3/28アイフェス2016、3/30阪神支部春期発表会で上演された県立伊丹高校演劇部の演目、『ラティメリアは太陽をのぞむ』 ご覧になってくださったお客様に感謝の気持ちを伝えつつ、ごのい的作品背景(うそ、裏話)をまとめておきたい。
舞台の上で輝きたい。これはお芝居に関わる全ての人が願うことではないだろうか。客席から見たあの舞台、あの役者たちの演技に憧れてお芝居を始めた人も多いと思う。ところが、台本に手を付ける段階で、自分たちが輝くために、光り輝く登場人物たちを描こうとするところから間違いが始まる。文字の情報として立ち上がる台本に描かれる登場人物は歌が上手く、格好良く、心のブレが無く信念を持つ。得体の知れない登場人物を描いたとしても、その完璧な得体の知れなさを高校生である現役部員が演じるとき、体温を感じさせない無表情な役作りしか具体化できないならば、観客のリアリティーというフィルターを突き抜け、自分が求める感動を観る人に与えることは出来ない。何が言いたいかというと、登場人物はへたれなぐらいが丁度いいってことだ。格好良さ、都合良さ、超能力、全て排除し無力の中で懸命にうごめく愛すべき自分を出すところから始めよう。今回のスタートラインはここだった気がする。
友人との関係に挫折した女の子がいた。友人はある日自分の元を去っていった。現象としては一緒にやっていた何かを友人が先に辞めたというだけの話かも知れないが、その時自分が捨てられたと感じ、心に傷を残したとしたら。何も出来なかったへたれな自分をもう一度作品に昇華させる機会はこうしてやって来た。
一度台本という作品にして仲間の前に提示してしまうと、そこからの作業は個人の仕事ではなくなる。参加する部員たち一人一人の仕事は、いちいち作者にお伺いを立てて行われるわけではない。それぞれが自分の存在意義を確かめるがごとく限界に挑戦する。思うようにいかないときは苛立ち、争うように先を目指す。そうして一つの世界が思いもよらない姿で立ち上がる。いいのか、悪いのかは別の話。作品をコントロールすべき演出すら、思いもよらないものが産まれたって感想を持つレベルだ。僕はそれでいいと思っている。今しか出来ない舞台は
こうして出来上がるのだ。
ただし、もんもんとする我が子の姿を同じような気持ちで見つめていたであろう作者のお母さんが、涙を流しながらこの作品を観ていてくれたことを聞いたとき、僕たちのしたことは間違いではなかったのかもって感じたごのいであった。
ラティメリアは確かに、太陽と出会ったのかもしれない。