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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

ギリシャ問題についてのメモ――フェイスブックより (美津島明)

2015年07月07日 13時19分57秒 | 経済
ギリシャ問題についてのメモ――フェイスブックより (美津島明)


チプラス首相とメルケル首相

この一年ほどは、当ブログで時事ネタを扱うことがめっきり少なくなりました。おもに文化ジャンルにシフトしていたのですね。心境に変化があったわけではありません。時事ネタはフェイスブックに、やや息の長い文化ものはブログに、という書き分けをしていた結果です。まあ、そのままでもいいといえばいいのですが、当ブログをごらんにはなるが、フェイスブックを利用なさらないという方も少なからずいらっしゃることと思われるので、今後は、フェイスブックで書き溜めたものを、適宜当ブログにアップして、少しでもより多くの方の目に触れるようにしようかと思います。あまりカチッとした構成の論考にはなっておりませんが、あるひとつのテーマをめぐっての感想を時系列に沿って並べるとおのずと浮かび上がってくるものがあるのかもしれません。

●六月三〇日(火)
http://newsphere.jp/world-report/20150629-2/「“ギリシャは犠牲者”英紙、クルーグマンから擁護の声 ユーロの構造的問題を指摘」

ギリシャ問題の本質は、クルーグマンがいうとおり「緊縮財政こそが、ギリシャ経済にダメージを与えてきた」ことである。このうえさらに緊縮財政を押しつけられたら、ギリシャは、債務不履行・EU脱退の道を歩むほかはない。今回の事態の真犯人は、マスコミが喧伝したがっているように、ギリシャのチプラス首相ではなく、EUの設計ミスであり、ドイツの緊縮財政思想である。先進国首脳は、この事態から、「緊縮財政は、わざわいの元」という教訓を学ばなけばならない。マスコミは、これ以上、ギリシャ叩きという愚かなマネをしないように。

ついでながら、この事例は、「域内自由貿易は、国家間格差を拡大するだけで、結局は失敗に終わる」ことを示しているので、TPPの未来を予告している、とも言える。


●七月六日(月)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150706-00000018-mai-eurp 『<ギリシャ>国民投票「ノー」疲弊国民が選んだ「尊厳」』

ギリシャ国民の「EUの緊縮財政を拒否する」という選択は、ごく当たり前のことである。ドイツ国民以外でこれを非難する者は、救いがたい経済音痴であるとしかいいようがない(ドイツ国民のギリシャに対する不満は心情的には分かる)。ギリシャのGDPは、緊縮策が導入された2010年から14年までに25%も縮小し、25歳未満の若者の失業率は国民平均(25.6%)の約2倍にあたる49.7%に上り、大学を卒業したものの就職できない若者が国中にあふれているのである。この惨状の根本原因は、緊縮財政を是とするEUのエリートたちの経済思想なのであるから、ギリシャ国民がそれにNOを突きつけるのは当たり前のこととしかいいようがないではないか。

今後の展開は、予断を許さないものがあるが、私は、遅かれ早かれ、EU離脱→独自通貨発行という流れは不可避なのではないかと思っている。ドラクマ安は、ギリシャの危機を促進するのではなく、むしろ、(紆余曲折を経るとは思われるものの)ギリシャ経済を好転させるものと思われる。目の前の、明らかに起こると考えられる事態を想定してみよう。ギリシャは、幸いにも、世界で最も魅力的な観光資源に恵まれた国である。ドラクマ安は、世界からの観光客の増加が見込まれるのである。通貨安が観光客の増加につながることは、日本がいま経験していることなので、わかりやすい話だろう。ドラクマは一時的に劇的に下がるはずだから、相当な増加が実現するはずである。通貨安は、輸出にもプラスである。

日本は、ギリシャのEU離脱がもたらすものと思われるデフレの大津波の影響を最小限に抑えるために、金融緩和のみならず積極的な財政出動よって、内需拡大の経済的防波堤を築いておく必要がある。財務省や東大教授好みの緊縮財政をやっている場合ではない。

〈コメント欄〉
コメントA: ドラクマに復帰しても流通しない、と思います。

美津島明: ということは、ギリシャは、EUを離脱したら、いわゆるハイパーインフレションに見舞われるとお考えなのですね。渡辺さんは、ギリシャはEUに踏みとどまるほかない、というご意見でしょうか?


●七月七日(火)

ギリシャ問題について、個人の借金がどうの、怠け者がこうの、といった個人のふところぐあいや心がけのアナロジーで、一国の経済や世界経済を語ろうとする向きが絶えない。または、ギリシャ国民の意思決定にデモクラシーありやなしや、といった的外れな議論が展開されたりしている。事の本質は、マクロ経済政策としていかなる方策が妥当なのか、ということなのである。マクロ経済に関する最低限の知見が欠如したままで、当問題を語ろうとするのは百害あって一利なしであると言わざるをえない。ギリシャ問題は、EUによって、緊縮財政を強いられ続けたギリシャ国民の全般的な購買力(商品をどんどん買う力)、すなわち、有効需要の不足によって、経済の規模が収縮し、EUからの借金を返す力が減退していることによって生じているのである。そこをつかまえた議論をしないと、この問題の解決の糸口はいつまでたっても見えてこない。私が言っていることは、人によってはエラそうに感じるのかもしれないが、なんのことはない、マクロ経済を論じるうえでのイロハを指摘しているだけのことである。

●書き足し分
藤井聡氏・三橋経済新聞掲載(七月七日配信)『「アンチ緊縮」という民衆運動』

引用〈日本ではあまり取り沙汰されることはありませんが、今、ヨーロッパでは、「アンチ緊縮運動(アンチ・オーステリティ運動:Aiti-austerity movement)が大きな民衆運動として様々な国で盛んに展開され、様々に報道されています。

このアンチ緊縮運動がとりわけ激しく展開されているのが、イギリス、ギリシャ、スペイン、イタリア等の欧州の国々です。

これらの国々はいずれも、2008年のリーマンショックを契機として、政府の「財政再建」、つまり、「政府の借金返済」のために増税をして政府支出を削る「緊縮財政」路線が強力に推進され、その「結果」として国民経済の疲弊が深刻化した国々です。

つまり、これらの国々は、「政府のせいで庶民が困窮している」わけで、これに対する反対運動として、アンチ緊縮運動が一気に広がったという次第です。

たとえば、激しい緊縮財政を行い、失業率を過去最高水準にまで達していたスペインでは、「アンチ緊縮」を旗頭に14年にパブロ・イグレシアスが結党したポデモス党が、熱狂的な国民支持を受けています。結党からわずか20日間で10万人以上の党員を集め、僅か一年後には国内で第二番目の党員を宿す大政党にまで一気に成長しています。

同様に、リーマンショック後の緊縮路線によって経済が大いに低迷したイタリアでも、人気コメディアンのベッペ・グリッロ氏が2009年に立ち上げた「五つ星運動」という政党が、同じく「アンチ緊縮」路線を打ち出し、国民からの熱狂的支持を得ました。そして2013年に行われた国政選挙では、「第二党」にまで大躍進しています。

昨年、世界の注目の的となったスコットランドの独立運動ですが、これもまた政府が進める緊縮路線に対する「アンチ緊縮運動」として巻き起こったものと位置づける事ができます。

そして、「アンチ緊縮」の急先鋒といえば、もちろんギリシャ。

ギリシャでチプラス政権が誕生したのはまさに、「アンチ緊縮」という国民運動の一環ですし、何と言ってもこの度、EUからの緊縮案に対して「No」を突き付けた国民投票結果も、アンチ緊縮の国民運動の帰結です。

(中略)

