偏愛的文学談義(その4) (後藤隆浩・上田仁志)
[まえおき]
昨年末〈偏愛的文学談義〉なる往復書簡形式のブログ記事を始めたのですが、3回で頓挫してしまいました。再開するにあたって、心機一転というほどでもありませんが、今回は、タイトルの通り、後藤と上田のあいだで交わされた談義(じつは携帯メールによるやりとり)をそのまま載せていただこうと思います。今回のテーマも哲学者・木田元ですが、今回はその最終回といたします。
[木田先生の謦咳に接して]
上田 はじめに、今回のブログ記事の一応のねらいを申します。木田元氏の表看板はむろん「哲学」ですが、木田さんには、じつに幅広い関心領域があって、それについては、おりにふれエッセイなどに書かれています。木田さんのエッセイは、自伝的な文章、交友関係、文学や読書に関するもの、音楽や映画の話題などさまざまですが、今回はそうした木田さんの「哲学以外」の側面に目を向けたいと思います。
ところで、私は著作を通してしか木田さんのことは知りません。そこで、木田さんの謦咳に接したことのある後藤さんに、こぼれ話などを伺えればと思います。木田さんの人となりは、文章から受ける印象と比べていかがですか。
後藤 木田先生にお会いする機会を得たのは、最初のエッセイ集『哲学以外』(1997年)が出版された頃です。文章から受ける印象の通りの人柄で、身体と思考を鍛え上げてきた力強さを感じました。『哲学以外』に収録されているエッセイ「哲学の勉強は武術の修業のようなもの」の精神を実感し、以来「追思考」という概念が自分の思考の基層に定着したと思います。2008年にNHKで、爆笑問題コンビが木田先生宅を訪問して哲学の教えを受けるという内容の番組が放送されました。木田先生の語り口、人柄を知ることのできる貴重な映像の記録になったと思います。
『週刊読書人』(2014年9月12日)に掲載された教え子による追悼対談(加賀野井秀一氏と村岡晋一氏)においては、様々なエピソードが紹介されており、木田先生の人柄を知ることのできる貴重なテキストと言えましょう。授業の後のカラオケで同じ歌を繰り返して歌うと、「進歩がない」と木田先生に野次られたとのこと。丸山圭三郎氏、生松敬三氏も木田先生にカラオケの世界に引っ張りこまれ、その結果丸山氏は、『人はなぜ歌うのか』を出版するに至ったということです。この対談で語られている重要な情報として、木田先生が構想していたハイデガー論の決定版のことに留意しておきたいと思います。『存在と時間』のまとめとして「時間と存在」「時間と運命」を書くことが予定されていたとのことです。今後この課題がどのように継承されていくのか、関心を寄せていきたいと思います。
上田 木田さんが〈歌う人〉だという観点はなかなか興味深いです。鑑賞するだけでは満足できず、自ら実践するのを旨としている。徳永恂氏も、「木田元君を偲んで」という追悼文で、「東京で[勉強会を]やった後は、必ずといっていいほど、行きつけの新宿のカラオケバーに寄って、木田、生松、丸山といった名手たちの自慢の咽喉を聞かせてもらうのが常だった」と書いています。木田さんによれば「哲学の勉強は武術の修業のようなもの」だということになりますが、カラオケで歌うことも、ただの気晴らしというより、何かしら精進すべきもの、競い合うもの、修業に近いものだったのかもしれませんね。凝り性な性格といったものも感じられます。
[歌謡曲マニア]
上田 ところで、私としては、木田さんがカラオケでいったいどんな曲を歌ったのか、そこらあたりを知りたいところです。というのも、先般刊行された『KAWADE道の手帖 木田元 軽妙洒脱な反哲学』(2014年)を読んだとき、意外な気がして最も印象に残った文章が、加國尚志氏による「反-哲学者の足跡」という解説文の、冒頭の一節ならびに末尾の一節だったからです。冒頭の一節はこうです。
《その人は、小雨のなか、茶色のスーツを着て立っていた。/もんたよしのりの唄う「赤いアンブレラ」が流れる葬儀場の遺影の前にたたずんで、喪服の私は、二〇年以上前にはじめて木田元にあった日のことを思い出していた。/まだ大学院生だった私の目の前に立っていた木田元は、実際の身長よりずっと大きく、とても力が強そうに、見えた。》
もんたよしのりといえば、個性的なハスキーヴォイスで、デビュー曲「ダンシング・オールナイト」(1980年)を軽快に歌い、一世を風靡したヴォーカリストですね。「赤いアンブレラ」は、かれの二番目のシングル曲で、アップテンポだった前曲とは打って変って、哀愁をおびたスローバラードでした。たしかに葬儀場に流れていてもあまり違和感はないかもしれません。ですが、なんといってもメルロ=ポンティ哲学やハイデガー哲学の泰斗の告別式ですからね、ふつうだったら、穏やかなクラシック音楽(たとえば木田さんの好きだったモーツァルト)でも流すのではないでしょうか。ところが、実際は、日本の歌謡曲。じつに意外です。もっとも、木田さんを親しく知る人には、意外でもなんでもないのかもしれませんが。「赤いアンブレラ」は、カラオケ好きだった木田さんの十八番だったのかもしれませんね。
というような次第で、木田さんは日本の歌謡曲のかなりのファンだったらしいのですが、後藤さんは、そのあたりのこぼれ話は耳にしたことがないでしょうか?
