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しなしなの記録

 しなしなの趣味の記録です。洋楽カラオケ、郵便局訪問、川、猫など

6月5日(日)、丸岡城に行く前に、時間が有ったことから、北の庄城跡と福井城跡も見に行きました

2016-07-15 19:41:37 | Weblog

 6月5日(日)、丸岡城に行くバスまでは時間が有りました。そこで、柴田勝家の築いた、北の庄城跡と福井城跡を見ようと思いました。

 まず、町の中にある柴田神社に向かいました。

 

 神社の境内には、茶々、初、江の柴田勝家とお市の方の娘3人の像が有りました。

 

 3人の娘の奥に、お市の方の像が有ります。

 そして、石垣の一部がこの柴田神社の横から発見されました。

 

 北の庄城は、1575年(天正3年)に築城が始まり、その天守閣は、安土城の7層を超える9層と伝えられている、日本最大級の城だったそうです。結城秀康が、その遺構を大胆に改変し、福井城を造営したことがわかっているそうです。

 日向門が有った位置の奥にあるのが、柴田勝家の像です。

 


 その結城秀康が築いた福井城跡に向かいます。

 福井駅を過ぎ、歩いていくと、城の堀が見えてきました。

 

 堀の縁にある緑地に、由利公正とその師匠である横井小楠の像が有りました。

 

 福井駅には、「由利公正を大河ドラマの主人公に」と書かれた幟が立っています。

 

 身分の低い福井藩士でしたが、松平春嶽に抜擢され、藩の財政を担当することになります。儒学者であった横井小楠に師事して、殖産興業や財政学を学んだそうです。そして、改革を進め、藩の財政を豊かにしたそうです。その手腕は坂本龍馬にも認められ、坂本龍馬は、後藤象二郎に明治新政府の財政担当にどうかと推薦しています。その推薦が認められたのでしょうか、明治政府の財政担当となります。「五箇条の御誓文」の原案となった、「議事之体大意」をまとめあげたりもしています。また、1874年(明治7年)には、「民選議員設立建白書」を板垣退助、江藤新平等と提出したりしています。確かに大河ドラマの主役にはふさわしいかもしれません。もちろん、およそ5年間の謹慎期間もあったりします。

 橋を渡ると福井県警察本部と福井県庁が見えます。その前に、この福井城を築いた結城秀康の像が有りました。

 

 天守閣があった所に着きました。トップの写真です。4層5階の天守は有りません。礎石だけが残っています。

 

 その向かいには、崩れた石垣がそのままになっています。

 

 1948年(昭和23年)の福井地震で崩れたそうです。

 「福井」の名の元になった「福の井」という井戸が有りました。

 
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