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ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

月毛の駒

2017-04-20 04:20:22 | 短歌






うたかたの 消ゆべきものと せし百合を 月毛の駒の 閉ぢし目に見る






*最近、枕詞の勉強ばかりしているようですね。「うたかた(泡沫)の」は「消ゆ」とか「憂き」にかかる枕詞です。うたかたというのは、知っていると思いますが、水面に浮かぶ泡のことです。はかないものや消えやすいものの譬えによく使われます。

「消ゆ」にかかる枕詞は、ほかにも「月草の」がありますね。「憂き」にかかるのは他に「葦の根の」があります。歌の感じによって使い分けるとよろしいでしょう。この歌の場合は、つきくさより、うたかたのほうが、ふさわしいように思います。

うたかたのように、消えていくべきものとした百合の花を、月毛の馬の、閉じた目の中に見る。

月毛は、古語では鴇毛とも言います。鴇の羽のような毛色という意味らしいが、見た限り、鴇色には見えない。とてもきれいなクリーム色です。月毛の駒は、月そのものを言い表す言葉としてもつかわれます。ですから歌の意味は明白でしょう。

百合の花は、その形と性質に似た愛を表します。百合のように清らかでおとなしい愛だという意味です。花は、人間の心を表現するのにとても便利だから、覚えておくとよいでしょう。暖かな愛を表現したいときは、蒲公英を使えばいいでしょう。天国のような愛を表現したいときは、桜を使えばいいでしょう。菫の愛はどんなものか、向日葵の愛はどんなものか。日ごろ、感性を開いて感じておくとよい。そうすれば、歌で愛を表現したいときに、何かと便利です。短い言葉で深い心を表現することができます。

あの人の愛は、確かに百合のように静かで清らかだった。あまり自己主張はしない。はかなげで凛としているが、それゆえにそれを見ると、人はたまらなく汚してしまいたいという欲求に駆られるときもある。

そういう気持ちに負けてしまい、おまえなど消えてしまえと、百合の花に言った。するとその愛は、月の閉じた目の中に隠れて行ったのです。もう永遠に出てこない。

阿呆が分かったときにはすべてが遅い。

今までに何度もこんな歌を歌ってきましたが、いろいろな歌い方がありますね。表現の仕方というか、人によってつかみ方が違うのが面白い。




葦の根の 憂きと消えゆく 白百合の 月毛の駒の 背にやすらへり     夢詩香




違ったもので詠い始めると、こういう感じにもできる。いろいろと応用してみてください。つかみ方を変えればまたおもしろいものが詠めます。意味が微妙に違ってくるのもおもしろい。

閉じた目の中に消えていくというより、こう詠めば、馬の背に乗せられてさらわれていくという感じがしますね。あなたがたには、どちらが胸に響くでしょうか。







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ゆふかげぐさ

2017-04-19 04:21:18 | 短歌





草枕 ゆふかげぐさを 目に吸ひて 暗き世をゆく 明日への道






*これは、わたしたちの作品ではありません。弟子の作品でもない。わたしの活動を見て、参加したくなった人間の魂が、作ってくれた歌です。

硬いが、まっすぐなのが良い。人間らしい歌です。特に最後の七は、わたしたちではこう詠めない。

「草枕」は「旅」とか「夕」にかかる枕詞です。旅をするときは、昔は草を枕に寝たのです。宿などあまりない時代でしたから。「夕(ゆふ)」は、「草枕を結ふ」から来ているらしい。どちらにしろゆかしい言葉です。日本語の響きは美しい。

「ゆふかげぐさ(夕影草)」は、夕方の薄暗がりのあちこちに見える草花のことです。

草枕は特に訳さなくてもよいが、歌全体に、旅ということの意味を投げかけています。

夕方の野辺の薄暗がりに、あちこちに咲いている花を、目に吸うように見ながら、この暗い世の中を、おれは明日に向かって歩いていくのだ。人生とは、そういう旅のようなものだ。