後藤 『哲学以外』のはしがきに書いてあるように、木田先生は「日常生活と哲学を勉強することとのはざま」を意識していたようですね。文学書、ミステリー、モーツァルト、はやりの歌、映画、テレビドラマ等を深く楽しんでいたようですね。人間の精神活動全般に対する感度の優れた人だったと思います。『哲学以外』に収録されている「大塚博堂ファンクラブ始末記」は印象に残りますね。「ホサカのこと」では保坂和志氏との交流について書かれています。保坂氏の友人タダ君(小説の登場人物のモデル)のカラオケでの芸は、ただごとではないとのこと。歌が木田先生の幅広い交流の推進力の一つであったと言えそうですね。
上田 なるほど。「大塚博堂ファンクラブ始末記」(1996年)というのは、知る人ぞ知るシンガー・ソングライター大塚博堂の熱心なファンとの交流を楽しげに綴った文章ですが、木田さんはこうしたファンの集いにも、まめに足を運んで楽しんだのですね。その大塚博堂について木田さんはこう記しています。
《大塚博堂、といっても、ご存じの方はほとんどいないと思うが、一九七六年に三十二歳でデビューし、五年後の八一年に急逝した薄幸のシンガー・ソングライターである。心に沁みる叙情的な曲をいくつも作り、それを表情豊かな声で歌ういい歌手だったが、アルバムを八枚残してひっそりと去っていった。》
じつのところ、私自身、大塚博堂(1944~1981年)という歌い手の印象はほとんどありませんでした。木田さんは「過ぎ去りし想い出は」(1977年)という曲を聴いたのがきっかけで熱心な博堂ファンになったそうです。私は「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」(1976年)という彼のデビュー曲が、記憶の片隅にあった気がするくらいです。先日、『大塚博堂・ゴールデンベスト・シングルス』というアルバムを聴いてみましたが、とりわけ印象的だったのは、その声の魅力です、たいへんな美声の持ち主といってもいいでしょう。もちろんたんに美しいというだけでなく、声に表情がある、繊細さと奥行きがあるのです。声の感じや歌いぶりはいくぶん「青葉城恋唄」(1978年)のさとう宗幸(1949年~)を連想させます。二人とも「心に沁みる叙情」派シンガーだといえます。余談ですが、この二人には他にも共通点があります。二人ともフランスのシンガー・ソングライター、ジョルジュ・ムスタキをこの上なく敬愛していたそうです。面白いです。
ところで、さきほどふれた加國氏の文章ですが、末尾の一節はこうです。
《出棺の見送りが終わって、私は、八月真夏の暑い道を北習志野の駅に向かって歩きながら、昔、木田元にモーツァルトについてたずねたときのことを思い出していた。/木田元が小林秀雄の『モーツァルト』が大好きで、モーツァルトについてもエッセイを書いていたことを知っていた私は、モーツァルトならどんな作品がお好きですか? などと、およそまじめくさったことをたずねたのだった。/木田元は、「え、モーツァルト? うん、まあねえ・・・・・・」と言葉をにごし、それからぎらりとメガネの奥の目をかがやかせ、メフィストフェレスのようにニヤリと口角を上げたアイロニカルな笑みをうかべると、「エヘッ、ちあきなおみ、なんかが、ね・・・・・・」/私は、虚をつかれて、ぽかんとした顔をしていたにちがいない。あのときの、いたずらっぽい反哲学者木田元の笑顔が、夏の昼下がりの商店街に長い影を落としてフェイドアウトしていくようだった。》
いきいきと想像力を駆り立てる、味のある文章です。木田さんに、世間向きの顔ではない、別の顔があることを示してくれます。木田さんのモーツァルト好きがマユツバ物だとはいいませんが、ある程度、カムフラージュの役割をしているのはたしかでしょう。本当に好きなのは、ちあきなおみ。これは秘話でもなんでもなくて、たまたま表明する機会が少なかったというだけの話かもしれません。読者は(というか私は)公式イメージのほうに気をとられがちなので、意外に感じてしまうにすぎないのかもしれません。私は、以前、小林秀雄についても、これに近い感じを懐いたことを思い出します。小林秀雄が好んだ音楽といえば、クラシック音楽、とりわけモーツァルトの器楽曲ということになっていますが、そのかれが、めずらしく「江利チエミの声」という短い文章を残しています。
