(前日からの話題)
目白と新大久保の間の「高田馬場」さんの合いの手が入ったところで
続けよう。資本主義の社会では、「われわれ」が「テレビというメディア」
の広告で宣伝されているものを買っているから、という指摘である。
確かにその通りなのだが、一方で、公共の電波をなかば独占的に使用
しているメディアにとっては、放送法を始めとした社会的規制がかかって
いる。その基本的精神は、大衆に対する影響力が強いので片寄った
使われ方を防ぐこと、そして願わくば政府などの他の権力に対し批判的
役割を担う民主主義の要となってもらうことである。
メディアに従事する者はその社会的影響力をつねに意識し、自らの生産物
の社会的な妥当性を反省する義務があるのではないか、それがメディア人
の職業倫理なのではないかと思うのである。法律に触れない範囲なら広告
収入をまず第一に考えるというのではまずいのではないか、それはメディア
の自殺行為なのではないか(つまりメディアに信頼が寄せられなくなり利用
者がいなくなること)。
私のところに電話をかけてきた番組の制作者が、再度出演を依頼してきた。
私の言うことが理解できないようである。このブログも見てないにちがいない。
(この話題まだ続く)
目白と新大久保の間の「高田馬場」さんの合いの手が入ったところで
続けよう。資本主義の社会では、「われわれ」が「テレビというメディア」
の広告で宣伝されているものを買っているから、という指摘である。
確かにその通りなのだが、一方で、公共の電波をなかば独占的に使用
しているメディアにとっては、放送法を始めとした社会的規制がかかって
いる。その基本的精神は、大衆に対する影響力が強いので片寄った
使われ方を防ぐこと、そして願わくば政府などの他の権力に対し批判的
役割を担う民主主義の要となってもらうことである。
メディアに従事する者はその社会的影響力をつねに意識し、自らの生産物
の社会的な妥当性を反省する義務があるのではないか、それがメディア人
の職業倫理なのではないかと思うのである。法律に触れない範囲なら広告
収入をまず第一に考えるというのではまずいのではないか、それはメディア
の自殺行為なのではないか(つまりメディアに信頼が寄せられなくなり利用
者がいなくなること)。
私のところに電話をかけてきた番組の制作者が、再度出演を依頼してきた。
私の言うことが理解できないようである。このブログも見てないにちがいない。
(この話題まだ続く)