瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

グリーンヒル瞑想合宿レポート02

2006年08月22日 | 瞑想合宿レポート
◆ここにしか入り口はない
これら二つのイメージは、象徴的だったと書いたが、合宿を終えてこうして全体をふり返ってみると、合宿中に考えていたよりもかなり広い視野から、今回の合宿全体を予告するような重要な意味をもっていたらしいことに気づかされ、驚いている。

もちろん私はヴィパッサナー瞑想に取り組むものとして、腹の筋肉の動きや足裏などの身体感覚に集中する身随観の重要さをじゅうぶんに分かっているつもりだった。言葉や観念によって歪められる以前のありのままの現実(法)をとらえること。そのためにいちばん基本となるのが、今この身に起こっている感覚を、観念による歪曲なしにストレートに観る訓練(身随観)だった。

今ここで起こっている現実をそのままに(如実に)観るのではなく、言葉や自我の想念による編集をかけて、次々と歪曲していってしまう、そして自分が作り上げた観念の世界に心を奪われて喜んだり悲しんだりする、‥‥ここに苦の原因がある。だからこそ、腹や足裏の感覚を、言葉や思考による編集以前の姿のままに如実に観つづける身随観が、ヴィパッサナー瞑想のなかで重要な意味をもっているのだ。

それはじゅうぶんに分かっているつもりだった。にもかかわらず、腹のふくらみ縮みを注視しつづけることが、知的な世界の探求に比べて「限りなく無意味だ」と感じてしまう感覚が、私のなかにいまだに残っていたのか。それがひとつの葛藤となって疲れや眠気やからだの痛みに悩まされていたのか。これは私にとって意外な発見だった。

しかし、修行を進めるためにはもう一度、腹のふくらみ縮みというなまの感覚に戻って来るほかない、ここにしか私の入り口はない。‥‥イメージ中の女性の言葉でそうとらえ直すことが出来たとき再び腹に集中することが出来るようになったのだ。

以上が、あのイメージについての合宿中に感じた意味だった。

ところが、女性たちがささやいた「結局ここに戻って来たのね」という言葉は、合宿を終えた今ふり返ってみると、もう少し長いスパンの中で別の意味ももっていたように感じられる。それは、2001年夏に参加した最初の瞑想合宿から今回までの6回の合宿全体をふり返ったときに浮き上がってくるような意味だった。

グリーンヒル瞑想合宿レポート01

2006年08月21日 | 瞑想合宿レポート
◆「膨らみ縮み」は無意味?
「今回の瞑想は、どのような状態でスタートするのか」、これが最初の関心事だった。これまでたいてい最初の何日かは「絶不調」に苦しんだ。瞑想への期待が執着となって、それが出だしの瞑想をがたがたにしてきたのだ。

今回もやはり眠気と妄想に悩まされるスタートとなった。おまけにかなりの疲労感とからだの痛みまである。辛かった。初日の夜は、就寝時間が早く来ないかと待ち遠しかった。

2日目は、夜中クーラーで体が冷えたためか、さらに軽い頭痛まで加わった。そんな状態で腹の動きに集中しようにも意識がなかなか腹まで届かない。腹が限りなく遠い。

喫茶コーナーでぐったりしていると、象徴的なイメージが来た。インターネットの検索ウインドウの場面が見え、そこに文字を打ち込んで何かを調べようとしている。それは私にとって重要な知的な行為だった。それと比べるかのように腹の膨らみ縮みのイメージが見えたが、それは何とも言えずつまらない行為に感じられた。限りなく無意味な行為だった。「腹の動きに注意をしつづけることなどに何の意味もないじゃないか」と思考していた。

喫茶コーナーに座ったまま、それでも瞑想を続けていると、少しは腹への注意が続くようになった気がする。すると何人かの女性たちの姿がぼんやりと見えた。彼女たちがつぶやいている。「結局、ここに戻ってきてしまったようね」と。私も思った、「ここが、腹の膨らみ縮みが、結局は私の入り口なのだ、ここから入っていくほかないのだ」と。