《私は、江利チエミさんのファンである。無精者だから聞きに出向いた事はないが、テレビでは、よく聞くし、レコードも持っている。そんな事を云ったら、新聞の方が、では、何故ファンなのか書けと云う。それは無理な話で、ファンはファンであってたくさんだと思うのだが。私は、江利チエミさんの歌で、一番感心しているのは、言葉の発音の正確である。この正確な発音から、正確な旋律が流れ出すのが、聞いていてまことに気持ちがいい。》 (朝日新聞に掲載、1962年)
江利チエミはジャズ歌手ですから、「言葉の発音の正確」というのは、おもに英語の発音の正確さをいっているのでしょうか。あるいは、日本語も含めての発音の正確さでしょうか。おそらく両方とも、という意味なのでしょう。曲目など、具体例があげられていないので、そのへんはさだかではありません。しかし、一説によると、小林秀雄は、江利チエミのレコードはすべて持っていたそうですから、本当に理屈抜きに好きだったのはたしかなようです。小林秀雄が、カラオケで「テネシー・ワルツ」を熱唱する姿は想像を絶しますが、酔っ払った勢いで、ワンフレーズ口ずさむくらいのことはあったにちがいありません。ついでにいえば、小林の戦後の代表作が、モオツァルト論であって、江利チエミ論でなかったというのは、当時の文壇の常識からいっても無理はありませんが、なんだかさびしい気がします。
さて、ちあきなおみに話を戻しましょう。木田さんに「アゲイン」(2001年発表)というタイトルの文章があります。映画『時代屋の女房』(1983年)の挿入歌に使われていたのが妙に印象に残ったという一曲「Again」。これを歌っているのがちあきなおみだと知り、木田さんは、フルコーラスを聴きたいばかりにさんざん苦労して収録アルバムを探し回ったということが述べられています。
《昔からちあきなおみという歌手は好きだった。なにしろ歌がうまい。歌に情感がこもっている。「さだめ川」や「矢切の渡し」など泣きたいくらいいい。この二曲、どうしてかその後細川たかしが唄うようになったが、ちあきなおみのほうがずっと味があった。》《歌のうまい下手は他人の歌を唄わせてみるとよく分かる。この子くらい、ほかの歌手の歌を唄わせてうまい唄い手はいない。》《ちあきなおみさん、世紀の替わったところで心機一転、それこそもう一度[アゲイン]、あのあでやかな姿を見せ、あのうまい歌を聴かせてくれないだろうか。》
一読して明らかなように、これはちあきなおみに捧げた熱烈なオマージュです。また、木田さんの歌謡曲好きの一端がしのばれる好エッセイだと思います。しかし残念なことに、好きだった歌謡曲について、文章のかたちで、木田さんが残したものは数少ないのです。私としては、そのへんの話をもっと書いてもらいたかったという気がします。
[木田さんの交友関係]
上田 さて、このあたりで木田さんの交友関係に話題を移しましょうか。後藤さん、そのあたりについてはいかがですか。
後藤 戦後の混乱期を経て、木田先生は新設された山形県立農林専門学校に入学します。ここで哲学者阿部次郎の甥にあたる阿部襄先生と出会います。『闇屋になりそこねた哲学者』において、阿部先生には本当に親身に世話をしてもらったと回想しておられます。この農林専門学校の設置という出来事は、当時の社会状況の一面を知る手がかりになります。木田先生の回想の語りによれば、終戦直後には「農業立国」ということがさかんに言われていたとのことです。また、この農林専門学校は満州や台湾から引き揚げてきた教育者の救済機関のような役割もはたしていたとのことです。哲学者斎藤信治氏が講演のために来校したことにより、この学校は、哲学者木田元誕生の源とも言える重要な場所となりました。恩師の阿部襄氏は、唯一の小説作品『柿の実』を執筆しております。昭和30年1月から地元新聞に130回に渡って連載されたものです。逝去後に一冊の本の形にまとめられました。
