瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

グリーンヒル瞑想合宿レポート07

2006年08月30日 | 瞑想合宿レポート
◆サティを保ちつつイメージを追求(続き)
この話が印象的だったのは、4回目(天女)の合宿で自分が天女と一体となって空を舞うイメージを見たとき、「イメージ」とサティして、一瞬迷ったあと腹の動きに戻ってしまい、そのためこの体験が未消化のまま終わったと感じた経験があるからである。心随観では、中心対象に戻らずに心の状態にぴったりくるラベリングを追求し続けることがあるし、自分でもそうすることはあった。しかし、展開するイメージについても中心対象に戻らずにラベリングで追い続ける仕方があるというお話は、「なるほど」と興味深く感じた。さらに地橋先生は、サティがそのイメージ展開にどのようにともなうかが、きわめて大切で微妙な問題であるという。

「イメージを見ているんだという気づきを保っていなければヴィパッサナーとは言えない。サティがなければ自分の心の世界をエゴが探究するだけの作業になってしまう。イメージの連続探究をしていてもちゃんとラベリングはして、マインドフルネスを保ちつつやった方が、全然ラベリングをしないでイメージの展開を見て行くよりよい。」

「上級者で絶対にサティを失わない人ならラベリングなしでサティを保持できるだろう。しかし、けっこうきわどい。多くの場合、最初はラベリングなしのサティモードでやっているはずでも、どこかでサティモードは消えます。自分の自我意識・表面意識の盲点になっているところまで心の世界を完全に対象化しようというのはかなり高度な仕事だから、それをやるときには絶対にサティモードを失わないでやった方が結果的にはいい仕事ができると思う。そのためにも、ラベリングを形だけでも出していれば絶対にサティモードは失わないという証拠にもなるし、一時的にまき込まれても引き戻される。」

「ここはきわどいとところですが、エゴにとって面白いイメージが出てくるとどうしても食いつきたくなる。自分のテーマになっている問題が劇的なイメージとして出てきた瞬間に、客観視のモードが崩れて、主観的なモードになってのめり込んでいくようなことがおきかねない。そうすると、エゴ性が強まった状態でのイメージの探索になるから、エゴが許容できるイメージしか見えなくなる。」

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