菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

あちきはアリスでありんす、あんす、ありっす。  『アリス・イン・ワンダーランド』

2010年04月23日 00時00分08秒 | 映画(公開映画)
 
で、ロードショーでは、どうでしょう? 第131回。



「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」







『アリス・イン・ワンダーランド』
 
 





幻想世界の住人がなんの手違いか、人の世に来てしまった感もある作家ティム・バートンの新作。


ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』の設定を存在する世界として、再構成したお話になっております。
『アリス・イン・ワンダーランド』は、大人になった19歳のアリスが、再訪したアンダーワールドで、自分を探すお話。


いままでのバートン作品では、主要人物は結局、異形だったが、今作では異形なのは世界で、主人公はそこそこマトモな19歳(舞台となる19世紀当時ならもう大人)。
アリスは有名な大きくなったり、小さくなったりしながら、その地下世界を現実世界よりもイキイキと迷っていく。
みなに懇願されるのは、かの怪物ジャバウォック(ジャバウォッキー)との再戦である。



バートンとコンビとも言うべき二人が出演している。
一人は言わずとしれたジョニー・デップ。
そして、もう一人はバートンの細君ヘレナ・ボナム・カーターである。
『スィーニー・トッド』では、二人は手に手をとって復讐へと突き進んだ。
だが、ここでは、主人公アリスの敵の赤の女王(ヘレナ)と、味方のマッドハッター
(ジョニー)と、分裂されている。
それは、まんま自分の子供にとっての父である自分(分身)と叱る母の姿ではないか?
役柄というのもあるが、どうも、バートンは、ついに自分ではなく、自分の後に続くものへと向かって、物語を語りはじめたのではないか?
そう、それは身の回りのことをファンタジーに置き換えてしまうおとぎ話の構造の映画化なのではなかろうか?

だから、アリスは6歳のままで19歳になった娘。
そもそも、原作の『不思議の国のアリス』自体が、知人の3人の娘にルイス・キャロルがその場で即興で聞かせた子守のおとぎ話だったのだから。


さぁ、子ども達にバートン父さんは、どんな話を聞かせようというのか?

いつものバートンなら個人的な異形者への愛情だったものが、それは肯定され、夢ではなく地下に、普通こそ異常である価値観の世界として存在し、自分自身を支えている。
いや、世界そのものを支えているのだ。
異形を意識し、モンスターかもしれぬ自分を愛し、その進むべき両面を見つめてきた作家が、ここに来て、まだ異形と意識していない子供たちに、想像力が抱く負のエネルギーはひっくり返せば、プラスに変わることを伝えている。

それは、いままでの『ビッグフィッシュ』の肯定でも、『チャリーのチョコレート工場』の肯定でもない、この低迷し、暗い未来しか見えぬ世界そのものを肯定する力だ。
そう、世界からつまはじきにされていた怪物少年が世界に向かって吠えている間に、世界そのものが怪しくなってしまった。
怪しい世界では、怪しさは当たり前で、そこには狂気は普通のものになってしまう。
誰もが怪物ならば、普通であることは身を潜めるべき負の特色になる。
そうではない、世界は朝と夜という二つの面で出来ていて、それは交互ではなく、いつでもコインの裏表で、裏の裏には面があり、表の裏には裏があるのだ。
だから、表の世界で悩んだら、裏の世界で探求し、表の世界へ戻ってくればいい、と高らかに歌うのだ。

そう、御伽噺はそもそも御伽=寝所に横たわることであり、夢の導入であり、子供に親が聞かせる世界の別の見方を伝える物語。
今やバートンは御伽噺の住人の視点とそれを語る親の視点を獲得したのだ。



そうそう、これ、3Dバージョンを目玉にしております。
で、どうせならと、3Dで観賞。
マスターイメージ3Dという新しい上映方式だそうなので、丸の内ルーブルを選択。
これ、3Dメガネが軽く、しかも時には使い捨てなので、お土産にいただけます。

この映画はほぼCGなので、あとで変換することを計算して、撮影は2Dで行っています。
なんで、『アバター』などの最初から3D撮影したものとは少し3D感が違います。
だから、立体絵本を覗き込んでいる感じになります。
大きいスクリーンを見ているのに、小さい世界をのぞいてる気分になるのは、この作品にはぴったりの感覚です。
特に、最後の対決シーンのアクションの小気味よさは、この独特の3D感覚のおかげかも。
演技的には、字幕版がいいと思うのですが、字幕で映像が歪んで見えることもあります。
目の弱い方は吹き替え版という選択もありやもしれません。


3Dで飛び出すというよりはひっこんだ箱庭世界を、覗き込むもよし、2Dで細部に目を凝らすもアカヨロシな映画かと。



 





おまけ、その1。
観た方はわかるだろうけど、マッドハッターの顔に違和感を覚えたはず。
そう、CGで元の目より少し大きくしているのだ。
映画の中の世界がここまで修正することができようになった。
違和感はある意味で別世界のリアリティとなっている。
冷めさせるのではなくすんなりと映画のファンタジーに客を飲み込んでいく。
それは映画初期、クラシックな時代に映画が持っていた夢の世界の復権の狼煙ともいえるかもしれない。
栄華の夢、それはパラダイスに再びなりえるのかもしれない。

  



おまけ、その2。
思い出して欲しい、『シザーハンズ』のラストを。
彼の物語を娘に聞かせる母で終わっていた。
これは、かの物語の次のお話。
話す母親と彼女から離れた怪物である自分の思われたままでいたいという願望の空想のセンチメンタルではなく、聞いている娘を主人公にした世界へと飛び出していく船の帆を膨らませる追い風のお話なのだ。
ほら、バートン父さんが本を持っている姿が見えてくるじゃないか。







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