペテロは、預言者たちを通して示されてきた神の約束が、五旬節のこの日、成就したのだと語りました。

 

二、天に挙げられたキリストが聖霊を注いだ

 

 それからペテロは、イエス様について語り始めます。神から遣わされたお方として数々の奇跡をなさったこと。しかし人々はこのお方を十字架につけて殺したこと。ところが、神はこのお方を死からよみがえらせたこと。自分たちはその証人であること。そして、ペテロはこのように続けます。

 

ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。(使徒二・三三)

 

 今、人々は弟子たちが聖霊に満たされ、色々の国の言葉で神様を証ししているのを見聞きしています。理解しがたいようなこの出来事こそ、イエス様が死からよみがえり、天にいます神の右に上げられ、父なる神様から約束の聖霊を受けて、それを弟子たちに注がれたことの結果だと言いました。自分たちが見聞きしていることを考えると、人々はペテロの言葉を否定することができませんでした。

 ペテロは続いて語りました。

 

ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(使徒二・三六)

 

 ペテロの言葉は明確であり、人々の心に突き刺さりました。「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った」と言います(使徒二・三七)。自分たちがとんでもない間違いを犯していたと気づかされた瞬間でした。

 

三、遠くの者一同にも与えられている約束

 

 「どうしたらよいでしょうか」との人々の問いに、ペテロはこう答えました。

 

それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒二・三八)

 

 過ちを悟った彼らがその時なすべきことは、悔い改めること、そのしるしとしてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けることでした。その結果与えられる恵みは、「罪の赦し」、そして「賜物として聖霊」を受けることでした。これは神の大いなる約束が確かに成就したことを告げる、よい知らせでした。

 ペテロは最後に、次のように付け加えました。

 

この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。(使徒二・三九)

 

 その時、その場にいた人々だけではありません。その子孫にも、さらには、「遠くにいるすべての人々」にも与えられている約束だと言いました。すなわち、この約束は時代や民族、国籍を越え、すべての者に与えられているのだと。

 このよい知らせは、私たちにも向けられています。どんなに神様に背を向け、間違った歩みをしてきたとしても「罪の赦し」は備えられています。どんなに神の祝福から遠く歩んできたとしても、「賜物としての聖霊」を受けることができます。

経験や現象は様々です。この日の弟子たちと全く同じ経験をする人はむしろ少ないでしょう。しかし、形は違っても同じ聖霊を注いで頂いて、内側を新しく造り変えて頂くことができます。悔い改め、イエス様を主、キリストとして信じましょう。

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「聖書が告げるよい知らせ」第23回 復活の一週間後

2022-07-07 19:26:50 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第二十三回 復活の一週間後

ヨハネ二〇・二四‐二九

 

 ヨハネの福音書には、イエス様はよみがえられたその日、弟子たちの間にも姿を現されたことが記されています(ヨハネ二〇・一九)。しかし、トマスという弟子だけはその場に居合わせませんでした。彼が復活の主イエス様に対する信仰に導かれるためには、なお一週間を必要としました。

 

一、疑うトマス

 

弟子たちに復活の主イエスが現れなさった日、トマスが帰ってくると、他の弟子たちは、興奮した面持ちで口々に復活の主の出現について語りました。しかし、トマスの反応は否定的でした。

 

そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。(ヨハネ二〇・二五)

 

 「見なければ信じない」、「触ってみなければ信じない」というトマスは、現代の実証主義者の態度に似ています。「疑い深い弟子」として見られやすいトマスですが、一面では、まじめな真理の探究者という見方をすることもできます。周囲の声に惑わされず、真理であるのか、そうでないのか、見極めようとする態度が彼の中には見られます。

 「失意のあまり、幻でも見たのではないか」、「自分をからかう作り話ではないか」、いろいろ考えたかもしれません。主イエスが本当に復活したのか、あるいはそうでないのか、これは決して小さなことではありません。人の言葉だけで容易に動かされまいとする姿勢は、大切なものでもありました。

 

二、一週間後の顕現

 

 そのようなトマスの態度に対して、主イエスもまた、憐れみ深く、また忍耐深く、トマスを導かれました。一週間後のこと、弟子たちが同じように家の中に集っていました。今度はトマスも一緒でした。そして、その場にもう一度復活の主が現れなさいました。前回同様の状況下、主が再度現れたご目的は何だったでしょうか。それはまさに、前回いなかったトマスのためだったと言うことができます。実際、その後主は、トマス一人に対して語りかけられます。