薄暗いところに咲いている花をなぜ見たくなるのか。たぶん、自分もそんなものだと思っているからでしょう。誠を信じて、がんばってもがんばっても、人はあまり見てくれない。人間というものは、派手で馬鹿馬鹿しいものばかり見て、影で地道にまじめに生きている人間などには、あまり目をやらないものなのだ。

だが、本当に人間の社会を支えている者は、そういう影でまじめに生きている人間なのです。馬鹿にされてもされても、自分を失わずに、時には不遇をかこちながらも、堪えて生きていく。間違いばかりがはびこる暗い世の中だ。正しいことをする人間は少ない。生き馬の目を抜くような社会の中では、ずるが簡単にできる人間の方が賢いと思われがちだ。だが、どうしてもそれができない人間は、夕影のようなところに行って、小さな花のように真面目に咲いているのだ。

そういうことをしてきた人が、これを詠んでくれたのでしょう。

真面目でまっすぐな生き方が、すんなりと出てくれば、こういうものになるという歌ですね。

あなたがたもこれに倣い、自分の生き方を歌に詠んでみてください。おもしろい作品ができたら、わたしに教えてくださるとうれしい。

今日はもう一つ、天使の作品を紹介しておきましょう。




さかしまに 吹くかはかぜに しをれむと 見せて茅野に 玉と隠れよ




冷たい川の逆風を浴びて、しおれるかと見せて、茅の生え群がる野に、玉のように隠れていなさい。いつか時代が変われば、必ずお前が出てくるだろう。







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親心

2017-04-18 04:47:13 | その他






いつまでも そうてはゆけぬ 親心     夢詩香







*「そうて」は「そふて」ではなく、「そひて」のウ音便なので、「そうて」です。間違いやすいので、覚えておきましょう。

よくありそうな語句だが、詠んでみました。探せば似たような句がありそうですね。俳句に難があるとすればこれです。たった17文字ですから、自分が詠んだ句と、似たような句がほかにもないとは言えない。時には、ものの見事に、他の人がほとんど同じ句を詠んでいたりするのです。


ひん抜いた大根で道ををしへられ    誹風柳多留


大根引大根で道を教へけり     一茶


「大根」は「だいこ」と読みます。こういうのを同巣吟(どうそうぎん)というそうです。誹風柳多留の句のほうが先なので、一茶が盗作したと考えられないわけではないが、同じ情景に出会って、同じような句を詠んでしまうのは、結構よくあることでしょう。

しかしまあ、ほかにも似たような句があるかもしれないなどと深く考えていると、俳句はできません。もしあったとしたら、それが見つかったときに、そちらに譲るとして、ここでは表題の句を持ち上げならが、語っていきます。

親は子供のために、できることは何でもしてやろうとするが、そういう親心も、いつまでも添うてやることはできない。子供がいつまでも親に甘えようとして、何もしないでいると、親の方があきれるか、添うてやるのが返って子の害となると思い、離れていくものだ。

子供も、いつまでも甘えていることはできないということです。

阿呆な人間というものは、親に甘えていると、親にしてもらっていることが、自分がしているものと錯覚することがある。それで何でもできると思い込んで、馬鹿なことをやることがある。それでつらいことになれば、親の陰に隠れて助けてもらえばいいなどと考えている。

よくこんな人はいますね。マザコンなどと言われる男が、よくこういうことをします。痛いことをすることが怖くてできない弱い男ほど、盲目的な母の愛情に甘えるものだ。そのくせ、女というものをことのほか馬鹿にしている。痛いことをしないと、相手にしてもらえないからです。

馬鹿はいつまでもこれです。痛いことをやっているようでも、ほんとはみな、親みたいな人にみんなやってもらっているのですよ。自分でやっていることなど、ほとんどない。できることがまだ小さいので、自分を大きな人間に見せるために、色んな馬鹿を利用している。そして全部盗んでいる。

だが、こんなことばかりしてきて、とうとう大変なことになったというのが、今の時代です。人間そのものが成長してしまい、自分の嘘が通用しない世界がやってきた。そうなると、何もできない自分が丸裸になる。誰もだませない。

