由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

道徳教育という不道徳 その2(評価、など)

2015年07月16日 | 教育


 道徳を教科にする、というからには、制度的に次の三つの整備をしなければならないでしょう(ただし、法的な根拠は必ずしもないようです)。(1)教員(免許)、(2)教科書、(3)評価です。前出中教審答申「道徳に係る教育課程の改善等について」ではそれはどうなっているか、見ていきましょう。

(1)道徳を教える教員についてですが、「3 その他改善が求められる事項」の「(2)教員免許や大学の教員養成課程の改善」に次のようにあります。

 「特別の教科 道徳」(仮称)を担当する教員について、特に、中学校については、扱う内容や指導方法の高度化が求められることなどを踏まえ、将来的には専門の免許状を設けるべきとの意見があった。また、学校図書館法に定める司書教諭のように道徳教育に関する一定の講習を修了した者を道徳教育推進教師に充てる仕組みとすべきなどの意見があった。
 また、大学の教員養成課程における道徳については、人間に対する理解を深めるとともに、教員としての指導力を身に付けるため、理論面、実践面、実地経験面の三つの側面から改善・充実を図る必要があり、現在、小・中学校に関しては、「道徳の指導法」の2単位、高等学校に関しては、履修が必須ではない状況となっている基準を見直し、道徳教育を専門的に学べるようカリキュラムの改善と履修単位数の増加を検討することが必要との意見があった。あわせて、各大学において道徳教育の指導に当たる教員の養成のためにも、大学における道徳教育に係る教育研究組織の改善・充実に向けた積極的な取組が期待される。


 文末が「意見があった」×3+「期待される」でして、要するにまだ何も決まっていない、ということです。それでいて3年後には小学校で「特別な教科 道徳(仮称)」を実施する、というのはどうなのかなあ、と素朴に感じられませんか?
 もう一つ素朴な疑問。道徳を教える、ということですと、今の教員にその資格・能力はあるのか、という批判がよく聞かれます。もっともだと思います。だから「専門の免許状を設けるべき」とか「道徳教育に関する一定の講習」を、なんて意見も出てくるんでしょう。しかし、ではいったい、将来道徳の専門家たるにふさわしい教員を養成する大学の先生たちには、それにふさわしいだけの資格・能力はあるのでしょうか? 「理論面、実践面、実地経験面の三つの側面」いずれから見ても申し分ない人材がそろっているのでしょうか?
 そこまで考えたら、道徳の教科化は当分の間、あるいは永久にできない。だから、考えずにやってしまおう、という人が多いようですが、私はそのような態度は道徳的とは言い難いように思います。そうでなければ道徳の教科化はできないということなら、やめるべきだ、とも思っているわけです。

(2)教科書。「2 道徳に係る教育課程の改善方策」の「(5)「特別の教科 道徳」(仮称)に検定教科書を導入する」より。

 現在、道徳教育用教材として文部科学省が作成した「私たちの道徳」が全国の小・中学生に配布され、道徳の時間をはじめ、学校の教育活動全体で行う道徳教育において、また、家庭や地域との連携などにおいて活用されている。
 道徳教育の充実を図るためには、充実した教材が不可欠であり、今後、道徳教育の要である「特別の教科 道徳」(仮称)の中心となる教材として、全ての児童生徒に無償で給与される検定教科書を導入することが適当である。
 このため、「特別の教科 道徳」(仮称)を学校教育法施行規則及び学習指導要領に位置付けるための制度改正を行った後、「特別の教科 道徳」(仮称)の特性を踏まえ、教材として具備すべき要件に留意しつつ、民間発行者の創意工夫を生かすとともに、バランスのとれた多様な教科書を認めるという基本的な観点に立ち、教科書検定の具体化に取り組む必要がある。また、学習指導要領の改訂においては、教科書の著作・編集や検定の実施を念頭に、これまでよりも目標や内容、内容の取扱い等について具体的に示すなどの配慮が求められる。


