瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

もろき体への感覚

2004年12月14日 | 瞑想日記
◆傾聴瞑想
採点作業のとき、妄念(思考)が浮かんだらすぐに「思考」とサティして、採点に集中するようにした。解答用紙をしっかりみつめそこから注意をそらさないようにした。結果は、やはりこれまでに比べるとミスが非常に少なかった。これからは、様々な日常の作業で、同じようなサティを工夫していくことになるだろう。

ただし、自分が話をしたり講義をしたりしているときのサティは難しい。キーボードをたたいているときは、工夫しだいでできるかも知れない。文章を考えながらキーボードをたたいてるときは、そのテーマに集中する。文は頭の中でまとまっているときは、キーボードの指の動きに集中できるかも知れない。直接関係のない思考が浮かんだら、そのづどサティする。

人の話を聴いているときというのは、非常に大切だ。まさに自分の主観や偏見から自由に聴く、あるがままを聴くという意味で「傾聴瞑想」ともいえそうだ。いつか触れたかも知れぬが、もう一度引用しておく。

「今」に生きるための方法の一つは、
人のいうことに心から耳を傾けることです。
一つ一つの会話を大切にして、
新たな気持ちで相手がどんなことを伝えたいのかを、
「本当に」聞こうとすれば、あっという間に人生を変えることができます。
(エリエール&シーヤ・カーン 『今ここに生きる力』voice)

◆体の感覚
日常生活の中でサティをしていると、普通なら自覚化せぬままに消えていく様々な体の感覚に気づく。微妙に変化する気の感覚や、胃の順調なぜん動。足裏の小さな痛み、呼吸にともなう腹の動き。腹の動きにともなう気の充実を感じると、とりあえず健康であることの喜びも感じられる。

今日はしかし、その健康がはかなく脆い基盤の上にしかないことへのかすかな不安も感じた。多くの人々が、そのはかない基盤を侵食されて絶望的な苦しみを味わっているだろうことへの思い。そしてふと思った。私が瞑想合宿時にいつも、かけていないのにかけているかのように感じてしまう「メガネ」の錯覚は、そのはかなく脆い「基盤」を直視することへの抵抗ではないかと。肉体というものの本質的なはかなさ、もろさを直視することへの抵抗。もちろん「メガネ」の意味は重層的なのだろうが。しかし今日、「メガネ」の意味の一端にかすかに触れたような気がした。
コメント
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