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貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

福井市左内公園②世捨て人等栽に遭いに行く芭蕉!

2025-08-30 17:19:42 | 日記
福井市左内公園②
その近くに、芭蕉句碑が祀られる。
<芭蕉句碑>


芭蕉の句は、
「名月の 
   見所問ん 
     旅寝せん」 
<芭蕉と月の句一覧>

 1689年9月24日、
芭蕉は知人の等栽に会いに行く。
「福井は三里ばかりなので
 夕飯を食べてから出たが
 黄昏時の道なので
 迷い迷い歩いた。
<おくのほそ道旅の図>

  ここには、
 等栽という古くからの
 世捨て人がいる。
 何年前か江戸に来たとき
 私を訪ねてきた。
 もう老いぼれているか? 
 或は死んでしまったか?
 と人に尋ねると
 まだ存命で
 どこそこに住んでいると言う。
 町の中から引っ込んだ
 ところの、粗末な家で
 夕顔・糸瓜が生えかかり、
 鶏頭・箒草で
 入口を隠している家だった。
 たぶんこの家だろうと
 門を叩くと、
 みすぼらしいなりの女性が
 出てきて
 『何処から来た仏道心のある
 お坊さんでしょう。
 主人は今近くのど
 こどこにいますので、
 用事が有るのならお訪ね下さい』
 と言う。 
<等栽と左内町説明板>


~つづく。

福井市: 左内公園 ①左内の立像と左内15歳啓発録碑と・・・!

2025-08-29 17:04:21 | 日記
令和7年8月29日(金)
福井市:  左内公園 ①   
<左内公園笠碑>
     
 左内とは橋本左内のこと。
 松平春嶽に認められ
藩政に参画したが、
安政の大獄により
26歳の若さで処刑される。
<橋本左内立像>

 この公園は、
左内生家跡地でもあり、
橋本家の墓所でもある。
<橋本家の墓所>
<左内の墓>

 凛と立つ左内の立像は、
昭和38年、市民の寄付                                   により建立される。   
 また、
左内が15歳のときに著した
『啓発録』の碑も
建立されている。
<左内15歳啓発録の碑>

 その近くに、
芭蕉句碑が祀られる。
<芭蕉句碑>

~つづく。

福井市天龍寺②北枝との別れ余波の碑と菩薩像!

2025-08-28 17:05:57 | 日記
令和7年8月28日(木)
福井市天龍寺②
 そして、
もう一つ。
 芭蕉と北枝の別れの銅像。
 「余波の碑」だ。

 北陸の冬は寒く、
冬は二人とも防寒着を
着用しているという。
 『奥の細道』では、
「丸岡天竜寺の長老、
 古き因あれば尋ぬ。
 又、金沢の北枝といふもの、
 かりそめに見送りて
 此処までしたひ来る。
 所々の風景過さず
 思ひつヾけて、
 折節あはれなる作意など聞ゆ。
 今既別に望みて、           
 「物書て 
   扇引さく 
     余波哉」 」
と記載されている。 
 
<芭蕉句碑>
                 
 明治維新と共に
その後援者を失い、
1977年、寄進によって
禅修行のための僧堂(古木堂)が
建てられ、現在では世界中から
多くの人が訪れる
坐禅の道場となっている。
<松平正勝公の御像堂>

 道路沿いに水子供養なのか、
観世音菩薩が二体、
慈悲深く、豊かな表情を
拝顔する。
<観世音菩薩像>




福井市: 天 龍 寺① 1689年芭蕉が訪れ、残した句!そして・・・!

2025-08-27 17:28:53 | 日記
令和7年8月27日(水)
福井市:  天 龍 寺               
 天龍寺は、
福井市郊外の松岡町にある
松林の麓にある曹洞宗の
大本山永平寺の末寺。
<山門>

 1653年に
松岡の初代藩主
松平昌勝公の命によって建立。
<本殿>

「物書きて   
  扇引き裂く  
    余波哉」
 江戸時代には、
松平家及び家臣達の寺として
約一万坪の敷地を誇る大寺院に、
元禄2年(1689)、
松尾芭蕉は訪れ、
このような句を残す。
<芭蕉塚>
<芭蕉句碑>

 そして、もう一つ。
 芭蕉と北枝の別れの銅像。
「余波の碑」だ。
~つづく。

福井市永平寺③道元と芭蕉と山頭火!

2025-08-26 17:25:18 | 日記
令和7年8月26日(火)
福井市永平寺③
 柄杓で汲んだ水で手を洗い、
そして、
柄杓の底に残った水を
川へ還されたという
道元禅師。
 その風を慕い、
多くの人がまた永平寺の門を
くぐってその教えを汲む。
 永平寺の境内には
川が豊富に流れていて、
年中絶えることがない。
 かつて食べ物やその他のものが
十分になかった頃でも、
水が不足することはなかった。
 そのいくらでもある水でさえ
粗末にしてはいけない、
大切にするように。」
という道元禅師の教えを意味する。
 今も「吉祥閣五訓」として
英々と受け継がれている。
<吉祥五訓>

 芭蕉は、
『奥の細道』では、
「五十丁山に入りて礼す。
 道元禅師の御寺なり。
 邦畿千里を避けて、
 かかる山陰に跡を
 残し給ふも、
 貴きゆゑありとかや。」
と記している。
 山頭火の句碑がある。
<山頭火の句碑>

「生死の中の雪 
   降りしきる」 。             
 座禅修行の真っ最中で、
参拝することができない所も
多かったが、
建物とともに言葉の重み、
心身とも震撼を覚ゆ
ひとときを過ごす。