その後、不思議に瞑想はよくなっていった。腹への集中がふつうに、少なくとも自宅で行っているときぐらいには出来るようになったのだ。

瞑想合宿から帰宅

2006年08月20日 | 瞑想日記
今日、瞑想合宿から帰宅。10日間、わずかな玄米を中心とした食事をし、黙して瞑想に徹したので、心は澄んでいる。今回は、合宿で得た課題に日常生活の中でどれだけ持続的に取り組んでいけるかを、いちばん強く問われたような気がする。明日からまた詳しく報告をはじめたい。

それにしてもグリーンヒル瞑想研究所が、ヴィパッサナー瞑想に関してきわめて密度の高い指導を行っているということは、何度でも強調しておきたい。これまでの合宿報告を読んでいただければ、その一端は感じていただけると思う。

もちろん指導者に関しては相性などの問題があるだろう。しかし、指導者の力量と情熱、指導の質の高さ、きめ細かさ、ダンマトークや面接の充実、食事管理の質の高さ、良心的な料金、どれをとっても、こうした瞑想指導の合宿がざらにあるものではないとの思いを強くする。

エゴにサティを入れて対象化する

2006年08月10日 | 瞑想日記
地橋先生の今日の一言から。

8/9(水)「サティが途切れた瞬間、エゴが出る……。
 眼耳鼻舌身意からの知覚情報を解釈し始めた瞬間、エゴが出る……。
 何かが概念化された瞬間はよいのだが、その概念が次の概念と連結し始めた瞬間、エゴが出る……。」

8/10(木)「六門からの情報が知覚された瞬間に、サティを入れる。
 間に合わなければ、エゴが出た瞬間に、サティを入れる……。  
 欲望という名のエゴに、嫌悪という名のエゴに、嫉妬という名のエゴに、慢という名のエゴにサティを入れて対象化する……。」

明日から合宿だという今読むと、また心に響く度合いが違う。「その概念が次の概念と連結し始めた瞬間、エゴが出る」‥‥そのエゴにサティを入れていく。最近、私自身、意識的にやっているのは、概念や思考が連続したら、それがどのようなエゴに根ざしているのか、適切なラベリングをしてから中心対象に戻るということであった。「劣等感」「優越感」等々と。

昨日は朝30分ほど瞑想、今日は夜になったが30分ほど瞑想。こうして書いていると、やはり「期待」が心の内から湧き上がってくるのを感じて、思わず一人でにやりとしてしまった。

明日から瞑想合宿

2006年08月10日 | 瞑想日記
明日11日(金)から20日(日)まで、またグリーンヒル瞑想研究所の瞑想合宿に参加する。今回は、どんな体験になるか、まったく予想もつかない。ちなみに去年の夏の合宿直前の日誌を読んでみた。

2005/08/10 (水)
「昨日、合宿に向けてのかすかな不安を意識した。生活上のいくつかの雑務をやりのこして合宿に入ることの不安のような気もした。それ以上の深い何かがあるような気もしたが、それほど深いものではなかったかもしれない。少なくとも待ち望んでいるという感じではない。瞑想合宿を「苦痛」とは感じないが、10日間の真剣勝負に、それなりの「しんどさ」を感じているのかもしれない。」

去年は、結局この「不安」を中心に合宿全体が展開していった。それは、日常生活や家族を残して修行に打ち込むことへの「不安」だった。今年はこういう不安はない。去年の合宿以来、私にとって日常の「行為」の意味が大きく変わっているからだ。今の私にとって、ことさら日常の行為を修行と意識せずとも、私にとって日常の人のかかわりや些細な家事にこそに何よりも意義がある。

今年もこの時期、妻が出張で3日ほどいないが、私はかなり家事を楽しんでいる。

2005/08/11 (木)
「前回、前々回のような合宿の成果への強い期待、執着は今のところ感じない。合宿で、瞑想を始めたとたんに妄想となって現れるのかどうかは、分からない。もしそうだとしたら、それはそれで心随観のチャンスとなる。それぐらいの気持ちでいきたい。」

去年もこう書きながら、最初は睡魔との戦いとなった。隠された渇愛が睡魔に変貌した。今年はどうなのか。いよいよ明日となると、やはり期待は高まっているのかも知れない。その微妙なところにサティを忘れずに!!