そうなって初めて、親のことなどを思い出して、親に頼ろうとするが、親ももう、馬鹿があまりにひどいことをするので、嫌になっているのです。

親の愛にも限界があるのです。

子が、これは親にも耐えられないということをしたら、離れて行く。

そうなればもう、人間に頼るものは、自分しかありません。

こうなってしまったら、親が自分を捨てていくことを、なじってはいけませんよ。なぜならもう、あなたは自分の力で生きていけるからです。それができるのに、まだ親に甘えようとするから、親はあなたから離れて行く。子はいつまでも子供でいて、子供の特権を使用しようとすることをやめ、自分で決意して、大人の責任を背負い、自ら大人の世界に入っていかねばならない。

それができねば、人間として本当に幸せにはなれないのです。

いつまでも添うてはいけない。離れていくのがおまえのためなのだと、それが親心というものなのです。







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玉椿

2017-04-17 04:21:29 | 短歌






胸を割れば 赤きまことの したたらむ 山のふかみの その玉椿






*これはかのじょの古い作品ですが、たぶんブログでは未発表のものではないかと思います。旧ブログで扱ったかもしれませんが、記憶は弱いですね。

冒頭の字余りの語句が、やさしさを感じさせます。字余りというのも、定型詩の魅力だ。定型を少し破るというところに、心を感じさせる。その心は、法則を少しはみだしてでもいいことをしてやりたいというやさしさであったり、決まりを無視してでも痛いことをしてやるという厳しさであったりする。その歌によって、いろいろな意味が発生するでしょう。

「玉椿(たまつばき)」というのは、椿の美称です。玉という言葉は、後に続く言葉に美しいものとか、大切なものとかいう意味を添える接頭語です。他には、「玉笹(たまざさ)」だとか「玉梓(たまづさ)」だとか「玉藻(たまも)」とかがありますね。八犬伝に出てくる妖女「たまずさ」はこれです。言葉の意味は使者とか手紙とかいうことですが、それは昔、手紙を持った使者が、梓(あづさ)の木の杖を持っていたことから来ているらしい。「玉梓の」は「使ひ」「妹」などにかかる枕詞にもなっています。「玉藻刈る」は「沖」「をとめ」などにかかる枕詞です。

このブログはいいですね。いろんな言葉が学べる。それはそれとして、歌の解説に入りましょう。

この胸を割れば、赤い血のようなわたしの誠がしたたるだろう。山の深みにある、美しい椿の花のように。

誰も知らないが、わたしの本当の心は、深山の奥で人知れず咲いている赤い椿のように、真実の愛であるのだ。みなのために、大切なことをしたいと思っている。だけど、誰にも理解されないだろう。それでもいい。わたしは誰にも知られることのない深山のようなところでも、誠実に咲いていこう。

赤誠ということばがありますから、そこから発想したものでしょう。「赤」という漢字には、真裸とか、真心とかいう意味もある。それはどうしてでしょう。さそりの火もそうだが、なぜ真実というものが赤いものという印象があるのか。たぶん、人間が誠を通すためには、時には自分の血も流さねばならないからでしょう。

確かに、深山に咲く赤い椿は、まるで血の滴りのように見える。誰かの心が叫んでいるようにも見える。阿呆なことをやっている人間を見て、愛の真実を知っている存在が、その心を訴えようとすればするほど、それは赤くなるのかもしれない。真裸の心を表現しようとすれば、血が噴き出る。あまりに痛い。

逆に言えば、血が出るほどの痛い思いをしたことのないものには、愛の誠などわかりはしないということです。

こういう歌が詠える人は、胸を割って血がほとばしるほどのことを、皆のためにやってきた人なのです。

そんな心がわからないのは、自分の血など見たこともないほど、安穏に逃げてばかりで、痛いことなどなにもやったことがないからだ。

勉強とは、自分を壊すということです。それが怖いと言って逃げてばかりいては、永遠に、何もわかることができない。無明の闇の中で、馬鹿のように醜いものとして、さまよい続ける。嘘で美貌をかぶっても、寒いものになるだけだ。