そもそも、EUが押しつけようとする「緊縮」を拒めば、EUからの支援が受けられず、ギリシャ国民はさらなる経済被害を受ける事になります。いわばEU側は、この「緊縮策を飲めばカネをやる、飲まなきゃつぶれろ」と言わんばかりの「脅し」をかけたわけで、投票前はその「脅し」に屈し、「今回だけは折れて受け入れないと、さすがにヤバイのでは……」という声がかなり多く、アンチ緊縮派を上回る勢いがあったわけです。

ところがいざ投票となった途端、多くのギリシャ国民はEUからの緊縮要請に対して圧倒的な「No」を突きつけました。つまりギリシャ国民は、EUからの緊縮要請を「こんなもの、食べればもっと酷くなる最悪の『毒まんじゅう』じゃないか!」と拒絶したわけです。

これからギリシャがどのような道をたどるのか、ますますわからなくなってきました。ただし、現時点でも「言える事」はいくつかあります。

まず、この結果を受けて、「ギリシャのユーロ離脱」の可能性が増進することになりました。無論それでギリシャのみならず、EUもまた(そして最悪のケースでは世界経済そのものもまた)痛手を一時的に被ることになりますが、その果てにギリシャ国民は、「通貨発行権」という尊い権利を手に入れることが出来るようになるでしょう(ただし、ギリシャの離脱は、ギリシャがロシアと接近する可能性が高まることを意味しますから、このリスクについて、欧米がどのように対応するかが今後の鍵となります)。

またそれと同時に、ギリシャにとって最も今求められている「国内産業育成」を見据えた「今回の提案よりも、より望ましい再建策」が模索される可能性が増進したとも言えます。ギリシャのユーロ圏離脱やロシアとの接近といったリスクを考えた場合、そういう声が、今よりも強くなることも期待できます(ですが無論、ドイツ国民はじめ、支援国の人々がそれに強く反発することもまた明白ですから、その反発がどの程度なのかもまた、今後の鍵となります)。

……と言うことで、ギリシャを巡る諸事態は予断を許さない状況です
〉引用終わり

今回のギリシャの動向は、イギリス、スペイン、イタリア等の欧州の他の国々における〈アンチ緊縮運動〉の一環である、という側面は見逃せない。というのは、この視点から、EUにおける〈EUエリートの緊縮路線VS「負け組」諸国民のアンチ緊縮運動〉という構図が浮かび上がってくるからだ。この構図は、EUの今後を占ううえで、頭の片隅に置いておくほうがよいような気がする。
コメント (5)
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「島木健作再評価(1)」 (後藤隆浩・上田仁志)

2015年07月05日 01時50分07秒 | 後藤隆浩・上田仁志
*〔編集部記〕以下は、後藤隆浩、上田仁志両氏による、島木健作をめぐる対談です。話題の核心は、どのように読み替えれば、『黒猫』の魅力が、さらには、その作家としての存在が今日において蘇るか、ということです。島木健作を知る若い世代の方は、あまりいないのではないかと思われます。しかし、その名をあまり知らないからと言って、さらには、彼の小説を一篇も読んだことがないからといって、当論考を素通りしないでいただきたいのです。当対談は、とても面白いのです。島木健作の小説をまともに読んだことのない私が言うのですから間違いありません。どうして面白いのか。それは、本文をお読みになれば分かります。そういうことが言いたくて、つい、でしゃばってしまいました。相済みません。

「島木健作再評価(1)」 (後藤隆浩・上田仁志)
テキスト:島木健作『黒猫』
サブテキスト:磯田光一『比較転向論序説』



【まえおき】
後藤: 今回の〈偏愛的文学談義〉においては、磯田光一の『比較転向論序説』を手引として、島木健作の再評価を試みます。戦後の文芸評論の分野において多くの業績を残した磯田氏は、昭和62年2月、56歳で急逝いたしました。よく知られているように、磯田氏には、『昭和文学史』執筆の構想があったとのことです。磯田光一氏のテキストは、我々読者に考えてみるべき多くの問題点、問題の本質理解への視点を、現在も提示し続けているように思われます。この文学談義において我々は、作品の精読に基づいて昭和期の文芸を再検討していきたいと考えております。

【『黒猫』について】
上田: 後藤さん、島木健作は昭和20年、終戦の二日後に死去しました。現在、あまり読まれなくなった作家ですが、知識青年の帰農を描いた長編小説『生活の探求』(昭和12年)は当時のベストセラーでしたし、最晩年の短編「赤蛙」は、教科書に載るなどして長く親しまれました。精神史の文脈では、島木は、昭和八年頃の、左翼知識人の(マルクス主義からの)転向問題の関連で取り上げられる作家、いわゆる転向作家の一人です。昔よく出た日本文学全集のたぐいでは、同時期の別作家との抱き合わせで一巻にまとめられているケースが 多いようですが、収録作はやはり上記の二作が最も多く、他には、処女作にして出世作の「癩」や、最晩年の「黒猫」などが収められていたりします。このあたりが一般に島木の代表作でしょう。
島木健作を知らない読者に何かひとつ読んでもらうとしたら、やはり「赤蛙」でしょうか。短編なので読みやすいということもありますが、小動物の姿に作家自身の運命を重ね合わせたかのような、一種の感慨をもよおさせる作品です。

川の流れに逆らって向こう岸へ泳ぎわたろうと何度も試みてはそのつどそのつど押し返されて来るちっぽけな赤蛙。それは明確な意志をもって行動しているかのようです。赤蛙はとうとう力尽き、裏返った腹を見せ渦に呑まれて消えて行きます。赤蛙の運命が何を象徴しているにせよ、その最期の一瞬の映像は、作者と同様、読者の記憶の中にもあざやかに刻まれるにちがいない。
もうひとつの短編「黒猫」もまた一種の象徴ないしは寓意と解されることの多い作品です。あるとき、作者の家の近辺に、ふてぶてしくも、一種の風格をそなえた野良猫が現れる。その猫は夜な夜などこからともなく家中に侵入しては食い物をかっさらっていくのです。業を煮やした母親はついに猫を捕まえて殺すのですが、そのとき猫は鳴き声ひとつたてずに堂々と死んでいく。転向論の視点でいうと、黒猫とは、国家権力の弾圧(官憲による拷問を含む)に最後まで屈せずに虐殺された非転向左翼知識人、具体的には小林多喜二の象徴だと解されています(亀井勝一郎)。島木健作が、非転向者に対するあこがれ、ないしは敬意の念を持っていたことは、処女作「癩」などからも窺えますので、黒猫=小林多喜二という理解はうなずけます。しかしながら、この作品の象徴性は、必ずしもそうした一義的な解釈に収まらないのではないか。

 作品を読んでの個人的な感想を言えば、殺された黒猫のカリスマ的存在感もさることながら、殺した側、すなわち母親の側の存在感に注目せずにはいられません。この作品では、黒猫に焦点をしぼっているため、母親はあくまでも脇役にすぎませんが、長患いでふせっている作者(私)の状況を考えるとき、生活全般を支えているのは母親であり、母親はいわば生活をおびやかす脅威を取り除いたにすぎません。猫殺しのディテールは語られない、というか、そもそも作者はその現場を目撃しているわけでもないのですが、もし母親に焦点を当てたなら、物語の別の局面が立ち上がってくることは充分に察せられます。いったい、野良猫とはいえ、かなりの大きさのものを、易々と、かどうかはわかりませんが、自分一人で始末してしまう母親とはどんな女性でしょうか。そういう女丈夫のたくましさはどこから来るのでしょうか。現代の女性(男性も)、都会育ちの女性(男性も)からはちょっと想像が及ばない生活体験がそこにはある気がするのです。