 ここでも具体的なことは何も決まっていないわけですが、「特性を踏まえ」るべきモデルとして、「心のノート」を引き継いだ「私たちの道徳」(中学校用。小学校編は「わたしたちの道徳」で、1~2年用、3~4年用、5~6年用の三つに分かれている)が現にあります。ここから推測されることを述べますと。
 『私たちの道徳 中学校』は、短いもので一行のいわゆる箴言(スピノザや魯迅、なぜか井上ひさし、などの有名人の著作から抜粋したもの)、長くて8頁の「読みもの」(既存の文科省編著の文集から選ばれたものが多い)などで構成された文集です。章立てと頁数は、「1 自分を見つめ伸ばして」38頁「2 人と支え合って」50頁「3 生命を輝かせて」36頁「4 社会に生きる一員として」106頁。【因みに、今もなお話題になる「愛国心」が扱われているのは「4」中の「(9)国を愛し、伝統の継承と文化の創造を」で、全8頁。それも写真や表、それに生徒に書き込ませるところが大部分で、文章は末尾のコラム「人物探訪」を含めても半分にも足りません。】
 「2」と「4」はすぐに分かるように直結した主題を扱っています。そしてこの、広い意味の「社会性」に関する部分が全体の約66パーセント、つまり三分の二を占めていることからも、どの面の「特性の涵養」が主に目指されているかは明らかです。因みに『わたしたちの道徳』も、(息子が持っているものなどから)管見の限りでは、同じような構成です。
 このこと自体は妥当だと言えるでしょう。学校とは、今日、家庭の外に出た子どもが行くべき第一の場所であり、子どもの社会化を促すところに第一の機能があると考えられるからです。そして人間とは、「人と支え合って、社会の一員として生きる」者であることに、間違いはありません。間違いがなさすぎるので、ことさらに、教科として、児童生徒に伝える意味は本当にあるのか、と思えてこないでしょうか。
 例えば、「2」の章末には、茨木のり子の「知命」という詩が置かれています。最後の二連は、「ある日 卒然と悟らされる/もしかしたら たぶんそう/沢山のやさしい手が添えられたのだ」「一人で処理してきたと思っている/わたくしの幾つかの結節点にも/今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで」。人間が生きていくうえでどうしても避けられないゴタゴタ、たいていは些末で、わざわざ言挙げするのも憚られるようなものではあるのですが、けっこうストレスになり消耗する、そういう問題を、人は、(たいていは)やり過ごすことも含めて、自分一人で処理してきた、と思いがちです。しかし実際は、つい見過ごしてしまうほどのさりげなさで、優しい他人の手が差し出されていた、それに気づいた、ということです。
 大事な気づきです。ただ教材としてこれを見た場合に少し気になるのは、この詩の前のほうでは、他の人がやってきて、こんがらがってほどけなくなった糸の束をなんとかしてくれ、と言うので、「(前略)仕方なく手伝う もそもそと/生きてるよしみに/こういうのが生きてるってことの/おおよそか それにしてもあんまりな」「まきこまれ/ふりまわされ/くたびれはてて」で、前出の二連に続くのです。糸がほどけないならいっそ断ち切ってしまえばいい、と言ってもそれもならず、一応ほどく手伝いをしてみる、結果こちらもけっこう消耗する、そういうのが人生か、あんまりだ。しかし気づいてみれば自分だって……というわけで、中年以上まで生き延びた人間が抱きがちな、人生に対する苦い思いが背景としてあるわけです。この部分も中学生に伝えるんですか?
 それは、中学生といえども、人間関係のゴタゴタで苦しむことは少なくありません。こんがらがって容易に解きほぐせない、といって一思いに切り捨てる勇気もなかなか持てない、というような。でも、「それがつまり人生だ」と、教えられますか? 経験が乏しい、殊に今現在苦しみの最中にいる者には、「たくさんのやさしい手」に気づくのは容易ではありません、という以上に、「それにしてもあんまりな」と、いい大人でもつい愚痴をこぼしたくなる人生の実相を、少なくともその一面を、伝えられるか、ということなんです。できるとしても、やったほうがいいと思いますか? 
