◆『存在することのシンプルな感覚』より
「瞑想の修行を始めて最初に気が付くのは、自分の心が、ということは自分の人生というものが、ほとんど無意識的なおしゃべりで占められているということである。‥‥いずれにしろ、瞑想の初期においては、瞑想の経験はまるで映画のようである。あなたはすわって、いろいろな幻想や概念的な思考やらが、眼の前を、意識の前を通り過ぎていくのを見ている。しかしすべてのポイントは、これらに気が付いている、ということである。
‥‥こうして公平に、すべての思考、幻想、観念、イメージをじっと見つめていると、あなたは次第にそうした思考やらイメージやらの無意識的な影響から解放されていく。あなたはそれを見ている。‥‥あなたは、そうした思考やら観念やらイメージに頼っている分離した自己感覚から、解放されていく。言い換えれば、あなたはエゴから自由になっていく。これがスピリチュアルな次元の初めの段階であり、そこでは慣習となっているエゴは「死」に、高次の意識が「復活」(再生)する。」240(「瞑想の段階」より)
ウィルバーの魅力は、一方でこうした「瞑想の段階」が語られ、同時に「スピリット」は獲得されるものではない、と語ることだ。私は、両方とも納得できる。ここには確かに瞑想による魂の成長が語られている。しかし一方で「スピリット」は瞑想やそれに伴う成長の結果ではない。時間的な経過のなかで獲得されるものではない。
さらにもうひとつの問題意識が私にはある。いろいろな幻想や概念的な思考やらが意識の前を通り過ぎていくのを見て、気が付いていること。公平に、すべての思考、幻想、観念、イメージをじっと見つめていること。これは、まさにヴィパッサナー瞑想と同じである。
ところで、ヴィパッサナー瞑想やその背景となるテーラヴァーダ仏教では、基本的には魂の時間的な流れのなかでの段階的な浄化、成長が語られるように思われる。それは、輪廻という悠久の時間の回転の中で遂げられていくものである。
これに対しウィルバーは、大乗的な背景のもとに、「孤立した心と身体を超え、より大きなアイデンティティ、例えば自然や宇宙と一体となる」面を強調する。しかもその「宇宙意識」は、修行によって時間の経過の中で「獲得」されるものではない。
この違いを違いとしてもっと明確にしていくのが、私にとっては切実な問題である。
「瞑想の修行を始めて最初に気が付くのは、自分の心が、ということは自分の人生というものが、ほとんど無意識的なおしゃべりで占められているということである。‥‥いずれにしろ、瞑想の初期においては、瞑想の経験はまるで映画のようである。あなたはすわって、いろいろな幻想や概念的な思考やらが、眼の前を、意識の前を通り過ぎていくのを見ている。しかしすべてのポイントは、これらに気が付いている、ということである。
‥‥こうして公平に、すべての思考、幻想、観念、イメージをじっと見つめていると、あなたは次第にそうした思考やらイメージやらの無意識的な影響から解放されていく。あなたはそれを見ている。‥‥あなたは、そうした思考やら観念やらイメージに頼っている分離した自己感覚から、解放されていく。言い換えれば、あなたはエゴから自由になっていく。これがスピリチュアルな次元の初めの段階であり、そこでは慣習となっているエゴは「死」に、高次の意識が「復活」(再生)する。」240(「瞑想の段階」より)
ウィルバーの魅力は、一方でこうした「瞑想の段階」が語られ、同時に「スピリット」は獲得されるものではない、と語ることだ。私は、両方とも納得できる。ここには確かに瞑想による魂の成長が語られている。しかし一方で「スピリット」は瞑想やそれに伴う成長の結果ではない。時間的な経過のなかで獲得されるものではない。
さらにもうひとつの問題意識が私にはある。いろいろな幻想や概念的な思考やらが意識の前を通り過ぎていくのを見て、気が付いていること。公平に、すべての思考、幻想、観念、イメージをじっと見つめていること。これは、まさにヴィパッサナー瞑想と同じである。
ところで、ヴィパッサナー瞑想やその背景となるテーラヴァーダ仏教では、基本的には魂の時間的な流れのなかでの段階的な浄化、成長が語られるように思われる。それは、輪廻という悠久の時間の回転の中で遂げられていくものである。
これに対しウィルバーは、大乗的な背景のもとに、「孤立した心と身体を超え、より大きなアイデンティティ、例えば自然や宇宙と一体となる」面を強調する。しかもその「宇宙意識」は、修行によって時間の経過の中で「獲得」されるものではない。
この違いを違いとしてもっと明確にしていくのが、私にとっては切実な問題である。