この作品は、終戦により吉林から帰郷した阿部襄氏の経験が素材となっております。農林専門学校の開校準備および開校後の様子についても丁寧に描かれております。地方における戦後復興の雰囲気を伝える貴重な記録であると言えましょう。若き日の木田先生は、学生木下君として登場しております。結果的に教授と学生の両者がそれぞれの視点から回想のテキストを書いたことになりますね。両テキストには、共通するエピソードもあります。視点、認識、記憶、印象といった人間の精神の働きについて改めて考えてみたいと思います。
上田 その阿部襄先生に関連して、木田さんは、農林専門学校時代の自分自身についてちょっと面白いことをいっています。『なにもかも小林秀雄に教わった』から引用します。
《この新設校[農林専門学校]の先生たちにはいわゆる海外からの引揚者が多かったが、そのなかに満州で父と付き合いのあった先生がいらしたのだ。応用動物学の阿部襄先生である/父は敗戦前、満州国のいわば高級官僚で、日本の文部省にあたる教育司の長官や、日本の人事院にあたる人事処の長官などをしていた。その教育司長時代、吉林市にあった教員養成のための吉林師導大学の先生たちとも交流があったようで、そこにいらした阿部先生には同郷ということもあって親しくしていただいていたらしい。阿部先生の方では、入学願書などで旧知の木田清の長男が入ってくることを知っておられたらしく、最初の授業のあとに声をかけてくださった。/ところが、私の方はそのころすでにワルで名を売っていたのでややこしいことになった。阿部先生や知性派の友人の前ではいい子ぶっていたが、ほかの先生や同級生たちの前ではワルぶってみせなければならない。複雑な二重人格を演じ分けることになった。》
若き日の木田さんは、敗戦後の混乱の中で、家族を養う必要があり、闇屋家業に手を染めていた。そうしたことは、今となってはなかなか想像できませんが、多分にアウトローな生活を余儀なくされていたのでしょう。学生生活においても、いわゆるバンカラとはちがうかもしれませんが、ある種の粗野さを振りまきながら、そのじつ、不安や充ち足りない心をもてあましていたのです。そうした気分を忘れようとして、手当たり次第に本を読みあさりもしたといいます。イイコとワルとの二極分裂。相当深刻な精神的危機をくぐりぬけたのだと思います。
もう一つ留意しておきたい点があります。木田さんは、こうした自己成型を率直に書き記していますが、どちらかというと、ワルだったと見られることを好んだらしい、否、そうではなく、ワルを強調することで、結果的に、イイコだった自分をカムフラージュしていたふしがある、ということなのです。三浦雅士氏は、「出発点としての木田元」というエッセイで、こんなことを述べています。
《少なくとも私の印象では、木田さんは生松さんに、自分は戦後、闇屋をやっていたということは強調しても、父が満州の高級官僚でシベリア抑留から帰ってからも新庄市長を何期かつとめた政治家であったということは話していなかったと思う。生松さんの口ぶりでは、木田さんはそもそも哲学をやるような境遇にはなかった、なぜなら闇屋あがりの農林専門学校出なのだから、というわけで、これは何も生松さんが木田さんを貶めているのではなく、木田さんが生松さんに語ったことを、おそらく感心しながらそのまま私に話してくれただけなのである。先祖が山形の素封家――なにしろ芭蕉を泊めた庄屋なのだ――で、父は新庄市長――地元でいまも尊敬されている――だということは、あえていうが、おくびにも出さなかったのだとしか思えない。》
三浦氏のこうした印象が事実だとすれば、木田さんは、盟友といわれる生松さんにも、ワルの面だけ見せて、イイコの面は明かさなかったことになります。そのことにはたして特別の意味があったかどうかはわからないのですが、気になっています。つねに穿った意見を述べる癖のある三浦氏は、木田さんには、十代の頃の自分が抱えていた「不安と疑惑」が正当なものだという確信があったのだといいます。さらに、その確信は、木田さんが江田島海兵学校の一年生のときに、原爆を目撃した体験から来ているのだというのです。
《不安と疑惑に苛まれるのは自分が劣っているからではない。むしろ苛まれないほうがおかしい。原爆を生んだ理性に対しては根源的な不安と疑惑をもって当然なのだ、という確信があったのだと思う。》
