台本決定会議でのエピソード。自分の台本が選ばれなかった悔しさもあったのか、1年ビトンは涙ぐみながらそう言い放った。この言葉は、これで書くのは3本目となる2年ちゃっぷの心を深くえぐった。自分の創りだす世界に誇りは持っていても、誰かからストレートに批評されるとそんな誇りなんて埃みたいに簡単に吹き飛ばされる。高校生なんてみんなそう。特に仲間から、後輩からってのはきつかったハズ。僕たちおっさんだって結構危ない。台本決定はしたものの、みんなを納得させる作品に出来るかどうか、ちゃっぷのプレッシャーは想像を絶する。
じゃ、ビトンはいけないことを言っちゃったの?に対しては、そんなことねえよってのが僕の意見。ただし「みんなで選んだんだから、私なりに面白くしてみせます」ってのがお芝居の絶対のルール。その上で、また次にバトればいい。思いはぶつけてしまったものの、みんなを納得させる演技が出来るかどうか、ビトンのプレッシャーも想像を絶する。
物語は20年前、1996年のとある教室から始まる。ちょうど阪神大震災の翌年。ルーズソックスとかタマゴッチの時代。放課後の教室でお彼岸に行われる「黎明祭」の灯籠に願い事を書いている二人のエピソード。放課後意味なくだべっているのが幸せって二人。でも「大好きな私の教室、来年は違う誰かの教室…。そんなもの見たくない」まるで全てをリセットしてここにいた証を清算するように「友達やめよう」って言い放ち出ていく晶。残された景はあっけに取られ、苛立ち、怒りに任せ机に文字を刻む。「愛とはインスタントである 6y晶」 何故?は観客の中に、次のシーンから答えやヒントを探す気持ちを残す。
次は10年後、2006年の世界。JR宝塚線脱線事故の翌年。同じ教室同じ季節。3人の女子高生が物理がどうのとか熱力学がどうのとかわめいてる。それだけ覗き見するだけで観客は楽しかったりするのだが、付き合ってもいない男の子と毎年「黎明祭」にだけ一緒に行ってる燈子にある転機が訪れていることが判明する。別の女の子の存在。いつまでも続く気がしていた居心地のいい曖昧な関係は、第三者の介入でいとも簡単になかったことになるかもしれない。周りが気遣うほどに自分が惨めになりそうで、結局答えは出さぬまま「黎明祭には亡くなった人が遊びに来るらしい」とかわ~きゃ~言いながら3人は消えていく。
最後のシーンは2016年。放課後苦手な数学と一人で格闘しているふうのもとへ、下校指導の先生がやってくる。これが一つ目のシーンで見捨てられた景。あれから20年。つまり37歳。生きにくそうにもがいているふうにアドバイスをしているつもりが、彼女からヒントをもらう。「平穏からは何も生まれない。だから幸せになれない」 自分の生きにくさを金平糖のトゲにたとえるふうの手からやさしく金平糖を奪い取った景は、口に含んで金平糖を成仏させてあげる。ふうの心のとげとげは少しだけ溶け、穏やかになった。
全てが終わる。移り変わる。自分の大好きな居場所は、やがて別の誰かの場所になる。抗っても抗えない。だから今が大切だって頭では分かっているんだけど、その幸せさえ手のひらをすり抜けて流れ去っていく気がして焦りばかりが積み重なる。100年経てば、こんな気持ちにはならないんだろうけど…。ラストシーンはきっと100年後の世界。大好きだった場所にみんな戻ってくる。しんどかったあの日も、なんもかんも無かったみたいに。「おはよう」って合言葉でもう一度。
本さえ書かなければ、オーディションにさえエントリーしければ、芝居にさえ関わらなければ、こんな苦労とは無縁なわけだが、意地とプライドがあるから自分らしく生きていけるわけで、あ~逃げれねえって蟻地獄。でもね、稽古を積み重ねれば、幕が上がれば、音が鳴り明かりが入れば、そして客席から反応があり、幕が下りれば全ては報われるわけっすよ。
このお話のすごいところは見る人ごとに違う思いを掻き立てれらること。もちろん「このお話のどこがいいか、分かりません」って人も出るわけだけど。
こんなエピソード。春期発表会の舞台はちょうど3/31。まさに年度末。この日転勤するある先生は客席で涙を流しながら僕たちのお芝居を観ていてくれたそうです。職員室の机を整理し、苦楽を共にした部活のメンバーに別れを告げ、校舎を後にしたその先生がこのお芝居を観て何を感じて涙を流していたのだろう。想像するしかありません。想像って楽しいです。私の机、私の教室、私のクラブ。明日から違う誰かの机、違う誰かの教室、違う誰かのクラブ…。そんなもの見たくない。
お芝居なんて全部嘘です。でも、観る人の人生は全部本物です。嘘を演じることで、観る人の本物を呼び起こすことが出来れば、お芝居は限りなくリアルになれるのだと思うのです。
いいお芝居だったし、いい演技だったよね。僕はいま、そんなこと思っています。
(なげえよ…6y俺)