後藤: 上田さん、現在、島木健作の作品のテキストは、入手が困難な状況となっておりますね。『第一義の道・赤蛙』(講談社文芸文庫、2006年)に掲載されている著書目録を参照してみますと、昭和20年代に文庫本、全集が出揃っていることがわかります。また、昭和30年代から40年代を中心に盛んに企画された各出版社の日本文学全集においては、主要作家として位置付けられて、代表的作品が収録されているようです。今回私は、居住地の市立図書館から数種類の日本文学全集(島木健作収録の巻)を借り出してみました。島木の作品は、たいへん面白く、非常に読み応えがありました。そして、各巻に収録されている解説文を読む機会が得られたことも、大きな収穫となりました。これらの解説は、川端康成、田宮虎彦、中村光夫、平野謙といった昭和期に活躍した作家、文芸評論家の文章です。昭和期の日本文学の熱気が伝わってくる思いがいたします。

鼎談「磯田光一、理解する中心」(『現代詩手帳 臨時増刊 磯田光一 モダンというパラドクス』1987年12月)における桶谷秀昭氏の回想によれば、初期の磯田光一は、島木健作のことを大変評価していたとのことです。昭和37年に磯田氏は、「転向文学試論-島木健作の場合」を発表しております。その後、昭和39年から『試行』誌上において「比較転向論序説」の連載が始まりました。今回作品を精読してみて、島木健作は昭和精神史の文脈において、極めて重要な位置にいる文学者であることを実感いたしました。磯田光一は、初期の段階から既に昭和精神史の構築を意識して同時代としての昭和の意識化、対象化、相対化を試みていたように思われます。

島木健作の最晩年の短編「黒猫」は、現代の読者にとっても問題作であると言えますね。上田さんが提示されたように、作中の母親の行為と心情に焦点を当ててみるならば、新たな〈読み〉の可能性が出てくると思います。現代日本社会においては、一般に核家族化、個人化が進行しており、住宅は猫などの小動物が外部から入り込む余地のない造りとなってきております。黒猫という〈他者性〉が物理的および心理的レベルにおいて〈家〉に侵入する物語は、現代の読者の意識に強い刺激を与えるものと思われます。

さて磯田光一は、初期の評論「転向文学試論-島木健作の場合-」および『比較転向論序説』において、島木の「黒猫」に着目し、この作品の新しい解釈を提示していますね。亀井勝一郎の見解に代表されるところの、黒猫を小林多喜二、非転向者の象徴とみなす一般的解釈に対して、磯田氏は、黒猫を捕虜とならずに死んでいった日本の農民兵の象徴とみなす解釈を提示しました。このような磯田氏の作品解釈の更新の提示により、〈島木健作〉という〈人と作品の世界〉は、昭和初期の文芸における時代の制約を受けた、特殊な条件下における限定的な現象ではなく、昭和精神史における普遍性を有する問題として位置を与えられたのではないでしょうか。「転向文学試論-島木健作の場合-」は単行本未収録の評論ですが、磯田氏の島木観が率直に表出されているテキストです。磯田氏の見解を確認しておく必要がありますね。

上田: 作品解釈は、時代によって変わるものです。亀井勝一郎のような〈転向〉世代と戦後の磯田光一の世代では、黒猫に込められた暗喩の読み解きに違いがあって当然です。しかし磯田のいうように、「黒猫は捕虜とならずに死んでいった日本の農民兵」という解釈は、小説『黒猫』の読解としては、強引すぎるのではないかと感じます。島木健作が「農民の平常心」に共感し、また農本主義的理想を抱いていたのは紛れもない事実ですが、黒猫に「生きて捕われの身となるよりは進んで自決した日本兵の映像」を重ねるのははたしてどうなのでしょうか。

磯田は、黒猫=小林多喜二という見方が「亀井をはじめ旧左翼インテリの日共コンプレックスの所産」と適切に指摘したうえで、自らの解釈を示していますが、両者を二律背反とは見なしていないようで、結局のところ、「黒猫が小林多喜二であると共に農民兵であるという二重性こそ、わが国の転向の、そしてまた攘夷論的心性の根強さ」であると述べています。

磯田は、『黒猫』を論じるに際して、〈攘夷〉すなわち〈反米〉と、〈農民兵〉とを等置しています。磯田は無造作に同一視しているわけではありませんが、島木のなかで両者がどういう関係にあったかは、さらなる探究を要する問題でしょう。

後藤: なるほど。それでは磯田氏の島木健作論を精読して、彼の評論のモチーフを確認してみましょう。昭和37年に発表された「転向文学試論-島木健作の場合-」において磯田光一は、島木健作の文学的、精神史的救出を試みています。この評論における磯田氏の言説の構えからは、当時の文学界において島木に対して吹き付けていたであろうと思われる逆風の強さが推察されます。磯田氏は、次のように宣言して島木を論じ始めています。《私はここで、一人の二流作家-「思想の科学研究会」の「転向」研究では後向きだと批判され、今日では高校生の健全読物くらいにしか考えられていない、古い、馬鹿な、日本的、土着的なドン・キホーテ・島木健作の真実を、今日的な観点から救い出してみたいと思う》。島木は古い人間であった。このことが、島木の生涯を決定づけたように思います。磯田氏は島木の心情構造に内在する〈古さ〉に着目して次のように語ります。《島木をして、近代資本主義の人間疎外の様相を認識させたものが彼の内部にある農本主義的、閉鎖的、家庭的な生活感情であったとすれば、マルクス主義運動における理論信仰の盲点を誰よりも強く意識せしめたものも、やはり彼の内部にある「或る古い生活感情」だったのである。》昭和前期の転向の季節がかなり遠い過去の時代となってしまった現在、我々はいわゆる〈転向文学〉というものをどのようにとらえたらよいのでしょうか。磯田氏の次の見解は、我々に昭和精神史の追思考としての〈転向文学〉再読の可能性を示唆しているように思います。《党の正しささえも庶民の前に羞恥し、正義と現実との断層に戦慄し、現実から目を離せなくなった者だけが、ともかくも、私なりの考えている転向文学の本道につながり得たのである。そして彼らは戦争が終っても再び左翼に戻ろうとはしなかった。戦時中に右傾して戦後に左傾した知識人は、どう弁明しても、時局便乗者のそしりを免れうるものではない。文学が人間の内面にかかわるものであり、また思想が衣のように勝手に脱ぎ換えることのできないものである限り、転向文学の真実は、彼らが戦後再び左翼に戻ることのない地点にまで絶望を深化しえたか否かによって判定されるほかはない。私はそうした転向者のケースとして、太宰治、島木健作、それに現存作家では高見順を考えているのである》。〈転向〉という経験の意味を精神の根源のレベルにまで掘り下げて思考したであろうと思われる島木にとって〈黒猫〉は、非転向者というレベルを超えた基層的、共同的存在の象徴だったのではないでしょうか。磯田氏は、島木の心情を次のように推測します。《黒猫の原始的なエネルギーに感動する作者は、「赤蛙」の交尾に感動する生命主義者としての作家であり、彼にとって生命の根源は、近代の理智に染まらぬ伝統を生きる素朴な農民の心情と不可分のものであった。自分を信じ切れず、またインテリの擬態に業を煮やしていた島木にとって、素朴な逞しい農民兵士の姿こそ、人間の到達しうる最高の境地に見えていたと思われる》。

偶然のこととはいえ、敗戦の翌々日、8月17日の島木の病没は、何らかの象徴的な死に思えてなりません。磯田氏の「黒猫」解釈は、島木の〈殉死〉という物語を生成し、昭和精神史の地下水として静かに流れ始めたのではないでしょうか。磯田氏は、次のように語っています。《私は島木の死を「殉死」と見たい。それは、悲しく散った農民兵士の心の真実への、そしてまた、日本的、土着的、農村的エトスへの殉死であった。生きてアメリカ民主主義の便乗者になるよりは「黒猫」と共に死のうというひそかな願いを、幾分か運命的な偶然の助けをかりて、彼なりに果たしたと見てよいのではなかろうか。彼は古かった。滑稽なほど古い人間であった。だが私は、その古さのゆえに、島木を捨て切れないのである。》現代の読者にとって昭和50年代以降の後期磯田光一のイメージからは想像しにくいかもしれませんが、初期の磯田光一は、右翼的、反動的批評家というレッテルを貼られてきたということです。それに対して磯田氏は「私の文学的モチーフとしては、戦後の進歩主義の素通りしてきた領域を、自分の感性に従って掘り起こしてきたにすぎない」と述べております。(『殉教の美学』増補版あとがき参照) 昭和30年代後半の政治的、イデオロギー的言論環境において、磯田光一が島木健作を論じた意義は、非常に大きかったのではないでしょうか。我々にとって島木健作は、再検討するべき重要作家の一人であると言えそうです。

