瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

無執着に全力を

2004年12月23日 | 瞑想日記
◆無執着であることに全力を
暮れから正月にかけての10日間、他の何かしらを犠牲にして瞑想合宿に参加するのだから、自ずと期待が心に広がる。その「期待」にどう対処するのか。いつもここで触れている「今日の一言」の言葉が、合宿を前にしての自分の心の準備となる。

12/22(水〉のブッダのヴィパッサナー瞑想、「今日の一言」に次のような言葉があった。

 どんな現象も嫌うことなく、つかむこともなく、ありのままに受け容れて、ただ認知する…。
 受容的であること、無執着であることに、全力を傾け尽くすのだ。 
 「一所懸命、淡々と…」の秘訣は、正しくサティを入れ続けること…。

「期待」(ときとして渇愛とさえ言える)を胸に秘めながら、しかも「無執着であることに、全力を傾け尽くす」。難しいが、この心構えを忘れずに瞑想をしよう。

◆思考と自己
「自己」の実態は、思考の積み重ねだ。思考がなければ「自己」はない。思考がなければ、「自己」も出現することはない。思考という無数の長短の線によってはじめて「自己」の輪郭が浮き上がる。思考が消えれば「自己」もやがては消えていく。それほどに根拠が薄い「自己」を私は、後生大事に守り続けているのだ。

瞑想合宿への期待

2004年12月23日 | 瞑想日記
あさって25日から瞑想合宿なので、今日は一日障子の張り替えや買い物だった。子ども二人が入試を控えているので家族でどこかに出かける予定もなく、「暮れの大掃除だけ帳尻を合わせてくれれば」と、妻もこころよく合宿参加を承諾してくれた。ということで先週あたりからガラス拭きなどに精を出していた。

起床してすぐに瞑想。思考はある程度湧いたがサティはまあまあか。今日の仕事の段取りとか、階下で誰が何をしているようだなとか、生活の中ではどうしても浮かんでくる雑念がある。もうひとつは、やはり合宿への「期待」が心に広がっていて、それに関連した思考。

同じ「期待」といっても、夏の合宿前とはあきらかに違う。夏の合宿では、妄念が消えない苦しい体験を通しての大切な学びがあった。だから今は、自分の中の「期待」に対して徹底的に自覚的であろうとしている。しかし、どんな「期待」が広がっているのかについては、必ずしも明確ではない。深いサマーディ体験への期待? 前回は、それが渇愛になっていた。今回はどうなのか、そういう「期待」が全くないとは言えない。しかし、現実には「期待」も複雑で、気づきにくい層構造になっているようだ。たとえば、前回よりもさらに深い内面への気づきを得たいなどという「期待」。一方で、そういう渇愛や執着にもたんたんとサティをすることで、充実した瞑想をしたいという「期待」‥‥‥。

ともあれ、30分だけ瞑想しようと思ってはじめたら、瞑想を終えた時がぴったり30分後だった。