mitakeつれづれなる抄

普段いろいろ見聞き感じ考え、そして出かけた先で気になることを書き綴ったブログです。

祇園祭は貞観地震がきっかけかも

2011年07月01日 | 京都

 今日は7月1日。もう2011年も半分過ぎましたね。早いものです。そして今日が京都の八坂神社での祇園祭が始まります。今日は山出し町・鉾出し町で吉符入りと呼ばれる神事が行われ、また八坂神社で長刀鉾の「稚児お千度」の行事もあり、17日に巡行する長刀鉾に乗る稚児が禿(かむろ)を従えて社参します。

 祇園祭はこのブログで何度か取り上げていますが、その起源は、西暦869年(貞観11年)に神泉苑において、神祇官のト部日良麿なる人が、当時都で流行っていた疫病を抑えるため牛頭天王を祀り、当時の日本の国数と同じ66本の矛を立て、都に祟る悪霊祓いする「御霊会(ごりょうえ)」を執り行った、とされております。

 これまでは鸚鵡返しにこれらを覚えていましたけど、考えてみれば突然こんな御霊会が始まったのも何か不自然で、そこへ今年の東日本大震災。この復興で仙台七夕へ、京都の祇園祭山鉾連合会から40名ほどが出向き、鎮魂と復興を願うことを、6月16日の弊ブログに書きました。

 それをきっかけに分かってきましたが、御霊会があった869年(貞観11年)と同じ年には東日本大震災とほぼ同じ津波被害をもたらした「貞観地震」がありました。その惨状は都にも伝えられ、平安時代の当時のこと、陰陽師の助言で悪霊の仕業や、過去の因縁からの祟りと考えられ、その悪霊を鎮めたい。そうであれば、祇園祭の起源に理解できます。

 御霊会は869年にいきなり始まったものではなく、863年(貞観5年)に同じく神泉苑で疫病封じの神事を行ったのが最初とされております。しかしその後も疫病は流行り、そこへ869年(貞観11年)の大震災。目を覆うばかりの惨状は、都へも10日を経ずして知らされたでしょう。疫病で人が多数死に、そこへ津波でさらに多くの人が死にで、これは完全に国への祟りと考えられたでしょう。

 また当時の都にはうわさが流れていました。平安京が出来る10年前、長岡京が造営されたものの、造営にあたった藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟である早良親王が非業の最期を遂げたことから、その恨みが祟っているというもの。都への、いや国への打ち続く災害はこれらの見えない力が働いていると考え、。それらを鎮めようとする想いがあったことは十分想像できます。

 そして貞観地震。貞観11年5月26日に起きました。平成23年の東日本大震災とそっくりな津波被害をもたらしております。その一報が都に伝えられ、都人は祟りへの恐怖感はとても大きかったことでしょう。そして12日後の貞観11年6月7日に、今度は国全体の悪霊祓いで66本の矛を立ての御霊会を、神泉苑で願ったのでしょう。(日付はいずれも当時の和暦)

 以後、御霊会はほぼ毎年行われるようになり、相変わらず続く疫病封じと退散を願い、時代が下がるにつれ、町衆の力が着いて来ると、祭りに協賛しようとする動きが現れ、それが今日の絢爛豪華な鉾や山につながっています。

 ですので、あの山鉾巡行は、あくまで協賛行事なのです。