これ、ヒドくないですか?
私の塾は、個別指導のみです。いわゆる集団指導はありません。だから当然のことながら、親御さんは、こまやかな指導を期待して、お子さんを私の塾に預けます。その延長で私は、親御さんとのコミュニケーションも密に図ろうとしています。その方が安心していただけるのではないかと思ってのことです。なにせ商売。顧客の満足があってはじめてお店が成り立ちます。しかし、どこぞの大手塾のごとく毎回のように電話するのは相手も迷惑に感じると思うので、毎回授業報告書を作成し、その中の所見欄に、教えていて気がついたことやお伝えしたいことを書き記して、生徒さんを通じて親御さんに読んでいただくことにしています。所見欄の下には、親御さんの感想を書いていただく欄があります。特別なにもなければ、「よろしくお願いいたします」とだけ書いてくるのですが、長文にわたる場合も散見されます。
そんななかの一例。ある生徒さんが私に「学校の授業で、みんなが見ているところで発表するのが苦手。塾では気軽に話せるんだけど、学校だとなんか違ってしまう」と授業が終わった後に言いました。私は、「人前でアガるのは、当たり前のこと。君だけじゃない。そう思うと、少しはリラックスできるんじゃないかな」と、あまり頼りにならないアドバイスをしました。
生徒さんとのそういうやり取りを所見欄に書き記したところ、彼女のお母さんからおおむね次のような返事が返ってきました。「娘は、小学校低学年のときのクラス担任から、しばしば『あなたには吃りがある』とみんなの前で指摘されました。それ以来、人前で発表したり、挙手して意見を言ったりすることに臆病になってしまったようです。」
「それはとても残念なできごとですね」と抑えた筆遣いの返事を書き添えましたが、実は煮えたぎる感情がせり上がってきたのでした。むろん、そういう物言いをした教師に対してです。
お母さんのおっしゃることが事実だとしたら、みなさんは、どう思われますか。
私は、その担任の言葉は無神経に過ぎると思います。人は自分が他人より劣っている点、あるいは、人並みにできないことについて、だれに言われなくても、過剰なくらいに意識しているものです。そのことについて、年齢はあまり関係がないと思います。むしろ子どもの方が、まだ客観的に世界をつかむすべを手中にしていないぶん、気に病む程度がはなはだしい面があるのかもしれません。
私の場合、小学校時代逆上がりができないことをひどく思い悩み、誰もいなくなった校庭で何日間も暗くなるまで練習し続けた記憶があります。しかし、ついにダメで、誰に言われたわけでもないのですが、「オレはダメな奴だ」と自分を苛みました。もしも担任の先生から「美津島くん。クラスで逆上がりができないのはあなただけよ。大きい成りをしているのにおかしいわね」などとみんなの前で言われたら、谷底に突き落とされたような気持ちになったことでしょう。そうして、心に理不尽なコンプレクスの烙印をおされてしまったにちがいありません。ついに逆上がりができなかった自分としては、そういう想像がおのずと湧いてくるのです。
その生徒さんは多くを語りませんが、おそらくとても悲しい思いをしたのでしょう。しょぼんとして母親にその事実を伝えた小さな姿が浮かんできます。学校の教師の悪口をあまり言いたがらない生徒さんなので、その情景を想像すると、こちらまで悲しい気分になってきます。
お母さんの言から察するに、その記憶は、いわゆるトラウマとして残ったことになります。中学生になっても、人前で発表したり意見を言ったりするときに、そのときの記憶が無意識のうちにうごめいて、彼女の心をとらえて離さない、ということになっているような気がします。
とはいうものの彼女は、ひたすらなる哀れな被害者であることにとどまったわけではなさそうです。というのは、彼女の言動には、その記憶と闘った痕跡が見受けられるからです。
こちらの質問に答えようとするとき、彼女は、しばらく黙っていて、その後おもむろに話し始めるのです。つまり彼女は、吃音の波のようなものが過ぎ去るまで待つことを覚えたのではないかと思われます。人前で吃音を晒さないように工夫することによって、彼女は、無防備に受けてしまった言葉の暴力の記憶を乗り越えようとしたし、いまも、乗り越えようとしているのでしょう。その孤独な闘いと無言の試行錯誤の過程は、無神経な発言を繰り返した元担任のあずかり知らぬことでしょうが。