 私同様、多くの人が、それには二の足を踏むでしょう。そして、「人と人の支え合いの大切さ」のみを言うことになると思います。しかしそれでは、この詩の味わいは半分以下に減ってしまいます。
 ついでながら、茨木のり子でもう一つ。彼女の最も有名な詩は、国語の教科書にはよく取り上げられることもあって、「わたしが一番きれいだったとき」ですね。この詩は反戦詩ということになっているようですが、それは少し違うんじゃないかなあと思います。六連目には戦後のことが言われているんです。「わたしが一番きれいだったとき/ラジオからはジャズが溢れた/禁煙を破ったときのようにくらくらしながら/わたしは異国の甘い音楽をむさぼった」と。だから戦争が終わってよかった、という話ではありません。続く七連目は、「わたしが一番きれいだったとき/わたしはとてもふしあわせ/わたしはとてもとんちんかん/わたしはめっぽうさびしかった」でして、彼女のふしあわせでとんちんかんでさびしい状態は、戦後も続いたと見るのが妥当です。だいたい、戦争でおしゃれも恋もちゃんとできなかった、そして「わたしの頭はからっぽで/わたしの心はかたくなで」あったから、戦争はいけないんだ、なんぞというと、別の詩では「駄目なことの一切を/時代のせいにはするな/わずかに光る尊厳の放棄」「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」(「自分の感受性くらい」)と歌っている茨木さんから怒られるんじゃないですか?
 要するにこの詩では、いついかなる時代であっても、総体としての他者である世の中・社会に違和感を抱きがちな、自意識と呼ばれる、感性のあり方が表現されているのです。それでも、というかむしろそれだからこそ、他者との関わり・支え合いは大切だ、とは言えます。言えますけど、そう言われたからといって「生きづらさ」が消え去るわけでもありません。
 というようなことがらは、文学の領分であって、だから国語の教材にはなっても、道徳では使えない、と普通は感じられるのでしょう。教訓になりませんものね。これ、「道徳の壁」と言うべきものです。つまり、道徳的な訓話・お説教というものは、正しいことは知ってはいてもなかなかそうは生きられない、もっと言えば、正しいだけでは生きられない、人間の根源的な弱さ、そこから来る苦しみと悲しみを捨象するからこそ、完璧に正しくなるのです。そんなの、いわば「ただ正しいだけ」であって、無意味以上に、苛立たしいだけだ、と私は思います。それはお前のようなひねくれ者だけで、道徳的な教訓に素直に感動できる人もいるんだ、と言われるかもしれません。でも、それほど素直な人には、殊更道徳なんて教える必要は最初からないんじゃないですか?
 道徳の正式な教科書ができるのはこれからですから、この「道徳の壁」があってもなお、各社の「創意工夫」で、多少は面白いものも出てくる可能性までは否定できません。それは今後のお楽しみとして、現時点での私からの希望を言いますと、有名人からの片言隻句を並べるのは控えたほうがいいんではないか、と。まあ、「ゲーテ曰く」式のことは、私もついやってしまいがちではありますけど、やり過ぎるのはねえ。作品(詩)の全体が載っている茨木のり子だって、つまみ食いになるだろうと予想されるんです。まして、スピノザとか、ハイデッカーとか。彼らの思想総体から切り取られて、そこらのおじさんでも言いそうな箴言にしたものを陳列するなんて、大思想家に対して失礼だし、愚かな権威主義にしか見えないんじゃないですか。それなら、黙っていたほうがまだしも道徳的だと思います。