本当に美しい人間になりたいのなら、自分の血を見る覚悟で、痛いことに挑戦していきなさい。







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ほたるを

2017-04-16 04:28:59 | 






まぼろしの ほたるを見つつ 父を待つ     夢詩香






*短歌が続いたので、俳句に行きましょう。ほたるは夏の季語でしょうね。調べていませんが、相変わらず季節は全く無視しています。写真もほたるの写真などあるはずがないので、これで代用です。

親に対して、痛い感情を持っていない人はいないでしょうが、かのじょの父親は、大変矛盾を抱えた人でした。一言でいえば、偽物の男性だったのです。若い頃は結構男前で、頭もよかったが、年を取って来ると、妙に体が縮んできた。いやなことをしてしまったので、本当の自分が出てきたのです。

馬鹿なことをして、世間の反感を買ってしまい、痛いことになったのを何とかしようとしてみたが、何もならなかった。自分の人生が思うようにならなかったのを、彼は憂さ晴らしをすることさえできずに、孤独の中で闇につぶしていた。あの人は、そういう父親の心の世界を、近くから見ていた。

かのじょは父を愛していたが、その父は、決して自分を本当には愛しはしないだろうことを知っていた。父親は、頭はいい部類だったが、心はだいぶ未熟だった。人間の心の細やかな情愛がわかるほどに、勉強してはいない。いろいろなことがあって、生きていく気力が萎えている。自分の人生を他の霊魂に代わってもおうとしても、そういうものさえいないのだ。

実に、阿呆なのですよ。

こんな人に、愛してもらおうとするのは、幻のほたるを見ようとするようなものだ。本当はそんなものはありはしないのに、幻のように、それを父の背中や目の中に探そうとすることがある。だが、所詮それは無駄なことであるとわかっている。

勉強をしていない人に、愛を求めるということは、難しいことなのです。あきらめたほうがいい。そして、自分から愛して、何とかしていった方がいいのです。

親の愛を頼ることを早々にあきらめた子供ほど、つらいものはありませんよ。

ただ、ただひとつ、暖かいものがあるとすれば、かのじょが結婚するとき、父親がその準備金として、いくらかのお金をくれたことでした。かのじょはそれはうれしかった。それほど多いお金ではなかったが、かのじょはそれで、結婚することができた。愛など期待していなかった父親から、たったそれだけのことをしてもらえただけで、かのじょにはそれが一生忘れられない暖かな思い出になったのです。

幻の中で、たった一匹だけ、本当の蛍が飛んでいたかのように。

霊魂が交代し、もうこの存在はかのじょではなくなってしまった。奇妙なことで、娘を失ってしまったことを、あの父親はどう思っていることでしょう。心を向けても、暗い闇ばかりが見える。阿呆になったことが嫌で、心を閉じているのです。

そういう親を愛そうと努力していたあの人の心を、あの父親がわかる日は、もうずっと未来のことでしょうね。







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わたつみのいを

2017-04-15 04:20:20 | 短歌






あだしのに ましろなるもの くだりきぬ ちよろずにわく わたつみのいを






*古い作品が続きますね。これは2008年のかのじょの作品です。少々特殊な歌なので、取り上げたのです。

「あだしの(化野)」は山城国の地名ですが、その語感からでしょう、無常の世の中をたとえる言葉によく使われました。「いを」は「魚」、「わたつみ」は海のことですね。

この無常の風が吹きすさぶ野に、真っ白なものが降りてくる。千万もの数に湧く、海の魚のように。

おもしろいイメージでしょう。これは深い意味を蔵しているというよりも、かのじょが実際に見たものをそのまま描写しているのです。あの人は、この歌を詠んだ頃、こういう印象的な風景を見たのです。

空から何かが無数に降りてくるのです。いやになるほどそれがたくさんいる。あれは確か、かのじょが子供を連れて少し遠いところにドライブして行った時でしたね。まだ稲を刈っていない田んぼがありました。その美しい風景に惹かれて、車を降りて行った、そのときに見たのです。

見たというのは正しくないかもしれない。それは、何かの霊的現象がかのじょの感覚に飛び込んできて、それがかのじょの中にくっきりとそういうイメージを描いたというものです。