ヨーロッパ中心主義、理性中心主義に対する批判ということなら、たしかに、後年の木田さんの反哲学構想につながっています。しかし、かりに木田さんが「不安と疑惑」の正当性を確信していたからといって、イイコの自分を見せたがらなかった理由にはなりません。むしろ、そこには恥じらいの意識というか、独得のこだわりがあるような気がします。しかし、今のところ、材料もないのでこの話はやめにします。些末なことにこだわりすぎたかもしれません。失礼しました。
木田さんの交友関係がテーマでした。後藤さんが他に注目する人はいますか。
後藤 『哲学以外』収録の「佐伯先生のこと」は、佐伯彰一氏との交流についてのエッセイです。中央大学内の遠距離通勤教職員用宿泊設備に偶然同じ曜日に宿泊していたことから朝食を御一緒するようになったとのことです。この「朝餉の会」と名付けられた朝食会においてどのような話が展開されたのか、我々読者としても知りたいところです。幸いなことに雑誌『大航海』第38号(2001年4月)に、佐伯彰一氏と木田元氏の対話「思想の力・文学の力」が掲載されております。この対話を「朝餉の会」の拡大版テキストとして読んでみると楽しいと思います。この対話において、木田先生は保田與重郎に関して次のように発言されています。
《桶谷秀昭の『昭和精神史』は、戦前・戦後篇を通して昭和の初めから二・二六事件、さらに三島の自決までを一つの歴史として描いています。その歴史を貫いているのが、「情」としての日本、という概念だという。ただね、その「情」としての日本、というのがぼくにはわからないんです。どうも桶谷さんはその概念を保田與重郎から学んだ、ということらしい。保田がその「情」としての日本なるものを、生まれ育った大和の地から感得したのだとすると、満州育ちのぼくに分からなくても当然ということになるのですが。》
このような保田に関するする問題は持続的に考察されたようで、2008年出版の『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書)の最終章「小林秀雄と保田與重郎」において詳しく論じられております。保田與重郎問題は我々が個人のレベルでクリアしなければならない課題ですね。昭和文学史、昭和精神史の領域に、木田先生は、独自の見解を示してくださったように思います。
上田 佐伯彰一氏については、ぜひともこの文学談義でもとりあげたいですね。「佐伯先生のこと」の中で、木田さんは「私は先生のご本のなかでも、特に『物語芸術論』が好きで、かれこれ三、四回は読み返している」といっています。コンラッド、フォークナー、谷崎・芥川論争などをとりあげたこの評論は、出色の出来です。保田與重郎については、木田さんが私淑した小林秀雄の対極にあるような、もう一人の大きな存在として、徐々に意識せざるをえなくなったのだと思います。木田さんは満州育ちなので、日本的な「情」ということがわからない、という発言は、どのような思想史的文脈でとらえるのがいいのか、よく考えてみる必要があります。たとえば、木田さんには、左翼体験はなかったらしい。したがっていわゆる転向問題も生じなかったようです。このことも、はたして満州育ちと関係があるのかないのか、といったことですね。
(おわり)
[まえおき]
昨年末〈偏愛的文学談義〉なる往復書簡形式のブログ記事を始めたのですが、3回で頓挫してしまいました。再開するにあたって、心機一転というほどでもありませんが、今回は、タイトルの通り、後藤と上田のあいだで交わされた談義(じつは携帯メールによるやりとり)をそのまま載せていただこうと思います。今回のテーマも哲学者・木田元ですが、今回はその最終回といたします。
[木田先生の謦咳に接して]
上田 はじめに、今回のブログ記事の一応のねらいを申します。木田元氏の表看板はむろん「哲学」ですが、木田さんには、じつに幅広い関心領域があって、それについては、おりにふれエッセイなどに書かれています。木田さんのエッセイは、自伝的な文章、交友関係、文学や読書に関するもの、音楽や映画の話題などさまざまですが、今回はそうした木田さんの「哲学以外」の側面に目を向けたいと思います。