上田: 磯田光一は、島木健作の中にある〈古さ〉に注目し、世のインテリは、島木は古いからダメだと言っているが、逆に、自分はその古さゆえに島木を評価したいと言っているわけですね。このときの磯田のモチベーションといったものを考えてみると、磯田の中には、戦後的な〈新しさ〉に対する疑問というか、違和感のような気持ちが働いていたものと思われます。その線に沿っていえば、島木の死を〈殉死〉とみる磯田光一は、島木健作の死を通して、〈己の夢を語っている〉ということができます。終戦の二日後に死んだため、島木が戦後の新しい風潮に対してどのような態度をとったかは、実際のところは想像するしかありません。戦後を生き延びたとしたら、はたして島木は再転向をしたでしょうか。島木の立場は、たとえば、中野重治と小林秀雄という両極を想定した場合、どのあたりに位置づけられるでしょうか。戦後の島木は、文筆家よりも、活動家としての道を歩んだという可能性はありそうです。生活が第一、言論は第二という島木の中の順序は、まず動かないでしょうから。新しさ、古さという捉え方よりも、理想と現実という観点のほうが、島木の活動を見るには適当であろうと思われます。磯田も気づいているように、島木は理論信仰の限界というものを、農民の生活感情を通して実感していました。島木が生活から遊離した理想を信じたことは一度もなかったでしょう。陥穽があったとすれば、生活を理想化もしくは美化しすぎたことのほうかもしれません。

『黒猫』を読み返して見ましたが、〈黒猫はいったい何の寓意であるか?〉という問いから始めるのは、読み方を不自由にすると思いました。黒猫は黒猫です。個性を備えた一匹の動物です。何かの寓意ではありません。黒猫には、不如意な境遇に陥っても、決して人間にこびへつらわない、持ち前の姿勢があり、そこに作者は打たれているのです。黒猫の中にひとつの動じない生き方を見いだしているのです。それが人生の暗喩として受け取れるのは事実ですが、それ以上の何らかの具体的なことがらを暗示するものではありません。〈転向論〉という文脈があってこそ、寓意的解釈が成立するにすぎません。
はじめの方で申し上げた通り、私は〈黒猫〉と並んで〈母〉の重要性に着目します。この母もまた何かの寓意ではありません。母は作者の生活を支える基盤であり、現実そのものです。それとの対比で、黒猫は現実に反する〈もうひとつの生き方〉を意味しています。作者は、黒猫のように生きたいのですが、現在の現実(戦時下の社会の貧困)は、黒猫のような生き方を許さないということを知っているので母を否定することもできないのです。〈黒猫〉が〈理想〉を意味しているのはたしかですが、〈マルクス主義〉や〈農本主義〉といった特定の思想や価値観に結びつけることはできないと考えます。〈黒猫〉について言えるとしたら、〈独立独歩〉という理想ではないでしょうか。そして、それがいつの時代も最も困難なことだと思うのです。

【もし島木が戦後生き延びたとしたら】
後藤: 磯田光一は、「転向文学試論-島木健作の場合-」において、「島木が今日まで生きていたとするならば彼はどうなっていたかという想像は、文芸批評にたずさわる者にとっては魅力的な主題にちがいない」と述べて、戦後の島木の運命を推測しています。《再びマルクス主義運動に帰ったと考える人もあるかも知れぬ。しかし私は、どんな時代が来ても「もとの思想へ還るとは思えない」という河上徹太郎の結論に全面的に賛成である》。島木にとってマルクス主義的世界は、最終到達目標ではなかったということですね。磯田氏は、次のように指摘します。《コミュニズムは資本主義による人間疎外を克服するものに見えたが、コミュニズムのかなたに島木の夢みていたものは、ゲゼルシャフトとしての近代社会ではなく、古代的、自然的、有機的なゲマインシャフトであったのだ》。しかしながら、戦後日本社会の精神過程は、島木の理想とする社会像の側から見れば、そのエトスの消滅過程であったといえるでしょう。戦後日本社会において島木が行なったであろうと思われる活動を磯田氏は具体的に次のように想像します。戦後消滅していく黒猫的なものを求めて「不遇な中小炭鉱の労働者や、僻地の零細農民」の中に入って行ったのではないか。そして黒猫的なものが、そこにおいても消滅してしまった場合、島木は満州へ行ったのではないか。磯田氏の苛烈な想像によれば、満州は島木の最期の場所となるのです。《そうだ、私はなおも想像する。病苦にやつれた老残の身をひきずり、農民兵の英霊を慰めるために満州の荒野をさまよいながら、やがて狂死して行く島木健作の姿を》。もし島木が生き延びたとしたら、戦後社会に対してどのような批評の言葉を残したでしょうか。

上田: まず、島木健作が戦後を生き延びたとしたら、再転向をしたかについて。

島木が日本の現実から遊離したマルクス主義理論を奉ずるとは考えにくいですが、農民の生活改善に尽力したのではなかったかと想像します。

農本主義的ゲマインシャフトが島木の夢みた理想の社会だったか?
そういう面はたしかにあったと思いますが、戦後の現実がそこからますます遠ざかるのを目の当たりにしたとき、島木はどうしたでしょうか?

磯田光一は、農民兵の亡霊をもとめて満州をさまよい狂死する島木の姿を想像していますが、浪漫的すぎて荒唐無稽のきらいがあります。島木は夢に殉じる作家ではなかった、と思います。島木は、三島由紀夫とは違います。

島木の作風は、しばしば〈観念的〉だと評されたようです。しかしこれは、小説表現の特質というより、話の内容が理屈っぽいとか、生真面目で説教くさい、ということではないかと思います。

三島由紀夫を引き合いに出すのが適当かどうかわかりませんが、三島は、筋書きにしろ、人物造型にしろ、頭で作っているという感じがするという意味で〈観念的〉です。それに比べて、島木のほうは〈経験的〉です。(これは小説にモデルがいるかいないかということとは次元が異なる問題です。)
三島は、美学的に自律した作品を創造しようするのですが、島木にそうした芸術意識は希薄です。三島は小説(芸術)に〈絶対性〉を求めたのに対して、島木は小説が相対的で不完全なものだと認識していた気がします。

島木の『再建』や『生活の探求』は、生産活動にたずさわるとともに、生産現場の現実を肌身で知っている当事者の目線で描かれています。これらの表現は、実学的な知識や経験抜きには成り立ちません。

島木健作が、『黒猫』の作者であると同時に、『再建』や『生活の探求』の作者であることを考えると、浪漫的にすぎる想像には、違和感をおぼえるのです。

【島木健作と三島由紀夫】                       後藤: 私も島木が戦後生き延びたとしたら農民兵の慰霊のために満州へ行ったであろうという磯田氏の想像には違和感を覚えます。磯田氏は、自分の図式に論ずる対象を引き寄せる傾向がありますね。島木はあくまでも日本国内にとどまり、社会問題解決のために粘り強く地道な活動を続けたのではないでしょうか。そしてその活動は、政党や組織の方針や思惑に規制されない島木個人の良心を出発点とする宗教的色彩を帯びたものになったように思います。このような島木像の土台は、上田さんが先に「黒猫」解釈で示された〈独立独歩〉の精神ですね。また私も戦後生き延びたかもしれない島木を想像するにあたって、三島由紀夫のことを思い出しました。両者の戦後社会に対する認識は、かなり近いものとなったことでしょう。しかし、島木は戦後社会の虚妄、ニヒリズムといった観念にとらわれることなく社会活動にエネルギーを注いだのではないかと思います。もし島木が戦後生き延びたとしたら、昭和45年、60歳代後半の文学者として三島事件を目撃した可能性は充分にありますね。そのとき島木は、戦前の〈転向の季節〉を経験した文学者としてどのような批評を語ったでしょうか。