空から、何かが無数に降りてくる。それは人のように見える。まるで、千万もの軍隊が空から地上に降って来るかのように。あれが何だったのかを、わたしは説明することができますが、言いません。実に、難しいことだからです。あなたがたは知らないほうがいい。

しかしこの時の経験を、かのじょは後に物語に生かしました。月の世の物語に、こういう風景が描かれていたのを思い出しませんか。確か、ドラゴン・スナイダーが出てくるお話でしたね。「時」編です。興味を持った人は読み返してみてください。

わたしたちはよくこういう経験をする。あなたがたより感覚がずっと進化しているからです。人間の常識ではつかめないものを感じ、それを自分の想像力がほぼ正確に再生するのだ。

ほとんど、「見た」と同じことを経験する。

こんなことを馬鹿にしてしまえば、後が大変なことになるのですよ。あなたがたはまだ何も知らない。自分にはわからないことを天使が表現している時は、黙っていたほうがいい。でなければ時に、恐れ多いものを馬鹿にしてしまうことがある。

あなたがたは実際、かのじょの活動をことごとく馬鹿にしていましたが、それによって、実に大変なものも馬鹿にしているのです。何も知らないということは恐ろしい。子供が、核ミサイルのボタンをいじるようなことを、あなたがたはしたのですよ。







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とほとのふえ

2017-04-14 04:20:20 | 短歌






ゆふぎりの とほとのふえと きえゆくか やへがきつくる ますらをのほね






*短歌が続きますね。おもしろい作品がいっぱいあるので、ここで取り上げないわけにはいきません。これは先日紹介した、「まつのもとがね」の歌の前にある歌です。

「とほと(遠音)」とは、遠くから聞こえてくる音とか、噂話のことです。

夕霧の中で、遠くから聞こえてくる笛の音のように、消えていくのだろうか。八重垣をつくるという、益荒男の骨は。

一応解説しておきますが、「ますらを」とは、立派な男子のことです。「八重垣」は、古事記の中で須佐之男命が詠んだとされるこの歌からきています。



八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を     須佐之男命




有名だから知っている人も多いでしょう。麗しい雲の立ち上る出雲の国に、愛する妻を守るために、八重垣を作ろう。そのすばらしい八重垣を。

男というものは、その力を麗しい形で存分に表現できてこそ、美しくなるものだ。須佐之男命は、馬鹿な間違いをしたが、人を助けるためにいいことをして、自分を立てなおした。そして自分の男の力を、みんなを助けるために使うことにした。働いて、立派な村を作るんだ。そういうことをしてくれる、強くたくましい男が、昔はいたのだが。

今の時代は、それは霧の向こうからかすかに聞こえる音に聞くうわさのようなものだ。だれもそんなことをしようとはしない。

日本人ですから、日本神話の教養を押さえておくのも肝要ですね。天岩戸伝説を知らない日本人はいないでしょうが、教養として食べておくだけでなく、自分の表現に使えてこそ生きてきます。今日は、そんな日本神話の教養を使った歌を、もう一つ紹介しておきましょう。かのじょの作品です。




あなにやし えをとこのこと つくしきて みはしらをまふ うつせみのてふ




日本人なら元の神話はわかりますね。伊邪那岐命と伊邪那美命が子を作ろうと、天御柱の周りをまわり、出会ったところで声をかけあい、まぐわいをした。

「あなにやり、えをとこを(まあ、いい男だこと)」
「あなにやし、えをとめを(ああ、いい女だ)」

歌の言いたいことはわかりますね。

昔から女は、どんな男でも、あなたはいい男だよとほめてきたけれど、それでなければ馬鹿な男が嫌なことをするから言ってきたけれど、そんなことをつくしてきて、今日、あの夫婦の神が愛し合ったという御柱の周りを、空蝉のような蝶々が舞っているよ。