しかしながら、その何秒間か続く工夫をそれとして理解してくれる教師やクラスメートがいま何人いるのか、私には分かりません。
最後に、ちょっとだけエラそうなことを言います。教える立場にある者は、学校教師であろうと、塾の教え屋さんであろうと、生徒の善導を心がけるべきであると思われます。生徒が心得違いを起こして間違った心の構えを身に付けようとしているときは、心を鬼にして、叱責することはかまわないでしょうし、事実私は、そうしています。そういうときは、商売は関係ありません(そこが塾商売を営む者としてダメなところなのでしょうが)。
が、いろいろな意味で人並みのことをするのに苦慮してあがいている生徒に対しては、心から励まし、少しでも自信をつけさせるのが、教える立場にある者の、ルール・マナー・エチケットではないかと思われます。
その意味で、無神経な言動を繰り返し、彼女の心に傷を負わせたその担任は、教える立場にある者として、ルール違反者、良きマナーの心得のない野蛮人、エチケットを体得していない無作法者ということになりましょう。
私がそういうことをしてしまえば、市場からサンクションを受けます。つまり、生徒が辞め、近所に悪評が広がり、新しい生徒が誰も来なくなって、オマンマを食い上げる、という当然の暗い未来が待ち受けています。それは嫌なので、ごく普通の振る舞いをしようとします。おそらく、そういう形で常識なるものが担保されているのでしょう(別に市場経済を礼賛しているわけではありませんよ)。
その教師の場合はどうでしょうか。何のサンクションも受けずにのうのうと毎月決まった給料を受け取り、相変わらず無防備な生徒を無自覚に傷つけ続け、年金を手にする日を指折り数えて待っているのでしょうか。とすれば、少々羨ましい気もしますし、呪わしくもあります。
別に、こんなつぶやきのような文章で、学校教師バッシングをしようなんて大それた意図はありませんよ、あしからず。
私の塾は、個別指導のみです。いわゆる集団指導はありません。だから当然のことながら、親御さんは、こまやかな指導を期待して、お子さんを私の塾に預けます。その延長で私は、親御さんとのコミュニケーションも密に図ろうとしています。その方が安心していただけるのではないかと思ってのことです。なにせ商売。顧客の満足があってはじめてお店が成り立ちます。しかし、どこぞの大手塾のごとく毎回のように電話するのは相手も迷惑に感じると思うので、毎回授業報告書を作成し、その中の所見欄に、教えていて気がついたことやお伝えしたいことを書き記して、生徒さんを通じて親御さんに読んでいただくことにしています。所見欄の下には、親御さんの感想を書いていただく欄があります。特別なにもなければ、「よろしくお願いいたします」とだけ書いてくるのですが、長文にわたる場合も散見されます。
そんななかの一例。ある生徒さんが私に「学校の授業で、みんなが見ているところで発表するのが苦手。塾では気軽に話せるんだけど、学校だとなんか違ってしまう」と授業が終わった後に言いました。私は、「人前でアガるのは、当たり前のこと。君だけじゃない。そう思うと、少しはリラックスできるんじゃないかな」と、あまり頼りにならないアドバイスをしました。
生徒さんとのそういうやり取りを所見欄に書き記したところ、彼女のお母さんからおおむね次のような返事が返ってきました。「娘は、小学校低学年のときのクラス担任から、しばしば『あなたには吃りがある』とみんなの前で指摘されました。それ以来、人前で発表したり、挙手して意見を言ったりすることに臆病になってしまったようです。」
「それはとても残念なできごとですね」と抑えた筆遣いの返事を書き添えましたが、実は煮えたぎる感情がせり上がってきたのでした。むろん、そういう物言いをした教師に対してです。
お母さんのおっしゃることが事実だとしたら、みなさんは、どう思われますか。
私は、その担任の言葉は無神経に過ぎると思います。人は自分が他人より劣っている点、あるいは、人並みにできないことについて、だれに言われなくても、過剰なくらいに意識しているものです。そのことについて、年齢はあまり関係がないと思います。むしろ子どもの方が、まだ客観的に世界をつかむすべを手中にしていないぶん、気に病む程度がはなはだしい面があるのかもしれません。
