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瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

サティとプラス思考

2006年09月02日 | 瞑想日記
今日は、瞑想合宿レポートは少し休んで、いつもの日記。

2006年08月30日のこの一瞬をとらえる、ヴィパッサナー瞑想の世界(今日の一言)から。

「たとえ最悪の出来事が起きたとしても、ネガティブな反応やマイナス思考の心のエネルギーを出力すれば、事態は今よりももっと悪くなるだけである。
 ネガティブな考えはネガティブな結果をもたらす原因となり、カルマが悪くなる。
 サティが入れば、その瞬間に心はモード変換され、善心所に替わっていくだろう。
 サティが入らなくても、プラス思考の反応が起動すれば、事態は必ず好転していく、と肝に銘じる……。 」

不善心所がいかにサティを乱すかは、瞑想合宿でもいやというほど味わってきた。とすれば、逆もまた真であろう。そしてサティそのものは、善心所の連鎖を生んでいくであろう。

プラス思考も、善心所の連鎖を作っていくだろう。最近、ある人に贈っていただいた『ツキを呼ぶ魔法の言葉』も、善心所の連鎖を生むプラス思考に秘密がありそうだ。

サティについて言えば、日常生活のなかで出来るかぎりサティを増やしていこうと心がけている。ふっと思い出したらサティ。サティモードがしばらく続くが、また忘れる。長いサティの空白。そしてまたしばしのサティ。それでいいではないか。

思考に気づけばサティ。その思考がどういう執着から来ているのか、確認してサティ。これだけでも、毎日相当の発見がある。自我が執拗に繰り返す思考パターンが、何度も確認される。日常生活の中で、いかにこうした思考パターンを無自覚に繰り返しているかが、いやというほど分かる。

グリーンヒル瞑想合宿レポ ート08

2006年09月02日 | 瞑想合宿レポート
◆忠告
これまで数回の瞑想合宿の体験から、瞑想そのものに無意識的なものを浮上させる働きがあるという実感はあった。その働きは、禅宗の座禅でも、ヨーガの瞑想でも、瞑想である以上は共通にもっているだろう。何かに集中すれば思考は多少とも抑えられるから無意識的なものが浮上しやくなる。

しかし、深い層から浮上してきたイメージや感情に対して、これほど統合された仕方で適確に対処していく方法が、ヴィパーサナー瞑想以外にあるのだろうか。たとえあったとしてもサティという手段を持たないかぎり、きわめて一面的なものになるのではないか。

腹の動きや足裏感覚のようなセンセーションにサティが保たれる。身体感覚へのサティが深まれば自我の働きが抑えられて心の深層への扉が開かれやすくなる。一方、集中が乱れて妄想が出現したとしても、それはそれでサティがなされる。妄想に対してサティが持続されれば、その根元にある執着へと洞察を深めるチャンスとな。どちらにせよサティが保たれていれば、深い洞察への道に通じている。

さらに、センセーションへの集中が深まれば深まるほど、自我の働きは抑えられて、より深い層からイメージが浮上する可能性が高まるだろう。そこでもまたサティは力を発揮する。

先生はいう、「客観化、対象化することがサティの本質だから、そのサティがピュアに保たれているときには、たとえ一時的であれ、エゴ性は弱まる。エゴの裁量は抑えられ、深い無意識から浮上するような、エゴに不利な情報でもしっかりと捉えられる。

エゴが必死で隠し、抑圧していて見たくないものは、エゴ性が強ければ浮上しない。徹底的な客観視の態度を貫いて無意識の世界を追求していけば、自我意識やエゴ性が根底からくつがえされるものだって出てくる可能性がある。

ラベリングなしでサティをずっと保つのはかなりむずかしい。興味をそそられるイメージがチラッと見えたようなとき、エゴが強まってサティを忘れ、エゴの範囲を一歩もでない探索で終わってしまうこともある。あるいは、エゴがいかにも満足するようなストーリーが出てきて終わりになる。エゴの範疇内でやっているかぎり、本当にエゴを超越するような仕事ができるわけがないのです。」

以上は、「今の石井さんの状態だったらちゃんとラベリングに頼って、絶対にサティが壊れない状態でやった方がいいでしょう」という忠告の言葉でもあった。