 

それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ二〇・二七)

 

 「この目で見なければ」、「この指を手の釘あとにさし入れてみなければ」と言っていたトマスに、「さあ、そうしてみなさい」と語られました。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と招かれました。

 

 ああ主の瞳 眼差しよ

 疑い惑う トマスにも

 御傷示して 「信ぜよ」と

 宣(の)らすは誰ぞ 主ならずや

 (日本福音連盟新聖歌編集委員会編集『新聖歌』教文館発行、二二一番三節)

 

三、見ないで信じる幸い

 

 主イエスのお言葉に対して、おそらくトマスは、実際に自分の指を主の手の釘あとにさし入れはしなかったことでしょう。自分の目で見ましたので、十分だと考えたことでしょう。見たところ、イエス様の御手には、確かに十字架に釘づけられた跡がありました。彼は主イエスに答えました。

 

「私の主、私の神よ。」(ヨハネ二〇・二八)

 

 死人の中からよみがえられたイエスこそは、神様が送ってくださった神の御子であり、主であると、トマスは知りました。彼の内側に信仰が起こってきました。その信仰が、「私の主、私の神よ」との言葉に凝縮されました。

 これに対して、主イエスは更に語りかけられました。

 

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ二〇・二九)

 

 トマスは見て信じました。主は彼の信仰を受け入れられましたが、同時に、「見ないで信じる幸い」に彼を招かれました。なぜなら、信仰とは本来、見えないものを見ていく働きだからです。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル一一・一)。

 やがて主は天に帰っていかれ、肉眼では見ることができなくなりました。しかし、その後もトマスは、他の弟子たちと共に主イエスを心に信じ、主の弟子として生き続けました。いろいろな困難や迫害もあったでしょう。しかし、彼は、復活の主、生きておられるお方を信じ仰ぎつつ生涯を全うしました。彼はその後、インドで宣教活動をし、その生涯の終りは殉教であったと言い伝えられています。

 イエス様の弟子たちは、復活の主にお会いし、主のご復活を信じました。いわば見て信じた人々です。私たちは、復活の主にお会いした弟子たちをうらやましく思うかもしれません。しかし、主は「見ないで信じる人たちは幸い」と言われます。私たちの信仰を励ますために、いろいろな出来事や様々な出会いを通してご自身を示し、招いてくださいます。しかし、最終的に主は私たちを見ないで信じる幸いへと招かれます。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」」、「見ないで信じる人たちは幸いです」…イエス・キリストの招きにお応えしましょう。

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「聖書が告げるよい知らせ」第22回 復活の日の朝

2022-06-30 19:20:37 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第二十二回 復活の日の朝

マタイ二七・六二‐二八・一〇

 

 聖書が告げるよい知らせの中で、イエス・キリストに関わる中心的な出来事が二つあります。十字架の死と復活です。四つの福音書は、イエス様の十字架の死についてと同様、イエス様の復活前後の様子について、かなり詳しく描いています。使徒パウロもまた、「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと(略)」と書いています(Ⅰコリント一五・三、四)。

 前回に続き、マタイの福音書から、キリストご復活の日の朝の様子について見てみましょう。

 

一、破られた封印

 

そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。(マタイ二七・六六‐二八・二)

 

イエス様が十字架に死なれ、墓に葬られたとき、祭司長やパリサイ人たちは一つの心配をしました。イエス様がかつてご自分の復活について語っておられたのを聞き知っていたのでしょう。弟子たちが遺体を盗み出して、「よみがえった」と言いふらすのではないかと考えました。そこで、彼らはピラトのもとに行き、墓に番を付けるようにと願い出ます。ピラトは、この要求に応え、番兵を手配するとともに、墓を封じる石に封印をさせました。

 しかし、このようなことも、イエス様の復活をとどめることはできません。十字架の死から三日目、日曜日の朝、女性たちが墓を見に来たとき、地震が起こります。それは、天使が天から下って来て、石を脇に転がしたことによるものでした。こうして、固く封じられていたはずの墓は開けられ、イエス様が既に復活されたことが明らかにされます。

 アダムとエバが神様のご命令に背いたとき、「必ず死ぬ」と言われていた通り、死がすべての人間を覆い尽くすようになりました(創世記二・一七、三・一九)。しかし、イエス・キリストは死に勝利をされ、永遠に生きておられる方としてよみがえられました。全人類を縛り付けていた死の封印が解かれた瞬間でした。