(3)評価。これこそ問題中の問題です。「2 道徳に係る教育課程の改善方策」中の「(6)一人一人のよさを伸ばし、成長を促すための評価を充実する」より。

 道徳教育における評価は、指導を通じて表れる児童生徒の道徳性の変容を、指導のねらいや内容に即して把握するものである。このことを通じて、児童生徒が自らの成長を実感し、学習意欲を高め、道徳性の向上につなげていくとともに、評価を踏まえ、教員が道徳教育に関する目標や計画、指導方法の改善・充実に取り組むことが期待される。
 現行学習指導要領においては、道徳教育の評価について、「児童の道徳性については、常にその実態を把握して指導に生かすよう努める必要がある。ただし、道徳の時間に関して数値などによる評価は行わないものとする。」(小学校学習指導要領。中学校学習指導要領においても同旨。)とされている。
 また、指導要録は、児童生徒の学籍並びに指導の過程及び結果の要約を記録し、その後の指導及び外部に対する証明等に役立たせるための原簿であり、文部科学省が示した参考様式をもとに、学校の設置者が様式を定めているものである。
 現在の参考様式の「指導に関する記録」には、道徳の時間の記録欄が示されていない。一方、各教科、道徳、外国語活動(小学校)、総合的な学習の時間、特別活動やその他学校生活全体にわたって認められる児童生徒の行動については、「行動の記録」欄が設けられている。同欄については、学習指導要領の総則及び道徳の目標や内容、行動の記録の評価項目及びその趣旨を参考にして、設置者が項目を適切に設定するとともに、各学校が自らの教育目標に沿って項目を追加できるようになっており、各項目の趣旨に照らして十分に満足できる状況にあると判断される場合に、○印を記入することとされている。
①評価に当たっての基本的な考え方について
 道徳性の評価の基盤には、教員と児童生徒との人格的な触れ合いによる共感的な理解が存在することが重要である。その上で、児童生徒の成長を見守り、努力を認めたり、励ましたりすることによって、児童生徒が自らの成長を実感し、更に意欲的に取り組もうとするきっかけとなるような評価を目指すべきと考える。
 なお、道徳性は、極めて多様な児童生徒の人格全体に関わるものであることから、個人内の成長の過程を重視すべきであって、「特別の教科 道徳」(仮称)について、指導要録等に示す評価として、数値などによる評価は導入すべきではない。
 道徳性の評価に当たっては、指導のねらいや内容に照らし、児童生徒の学習状況を把握するために、児童生徒の作文やノート、質問紙、発言や行動の観察、面接など、様々な方法で資料等を収集することになる。その上で、例えば、指導のねらいに即した観点による評価、学習活動における表現や態度などの観察による評価(「パフォーマンス評価」など)、学習の過程や成果などの記録の積み上げによる評価(「ポートフォリオ評価」など)のほか、児童生徒の自己評価など多種多様な方法の中から適切な方法を用いて評価を行い、課題を明確にして指導の充実を図ることが望まれる。


 「①評価にあたっての基本的な考え方」の前は、戦後から現在まで道徳(的なものを含む)が記録としてはどう扱われてきたか略記した部分です。後の叙述に便利なので挙げました。先に①のほうを見ましょう。簡単に書いてありますが、ずいぶん無理な、矛盾を含んだ「基本」もあったものだと、感心してしまいます。
 因みに、これに先行する文書としては、文科省のサイトで「資料2 道徳教育の評価について」というのが閲覧できます。中教審の中の道徳教育専門部会(第6回、平成26年6月19日)の配付資料で、それまでに出た意見を集約したもののようです。「これまでの主な指摘事項」の最初は以下です。

 数値による評価を行うことは不適切であり、この考え方は引き続き維持すべき。児童生徒の内面そのものを評価の対象としたり、入学者選抜等の他の判断の基礎としたりすることについても厳に慎むべき。