上田: 『黒猫』解釈の可能性がまだありそうな気がします。後藤さんは、以下のようにコメントをされましたが、追加の議論はないでしょうか。

《島木健作の最晩年の短編「黒猫」は、現代の読者にとっても問題作であると言えますね。(中略)現代日本社会においては、一般に核家族化、個人化が進行しており、住宅は猫などの小動物が外部から入り込む余地のない造りとなってきております。黒猫という〈他者性〉が物理的および心理的レベルにおいて〈家〉に侵入する物語は、現代の読者の意識に強い刺激を与えるものと思われます》。

〈侵入者としての黒猫〉の問題ですね。黒猫が屋内に侵入する経路については、一応説明があったと思います。よくはわかりませんが、外部から台所へ通じる穴か何かを、漬け物石か何かで塞いでおいても、黒猫は頭の力でどかして入ってきてしまうといったような。なみなみならぬ怪力という気がします。       

後藤: 「黒猫」のテキストの語り手は病人であるということに私達読者は留意する必要がありますね。病人の視点、感覚による猫たちの分類、描写であり家族関係の認識です。ポイントとなるのは、黒猫の毛の色彩感覚ということになるでしょうか。生活の場における人間と小動物との関係性の雰囲気も時代の空気によって変容すると言えそうですね。強調しておきたいことは、黒猫=小林多喜二として解釈を固定してしまうと、昭和初期のプロレタリア文学運動の枠組み内部に読者の思考が限定されてしまうのではないかということです。

上田: 大久保典夫は、〈黒猫〉とは「一種狷介な島木自身の性格にほかならぬ」という説を提出しています。
《〈黒猫〉は、狷介孤独な彼自身の性格の対象化であり、一種グロテスクなその姿を、作家的な眼でゆとりをもって捉えている。島木に珍しい〈有情滑稽物〉といえよう》。

島木は、成果をどう見積もるかはともかく、日本の私小説的風土にあって、「観念」や「思想」の表現としての長編小説を志向した先駆的作家の一人です。処女作「癩」から『再建』『生活の探求』を経て、未完の『土地』にいたる作品群がそうした野心を物語っています。

一方、島木にあっては、文学はしょせん第二義的なものという面も無視できません。島木の長編の主人公が、おしなべて理想化された、生まじめ人間になっていて、文学的魅力の点で不満を残す結果になったのは、現実生活における誠実さの希求と作家的営為における自己省察とはまったく別物だということに、島木自身気づいていないわけでないにしても、ほとんど意に介することがなかったからではないかと思います。端的に言って、自己戯画化ができないのです。太宰治が文学的天才だとすれば、島木は非文学的だといわざるをえません。

大久保典夫の島木健作論は調べも行き届き、よく考え抜かれたものだと思います。大久保は、島木の作家的行程全般を見渡した上で、〈赤蛙〉と〈黒猫〉とはおなじ楯の両面のようなものだといいます。〈赤蛙〉が〈理想化された主人公の象徴〉だとすれば、〈黒猫〉は〈一種狷介な島木自身の性格の対象化〉だというのです。『黒猫』において、島木は初めて自己の対象化に成功し、これが新たな転換点となった。このあと最後に書かれた長編『土地』では、作中人物は類型化をまぬがれ、個性的な厚みと幅をもって描かれている。こうした大久保の議論の当否については、『土地』を未読のため判断保留しますが、〈赤蛙〉と〈黒猫〉を合わせて考えることで、作者像が浮き彫りになってくるのは間違いありません。

大久保典夫は、島木の最晩年に〈転換〉があったと見て、島木の新たな展開の可能性を考察したものと思います。島木はいわばまじめ人間で、趣味や遊びの世界を知らない人だったようです。体が弱かったわりには各地を旅していて、旅行好きだったのはたしかですが、島木にとって旅行は見聞を広める意味が大きかったのでしょう。酒もタバコも一切やらなかった島木ですが、唯一骨董(瀬戸物)にだけは興味を示したということを小林秀雄が『作家の顔』で書いています。また中村光夫は、島木の葬式のとき、島木の母親があの子は貧乏性でして、といったのが記憶に残ったと書き記しています。まじめ人間、貧乏性。島木の人となりを表す言葉ですが、こうした性格は、島木の小説にも読み取れます。晩年の島木の小説が〈マジメ〉から〈ユーモア〉へ転換したとは言えないのですが、『黒猫』のなかに、自己を〈グロテスク〉と捉える想像力の進化を見るのはまんざら間違いではなさそうです

(次回に続く)
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国境を越えたBABYMETAL現象のキーワードは、「萌え」である(その4・完結編) (美津島明)

2015年07月02日 11時40分49秒 | 音楽
国境を越えたBABYMETAL現象のキーワードは、「萌え」である(その4・完結編) (美津島明)

前回、小林氏が、音楽ビジネス・アイドルビジネスの定石を無視したようなことばかりしているというお話をふたつしました。

そのみっつめに移りましょう。それは、ライブの会場の選び方の順序です。

地道なライブ活動の積み重ねの成果として、BABYMETALは、武道館のライブを実現しました。それは、ユニット結成から四年目の2014年3月1日と2日のことです。そのときの3人の平均年齢は14.6歳で、それは武道館ライヴの最年少記録を塗りかえるものでした。「その1」で申し上げたように、そのライブの模様は2枚のDVDに収められています。もしもこれからBABYMETALのDVDを自分も買って聴いてみようかと思われるのでしたら、私は、当DVDをお勧めします。巨大な魔法陣のなかで繰り広げられる彼女たちの歌と踊りと神バンドの演奏を、ほかの何にも邪魔されることなく心ゆくまで堪能できるからです。とくに、初日の最後の2曲、すなわち「ヘドバンギャー!!」から「イジメ、ダメ、ゼッタイ」への流れがドラマティックで感動ものです。「ヘドバンギャー!!」の終わりの方で、客を煽っていたYUI-METAL(水野由結)が図らずも舞台から奈落の底に転落して突然姿を消してからの、動揺を抑えながらのSU-METALとMOA-METAL(菊地最愛)の懸命の歌いぶりと踊りっぷり、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」の冒頭での、SU-METALと舞台に復帰し「位置について」のスタンバイをするYUI-METALとの感情を抑えたストイックな、しかし十分に心のきずなを感じさせるアイコンタクト、曲の終末部で感情があふれそうになりながらも必至で自分を保とうとするMOA-METALのある種「壮絶な」と形容するほかはない可愛さ。総じて言えば、年齢に似合わぬ見上げたプロ意識が観る者を圧倒するのです。これは、BABYMETALファンならだれでも知っている話であり、この場面でハートを鷲掴みされないファンはまずいないと言い切ってもいいくらいなのですが、ファンならずとも、事情が分かるなら、それなりの感興をもよおすのではないでしょうか。

