以前、「考える」について書いた。
その中で、「『考える』は分解していくと、たくさんの小さな『感じる』があるだけなのではないか」と書いた。
ところで、先日、布団の中で夢うつつに、「『感じる』はどこから来るのだろう」と思った。
みんな、それぞれ自分の感覚が正しいと思うのは仕方がない気がした。みんな、それぞれ感じているのだもの。自分自身でそれを否定することはとても難しい。
表面的には、「私は間違っている」と思うこともできるかもしれない。でももっと身体感覚のような、自分では「感じている」とも思っていないような部分で、人は「感じて」しまっているのではないかと思う。フラットになどなれない。
そしてそれは種としての生存戦略でもあるのかもしれない。それぞれが違うことを感じるからこそ、誰かしらは生き延びる。
つまり、言いたかったことは、自分で考えているつもりでも、そのもっともっと皮膚に近いところで、感じてしまっていることを透明にはできないし、自分がどう感じてしまっているかに気づくことさえ、なかなか難しいのだろうなぁということ。
ただ、だからといって、感じるがままでいいわけでもなく、自分がどう感じているか、もしくは、実は何かしらを感じてしまっているということ、に、ときどき意識を向けてみることが必要なのだろうと思う。そして、他の人も、自分なりに、切実に、何かを感じてしまっているのだということも、理解することが大事なのだと思う。
「考える」の中には、「別の可能性もあるかもしれない」と思ってみる、という役割もあるのかもしれない。「感じる」からすれば、少し強引に、「感じる」のもっと先の、想像力から逆算した可能性を自分に取り入れることによって、「考え方」が少し変わり、私の「感じる」も、少しずつ変わり得るのかもしれない。
※とはいえ、「この別の可能性を考える」を無闇に発動させすぎると、無秩序になり、「考える」がまともにできなくなるので、自分の「感じる」を盲信しないため程度に抑えておくべきかもしれない。やはり、なんだかんだ「考える」にはいろんなテクニックが必要な気がする。