 まことにごもっとも。しかしこれでは道徳の評価はできません(だから、やるな、というのが私の考えであるわけです)。「君は~の面でとても成長した」などと言えば、内面を、即ちいわゆる人物・人格を評価したことになってしまうでしょう。もっとも、「内面」に「そのもの」がついているところがミソかも知れませんが。
 ともかく、道徳を教科化するのはもう決まったことである。ならば、内面を評価するのはやむを得ない。しかし、数値化はしない。A君は人物評価はAである、B君はそれより劣るBである、なんてことがしたいわけではない。記述式で、即ち文章で、その生徒の「努力を認めたり、励ましたりする」ようなものにする。そのへんを落としどころにしたいようですが、さて、どうでしょうか。
 まず、評価とは何なのか。今の学校では、道徳以外でも、「観点別評価」なんて有害無益なものがありますので、これについては稿を改めて詳述したいと思います。簡単に言いますと、飲み会や井戸端会議での無責任な「評判」ではない、公的な機関がやるに相応しいちゃんとした評価はどういうものでしょうか。私見では、不完全な人間には所詮不完全な評価しかできないので、むしろそれはちゃんと心得た上で、せめて「何を、どういう方法で評価するのか」の基準が明らかになっていることをもって、「ちゃんとしている」とするべきでしょう。
 学校が昔からやっている普通教科の評価、いわゆる成績は、国語なら国語、数学なら数学という限られた分野で、全生徒に同じ条件でテスト(いわゆる客観テスト)をして、その結果をおおもととする、というところに客観性が備わっています。それがナンボのもんじゃい、と言われるなら、いかにも、大したことはないかも知れません(だからこそよい、とまでは言えなくても、大きな問題にはならずにすんでいるのです)。ともかく、発問は適正であったかどうか、本当に全員公平な状態でテストが実施されたか、やろうと思えば後から検討できます。公正性とは、つまりそんなものです。
 「特別な教科 道徳」ではそんなの必要ないんだ、と言いたげですね。何しろ、他人との比較が問題なわけではないんだから、と。そうはいかんでしょう。どういうのが道徳的に好ましい人間なのかのイメージ(「期待される人間像」ですな)と、子どもはそこに向かってどのように成長していくべきなのか、教える側にある程度の共通了解がなければ、一年かそれ以上にわたって子どもを教導するなんて、できない道理です。この了解が、そのまま評価基準になります。
 候補としては、発達心理学による年齢ごとの発達段階、及び発達課題というものがあります。私は、個人的な経験から、その科学的客観的な妥当性を疑う者ですが、しかしよく知られているんですから、一応の有用性はあるんだ、としましょう。また、「心のノート」は実際には河合隼雄門下の心理学者たちの編著とのことなので、「特別な教科 道徳」には臨床心理学がいくらかは入り込んでくるんだろうと予想されます(因みに、「共感的な理解」というのは元来はカウンセリングの用語です)。しかし、前面には出ないでしょう。DSM-5(精神疾患の診断・統計マニュアル)などを応用した発達段階のチェック表などはもういくつか出ていますが、そこでは当然、精神疾患・発達障害、とまでは言わなくても、「発達課題をちゃんと果たし終えていない」というようなマイナス評価はあり得るのです。
 客観的な評価基準とはそういうものです。具体的な誰それとの比較はしなくても、発達心理学だったら、例えば、この年齢の子どもならこの程度の社会性は身についているはずといった、それこそ基準を統計的に割り出した上で、テストを使ってそれと比較して、「この子は発達の遅れが見られる」との診断(≒評価)を出すわけです。
 それがない、ということなら、どれだけ資料を積み重ねようと、どれほど精緻に観察しようと、出て来るのは恣意的な評価、としか言いようがなくなります。それでも、ないことにするんでしょうね。何しろ、必ずほめなくてはならないようですから、そうせざるを得ません。例えば「他人に対する思いやり」でも、それがどの程度にあるのか、客観的に測る基準があったとしたら、「他の子よりは足りない子」が出てきてしまいますんで。いろんな資料を用意したり子どもを細かく観察する教員の、膨大な手間は今は度外視するとしても、なんという奇妙なことをやらせようとするのか、思いやっていただくことはできないもんでしょうかね。