またもや、話が脇道にそれそうになってしまいました。ライブの会場の選び方の順序についてでした。小林氏は次のように言っています。

通常だったら、武道館の次はアリーナツアーきってって(ママ)やっていくと思うんですけど、その流れには乗らないほうがいいなと思って。せっかく中身にこだわって時間をかけてやっているのに、ちゃんと届かないうちに消費されて終わっちゃう感じがしたので。これは良くない、休もうって。それでひと区切りっていったら変ですけど、拠点を海外に移して向こうでツアーをやったりとかフェスに出たりしょうっていうのを、もう先に決めちゃって。何も決まらないうちに(笑)。
――そこに勝算はあったんですか?
いや、全然ないですよ。
――とりあえず行ってみようと。
はい。すべてそうなんですけどね。感覚でしか生きていないんで(笑)。

         (『音楽主義』NO68.2015 JAN-FEB)

これまでの話の流れから、ここで小林氏が、格好をつけて言っているとか、とぼけているとかいった可能性は、おそらくない、と言い切れます。というのは、このすぐ後で、海外ツアーの異様なほどの盛り上がりの要因を尋ねられて、「中途半端なものを出さずに、こだわって曲を作ってきた。そういうところが海外の人にも刺さったのかなって」と、ある意味ですさまじいほどの自信を感じさせる発言をしているのですから。つまり、“自分(たち)は「妥協しないで真剣にやらないとダメ」(『音楽主義』NO60.2013 SEP-OCT)
というモットーを守り続けてきた。その結果として、海外ツアーでの成功があったとしか自分には言いようがない。思い当たるのはそれくらいだ“と言っているのですね。その意味で、BABYMETALチームは一貫しているのです。そのモットーを最優先させ続けるのですから、その道筋が結果的に既成の音楽ビジネス・モデルやアイドル・ビジネスの常道から外れるのは避けられません。楽曲作りも、振り付け担当も、歌う側も、踊る側も、演奏する側も、舞台装置も、CDの音作りも、一切妥協を許さないというあり方は、実は音楽作りにおいて最高のプロ意識をキープするということです。その本気度を人々が敏感に感じ取り、深く支持し、CDを買い、DVDを買い、ライブ会場に熱心に足を運ぶことによって、心から応援しようとしている、ということなのでしょう。小林氏のそれこそ“オンリーワン”(BABYMETALの昔からのキーワード)の展開を許すアミューズ大里会長の、経営者としての度量の大きさとポップ・ミュージックへの愛は並大抵のものではないのでしょう。会長は巷ではいろいろと毀誉褒貶があるようですが、それはそれ、これはこれです。

海外ツアーの成功例として、挙げておかねばならないことがひとつありました。BABYMETALは、2014年7月7日、世界最大のメタルフェスであるイギリスのソニスフィアに参加しました。当初は、セカンドステージで出場する予定だったところ、問い合わせが殺到して、急遽メインステージに出場することになりました。このフェスは、聴衆の反応が厳しいことで有名で、演奏が気に入らないとブーイングの嵐が巻き起こったり、舞台にペットボトルなどの物がどんどん投げ込まれたりするそうです。そんななかで、BABYMETALは会場にぎっしり客を集め、ライブは大いに盛り上がり、結局は、その年のソニスフィアのベストアクトのトップ10に選ばれました。



マーティー・フリードマン、BABYMETALを語る
次に、メタルの頂点に位置するギタリストのひとり、マーティー・フリードマンにご登場願います。



マーティー・フリードマンがどういう人物であるかを語るだけで、メタル史の一コマを語ったことになります。つまり彼は、メタル史における重要人物のひとりなのです。いままで、当たり前のようにメタル、メタルと言ってはきましたが、世間であまりなじみのない音楽ジャンルなので(それゆえ偏見も多い)、この際、彼の人物像をやや詳しく語っておきましょう。とはいうものの、私がやや詳しく語ることができるのは60年代半ばからせいぜい70年代までのいわゆるロック・シーン一般なので、実は、80年代に台頭してきたメタルのことはあまり詳しくありません。若いころ、その仰々しい、もっと言えば、悪趣味なジャケットを見ただけで、聴く気が失せていたというのが本当のところです。

そこで、困ったときのWikipediaというわけで、それをアンチョコにして、マーティー・フリードマンについて触れることにしましょう。

と申し上げましたが、マーティー・フリードマンの話に入る前に、ひとつだけ触れておきたいことがあります。一般にヘビーメタルは、ブラックサバスから始まったとされています(諸説あるそうですが)。なにゆえブラックサバスがメタルの元祖とされるのかといえば、バレー・コードを簡略化したパワー・コード(五度コード)を使った曲作りを彼らがはじめてしたからであるそうです。パワー・コードは、教会音楽で使ってはならない悪魔の旋律であるとされていました。メタルの基本的性格を知るうえで、貴重な話であると思われるので、ちょっと触れることにしました。ちなみに、ブラックサバスは、1968年から30数年間活動しました。

では、本題に入ります。マーティー・フリードマンについて語るには、話の順序として、まずは、メタリカとメガデスの因縁話から始めるのが筋でしょう。

メタリカ (Metallica) は、1981年にジェイムズ・ヘットフィールド (Vo/G) とラーズ・ウルリッヒ (Dr) らが中心になって結成した、アメリカ合衆国はロサンゼルス出身のヘヴィメタル・バンドです。メタリカは、後に「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において堂々の第61位になる超名門メタルバンドです。1983年にグループ内に異変が起きます。ギタリストのデイヴ・ムステインは、過度の飲酒や暴力などの問題行動、およびラーズ・ウルリッヒ、ヘットフィールドらのメンバーとの確執でメタリカを追い出されます。失意のうちにロサンゼルスに戻った二ヶ月後、D・ムステインは、ベーシストのデイヴィッド・エレフソンと出会い「メタリカを超えるバンドを作る」という決意をしてメガデスを結成します。「技量は、メタリカよりメガデスのほうが上」というのが定評のようです。また、メガデスは、メタリカ、スレイヤー、アンスラックスと並んで、スラッシュメタル四天王(Big 4)の一つに数えられています。

メガデスは、1990年、4thアルバム『RUST IN PEACE』を発表しました。そのアルバムから、新たにマーティ・フリードマンが、ドラマーのニック・メンザとともにメガデスに加わります。本作は、より正統的なヘヴィメタルに近づき、ムステインのアグレッシヴなプレイスタイルとフリードマンのメロディアスなプレイスタイルが見事に調和し、以前のどの作品よりも洗練されたアルバムとなりました。メガデス黄金期の幕開けです。つまり、マーティー・フリードマンは、メガデス黄金期を象徴するギタリストなのです。

マーティーは、1999年のメガデスの八枚目のアルバム『RISK』まで参加し、その後、同バンドを脱退しました。彼は10代のころから美空ひばりの『リンゴ追分』などの日本の演歌がとても気に入っていて、演歌のこぶしをギターで真剣に分析し、自分のギターの表現の幅を広げ、独自性を打ち出すのに分析結果をおおいに活用したそうです。日本好きが昂じたためか、2004年に、仕事も何も決まっていない状態で日本への移住を決めます。来日当初はいろいろと苦労をしたようですが、いまではテレビでよくその姿を見かけるので、仕事は順調なのでしょう。顔を見れば、みなさんも「ああ、あの流暢な日本語を話す面白い外人ね」と思われるのではないでしょうか。ところがどうして、メタラーにとって、マーティーは、「面白い外人」などという形容はとんでもないわけで、メタルの英雄のひとりと言っても過言ではないほどのキャリアの持ち主なのですね。

もうひとつ、忘れるところでした。BABYMETALのバックバンドを務める神バンドのギタリスト・大村孝佳は、マーティーのソロバンドのサポートギタリストでもあります。

そんなマーティーが、BABYMETALについて次のように語っています(以下は、すべて「エンタメ NEXT BABYMETALは言葉の壁を軽々越えた! マーティー・フリードマン★鋼鉄推薦版2014年9月11日」からの引用です)。