私の場合、小学校時代逆上がりができないことをひどく思い悩み、誰もいなくなった校庭で何日間も暗くなるまで練習し続けた記憶があります。しかし、ついにダメで、誰に言われたわけでもないのですが、「オレはダメな奴だ」と自分を苛みました。もしも担任の先生から「美津島くん。クラスで逆上がりができないのはあなただけよ。大きい成りをしているのにおかしいわね」などとみんなの前で言われたら、谷底に突き落とされたような気持ちになったことでしょう。そうして、心に理不尽なコンプレクスの烙印をおされてしまったにちがいありません。ついに逆上がりができなかった自分としては、そういう想像がおのずと湧いてくるのです。
その生徒さんは多くを語りませんが、おそらくとても悲しい思いをしたのでしょう。しょぼんとして母親にその事実を伝えた小さな姿が浮かんできます。学校の教師の悪口をあまり言いたがらない生徒さんなので、その情景を想像すると、こちらまで悲しい気分になってきます。
お母さんの言から察するに、その記憶は、いわゆるトラウマとして残ったことになります。中学生になっても、人前で発表したり意見を言ったりするときに、そのときの記憶が無意識のうちにうごめいて、彼女の心をとらえて離さない、ということになっているような気がします。
とはいうものの彼女は、ひたすらなる哀れな被害者であることにとどまったわけではなさそうです。というのは、彼女の言動には、その記憶と闘った痕跡が見受けられるからです。
こちらの質問に答えようとするとき、彼女は、しばらく黙っていて、その後おもむろに話し始めるのです。つまり彼女は、吃音の波のようなものが過ぎ去るまで待つことを覚えたのではないかと思われます。人前で吃音を晒さないように工夫することによって、彼女は、無防備に受けてしまった言葉の暴力の記憶を乗り越えようとしたし、いまも、乗り越えようとしているのでしょう。その孤独な闘いと無言の試行錯誤の過程は、無神経な発言を繰り返した元担任のあずかり知らぬことでしょうが。
しかしながら、その何秒間か続く工夫をそれとして理解してくれる教師やクラスメートがいま何人いるのか、私には分かりません。
最後に、ちょっとだけエラそうなことを言います。教える立場にある者は、学校教師であろうと、塾の教え屋さんであろうと、生徒の善導を心がけるべきであると思われます。生徒が心得違いを起こして間違った心の構えを身に付けようとしているときは、心を鬼にして、叱責することはかまわないでしょうし、事実私は、そうしています。そういうときは、商売は関係ありません(そこが塾商売を営む者としてダメなところなのでしょうが)。
が、いろいろな意味で人並みのことをするのに苦慮してあがいている生徒に対しては、心から励まし、少しでも自信をつけさせるのが、教える立場にある者の、ルール・マナー・エチケットではないかと思われます。
その意味で、無神経な言動を繰り返し、彼女の心に傷を負わせたその担任は、教える立場にある者として、ルール違反者、良きマナーの心得のない野蛮人、エチケットを体得していない無作法者ということになりましょう。
私がそういうことをしてしまえば、市場からサンクションを受けます。つまり、生徒が辞め、近所に悪評が広がり、新しい生徒が誰も来なくなって、オマンマを食い上げる、という当然の暗い未来が待ち受けています。それは嫌なので、ごく普通の振る舞いをしようとします。おそらく、そういう形で常識なるものが担保されているのでしょう(別に市場経済を礼賛しているわけではありませんよ)。
その教師の場合はどうでしょうか。何のサンクションも受けずにのうのうと毎月決まった給料を受け取り、相変わらず無防備な生徒を無自覚に傷つけ続け、年金を手にする日を指折り数えて待っているのでしょうか。とすれば、少々羨ましい気もしますし、呪わしくもあります。
別に、こんなつぶやきのような文章で、学校教師バッシングをしようなんて大それた意図はありませんよ、あしからず。
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