キネマ旬報の映画の批評についての特集を読んで考えたこと。
批評する側は、マイナスな批評であっても、プラスの批評であっても、多くは、いつもある程度、同じ体温で批判する。
しかし、批評を聞く側が、その作品が好きだったり、嫌いだったり、自分の作品だったりで、体温はかなり高い場合がある。
たいがいは、まぁ、聞く側は平熱だけども。
そして、そのお互いの体温の差は、痛みになる。
マイナスの批評において、批評者の怒りが発生していても、それをマイナスの温度と見れば、低さと高さで、その温度差はより広がる。
批評は攻撃でもある。
褒める時も、貶す時も。
どちらの側で攻撃するかである。
味方として敵に攻撃する場合、敵として味方に攻撃する場合。
どちらにしろ、批評を聞いた側からの反撃に供えなければならないので、多くは防御しちて、そこにまた怒りを覚えたり。
ペンが剣よりも強いなら、書かれて切られた傷はより深いだろう。
批評が、ペンを剣ではなく、メスだと思っているなら、外科医が病気を告知するように慎重に患者を思うように、患者の家族を思うように。
包丁だと思っているなら、きちんと研いでおき、素材の味を殺さぬように、切られた魚がまだ動くように。
え、批評する側だって、その作品を観たことで、ある意味、攻撃されたようなもの?
ホテルに泊まって、酷いサービスを受けたら、抗議もするだろうって?
過剰防衛ではないか、己を鏡で見てみると良い。
もしくは、作品を観せるのが球技だとするえば、作品は作り手のサーブでもある。
ならば、批評はリターンだろう。
対戦相手を思いやる必要は無い。
手を抜くことこそ失礼だろう。
批評の手を抜く必要はない。
はたして、あなたは、医者か選手か宿泊客か?
もちろん、作品によっても変わるだろう。
けれど、批評、それ自体も、作品となりえる。
褒める時も、貶す時も。
リターンもまたリターンされるのだ。
だが、作品作りにはルールがあるが、批評のルールはなかなか見えないものだ。
そして、“沈黙は金”という言葉も知っている。
その金は、金棒の金とも言われる。
沈黙は鉄にも金にもなる。
おいらは、その媒体の強い味方でありたいと思っている。
映画なら映画の味方でありたい。
それはあなたにとって敵かもしれない。
敵になるからには、強敵でありたい。
『北斗の拳』で、“強敵”にルビを“とも”と振っていた。
批評する時、そうでありたい。
プロレス的と言うと、語弊があるのだろうか。
けれど、観客が熱狂している前提で、リングに上がるべきではない。
熱狂はその試合で起こすべきなのだ。
リングまでの道は、熱狂ではなく、冷静で歩け。
批評はリングに上がることだ。
見る側、聞く側は常に観客席煮ると思って欲しい。
おまけ。
作り手としては、試合に出たのなら勝とうとする意思を認められてのことだし、ホテルを建てたなら、客を気持ちよくチェックアウトさせるべきであり、料理人なら相手の食欲を満たすべきだろう。
客の言葉は全て、金言として受け止めるさ。
おまけ、その2。
黒澤明でさえ、自分の作品を貶した批評家は嫌っていたし、ウディ・アレンはそもそも批評は読まない、と公言している。
どちらの名匠も、それは自分にとってショックがでかい、と言ってるのだ。
だいたいの作り手は、たった一人の客だって、怖いんだ。
おまけ、その3。
上記の特集の原正人の頁が興味深かった。
抜粋。
_______________________
(製作部と批評家との関係が深くはなったが)
バッサリ斬られた。でも、その斬り方に愛情がある。
こちらがそう思いたいだけかもしれないけど、突っ放すような斬り方ではなかった記憶があります。
今でもそういう批評はありますね。
斬りながらも、部分的には褒めてくれたりして、ああいうのは嬉しいですね。
_______________________
批評が監督、シナリオライターたちの可能性を知らしめてくれると、個人的にはとてもありがたい。
才能のあるクリエイターの次のステップはどこへ行くのか。
自分の世界を探求し続けていく人なのか、プロデューサーからの企画を受けて観客に向けて世界を広げていく可能性がある人なのか、そんなことを見抜いてくれる評論を読みたい。
(中略)
誰かがそれを意識的にやらないと、若い才能が育っていかないんじゃないかな、と。
だから、そういう人を見つけて、この人は芽があるぞ、才能があるぞ、って、みんなに知らしめる。
褒められると伸びるんですよ。
僕はそれをジャーナリズムや批評家の仕事として期待します。
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映画にとって、さんが全てなのはいいこととは限らないけど、見るべきなき作品に見るべきところを見つけるのもまた批評者の目合ってのことなんじゃないかな。
批評する側は、マイナスな批評であっても、プラスの批評であっても、多くは、いつもある程度、同じ体温で批判する。
しかし、批評を聞く側が、その作品が好きだったり、嫌いだったり、自分の作品だったりで、体温はかなり高い場合がある。
たいがいは、まぁ、聞く側は平熱だけども。
そして、そのお互いの体温の差は、痛みになる。
マイナスの批評において、批評者の怒りが発生していても、それをマイナスの温度と見れば、低さと高さで、その温度差はより広がる。
批評は攻撃でもある。
褒める時も、貶す時も。
どちらの側で攻撃するかである。
味方として敵に攻撃する場合、敵として味方に攻撃する場合。
どちらにしろ、批評を聞いた側からの反撃に供えなければならないので、多くは防御しちて、そこにまた怒りを覚えたり。
ペンが剣よりも強いなら、書かれて切られた傷はより深いだろう。
批評が、ペンを剣ではなく、メスだと思っているなら、外科医が病気を告知するように慎重に患者を思うように、患者の家族を思うように。
包丁だと思っているなら、きちんと研いでおき、素材の味を殺さぬように、切られた魚がまだ動くように。
え、批評する側だって、その作品を観たことで、ある意味、攻撃されたようなもの?