そうそう。まず、語らなくちゃいけないのは、彼女たちがある偉業をなしとげているということだよね。それが「言葉の壁」の問題。海外の人って基本的に、母国語じゃない音楽を聴かないんだ。日本人は英語の曲でも受け入れるけど、海外の人は「言葉がわからないから、いいや」って放り投げちゃうのが普通なんだ。

これ、よく分かりますね。マーティーは、「海外の人」とぼかしていますが、これは欧米人のことです。日本に何年住んでいようと、どんなに多くの日本人と接しようと、頑なに日本語を覚えようとしない欧米人、とくにアメリカ人とイギリス人に、私はこれまで何人か会ったことがあります。ある程度親しくなったイギリス人に対しては面と向かって、「あなたは、日本に何年も滞在しているのに、なぜ日本語を覚えようとしないのか」と真剣に尋ねたことがあります。彼は、私の問いをはぐらかしてまともに答えようとしませんでした。そのときの私はどこか虫のいどころが悪くて、「それはおかしなことだよ」と念を押しました。これは推測の域を出ないのですが、その現象の根底には、イギリス人とアメリカ人の、新旧の覇権国家としての傲慢さがあると私は見ています。それは、彼らにとって当然の前提なので、半ば無意識になってしまっています。そうであるがゆえに、いつでもどこでも英語で押し通そうとするのでしょう(厚かましいにもほどがありますね)。「言葉の壁」は、そういうこともあって、とても分厚いのです。

で、マーティーは、その高かったはずの壁をBABYMETALが一気に乗り越えてしまったと言っているのです。よく考えてみれば、それは驚異的なことですね。その理由を、マーティーは次のように分析します。

ではなぜBABYMETALは、ビルボードチャートに入るほど受け入れられているのか?その理由は「これまでにない新しいイメージを持っていた」ってことだよね。

次に、ヘビーメタルの停滞した現状の問題に触れます。この問題は、小林氏を含めた心あるメタラーが等しく心を痛めているものであるようです。

へヴィメタルというジャンルはお約束だらけの世界で、男っぽさや激しいイメージを売るのが基本だし、音楽的にも幅が狭い。でもBABYMETALのイメージは【カワイイ】だった。メタルなのに女の子がスカートを履いて踊っているし(笑)。そして、サウンドもそれまでのメタルとは異なっている。激しいギターや重たいドラムの上に女の子の歌声が乗っていたんだ。しかも、歌メロのサビは“超超超”ポップなメロディ。アルバムを聴くと、ヒップホップやEDM(エレクトリック・ダンス・ミュージック)の影響も感じられる。正直、こんなメタルはありえないよ。もう、こうなると、言語云々の問題じゃなくなってしまう。海外の音楽ファンにとって、これは大きなカルチャーショックだったんだ。

おおむね〈BABYMETALの楽曲は、メタルの「お約束」をことごとく破っていながら、あくまでもオーソドックスなメタルの流れを受け継いでいる。そのことが、欧米のメタルファンによって、新鮮なカルチャーショックとして受けとめられたので、言葉の壁の問題など吹っ飛んでしまった〉という意味のことを、マーティーは言っているようです。ここで、メタルの「お約束」をことごとく破ることと、あくまでもオーソドックスなメタルの流れを受け継ぐことをつなぐものは何なのか、ちょっと立ちどまって考えてみたいと思います。それは、前回の「その3」で申し上げたこととつながります。小林氏は、神バンドのメンバーに対して、SU-METALの歌声を引き立たせるための配慮を一切せずに、ゴリゴリのメタルを全力で演奏することを求めている、という意味のことを申し上げました。そのことが、いま挙げた、一見矛盾するふたつのことがらを結びつけていると私は考えます。小林氏は、神バンドの、メタル的な意味での妥協なき演奏こそが、SU-METALのどこまでもまっすぐにのびる歌声の凄味をかえって引き立てることをよく分かっているのです。その意味で、一見矛盾するふたつのことがらを結びつけているものは、小林氏の、メタルへの深い愛とSU-METALの歌声へのこれまた深い入れ込みとその底力へのゆるぎない信頼である、と言いかえてもよいのではないでしょうか。

マーティーの言葉に戻りましょう。

メタルってジャンルはあまり進化しない。他のジャンルの影響を受け入れない壁があるからね。だけど、それに飽きてきている人も多いはずで、何か新しい要素を入れていかないとジャンルとして長続きしない。そう考えると、幅広い音楽性を持つBABYMETALはメタルの生命を守ったと言えるかもしれない。彼女たちのやり方を受けて、カントリーメタルとか演歌メタルとかが出来てきてもおかしくないよ(これは冗談じゃなくて本当にそういうのが出てきてほしい!)。

昔から演歌に真剣に取り組んできたマーティーが、本気でそういっていることは間違いありませんね。マーティーから「BABYMETALはメタルの生命を守った」と言われた小林氏は、きっと涙がちょちょびれる思いがこみあげてきたにちがいない、とも思います。

以上のような、メタルの専門家の発言は重大です。なぜならマーティーの発言は、BABYMETALの音楽が、海の向こうにいるメタルのコアな愛好者から心からの支持を受けていることを雄弁に物語っているからです。つまり、言語をビジュアル化した振付を含めてのBABYMETALの音楽性は、世界水準に達したものであるだけではなくて、世界のメタルのいわば不可避的な衰退の状況を突破する最前線に位置するものである、といえるのでしょう。マーティーの「カルチャーショック」には、そういう意味も含まれていると解してどうやら大過がなさそうです。とするならば、BABYMETAL現象が国境を越えて起こっているのはむしろ当然なことである、といっていいのかもしれません。

BABYMETALのライブステージは神話空間である
当論考の最後に、BABYMETALのライブステージは神話空間であるというお話をしようと思います。まずは、ふたたび小林啓氏の言葉に耳を傾けてみましょう。

BABYMETALの場合、メンバーの素のキャラクターをアイドルとしてとらえると、どちらかというとカッコいいよりはかわいらしいタイプなので、そっちに寄せすぎちゃうと想定内で収まってあんまり面白くなくなっちゃうなと思って。だから素の本人たちと真逆な存在、僕がメタル好きだからっていうのもあるんですけど、“神”みたいな存在の方が面白いなと。ライブでもしゃべらない、みたいな。                  (『音楽主義』NO.60 2013年SEP-OCT)

ここで、「“神”みたいな存在」というのはもちろんSU‐METALを指しています。また、「“神”みたいな存在」であるSU‐METALのバックバンドだから「神バンド」であるというのは分かりやすい話です(神業みたいな演奏をするので「神バンド」という意味合いもあると思います)。彼らが死人のメイキャップをしているのは、「自分たちはこの世の存在ではない」というメッセージを発するためではないでしょうか。

SU-METALについて、振付師のMIKIKO氏が、とても面白いことを言っています。あるインタヴューでの「これまでに振り付けをされてきた中で、特に印象に残っている方は誰ですか?」という質問に対して、彼女は、「しいて言うならすぅちゃん(中元すず香のことです――引用者注)かな。これは褒め言葉なんですけど、本当に感覚だけでやっている。なかなか、他人とは合わせられないんです。ちっちゃい頃から完全にアーティストでしたね。リハの段階から、音が鳴ったら歌もダンスも常に全力投球。まったくセーブができないんですよ。存在自体がブッ飛んでいますね」と答えています。

どうやらSU-METALは、音を合図にスイッチが入りトランス状態になってしまう「依り代」体質あるいは憑依体質の持ち主のようです。「“神”みたいな存在」にうってつけですね。彼女には、“メタルの神キツネさまは、メタルレジスタンスのためにこの世にBABYMETALの三人を送り出した”というBABYMETALライブの基本設定をすんなりと受け入れる素地があるのですね。というよりむしろ、彼女の独特の存在感をふまえたうえで、小林氏は、そのような基本設定をしたというべきなのかもしれません。

