菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

口で言えるなら、手は出さない。   『息もできない』

2010年03月30日 00時00分58秒 | 映画(公開映画)
 
で、ロードショーでは、どうでしょう? 第124回。



「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」







『息もできない』




これぞ、観る痛み。


喜劇があり、悲劇があり、娯楽がある。
そう、これ、喜怒哀楽の内の三つだ。
残り、もう一つの怒りもまた暴力、社会派映画が見せることができる。
そう、この映画は怒りのエンターテインメント。


行き場のない不満、憤りで、暴力が連鎖し、日常的に蔓延していく。
それは世界に向けてでなくささやかな狭い世界に向かっていく。

特に、それは家族に向かっていってしまう。
暴力というコミュニケーションはまるで近づきたいと願いながら遠ざける行為なのだ。
コミュニケーション不全は、映画のもっとも力強いテーマだ。


相手と交わせる言葉がないから、暴力を交わす。
それはまったく許されない、悲しい行為だ。
だが、世界中でいやあなたの隣で、繰り返され続けている。
世界は鬱憤で動いているかのようだ。
ここにある怒りは、あらゆる場所でくすぶっている現実だ。


見ている間、イラついてしょうがないが、それはある種のエネルギーでもある。
画面の中のものだからだ。
映画という鏡を私たちは覗かされる。

監督・脚本・製作・主演のヤン・イクチェンは、「観客はこの映画を観て、イラつくだろう」と言っている。
 

つたなさもあるが、そこには作家の語らねばならぬという意思があふれているのだ。
吐き出せねば破裂してしまいそうな何かが。
 

そのために、出る手、口から吐き出されていく言葉。
それを象徴するのが、「シバラマ」。
「シバラマ」であってるかは不明だが、「クソ野郎」と邦訳されていた。
英語で言うなら「ファック」だろうか。

映画『フェイク』の中で、「フォゲナバウト」をギャングらが言いまくり、その使い方のレクチャーとされるというシーンがあるが、あれもそうだね。


「シバラマ」と主役のサンフンはこの言葉を何かにつけて言いまくる。
それはそのまま彼の世界への呪詛だ。
その呪詛が映画のスクリーンを通すとき、それは祝詞にさえなる。


映画は、語る意思でいくらでも壁を飛び越える。
この、負の感情のエンターテインメントを受け止められるか?

そのとき、マイナス×マイナスは、プラスになる。





 
 
 



おまけ。
ゲイリーオールドマン(監督・脚本)の『ニル・バイ・マウス』もほとんど同じ感触の映画。
今、やっている大河ドラマ『龍馬伝』に描かれる岩崎家もまさにそう。
ロンドンの下町と韓国の下町で、幕末の日本にも同じ日常があるのだ。
これは世界中のドコにでも、どの時代にも転がってる当たり前の光景なのだ。


『息もできない』が怒りのエンターテインメントだとしたら、ミヒャエル・ハネケのそれは、嫌悪のエンターテイメントといえるかもしれないなぁ。
映画は、より複雑な負の感情を描き出す可能性を広げている。









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