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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

最近の一日半断食

2006年09月09日 | 断食・少食
瞑想合宿から帰ってからは、また週一回のペースで一日半断食を行うようになった。ただし、野菜ジュース、豆乳、黒糖飴を時間間隔をあけて摂取するので、かなりゆるい断食だ。週一に戻して今日が3回目であるが、一回毎に楽になっている。からだが慣れてくるのだろう。

平日に少し食べすぎと感じることも多いので、ちょうどいい調整だ。そして何より、毎日食べ続けることのマンネリズムに対して一日半の断食がとてもよい刺激になっている。週一回の新鮮な感覚だ。

ただ、断食した夜の眠りが少し浅いのが気になっている。今日はどうか。

今日は、朝、昼、夜と20~30分ずつ瞑想。体重は、62キロをほぼキープ。20歳台から30歳台前半、ずっと62キロぐらいだった。これが私にとっていちばん自然な体重なのだろう。

恐れと怒り

2006年09月08日 | 夢日記
グリーンヒル瞑想合宿レポートの続きを期待して訪問してくださる方も多いと思う。今回は、前回以上にゆっくりのペースになる感じだが、日々の日記を間にはさみながら、自分にとって負担にならない程度のスピードで進んで行きたい。ご了承を。

◆恐れと怒り
恐れと怒りが、最近の私の深いレベルでのテーマになりつつあるようだ。このテーマに関する夢が多くなっている。

9月5日だったかに見た夢。古い屋敷のような料亭での宴会に出席していた。その宴席に疎外感を感じていた私は、一人で表に出た。その屋敷は町のはずれにあったが、町の中心部でやっている祭りを見物に行こうかと思った。しかし、その方面からぞろぞろと人が帰って来るので、もう祭りは終わったのだなと思った。

屋敷の門からかなり離れたところに人影があり、私に向かって叫んでいる。「お前は、怒っているのになぜ、怒っていると言わないのだ」、そう言って私の方へものすごい勢いで向かってくる。私は、真に恐怖に囚われた。とにかく怖かった。「怒っています」と認めれば、それを言いがかりにして殴りかかられそうだった。「怒ってはいない、全然怒っていない」と叫びながら、必死になって、宴会場の屋敷に逃げ込んだ。

目覚めたとき、心の底から怯えていた余韻がはっきりと残っていた。そうか、私は自分のこの小心さ、臆病さ、それゆえの恐怖心を怒っているのだなと思った。その怒りを抑圧しつつ外部に投影している。とくに父の特定の行為に。この夢が印象的だったのは、いつもは抑圧している心底からの恐怖心を夢の中で逃げながら実感したからだった。

しかし、昨日だったかに、全く気にもとめていかなった夢の中の言葉が気になった。

「お前は、怒っているのになぜ、怒っていると言わないのだ」
「怒ってはいない、全然怒っていない」

このやりとりは、まさに抑圧した怒りとその否認をストレートに表しているではないか。しかも人影(影=ユングのいうシャドウ)が、そう語っている。私は、怒りを抑圧し、それを認めていない。抑圧された怒りという影そのものが、怒って私に攻撃をしかけてきた。

あと時感じた恐怖は、私の小心さを表すと同時に、自分の怒りに直面することの恐怖をも表していたようだ。

この夢は明らかに、合宿直前に見た「2006/08/08 (火) 怒りと恐怖の夢」に呼応しいる。

サティとプラス思考

2006年09月02日 | 瞑想日記
今日は、瞑想合宿レポートは少し休んで、いつもの日記。

2006年08月30日のこの一瞬をとらえる、ヴィパッサナー瞑想の世界(今日の一言)から。

「たとえ最悪の出来事が起きたとしても、ネガティブな反応やマイナス思考の心のエネルギーを出力すれば、事態は今よりももっと悪くなるだけである。
 ネガティブな考えはネガティブな結果をもたらす原因となり、カルマが悪くなる。
 サティが入れば、その瞬間に心はモード変換され、善心所に替わっていくだろう。
 サティが入らなくても、プラス思考の反応が起動すれば、事態は必ず好転していく、と肝に銘じる……。 」

不善心所がいかにサティを乱すかは、瞑想合宿でもいやというほど味わってきた。とすれば、逆もまた真であろう。そしてサティそのものは、善心所の連鎖を生んでいくであろう。

プラス思考も、善心所の連鎖を作っていくだろう。最近、ある人に贈っていただいた『ツキを呼ぶ魔法の言葉』も、善心所の連鎖を生むプラス思考に秘密がありそうだ。

サティについて言えば、日常生活のなかで出来るかぎりサティを増やしていこうと心がけている。ふっと思い出したらサティ。サティモードがしばらく続くが、また忘れる。長いサティの空白。そしてまたしばしのサティ。それでいいではないか。

思考に気づけばサティ。その思考がどういう執着から来ているのか、確認してサティ。これだけでも、毎日相当の発見がある。自我が執拗に繰り返す思考パターンが、何度も確認される。日常生活の中で、いかにこうした思考パターンを無自覚に繰り返しているかが、いやというほど分かる。

グリーンヒル瞑想合宿レポ ート08

2006年09月02日 | 瞑想合宿レポート
◆忠告
これまで数回の瞑想合宿の体験から、瞑想そのものに無意識的なものを浮上させる働きがあるという実感はあった。その働きは、禅宗の座禅でも、ヨーガの瞑想でも、瞑想である以上は共通にもっているだろう。何かに集中すれば思考は多少とも抑えられるから無意識的なものが浮上しやくなる。

しかし、深い層から浮上してきたイメージや感情に対して、これほど統合された仕方で適確に対処していく方法が、ヴィパーサナー瞑想以外にあるのだろうか。たとえあったとしてもサティという手段を持たないかぎり、きわめて一面的なものになるのではないか。

腹の動きや足裏感覚のようなセンセーションにサティが保たれる。身体感覚へのサティが深まれば自我の働きが抑えられて心の深層への扉が開かれやすくなる。一方、集中が乱れて妄想が出現したとしても、それはそれでサティがなされる。妄想に対してサティが持続されれば、その根元にある執着へと洞察を深めるチャンスとな。どちらにせよサティが保たれていれば、深い洞察への道に通じている。

さらに、センセーションへの集中が深まれば深まるほど、自我の働きは抑えられて、より深い層からイメージが浮上する可能性が高まるだろう。そこでもまたサティは力を発揮する。

先生はいう、「客観化、対象化することがサティの本質だから、そのサティがピュアに保たれているときには、たとえ一時的であれ、エゴ性は弱まる。エゴの裁量は抑えられ、深い無意識から浮上するような、エゴに不利な情報でもしっかりと捉えられる。

エゴが必死で隠し、抑圧していて見たくないものは、エゴ性が強ければ浮上しない。徹底的な客観視の態度を貫いて無意識の世界を追求していけば、自我意識やエゴ性が根底からくつがえされるものだって出てくる可能性がある。

ラベリングなしでサティをずっと保つのはかなりむずかしい。興味をそそられるイメージがチラッと見えたようなとき、エゴが強まってサティを忘れ、エゴの範囲を一歩もでない探索で終わってしまうこともある。あるいは、エゴがいかにも満足するようなストーリーが出てきて終わりになる。エゴの範疇内でやっているかぎり、本当にエゴを超越するような仕事ができるわけがないのです。」

以上は、「今の石井さんの状態だったらちゃんとラベリングに頼って、絶対にサティが壊れない状態でやった方がいいでしょう」という忠告の言葉でもあった。