空蝉のような蝶々とは何でしょうね。蝶々は成虫で、もう殻を脱ぐことはないから、殻などになるはずはないのだが。詳しく解説しないでも、なんとなくわかるでしょう。

男が何にもしないので、みんながあきれはててあきれはてて、蝶々が殻をぬいで、別のものになるほど、痛いことになってしまったのですよ。







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白梅の香り

2017-04-13 04:22:05 | 短歌






白梅の 香り求めて 打ち出でぬ さまよへる身は おろかなりやと






*これは、男の弟子の作品です。以前紹介した、「たまゆら」の歌に答えてみたものらしい。一応リンクはつけておきましょう。かのじょが残したあの歌は、男性には評判がいいのですよ。実にかわいらしいですから。

白梅の香りを求めて、外に出てきた。こうしてあなたをさがしてさまよっているわたしは、やはり愚かだろうか。

かわいいですね。だが、もう少し前の時代ならもっとほめてあげられたでしょうが、今はもちろん、馬鹿ですよと言いますよ。

白梅の香はもう消えてしまったのです。あなたがそれを消してしまったのだ。探してもあるはずのないものを、探してどうするのですか。

今は、女性との間に生まれる、あまやかな情感に酔うていられる時ではありません。男には、せねばならないことがある。やってしまったことの責任を取り、始末をつけるために、あらゆることをやらねばならない。

女性はもうほとんど使命を果たしている。弱い腕でもできることを積み重ねて、真を通し、人類を救う乾坤一擲の手を打った。馬鹿な男は、それを影から邪魔することしかしなかった。

人類の未来への窓を開いたのは女性なのだ。ならば男は、どうするのか。それを無言のうちに問われているのに、いつまでも聞こえないふりをして、浅はかな恋の芝居に女を誘おうとするようなことばかりしていては、もう神にも見捨てられます。

この歌によせて、友達が一つ詠んでくれたので、それも紹介しましょう。





たかしほを かぶる明日の 声を聞き まだすがりつく まぼろしの恋





痛いですね。「たかしほ(高潮)」とは文字通り、内陸まで押し寄せてくる高い波のことだ。阿呆ばかりやっていると、法則があふれてきて、高波のように襲い掛かって来る。そしてすべてをさらわれてしまう。そんな時が明日にも迫っているというのに、馬鹿は未だに、自分がまだ偉いものでいられた、過去の幻の世界にすがりついているのだ。

いい加減、そろそろ目を覚ましたらどうですか。くうねるあそぶで、女と遊んでばかりいられた時代では、もうないのですよ。







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われのまこと

2017-04-12 04:20:46 | 短歌






なつくさの ふかきまよひの 世にありて われのまことを 今とひゆかむ





*これは試練の天使の作です。昨日の歌を取り上げたら、すぐにこれを思い出しました。「なつくさの」は「深し」とか「かりそめ」などにかかる枕詞です。枕詞はいろいろ覚えておいたほうがいいですよ。なかなかに便利だ。

夏草が生い茂るような、深い迷いの時代にあって、わたしはわたしのまことを今、世界に問うていこう。

彼らしい歌です。青雲の志を持って立ち上がる青年のようだ。痛いですね。彼は老練の政治家のような手管をたくさん知っているのだが、その源泉にあるのは、こんな青年のように若い志なのです。

吉田松陰も、かのじょも、懸命にがんばったが、暗黒の時代を生きつらぬいたものの、ほとんど至誠を訴えることくらいしかできなかった。無理解の中で死んだ。だがわたしは違う。時には至誠を裏返すような心を開き、人間を翻弄し、馬鹿をさいなむことができる。その力を、神のために発揮し、この世界に問うて行ってみよう。必ず何かをやりとげてみせる。

いい。本物の男というものは、実にいい。

馬鹿にはこれができない。

いい男の顔を盗んで、馬鹿みたいなことをやって、人をだまそうとするようなことが、馬鹿には精いっぱいだ。何もできはしない。それなのに、女にもてたい一心で、見栄を張って、馬鹿なことばかりする。それで妙なことになって、責任をとらされるようなことになってみると、突然消える。嫌なことになれば、馬鹿はいつも逃げるのです。何もしようとしない。

