瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

病と食と瞑想

2013年07月12日 | 断食・少食
脳梗塞をきっかけにチャンスがもう一度与えられたと覚悟して生活習慣を改め、過食を止めることは、私にとってもう一つ大事な意味をもつ。一応瞑想を志す人間として、過食がマイナスであることは嫌というほどわかっていたはずだ。中途半端だった瞑想を深めるためにも、いい機会を与えられたのだ。この程度の麻痺で、これから食生活をすっかり改め、心と体の両方からの修行をやり直す機会を与えてくれた何ものかの計らいに、心から感謝している。

私の元来の関心分野は精神世界にあり、魂の成長(究極的には開悟)こそが生きることの意味だった。それは今も基本的には変わらない。しかし最近の関心は政治経済分野に移り、精神世界への関心は薄れていていた。その分、瞑想にも熱心でなくなり、同時にその条件たる小食への関心も薄れていた。

少なくとも私の場合、瞑想の深まりや無意識への気づきが、小食と密接な関係があることは何回かのヴィパッサナー瞑想合宿の体験から嫌というほど分かっていた。にもかかわらず最近は食への欲求に安易に身を任せていた。体が要求するより旨いものを食べたいという欲求で過食になっていた。両者の違いにサティも入れずに。

入院して明日で2週間。その間病院で出る食事とお茶以外は飲食していない。それで空腹と感じることもない。これまでの私がいかに必要以上に食べていたかだろう。瞑想者であるなら、その時々の自分の食べたいという心理の動き、実際の満腹度等にしっかりサティ(気づき)を入れるべきだったのだ。


が、これからはそのようなサティ(気づき)の入らない過食、旨いものを食べたいという欲求に無自覚に身を任せることは許されない。三度目の脳梗塞は、実質的に人生の終わりだからだ。求道こそが人生の意味だとすれば、この病は私に与えられた最後のチャンスだったのだ。ある意味で私を追い詰めてくれたのだ。体と心の両方を整えて修行をしていくための最高のシチュエーションを与えてくれたのだ。だからこそ、この病に感謝している。

午前中の作業療法のリハビリ時、左手の機能回復度を見る簡易検査をした。驚いたことに結果は100%の回復だった。パソコン操作の感覚からかなり回復している感じはあったが100%とは!自分ではまだ多少の違和感は残る。力入れようとしも、まだ8割ぐらいしか入らない感覚だ。

今日いちばんうれしかったのは、院内を一人で自由に歩いてよいという許可が出たことだ。これでベッドわきの簡易トイレに頼らずに済む。一人で補助具なしに自由に歩き回ることの喜び。しかし、足の機能回復はまだ7割程度だろう16日にリハビリ専門病院に転院し、リハビリを続けることになる。