ところで、私は著作を通してしか木田さんのことは知りません。そこで、木田さんの謦咳に接したことのある後藤さんに、こぼれ話などを伺えればと思います。木田さんの人となりは、文章から受ける印象と比べていかがですか。
後藤 木田先生にお会いする機会を得たのは、最初のエッセイ集『哲学以外』(1997年)が出版された頃です。文章から受ける印象の通りの人柄で、身体と思考を鍛え上げてきた力強さを感じました。『哲学以外』に収録されているエッセイ「哲学の勉強は武術の修業のようなもの」の精神を実感し、以来「追思考」という概念が自分の思考の基層に定着したと思います。2008年にNHKで、爆笑問題コンビが木田先生宅を訪問して哲学の教えを受けるという内容の番組が放送されました。木田先生の語り口、人柄を知ることのできる貴重な映像の記録になったと思います。
『週刊読書人』(2014年9月12日)に掲載された教え子による追悼対談(加賀野井秀一氏と村岡晋一氏)においては、様々なエピソードが紹介されており、木田先生の人柄を知ることのできる貴重なテキストと言えましょう。授業の後のカラオケで同じ歌を繰り返して歌うと、「進歩がない」と木田先生に野次られたとのこと。丸山圭三郎氏、生松敬三氏も木田先生にカラオケの世界に引っ張りこまれ、その結果丸山氏は、『人はなぜ歌うのか』を出版するに至ったということです。この対談で語られている重要な情報として、木田先生が構想していたハイデガー論の決定版のことに留意しておきたいと思います。『存在と時間』のまとめとして「時間と存在」「時間と運命」を書くことが予定されていたとのことです。今後この課題がどのように継承されていくのか、関心を寄せていきたいと思います。
上田 木田さんが〈歌う人〉だという観点はなかなか興味深いです。鑑賞するだけでは満足できず、自ら実践するのを旨としている。徳永恂氏も、「木田元君を偲んで」という追悼文で、「東京で[勉強会を]やった後は、必ずといっていいほど、行きつけの新宿のカラオケバーに寄って、木田、生松、丸山といった名手たちの自慢の咽喉を聞かせてもらうのが常だった」と書いています。木田さんによれば「哲学の勉強は武術の修業のようなもの」だということになりますが、カラオケで歌うことも、ただの気晴らしというより、何かしら精進すべきもの、競い合うもの、修業に近いものだったのかもしれませんね。凝り性な性格といったものも感じられます。
[歌謡曲マニア]
上田 ところで、私としては、木田さんがカラオケでいったいどんな曲を歌ったのか、そこらあたりを知りたいところです。というのも、先般刊行された『KAWADE道の手帖 木田元 軽妙洒脱な反哲学』(2014年)を読んだとき、意外な気がして最も印象に残った文章が、加國尚志氏による「反-哲学者の足跡」という解説文の、冒頭の一節ならびに末尾の一節だったからです。冒頭の一節はこうです。
《その人は、小雨のなか、茶色のスーツを着て立っていた。/もんたよしのりの唄う「赤いアンブレラ」が流れる葬儀場の遺影の前にたたずんで、喪服の私は、二〇年以上前にはじめて木田元にあった日のことを思い出していた。/まだ大学院生だった私の目の前に立っていた木田元は、実際の身長よりずっと大きく、とても力が強そうに、見えた。》
もんたよしのりといえば、個性的なハスキーヴォイスで、デビュー曲「ダンシング・オールナイト」(1980年)を軽快に歌い、一世を風靡したヴォーカリストですね。「赤いアンブレラ」は、かれの二番目のシングル曲で、アップテンポだった前曲とは打って変って、哀愁をおびたスローバラードでした。たしかに葬儀場に流れていてもあまり違和感はないかもしれません。ですが、なんといってもメルロ=ポンティ哲学やハイデガー哲学の泰斗の告別式ですからね、ふつうだったら、穏やかなクラシック音楽(たとえば木田さんの好きだったモーツァルト)でも流すのではないでしょうか。ところが、実際は、日本の歌謡曲。じつに意外です。もっとも、木田さんを親しく知る人には、意外でもなんでもないのかもしれませんが。「赤いアンブレラ」は、カラオケ好きだった木田さんの十八番だったのかもしれませんね。
というような次第で、木田さんは日本の歌謡曲のかなりのファンだったらしいのですが、後藤さんは、そのあたりのこぼれ話は耳にしたことがないでしょうか?
