『cloud クラウド』もというか、黒沢清のテーマの一つは昔から「他人も家族も自分でさえも分からない」にさらに「世界なんて分かるはずもない」がある。
考えて見れば、『関心領域』も「他人も家族も自分でさえもわからない」を象徴する一本だった。
ただ『オッペンハイマー』はさらに「天才さえ分からない。分からないけど進む」という分からないを突き詰めていた。
映画は、時代のテーマと向き合う、社会を背負う、という枷をつけられている場合が多い。
現在の時代のテーマは「自分でさえ分からない」だと、おいらは言っているが、日本では「それでも分かるようにする」という方向性になってしまいがちなのよね。
すごいのは、宮藤官九郎は、『不適切にもほどがある』では「分からないけど、分かろうとしよう」、『新宿野戦病院』では「分からないけど、やることをやる」、『終わりに見た街』では「分からないけど、やらないと終わる」と日本的にガイドしている。
あれ、「無駄に」って言葉の使い方が変わってきてる?
「無駄にすごい」とか誉め言葉的に。
「普通に」とか「鬼」のような感じに。
日本人は[卵]が好きだ。
食べるだけでなく、人や形や思想でも。