ずっと前に「母たちの村」という、「割礼」をやめさせようと
立ち上がったアフリカの母の物語を描いた映画を観ました。
日記にも書いたのだ。
その「割礼」を取材した「ドキュメント女子割礼」(内海夏子、集英社新書」を
読みました。
初めに、女性のどんな「割礼」方法があるのかを記しています。
クリトリスの切除、小陰唇の切除、外性器の切除、
膣の入り口の縫合による膣口の狭小化または封鎖、
などがあるそうです。
読みながら気が遠くなりそうな感覚に陥ってしまいました。
痛そう、を通り越して、失神しそうな感じ。
まともに読めませんでした。
この本の主題は、廃絶への試行錯誤について。
こうした風習がどう生まれ、維持されているのかを踏まえつつ、
これを女性の人権、女性はどうあるべきかという問題として
とらえています。
割礼の習慣のない私たちにとっては、とんでもない制度です。
でも現地の人々にとっては、伝統社会の重要な儀式であり、
娘がコミュニティの成員となるための不可欠な行事。
「先進国」の文化・感覚によってこれらの習慣を「指導」するのでは
反発を招くだけだし、彼らの文化を踏みにじることにもなります。
女性の体への弊害を理由にするのみでは、
病院による「安全」で痛くない割礼手術が正当化されてしまう。
女性は結婚するまで処女でなくてはならない、
処女であることが割礼によって保障され、
割礼をしなくては結婚できない、といった
女性への抑圧が背景にあります。
こうした抑圧に、現地の女性自身が異議を唱え、
立ち上がることが重要だと指摘しており、
実際にそのようにして廃絶運動が広がってきたと書かれています。
とってもおもしろい本でした。
立ち上がったアフリカの母の物語を描いた映画を観ました。
日記にも書いたのだ。
その「割礼」を取材した「ドキュメント女子割礼」(内海夏子、集英社新書」を
読みました。
初めに、女性のどんな「割礼」方法があるのかを記しています。
クリトリスの切除、小陰唇の切除、外性器の切除、
膣の入り口の縫合による膣口の狭小化または封鎖、
などがあるそうです。
読みながら気が遠くなりそうな感覚に陥ってしまいました。
痛そう、を通り越して、失神しそうな感じ。
まともに読めませんでした。
この本の主題は、廃絶への試行錯誤について。
こうした風習がどう生まれ、維持されているのかを踏まえつつ、
これを女性の人権、女性はどうあるべきかという問題として
とらえています。
割礼の習慣のない私たちにとっては、とんでもない制度です。
でも現地の人々にとっては、伝統社会の重要な儀式であり、
娘がコミュニティの成員となるための不可欠な行事。
「先進国」の文化・感覚によってこれらの習慣を「指導」するのでは
反発を招くだけだし、彼らの文化を踏みにじることにもなります。
女性の体への弊害を理由にするのみでは、
病院による「安全」で痛くない割礼手術が正当化されてしまう。
女性は結婚するまで処女でなくてはならない、
処女であることが割礼によって保障され、
割礼をしなくては結婚できない、といった
女性への抑圧が背景にあります。
こうした抑圧に、現地の女性自身が異議を唱え、
立ち上がることが重要だと指摘しており、
実際にそのようにして廃絶運動が広がってきたと書かれています。
とってもおもしろい本でした。
纏足がそうなのかどうかは解りませんが、そういう儀式というか伝統というか、不条理に見えるものが、実はやっぱり不条理で、抑圧の道具として使われていたということなんでしょうか。それにしても、その儀式、僕からすれば、やっぱり、何のためにやっているのかな、と、本人らに聞いてみたいところです。
単純に、何考えてんのか解らないんですもの。
気候も生活スタイルも違うと、当然違う文化があります。
すんごくつらくて痛いことも、これを我慢したら結婚できる。その社会において女性が結婚できないことは、生活を成り立たせる術がないということ。他の方法や生き方を知らなければ、割礼は通過儀礼として喜びの対象になるみたい。
一見理解不能なんだけど、そこにある心理や社会状況が丁寧に取材されている本なので、まさにオススメです。
そういう宗教じみたことで、まさに他の手段を知らない、文化を知らない民衆を、騙してきた、支配してきた勢力がいるんじゃないか、と。
結局、この割礼にしても、本人らの悲喜にかかわらず、女性の支配になっています。似たような構図が、チョコレートのカカオの栽培とかで児童労働させられているアフリカの子どもたちの中にもあるような気がします。
気候や生活スタイル、というより、経済的に自立できない女性が、割礼という麻薬で縛り付けられている、という風に見えます。
ちょっと、書店で探してみますね。
原著に当たって僕なりの理解を試みてみます。
でもそれを、外から一方的に「人権意識に長けた者」として意見しても、当事者には文化の違いとか「先進国」の押しつけ的に捉えられてしまう。
本にもあるのですが、これは宗教には根拠がなくて、支配構造に組み込まれた土着の風習なのだと。でも本人たちは宗教が根拠だと信じきり、必要なものだと信じている(人もいる)。
個々の人間レベルでの気付きと連帯が必要だ、という趣旨なのです。廃絶運動の紆余曲折は勉強になりますよ。