 私たちは、イエス・キリストを信じるとき、罪を赦していただき、神との交わりを回復して頂くことができます。やがては私たちも死の時を迎えるでしょう。しかし、世の終わり、イエス様と同じような復活栄光の体が与えられます(Ⅰコリント一五・二〇‐二三)。イエス・キリストの十字架の死と復活により、死の封印は既に砕かれ、解かれていることを覚えましょう。

 

二、空になった墓

 

 驚く女性たちに天使が語ったのは、次のようなことでした。

 

あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。(マタイ二八・五、六)

 

 天使が天から下り、墓を塞いでいた石をころがしたのは、復活したイエス様を外に出すためではありませんでした。他の福音書を見ると分かることですが、復活のイエス様は、固く閉ざした家の中にもスッと入って来ることがおできになりました(ヨハネ二〇・一九)。イエス様は復活されてすぐ、閉ざされた墓の中からも出て行くことができました。ですから、女性たちに天使が告げたのも、「(イエスは)ここにはおられません」ということでした。

 「前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」と告げると同時に、天使は彼らに、言いました。「さあ、納められていた場所を見なさい。」そこには、空になった墓があるだけでした。

 エルサレムには、イエス・キリストが葬られた場所としていくつかの箇所が指摘されています。そのうちの一つで「園の墓」と呼ばれる場所は、よく手入れがされ、「こんなところでイエス様がよみがえられたのかな」と思わせる雰囲気が漂っています。その園には、キリストの墓とされる場所があり、入口のところに「彼はここにはおられない。よみがえられた」と記されています。もし仮に、そこに記されている言葉が「ここにキリストの遺体が納められている」ということであったらどうでしょうか。使徒パウロも言うように、「私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しい」ということになるでしょう(Ⅰコリント一五・一四)。「空になった墓」こそは、聖書が告げるよい知らせの土台を提供するものです。

 

三、お会いできる

 

 続いて天使が女性たちに告げたのは、次のようなことでした。

 

そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。(マタイ二八・七)

 

 その後、急いで墓を立ち去り、走り出した女性たちは、復活の主イエス様ご自身に出会います。この時、イエス様が彼らに語られたのも、「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」ということでした(マタイ二八・一〇)。

 実際、弟子たちはこの後、ガリラヤにおいてイエス様と相まみえます。(次回見るように、エルサレムでも何度かお会いしていますが、マタイの福音書では省略されています。)もちろん、この後、イエス様は天に昇っていかれます。しかし、弟子たちに宣教の命令を与えるとともに、一つの約束を残されます。

 

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ二八・二〇)

 

 復活し、天に昇られた主イエス様は、信じ従う者たちと共にいてくださるとの約束です。

 思えば、御子イエス様のご降誕について、マタイは、それがイザヤの語った預言(イザヤ七・一四)の成就だと言いました。「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』」そして、マタイは「インマヌエル」について、「訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である」と付け加えました(マタイ一・二三)。

 罪深い私たちが、その罪を赦して頂いて神と共に生きることができることは大きな幸いです。そして、復活の主、御子イエス・キリストが、信じ従う私たちと共にいてくださることは、「神が私たちとともにおられる」という約束の成就と受け止めることができるでしょう。このお方は永遠に生きておられるので、いつも、どんな所からでも見上げ、「お会いできる」方です。

 

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「聖書が告げるい知らせ」 第21回 十字架の上で起こったこと

2022-06-24 08:39:16 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第二十一回 十字架の上で起こったこと

マタイ二七・三二‐五四

 

 十字架刑は、当時、ローマ帝国で執行された死刑の手段の中でも、もっとも残酷なものでした。両手両足が十字架に釘づけられた上で、十字架が地面に打ち立てられると、全身の体重が釘付けられた箇所にかかってきます。激痛の中で少しずつ死に至らせられるのが十字架刑でした。しかし、福音書の記者たちは、イエス様の十字架上での様子について、いたずらにセンセーショナルな書き方をしてはいません。むしろ、事実を淡々と描くことに専念しているように見えます。

ここまで記されたところを見れば、キリストの十字架刑は、一見、多くの人々の愚かさ、罪深さの中でもたらされたものであり、不当な裁判によって無実の罪を背負わされた結果であるように見えます。しかし、十字架につけられたイエス様と、その周辺の様子を注意深く読んでいくと、イエス様の十字架の死の真の意味がはっきりと浮かび上がってきます。マタイの福音書の記述を通して、十字架の上で何が起こったのかを確認してみましょう。