BABYMETALはリアリティ重視というよりはディズニーランドだと思っているんです。ミッキーの耳をつけた瞬間にその世界観に入れるみたいな、メタルもある種のファンタジーだと思っているんですよ。BABYMETALのライブに行ったら、その世界に入り込んでストーリーを楽しむ。会場を出たら現実に戻るんだけど、また行きたいなと思わせる。そういう現実と非現実の間を行ったり来たりするようなところに持っていきたいなっていうのはあるかもしれません。
(同上)

小林氏の言葉使いにひとつだけ注文をつけると、引用中の「ディズニーランド」という言葉はあまり適切ではないような気がします。これって消費文化のシンボルのような、ちょっとマイナスのイメージも含まれた言葉のような感じがするんですね。むしろ端的に「祝祭空間」、あるいは「非日常的祝祭空間」という言葉の方が適切なのではないかと思われます。とするならば、小林氏はここで、「BABYMETALのライブステージは神話空間である」という私の言い方を別様に言っていることになります。

では、YUI-METAL(水野由結)とMOA-METAL(菊地最愛)は、そういう神話空間のなかでどんな役割をしているのでしょうか。

SU‐METALを中心としてメンバーを探したが、彼女が独特な存在感を持っているので、まったく別のキャラクターを加えるのがいいのではという結論に至った。そこで、SU‐METALの周りを天使のような子たちが踊っているというのはどうだろうと、YUI-METAL(水野由結)とMOA-METAL(菊地最愛)に参加してもらうことになった。
(「異色メタルアイドル「ベビーメタル」はなぜ人気?」より 2012年10月31日)

当時この三人は、さくら学院という所属年齢限定のアイドル・グループに所属していました。さくら学院について話し始めるとまたもや脇道にそれてしまうことが必定なので、それはやめておきますが、運命的にそこに集まってきた三人を抜擢した小林氏の慧眼、あるいはその直観の鋭さはいくら讃えられても讃えられすぎるということはない、と言いたい気がします。

というのは、SU-METALという「“神”みたいな存在」にYUI-METALとMOA-METALという二人の天使、あるいは二匹の狛犬を配置することで、BABYMETALに、柳田国男のいわゆる「妹の力」がダイナミックに働くことになったからです。「妹の力」は、神話空間が人びとを吸引する力を説明したものであるという読み替えが可能であると私は思っています。その意味で、この三人の人選は、BABYMETALのライブが魅力的な神話空間として立ち現れるためにぜひとも必要なものであったと言いうるのではないでしょうか。

「妹の力」とはいかなるものなのでしょうか。柳田国男は、その威力がいかなるものなのかについての感知が鮮烈なイメージをともなって私たちの直観にじかにとどくエピソードを、提供してくれています。引きましょう。

最近に自分は東北の淋しい田舎をあるいていて、はからずも古風なる妹の力の、一つの例に遭遇した。盛岡から山を東方に越えて、よほど入り込んだ山村である。地方にも珍しい富裕な旧家で、数年前に六人の兄弟が、一時に発狂をして土地の人を震駭せしめたことがあった。詳しい顛末はさらに調査をしてみなければならぬが、何でも遺伝のあるらしい家で、現に彼らの祖父も発狂してまだ生きている。父も狂気である時仏壇の前で首をくくって死んだ。長男がただ一人健在であったが、かさねがさねの悲運に絶望してしまって、しばしば巨額の金を懐に入れ、都会にやってきて浪費をして、酒色によって憂いをまぎらわそうとしたが、その結果はこれもひどい神経衰弱にかかり、井戸に身を投げ自殺をしたという。村の某寺の住職は賢明な人であって、何とかしてこの苦悶を救いたいと思って、いろいろと立ち入って世話をしたそうだが無効であった。この僧に尋ねてみたらなお細かな事情がわかるであろうが、六人の狂人は今はなお本復している。発病の当時、末の妹が十三歳で、他の五人はともにその兄であった。不思議なことには六人の狂者は心が一つで、しかも十三の妹がその首脳であった。例えば向こうからくる旅人を、妹が鬼だというと、兄たちの目にもすぐに鬼に見えた。打ち殺してしまおうと妹が一言いうと、五人で飛び出していって打ち揃って攻撃した。屈強な若い者がこんな無法なことをするために、一時はこの川筋には人通りが絶えてしまったという話である。
                           (柳田国男『妹の力』より)

神話の吸引力がいかに絶大なものであるかが鮮烈なイメージで直截に述べられています。それがそういうふうに思えないのは、私たちが日々暮らしていて引力がいかに強烈なものであるのかをまったく意識しないのと似ているような気がします。ユングなどは、それがいかに絶大な力を私たちにふるうのかを一生かかって説いた人物なのでしょう。

BABYMETALのライブという祝祭空間には、そういう神話的吸引力すなわち「妹の力」が働いていると私は感じます。この力をたどっていくと私たちは、『古事記』の天照大神や舞姫・アメノウズメの世界にまでおのずといざなわれることになります。BABYMETALに対して欧米人たちが感じるカルチャーショックの淵源はとても深いところにある、というのが私なりの感触です。彼らは、それをそういうものとして意識はしていないでしょうが。まあ、いま言っていることは絶対に正しいと言い張る気はありませんよ。ここはとくに直観的なお話ですから。感じる人は感じるし、感じない人は感じない。それ以上はどうのこうのと言えません。

そろそろ話をまとめましょう。BABYMETALが発揮している「妹の力」に着目するならば、BABYMETAL現象のキーワードは「妹萌え」であると言っていいのではないでしょうか。BABYMETALの世界への入り口はそれぞれ異なるでしょう。「SU萌え」から入る人、「YUI萌え」から入る人、「MOA萌え」から入る人、「神バンド萌え」あるいは「メタル萌え」から入る人、あるいは、MIKIKO氏はとても素敵な女性ですから、「MIKIKO萌え」なんて人もいるにちがいありません。

それぞれ入口は異なるのですが、いったんBABYMETALの世界に参入してしまえば、結局その強力な神話力すなわち「妹の力」にそれぞれの形で感応することになっているのではないかと思われます。

そう考えると、BABYMETAL現象とは、柳田国男の「妹の力」が、日本の近代史上はじめて言語の壁を越え、文化の壁を越えて、世界の心ある人々の直観に訴えつつある画期的な精神史的できごとであると言えるのではなかろうかと思われます。そう考えると、いまさらながらですが、音楽の力は絶大であるという感慨が湧いてきます。「萌える男」・小林啓氏は、図らずも、そういうとほうもなく大きな仕事の推進者になっていることになります。むろん本人は、そう言われても、「さて、どうでしょう」と言うだけでしょうけどね。

「その1」で申し上げたように、「萌え」の一般化は、資本主義の爛熟期に特有の精神現象です。そうして「萌え」とは、エロスの領域にまで商品化のプロセスが微細に浸透した状況に対する意識的無意識的異議申し立てであり、そうであるがゆえに差し当たりそれは、フィクションの領域へのエロスの撤収という消極的な形をとらざるをえません。しかし「萌え」には、潜在的に、そのフィクションが神話構造を備えた場合、神話的次元への参入による生命力の更新という大きな可能性がある、ということが見えてきたような気がいたします。ここからさらにどういうことが言えそうなのか、これからもう少し考えを進めてみようと思っています。BABYMETALは、これからも私たちをとてもスリリングで魅惑的な場所にいざなってくれる予感があります。 (おわり)

〔オマケ〕MIKIKO氏が号泣したという、BABYMETALの最新PV映像をアップしておきましょう。「ROAD OF RESISTANCE」です。BABYMETALの三人の、海外ツアー経験の積み重ねによって大きく成長した姿が感動的です。たしか、今年の1月のさいたまアリーナでの、海外ツアー凱旋ライヴのラストではなかったかと思います。


BABYMETAL - Road of Resistance - Live in Japan - (Official Video)
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