最近、ぐっと来た言葉。
CUT誌の『マイレージ、マイライフ』のインタビューで、ジェイソン・ライトマンが答えた言葉。
ジョージ・クルーニーと主人公が重なる部分があると言ったら、それにインタビュアーが詳しく聞こうとして---。
インタビュアー「その重なる部分について、もう少し詳しく話してもらえますか?」
J・ライトマン「いやだね(笑)。観れば分かるから」
あと、もう一節。
(※『マイレージ、マイライフ』と『シャンプー』のエンディングについて、触れています)
「僕が語りたかったのは、本質的なことに気づくという物語なんだ。
この映画は『シャンプー』を目指してつくったところがあったんだけど、例えば、あの映画のエンディングはウォーレン・ベイティが丘の上から街を見下ろし、次に何をすべきか考えているところで終わる。
あの映画が語っているのは、彼を学んだのかということについてであり、その結果、どんな決断をするか、についてではない。
僕がやりたかったこともそれと一緒で、ジョージ(・クルーニー)のエンディングもそうしたかった。
僕は、マイケル・ムーアじゃない。彼はどう考えるべきなのかを語る監督だと思うけど。
僕は答えを与えるタイプの監督ではなくて、観た人それぞれに疑問を持ってもらいたいと思うタイプの監督なんだ。そもそも僕だって、この映画の答えは分かってないしね」
映画は沈黙のためのメディアではない。
語り、話し合う、コミュニケーションのメディアだ。
それで、作り手がしゃべりすぎては、言葉を失わせる。
しかし、だからこそ、作り手こそ、語らねばならない。
そのバランスを知っているジェイソン・ライトマンにグッと来たのだ。
同じインタビューでのジョージ・クルーニーの受け答えも、まさにそういう感じだった。
“映画を楽しんでもらいたい、でも、インタビューだって楽しんでもらいたい”
彼らのそういう気持ちが伝わってきて、嬉しくなったのだ。
おまけ。
ちょうど、同じ雑誌で、ウディ・アレンも『ウディ・アレンの夢と犯罪』でインタビューを受けているのですが、3年前の映画なのに、きっちりと面白く受け答えしてるのよね。
映画人の素質というものを感じた。