 

一、ユダヤ人の王がユダヤ人に拒絶された

 

彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。(マタイ二七・三七)

 

十字架の上の方には、罪状書きが掲げられました。イエス様の罪状書きは、「ユダヤ人の王」というものでした。これは、ユダヤ人たちがローマ総督ピラトに訴えた内容を反映したもので、「ユダヤ人の王を自称していた」ということでしょう(ヨハネ一九・一二)。しかし、彼らの訴えがねたみに基づくものであることを見抜いていたピラトは、あえて「ユダヤ人の王」と書かせました。

十字架につけられたイエス様を見あげながら、祭司長、律法学者、長老たちは、「彼はイスラエルの王だ」と、皮肉を込めて言いました(マタイ二七・四二)。しかし、実際のところは、ユダヤ人の王として来られたイエス様を彼らは王として受け入れませんでした。

これまで、神に背き、祝福を失った全世界の人々をご自分に回復させるため、神様がアブラハムの子孫、イスラエルを通して救済のご計画を進めて来られたことを見てきました。ところが、当のユダヤ人たちが王であり、メシアとして来られたイエス様を拒絶したのですから、それは大変悲しいことでした。このことの結果として、イスラエルから全世界へという神様のご計画は、異邦人からイスラエルへという方向に向かって大きく転換していきます(マタイ八・一一、一二、二一・三三‐四六、二八・一九、ローマ一一・二五~二七)。

 

二、神の子がご自分を救わなかった

 

 十字架につけられたイエス様の周りで、人々は嘲りの言葉を語り続けます。通りかかった人々は言いました。「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ二七・四〇)祭司長たちが律法学者、長老たちと一緒になって語ったのは次のような言葉でした。

 

「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」(マタイ二七・四二、四三)

 

 イエス様は神の子でなかったのでしょうか。いいえ、神の御子でした。イエス様は自分自身を救うことができなかったのでしょうか。いいえ、できました。人々がイエス様を捕らえに来たとき、剣を抜いてそれを阻止しようとした弟子たちを押さえてイエス様は言われました。「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」(マタイ二六・五三、五四)

 神の御子イエス様は、ご自分をこの窮地から救おうと思われたら簡単にできました。しかし、神のご計画が果たされるために、あえてそうなさいませんでした。

 

三、見捨てられるはずのない方が神に見捨てられた

 

 午前九時に十字架につけられたイエス様ですが、昼の十二時になると、地上の全面が暗くなりました(マタイ二七・四五)。そして、三時ごろになったとき、イエス様は叫ばれました。

 

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ二七・四六)

 

 世界中の人々が神様から見捨てられたとしても、このお方だけは見捨てられるはずがない…それが神の御子イエス様ではなかったでしょうか。しかし、ここでイエス様は神様に向かって、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

 私たちが自分の生涯を振り返れば、しばしば神様の御旨に背いてきたことを思い起こすことができます。ですから、神様から見捨てられたとしても「どうして」と言えないものを持っています。しかし、このお方はそのようなものを一切持たない方。そのお方が、神から見捨てられた…それは誰もが「どうして」と問わなければならないことです。

その理由は、このお方の中にあったのではなく、私たちの中にあったと言えます。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(Ⅱコリント五・二一)

 

四、神殿の幕が裂けた

 

 十字架の上で、神に見捨てられるはずのない神の御子が神に見捨てられ、死なれました。その結果、何が起こったでしょうか。

 

しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(マタイ二七・五〇、五一)

 

 イエス様が十字架の上で息をひきとられたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。この出来事は、十字架上で何が成し遂げられたかを示しています。

 神殿には奥の方に至聖所と言われる場所があり、その前には垂れ幕が下がっていました。至聖所には、大祭司が年に一度、特別な犠牲の供え物をささげた上でしか入ることができませんでした(レビ一六章、ヘブル九・七)。その垂れ幕は、罪人がそのままでは神の前に出ることができないことを暗黙のうちに物語っていました。しかし、その垂れ幕が裂けたことは、罪人が神の前に出る道が開かれたことを意味しています(ヘブル九・一九、二〇)。

 神の御子が十字架の上で成し遂げてくださったことのゆえに、このお方をほめたたえましょう。

 

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