 話はこれで終わりません。実は、この妙ちきりんな「評価」に近いことを、学校は今まででもずっとやってきているのです。せっかく文科省が機会を与えてくれたのですから、そこにも光を当てておきましょう。それは前出の中教審答申からの引用文中、「①評価にあたっての基本的な考え方」よりも前の部分に出ている「行動の記録」です。
 「行動の記録」と言っても、すぐにはわからない人が多いでしょう。「基本的生活習慣」「責任感」「協調性」「公正」等々の項目があって、いくつかに○がついていたりするやつです。「そう言えば、通知表の中にそんなのがあったな」と思い出していただけましたか。考えてみたらこれ、「内面の評価」ですわな。私の年代ですと、A・B・Cの三段階で、「数値評価」がなされておりました。実は、中身は現行も同じです。A→B→Cが、○→空欄→×、になって、わかりづらくなっただけです。
 ただし、よくは覚えていないのですが、昔もC評価はほとんどつかなかったと思います。現在、×は慣習として、つけないことになっています。「劣っている」評価はほぼない、ということです。ここでまだしも、学校という公的な機関が「内面の評価」なんてことをやる恐ろしさには、一応の歯止めがかかっていると言えないこともないです。
 それ以上に、これが現在までほとんど問題にならないできたのは、上級学校(中学なら高校、高校なら大学)へ進学するとき、つまり入試の時の資料として、「行動の記録」は、ほとんど使われないからです。主に使われるのは、普通教科に関する五段階または十段階評価、つまり、ごく普通に言う「成績」です。まあごくごく稀には、以前に拙ブログで述べた内申書裁判時のような例外はありますけど。
 それから、学校の、生徒に関する公式記録簿である指導要録には、「行動の記録」欄の下に「所見」とか「備考」とかいう欄がありまして、ここは文章で、例えば、「本人は三年間野球部に所属してチームのために貢献し、クラスでは環境美化委員としてよく義務を果たして」云々などと書きます。これまた、原則として、悪いことは書きません。茨城県では、「他の生徒との比較ではなく、本人の長所を見つけて」書くように、というような上からのお達しまで現にあります。
 これに基づいて内申書(正式には「調査書」。中学校から高校へ送られるものは慣習的にこう呼ばれている)の「所見」あるいは「備考」も書かれることになっておりますので、当然ながら、特例を除き、本人の不利になるようなことは書かれません。すると、入試という、選抜試験の材料としてはほとんど使われません。それはそうでしょう。「他人との比較」は度外視して書かれたはずの記録を、全受験者分なんらかのやり方で比較したうえで、合格者と不合格者に振り分ける材料にするなんて、あからさまな矛盾ですから。で、これも誰も気にしない、とは言い切れない、受験シーンではみんなナーバスになるんで、内申書に何が書かれているか、気がかりにもなるでしょう。が、それが過ぎたらすぐに忘れます。その程度のものです。
 道徳の評価もその程度のものなら、指導要録に記入欄ができ、通知表で児童生徒や保護者にも伝えられ、さらに調査書で上級学校(中学なら高校、高校なら大学)にも知らされるとしても、ほとんど問題にならないでしょう。「行動の記録」及び記述式の欄が今のままで、その上に道徳の「評価」の記述があっても(これもどうなるか、現段階ではまだ決まっていません)、それを書く教師の手間が増えるだけで、ほとんど誰も気にしない、ということです。
 本当はみんな知っているように、学校でやることの社会的な効用は、九割以上、上の学校への受験にどれくらい関わるか、によってが決まるんです。関わりが少ないものについては、まず保護者があまり気にしない。それなら、児童生徒も気にしなくなる。すると、教師も、たいていは、そんなに気にしてはいられなくなります。学校もまた、現実の需要によって最も動かされるのですから。今まで教科ではなかった道徳が、あまりきちんと取り組まれなかった理由はつまりこれです。教科になってからでも、「入学者選抜等の他の判断の基礎としたりする」ことはない、と明言したりしたら(それは潔くて立派だな、とは思いますけど)、いったいなんのためにこんなものがあるのか、誰にもわからない、なんてことにすらなりかねません。
 道徳教育を推進しようとする側にとっては、これは当然面白くないでしょう。どうすればいいのか。手っ取り早いやり方は、上で述べたことから自然に浮かんでくるでしょう。「資料2 道徳教育の評価について」にあった指摘とは真逆に、入試で使わせることです。
 さすがにそれはない、と信じたいですねえ。道徳の授業をちゃんとやって評価がよくなると、いい高校・大学へ行きやすくなる。だからちゃんとやる、なんてことが道徳的と言えますか? こんなところにつながりがちなので、私は制度(この場合具体的には学校制度)が道徳に直接関わろうとするのはやめるべきだと考えるのです。関わること自体が不道徳的だとさえ言えるんじゃないか、と。
 実際問題としては、現在、ちょっと危ないかな、と思える方向は、道徳教育からは別の場所から出てきています。大学入試を「人物(評価)重視」に改めるという、一部では話題になっているアレです。ただ、マスコミの報道とは違い、政府側の、中教審などから出てきている文書には、この言葉はほとんど見当たりません。具体的な改革の方針としてまとまったものだと、教育再生実行会議が平成25年10月31日に出した「高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について」(第四次提言)中の次の文が端的に伝えています。