だが彼は違うのだ。嫌なことでもつらいことでも何でもして、世間に挑戦する。きついことをなんでもやる。そして世間に大きな石を投じる。世間を変える。そして自分の使命が終わったとき、神の前に出て、払わねばならない罪をすべて支払う。責任は最後までとる。

男なら、これが完璧にできねばなりません。

痛いと言って馬鹿にするならやってごらんなさい。無理にでも自分の方をかっこよいことにするために、背後に回って背中をつくなんてことをしようとしたら、もはや終わりですよ。阿呆は、本物の男を怒らせたら終わりなのです。本気で来られたら、かなうはずがない。それがわかっていない。

ずるいことをする馬鹿のやることなど、軽く見抜くことのできる男が、謀略を始める。謀略というものにも、高い技があるのだ。そんなことを、勉強をしもしない馬鹿が知っているわけがない。

高い男がする謀略というものは、実にきついのですよ。説明しても、わかりません。それは、象の腹の中にいれば、象の姿などわからないのと同じなのです。翻弄されるというレベルではないのだ。あなたがたは、謀略の中に飼い慣らされるのです。

知らぬ方がよい。

できる男というものは、すごいのだ。それを思い知るのは、たぶん、500年もたったころだろう。







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まつのもとがね

2017-04-11 04:19:19 | 短歌






あしひきの やまぢのまつの もとがねに のこせしふみを たれやひろはむ






*これはかのじょの作品です。2008年のもの。「あしひきの」は「山」とか「峰」にかかる枕詞ですね。一応押さえておきましょう。

山道にある松の根元に、残した手紙を、誰が拾うだろうか。

実はこの歌には、下敷きにした歌があります。吉田松陰のこの歌です。





帰らじと 思ひさだめし 旅なれば ひとしほぬるる 涙松かな    松陰





萩城下から山口へ続く街道には松並木があり、ここでいつも人が別れを惜しんだことから、涙松と呼ばれていました。松陰が安政の大獄で江戸に送られるとき、この涙松でこの歌を詠んだと言われています。

吉田松陰は、真心で国を救おうとしていました。しかし彼の活動は、馬鹿にあざ笑われるかのようにことごとくひっくり返され、道化の仕業のように滑稽なものにされてしまった。馬鹿みたいに正直に、自分を表現してしまう彼を、人々は世間のことがわからないしょうがないやつだという目で見ていた。

松陰は必死だった。恐ろしい国難が迫っているというのに、人間は何もしようとしない。狂ったようになって必死に訴えても、ほとんどの人は本気で相手にしようとしない。馬鹿になってでもやろうとしたことを、ことごとく冷めた目で見られる。それであがきにあがきまくってやったことを追及され、江戸に送られて、ばかばかしい裁判を受けて、斬首される。

何という人生だろうか。

かのじょは松陰の人生に学び、また女性だったこともあって、彼のように奇抜な行動はしませんでした。そういうことをすればどういうことをされるかわかっていたからです。ですから、国を憂えているこころを、ただ田舎の一女性としてひそかに国王の任務を代行するということで表現したのです。これならば、人々に表立って責められることはない。

だが、誰に知られることもないだろう。人に知られたとて、田舎の馬鹿なおばさんが、宗教にかぶれてやっていることだとくらいにしか、思われないだろう。そういう無理解の中を生きている自分の姿を、かのじょは松陰に重ねていたのです。

国を本気で憂えていたあの松陰の本当の心を、誰が知るだろう。知っているとしたら、たぶんこのわたしなのだと。

「やまぢのまつのもとがね」というところに、「松陰」が隠れているのがわかるでしょう。

今の時代は、平穏なように見えて、幕末よりもひどいことになっている。あの時代なら、まだ男が馬鹿になって行動することができたが、今はそんなことをしようとすれば、みんなに殺されるのだ。馬鹿の振りをしていなければ生きていけない。誰も何もできない。

そのような時代で、女性だけが国を憂え、ひそかに活動していた。国と人々のために。その心を、一体だれが知ることができるだろう。

まことというものの姿は、時に切ないほど悲しい。







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