mitakeつれづれなる抄

普段いろいろ見聞き感じ考え、そして出かけた先で気になることを書き綴ったブログです。

大阪にも外国人居留地があった・大阪の中心部は西に寄っていた

2016年07月12日 | 大阪
 産経WESTに面白い記事がありました。昔(明治期)の「大阪」の中心は、今より西に寄っていて、そこには外国人居留地があったということです。
記事:大阪の中心、明治期はもっと西?(とことんサーチ) 旧居留地 半世紀の栄華 宣教師が学校、庁舎も追随

 大阪市中心部の地勢を大きく分けると、中心部から西の方には低湿地の上に街が出来た部分と、東の方の丘陵地帯とに分けられます。
 その低湿地は、かつては海の部分で、海洋であった時期から徐々に海岸線が後退し、最後の方では干潟で、満潮時にひたひたと潮が入ってくるような土地でした。
 大阪は元は「大坂」と表記でした。この大坂は東部の丘陵地帯故に坂が多く、そこから言われ始めた名称です。なので表記によっては「多坂」という文字もあります。
 四天王寺で舜徳丸が心の眼でみた難波の海が今の難波辺りで、干潟を埋め立てて街にするベイサイトの発想は今も昔も変わりませんね。
 土地が低いので、水路を引くのも容易、そうして何々堀川という水路ができて、江戸時代の難波の街が出来ました。水運が盛んで「水都」とも呼ばれた所以です。

 そのような経済都市となった大阪は、明治維新で外国交易が始まると、駐日の人のために、外国人居留地が設けられました。
 それが西区の川口のあたりで、「川口」というとおり、木津川と旧淀川が出会うところ。
 まさに物流の中心です。物流は水運に頼っていた時代です。
 下の図の「西区」とある「区」の字の少し上が川口で、ここに外国人居留地があったそうです。


 現在の大阪市中心部と比べるとかなり西よりですね。
 ちなみに大阪市西区は、市制以前からあった行政名で、明治12年に郡区町村編制法施行により、「西区」が出来ました。「西区」で一つの地域名称です。
 この時に同時に設置したのが、北区、東区、南区で、この時点では、大阪市街地全体を統括する部署(現在で言う大阪市)は存在していませんでした。
 明治22年にこの四区で大阪市が設置され、四区はそのまま行政区として残りました。

 この川口居留地は、何かでかつて在ったという話を聞きました。MBSラジオだったかな。関西で居留地というと真っ先に神戸ですからね。
 明治の外国人居留地は横浜、神戸、長崎に設置されたのは存じておりました。