後藤 『哲学以外』のはしがきに書いてあるように、木田先生は「日常生活と哲学を勉強することとのはざま」を意識していたようですね。文学書、ミステリー、モーツァルト、はやりの歌、映画、テレビドラマ等を深く楽しんでいたようですね。人間の精神活動全般に対する感度の優れた人だったと思います。『哲学以外』に収録されている「大塚博堂ファンクラブ始末記」は印象に残りますね。「ホサカのこと」では保坂和志氏との交流について書かれています。保坂氏の友人タダ君(小説の登場人物のモデル)のカラオケでの芸は、ただごとではないとのこと。歌が木田先生の幅広い交流の推進力の一つであったと言えそうですね。
上田 なるほど。「大塚博堂ファンクラブ始末記」(1996年)というのは、知る人ぞ知るシンガー・ソングライター大塚博堂の熱心なファンとの交流を楽しげに綴った文章ですが、木田さんはこうしたファンの集いにも、まめに足を運んで楽しんだのですね。その大塚博堂について木田さんはこう記しています。
《大塚博堂、といっても、ご存じの方はほとんどいないと思うが、一九七六年に三十二歳でデビューし、五年後の八一年に急逝した薄幸のシンガー・ソングライターである。心に沁みる叙情的な曲をいくつも作り、それを表情豊かな声で歌ういい歌手だったが、アルバムを八枚残してひっそりと去っていった。》
じつのところ、私自身、大塚博堂(1944~1981年)という歌い手の印象はほとんどありませんでした。木田さんは「過ぎ去りし想い出は」(1977年)という曲を聴いたのがきっかけで熱心な博堂ファンになったそうです。私は「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」(1976年)という彼のデビュー曲が、記憶の片隅にあった気がするくらいです。先日、『大塚博堂・ゴールデンベスト・シングルス』というアルバムを聴いてみましたが、とりわけ印象的だったのは、その声の魅力です、たいへんな美声の持ち主といってもいいでしょう。もちろんたんに美しいというだけでなく、声に表情がある、繊細さと奥行きがあるのです。声の感じや歌いぶりはいくぶん「青葉城恋唄」(1978年)のさとう宗幸(1949年~)を連想させます。二人とも「心に沁みる叙情」派シンガーだといえます。余談ですが、この二人には他にも共通点があります。二人ともフランスのシンガー・ソングライター、ジョルジュ・ムスタキをこの上なく敬愛していたそうです。面白いです。
ところで、さきほどふれた加國氏の文章ですが、末尾の一節はこうです。
《出棺の見送りが終わって、私は、八月真夏の暑い道を北習志野の駅に向かって歩きながら、昔、木田元にモーツァルトについてたずねたときのことを思い出していた。/木田元が小林秀雄の『モーツァルト』が大好きで、モーツァルトについてもエッセイを書いていたことを知っていた私は、モーツァルトならどんな作品がお好きですか? などと、およそまじめくさったことをたずねたのだった。/木田元は、「え、モーツァルト? うん、まあねえ・・・・・・」と言葉をにごし、それからぎらりとメガネの奥の目をかがやかせ、メフィストフェレスのようにニヤリと口角を上げたアイロニカルな笑みをうかべると、「エヘッ、ちあきなおみ、なんかが、ね・・・・・・」/私は、虚をつかれて、ぽかんとした顔をしていたにちがいない。あのときの、いたずらっぽい反哲学者木田元の笑顔が、夏の昼下がりの商店街に長い影を落としてフェイドアウトしていくようだった。》
いきいきと想像力を駆り立てる、味のある文章です。木田さんに、世間向きの顔ではない、別の顔があることを示してくれます。木田さんのモーツァルト好きがマユツバ物だとはいいませんが、ある程度、カムフラージュの役割をしているのはたしかでしょう。本当に好きなのは、ちあきなおみ。これは秘話でもなんでもなくて、たまたま表明する機会が少なかったというだけの話かもしれません。読者は(というか私は)公式イメージのほうに気をとられがちなので、意外に感じてしまうにすぎないのかもしれません。私は、以前、小林秀雄についても、これに近い感じを懐いたことを思い出します。小林秀雄が好んだ音楽といえば、クラシック音楽、とりわけモーツァルトの器楽曲ということになっていますが、そのかれが、めずらしく「江利チエミの声」という短い文章を残しています。
