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貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

福井市永平寺③道元と芭蕉と山頭火!

2025-08-26 17:25:18 | 日記
令和7年8月26日(火)
福井市永平寺③
 柄杓で汲んだ水で手を洗い、
そして、
柄杓の底に残った水を
川へ還されたという
道元禅師。
 その風を慕い、
多くの人がまた永平寺の門を
くぐってその教えを汲む。
 永平寺の境内には
川が豊富に流れていて、
年中絶えることがない。
 かつて食べ物やその他のものが
十分になかった頃でも、
水が不足することはなかった。
 そのいくらでもある水でさえ
粗末にしてはいけない、
大切にするように。」
という道元禅師の教えを意味する。
 今も「吉祥閣五訓」として
英々と受け継がれている。
<吉祥五訓>

 芭蕉は、
『奥の細道』では、
「五十丁山に入りて礼す。
 道元禅師の御寺なり。
 邦畿千里を避けて、
 かかる山陰に跡を
 残し給ふも、
 貴きゆゑありとかや。」
と記している。
 山頭火の句碑がある。
<山頭火の句碑>

「生死の中の雪 
   降りしきる」 。             
 座禅修行の真っ最中で、
参拝することができない所も
多かったが、
建物とともに言葉の重み、
心身とも震撼を覚ゆ
ひとときを過ごす。


福井市永平寺②一対の石柱から道元の教えを!

2025-08-25 17:05:55 | 日記
令和7年8月25日(月)
福井市永平寺②
 今回は、正門の一対の石柱にも注目。
 
 向かって右の石柱には、
「杓底一残水
(しゃくていいちざんすい)」
 左の石柱には、
「汲流千億人
 (流れを汲む千億の人」
と彫られている。
 調べると、
永平寺の第七十三世住職、
熊澤泰禅禅師が作られた
四句からなる五言詩の
後ろ二句を刻んだもの。
 この漢詩の前二句は、
「正門当宇宙」 
「古道絶紅塵」
と詠まれている。
 最初から順に読むと、
「正門は宇宙にあたる。
 古道は紅塵を絶す。
 杓底の一残水
 (しゃくていいちざんすい)
 流れを汲む千億の人」
となる。
<吉祥閣五訓>

 それは、
「正門は人知をこえた
 真理の世界、
 すなわち
 仏の教えの入り口である。
 道元禅師が教えられた、
 そして
 古人が歩んでこられた道
 (教え)は
 人間の様々な心の垢を
 除き去ってくれる。
 柄杓で汲んだ水で手を洗い、
 そして、
 柄杓の底に残った水を
 川へ還されたという
 道元禅師。

~つづく。


福井市: 永 平 寺①見直す己のたたずまい!

2025-08-23 17:04:46 | 日記
令和7年8月23日(土)
福井市:  永 平 寺①    
<正門一対の碑文>
         
 永平寺は、
今から約七百七十年前の
寛元2年(1244)、
道元禅師によって
開創された出家参禅の道場。
 大佛寺山に拠って、
渓声山色豊かな幽邃の境に
七堂伽藍を中心とした
大小70余棟の殿堂楼閣が
建ち並んでいる。
<新緑の中の天地・・・菩薩?>

  四度目かな?

  境内は
約10万坪(33万平方メートル)
の広さをもち、
樹齢700年といわれる
鬱蒼とした老杉に囲まれた
静寂なたたずまいは、
出家道場として
誠にふさわしい霊域だ。
<覚皇寶殿>

  見事に磨かれ、
いつも己のたたずまいを
見直す機会となっている。
~つづく。

福井市称念寺②弟子又玄を励ます芭蕉の思い!

2025-08-22 17:08:33 | 日記
令和7年8月22日(金)
福井市称念寺②
 江戸時代の松尾芭蕉が、
「奥の細道」の旅の途中取材。
 その後、
芭蕉は伊勢の山田又玄宅を訪れる。
 又玄は貧しい神官で、
才能がありながら、
出世できないことに悩んでいた。
<芭蕉塚>

 そこで、
芭蕉は弟子の又玄に、   
「月さびよ 
  明智が妻の 
    咄せむ」
の句を贈って励ましたという。  
<芭蕉句碑>
   
 意味は、
「又玄よ、
 今は出世の芽がでないが、
 あなたにはそれを支える
 素晴らしい妻が
 いるじゃないか。
 今夜は じっくり
 明智の妻の黒髪伝説を
 話してあげよう」
 という意か。
<芭蕉句碑2>

 芭蕉の師弟愛も深い。
                     
 新田義貞公の墓所も
きちんと整備されている。
<新田義貞公の墓所>


 平成人のひとりとして
参拝する。 
 これも蕉道のご利益か?   



福井市称念寺①芭蕉光秀公の光秀公の称念寺での家族との愛!

2025-08-21 17:13:01 | 日記
令和7年8月21日(木)
福井市称念寺①  
<山門 新田義貞公の墓所>
 
 称念寺は」
721年(養老5)から続くといわれ、
福井を代表する史跡の一つ。
 「太平記」で有名な、
南北朝時代の武士、
新田義貞公の墓所。
<新田義貞公贈位碑>

 また、
明智光秀がこの寺に身を寄せ、
門前で寺子屋を開いた
という言い伝えもある。
<本殿>

 元禄2年(1689)8月11日、
松尾芭蕉が称念寺に立ち寄り、
光秀と家族の暮らしぶりを偲んで
詠んだ句の碑も、
境内に建てられている。 
<本寺の由緒と文化財説明>

 明智光秀公は
弘治2年(1556)に
齋藤義龍の大軍に敗れ、
妻の熈子や家族と伴に、
称念寺に逃れる。
 『明智軍記』という書物には、
称念寺住職と和歌を詠み、
漢詩を作ったことが
記されている。
「称念寺門前に寺子屋を開くが、
生活は貧しく
仕官の芽もなかなか・・。 
 そして、
朝倉の家臣と連歌の会を
催すチャンスを、
称念寺の住職が設定。
 貧困の光秀には資金がない中、
連歌の会は熈子の用意した
酒肴で大成功に終わり、
やがて光秀は
朝倉への仕官が叶う。
 しかし、
その連歌の会の資金は、
実は熈子が自慢の黒髪を売って、
用立てたもの。  
 光秀は
この妻の愛に応えて、
どんな困難があっても必ずや
天下を取ると、誓った」
という「夫婦愛の物語」は、
称念寺門前の伝承となる。
<明智光秀公の黒髪伝説と芭蕉碑の説明>

 江戸時代の松尾芭蕉が、
「奥の細道」の旅の途中取材。
~つづく。