○ 各大学は、学力水準の達成度の判定を行うとともに、面接(意見発表、集団討論等)、論文、高等学校の推薦書、生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動(生徒会活動、部活動、インターンシップ、ボランティア、海外留学、文化・芸術活動やスポーツ活動、大学や地域と連携した活動等)、大学入学後の学修計画案を評価するなど、アドミッションポリシーに基づき、多様な方法による入学者選抜を実施し、これらの丁寧な選抜による入学者割合の大幅な増加を図る。その際、企業人など学外の人材による面接を加えることなども検討する。

 一言で言えばAO入試を拡大しろ、ということです。その際、様々な記録(ポートフォリオ)やら面接(パフォーマンス)から受験生の人物(でしょう?)を評価すべきなんだと。ところで、同じようなことを、道徳の評価についても言われていたのです。それが記録され、調査書にも記載される。それでいて入試選抜の材料に使わない理由なんて、ありますか?
 で、使う、それもかなり大きな比重で、となった日には、前述の問題の他に、その評価の適正さはしばしば疑問視されることにもなるでしょう。数値ではない、基準もはっきりしない評価には、いかようにも文句をつけられますから、評価者である教員がよほどうまくやらない限り、収拾がつかない事態になることだってあり得ます。そうなったほうが面白いかもな、それで初めてみんな、この種の「評価」の危うさを意識するだろうから、なんて気分にもついなってしまいがちな私です。
 しかしそれにしても。道徳教育からは少し離れますが、この種の入試改革案は、一昔前からずっと続いてきていて、今までに何をもたらしたのでしょう。AO入試は、低偏差値大学では、学力にも「人物」にもほとんど関係なく、経営の見地から、学生を早い段階で集める「青田刈り」の手段と化しています。現在の教育再生会議の座長は早稲田大学の総長(因みに中教審の会長は元慶応義塾塾長)ですが、自分とこのAO入試ではどういう成果があったのか。重要な参考になると思うのに、なんで資料を出さないんでしょう。
 単に事務的な話でも、例えば面接なんて本当にやるつもりでいるんでしょうか。早稲田大学法学部には六千人からの受験者がいます。本当を言えば、調査書だってそんなにちゃんと見ているとは思えません。全員を面接するとしたら、一日に百人やるとして六十日、つまり二か月かかります。たぶん、ペーパーテストや書類審査で定員の倍ぐらいにしぼってから実施する、なんて考えているのかも知れませんが、それでも定員は約七百人ですから、千四百人は面接することになります。外部の人の手を借りるにしても、複数の面接官、それも全受験者を見ているわけではない(一人で千四百人には会えませんよね)人々の間の、採点基準の統一を「丁寧に」図ることはできるのか。【実際は、定員のせいぜい一割ほどを別枠にして、それも調査書の評定平均が5段階で4.5以上とかの受験資格を設けて絞り込んだうえで、この別枠受験者にだけは面接をする、ということになるでしょう。これなら、二百人以内で済みそうです。今のAO入試もこんなもんですが、名前だけ変えたりしましてね。肝心なのは、実質的には、大した変りはない、変えることはできない、というところです。】
 まあ、私などには余計な心配でしかありませんが、どうも余計な苦労を自ら招いているように思えてなりません。、
 最後に、この第四次提言で、唯一「人物評価」という言葉が出ているところを紹介しましょう。

 国は、メリハリある財政支援により、以上の取組を行う大学を積極的に支援する。国及び大学は、大学入学者選抜の改革について、その成果を検証し、継続的な改善に取り組む。公務員の採用においては、特に平成14年度以降、人物評価の重視に向けた見直しが図られてきており、引き続き能力・適性等の多面的・総合的な評価による多様な人材の採用が行われることが期待される。

 人物評価重視は、直接には公務員採用について言われているわけです。それで、その結果、平成14年度以降になった人は、みんな立派な公務員なんでしょうか? 出し惜しみせずに、資料を見せてくださいよ。
 それからまた、「メリハリある財政支援」とは、先ほどの入試会改革を積極的にやる大学には予算・補助金を多く与えよう、ということですね。「金をやるから、言う通りにしろ」と。お上の諮問機関も、ずいぶん道徳的なことを言うもんなんだなあ、と思わざるを得ません。

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