ライラット連邦本部の公式記録にも、「べノム帝国」の名を見つけることはできない。
そういう名前をした国家が存在したことの記憶も、この星系の住人たちの間では消えつつある。
いや、正確に言えば、消されつつある。
「べノム帝国」の名は、子供たちの学ぶ教科書に載ることもなければ、歴史書のなかに記されることもない。辞書のなかにも、当時の新聞の紙面にさえも、存在しないのだ。
なにかひとつの概念が存在しても、その概念を指し示す言葉が存在しなければ、やがてその概念そのものが忘れ去られてしまう。べノム帝国は、皇帝アンドルフの死とアンドルフ軍の瓦解によって物質的に失われただけでなく、いまや精神的な世界からも、消し去られようとしている。
アンドルフ。かれについて述べようとするときには常に、事実と憶測、敵意と信仰、個人と歴史が複雑にからまりあい、闇と光の中にその素顔がかくされ、真実をひもとくことは容易ではない。
だがここでは、可能な限りの真実を、それも光神ライラットの公正なる天秤の下に、語ってゆくこととしよう。
かれがまだ、『悪の皇帝』と呼ばれることもなく、狂科学にとりつかれた危険人物とみなされてもいなかった頃。
(フォックス・マクラウドがまだこの世に生を受けておらず、その父のジェームズが遊撃隊として活躍していた頃、と補足してもいい)
突如として、かれは反乱を起こした。みずからが作り出した生物兵器をもって、自分が所属するコーネリアの軍本部に奇襲を仕掛けたのだ。事態の発生より68時間後、生物兵器は動きを止めた。死者58、負傷者170、軍本部は甚大な被害を受けた。軍部は科学主任アンドルフを逮捕。コーネリア最高法廷はかれを、国家中枢の要職にありながらみずから国を破滅に追い込んだ狂科学者として、国家反逆罪と裁定し、べノムへと永久追放した――。
これが、べノムの反乱へとつながる発端となった事件の、おおよその内容とされている。コーネリア都市部の住人に「アンドルフについて教えてくれよ」、と頼んだなら、たいていこういった類の答えが返ってくる。狂った科学者さ。悪の権化ってやつだ。自分の力に溺れたんだな。あそこまで悪いヤツは、そうそういないよ。