ホテルに泊まって、酷いサービスを受けたら、抗議もするだろうって?
過剰防衛ではないか、己を鏡で見てみると良い。
もしくは、作品を観せるのが球技だとするえば、作品は作り手のサーブでもある。
ならば、批評はリターンだろう。
対戦相手を思いやる必要は無い。
手を抜くことこそ失礼だろう。
批評の手を抜く必要はない。
はたして、あなたは、医者か選手か宿泊客か?
もちろん、作品によっても変わるだろう。
けれど、批評、それ自体も、作品となりえる。
褒める時も、貶す時も。
リターンもまたリターンされるのだ。
だが、作品作りにはルールがあるが、批評のルールはなかなか見えないものだ。
そして、“沈黙は金”という言葉も知っている。
その金は、金棒の金とも言われる。
沈黙は鉄にも金にもなる。
おいらは、その媒体の強い味方でありたいと思っている。
映画なら映画の味方でありたい。
それはあなたにとって敵かもしれない。
敵になるからには、強敵でありたい。
『北斗の拳』で、“強敵”にルビを“とも”と振っていた。
批評する時、そうでありたい。
プロレス的と言うと、語弊があるのだろうか。
けれど、観客が熱狂している前提で、リングに上がるべきではない。
熱狂はその試合で起こすべきなのだ。
リングまでの道は、熱狂ではなく、冷静で歩け。
批評はリングに上がることだ。
見る側、聞く側は常に観客席煮ると思って欲しい。
おまけ。
作り手としては、試合に出たのなら勝とうとする意思を認められてのことだし、ホテルを建てたなら、客を気持ちよくチェックアウトさせるべきであり、料理人なら相手の食欲を満たすべきだろう。
客の言葉は全て、金言として受け止めるさ。
おまけ、その2。
黒澤明でさえ、自分の作品を貶した批評家は嫌っていたし、ウディ・アレンはそもそも批評は読まない、と公言している。
どちらの名匠も、それは自分にとってショックがでかい、と言ってるのだ。
だいたいの作り手は、たった一人の客だって、怖いんだ。
おまけ、その3。
上記の特集の原正人の頁が興味深かった。
抜粋。
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(製作部と批評家との関係が深くはなったが)
バッサリ斬られた。でも、その斬り方に愛情がある。
こちらがそう思いたいだけかもしれないけど、突っ放すような斬り方ではなかった記憶があります。
今でもそういう批評はありますね。
斬りながらも、部分的には褒めてくれたりして、ああいうのは嬉しいですね。
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批評が監督、シナリオライターたちの可能性を知らしめてくれると、個人的にはとてもありがたい。
才能のあるクリエイターの次のステップはどこへ行くのか。
自分の世界を探求し続けていく人なのか、プロデューサーからの企画を受けて観客に向けて世界を広げていく可能性がある人なのか、そんなことを見抜いてくれる評論を読みたい。
(中略)
誰かがそれを意識的にやらないと、若い才能が育っていかないんじゃないかな、と。
だから、そういう人を見つけて、この人は芽があるぞ、才能があるぞ、って、みんなに知らしめる。
褒められると伸びるんですよ。
僕はそれをジャーナリズムや批評家の仕事として期待します。
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映画にとって、さんが全てなのはいいこととは限らないけど、見るべきなき作品に見るべきところを見つけるのもまた批評者の目合ってのことなんじゃないかな。