《私は、江利チエミさんのファンである。無精者だから聞きに出向いた事はないが、テレビでは、よく聞くし、レコードも持っている。そんな事を云ったら、新聞の方が、では、何故ファンなのか書けと云う。それは無理な話で、ファンはファンであってたくさんだと思うのだが。私は、江利チエミさんの歌で、一番感心しているのは、言葉の発音の正確である。この正確な発音から、正確な旋律が流れ出すのが、聞いていてまことに気持ちがいい。》 (朝日新聞に掲載、1962年)
江利チエミはジャズ歌手ですから、「言葉の発音の正確」というのは、おもに英語の発音の正確さをいっているのでしょうか。あるいは、日本語も含めての発音の正確さでしょうか。おそらく両方とも、という意味なのでしょう。曲目など、具体例があげられていないので、そのへんはさだかではありません。しかし、一説によると、小林秀雄は、江利チエミのレコードはすべて持っていたそうですから、本当に理屈抜きに好きだったのはたしかなようです。小林秀雄が、カラオケで「テネシー・ワルツ」を熱唱する姿は想像を絶しますが、酔っ払った勢いで、ワンフレーズ口ずさむくらいのことはあったにちがいありません。ついでにいえば、小林の戦後の代表作が、モオツァルト論であって、江利チエミ論でなかったというのは、当時の文壇の常識からいっても無理はありませんが、なんだかさびしい気がします。
さて、ちあきなおみに話を戻しましょう。木田さんに「アゲイン」(2001年発表)というタイトルの文章があります。映画『時代屋の女房』(1983年)の挿入歌に使われていたのが妙に印象に残ったという一曲「Again」。これを歌っているのがちあきなおみだと知り、木田さんは、フルコーラスを聴きたいばかりにさんざん苦労して収録アルバムを探し回ったということが述べられています。
《昔からちあきなおみという歌手は好きだった。なにしろ歌がうまい。歌に情感がこもっている。「さだめ川」や「矢切の渡し」など泣きたいくらいいい。この二曲、どうしてかその後細川たかしが唄うようになったが、ちあきなおみのほうがずっと味があった。》《歌のうまい下手は他人の歌を唄わせてみるとよく分かる。この子くらい、ほかの歌手の歌を唄わせてうまい唄い手はいない。》《ちあきなおみさん、世紀の替わったところで心機一転、それこそもう一度[アゲイン]、あのあでやかな姿を見せ、あのうまい歌を聴かせてくれないだろうか。》
一読して明らかなように、これはちあきなおみに捧げた熱烈なオマージュです。また、木田さんの歌謡曲好きの一端がしのばれる好エッセイだと思います。しかし残念なことに、好きだった歌謡曲について、文章のかたちで、木田さんが残したものは数少ないのです。私としては、そのへんの話をもっと書いてもらいたかったという気がします。
[木田さんの交友関係]
上田 さて、このあたりで木田さんの交友関係に話題を移しましょうか。後藤さん、そのあたりについてはいかがですか。
後藤 戦後の混乱期を経て、木田先生は新設された山形県立農林専門学校に入学します。ここで哲学者阿部次郎の甥にあたる阿部襄先生と出会います。『闇屋になりそこねた哲学者』において、阿部先生には本当に親身に世話をしてもらったと回想しておられます。この農林専門学校の設置という出来事は、当時の社会状況の一面を知る手がかりになります。木田先生の回想の語りによれば、終戦直後には「農業立国」ということがさかんに言われていたとのことです。また、この農林専門学校は満州や台湾から引き揚げてきた教育者の救済機関のような役割もはたしていたとのことです。哲学者斎藤信治氏が講演のために来校したことにより、この学校は、哲学者木田元誕生の源とも言える重要な場所となりました。恩師の阿部襄氏は、唯一の小説作品『柿の実』を執筆しております。昭和30年1月から地元新聞に130回に渡って連載されたものです。逝去後に一冊の本の形にまとめられました。
この作品は、終戦により吉林から帰郷した阿部襄氏の経験が素材となっております。農林専門学校の開校準備および開校後の様子についても丁寧に描かれております。地方における戦後復興の雰囲気を伝える貴重な記録であると言えましょう。若き日の木田先生は、学生木下君として登場しております。結果的に教授と学生の両者がそれぞれの視点から回想のテキストを書いたことになりますね。両テキストには、共通するエピソードもあります。視点、認識、記憶、印象といった人間の精神の働きについて改めて考えてみたいと思います。
上田 その阿部襄先生に関連して、木田さんは、農林専門学校時代の自分自身についてちょっと面白いことをいっています。『なにもかも小林秀雄に教わった』から引用します。
《この新設校[農林専門学校]の先生たちにはいわゆる海外からの引揚者が多かったが、そのなかに満州で父と付き合いのあった先生がいらしたのだ。応用動物学の阿部襄先生である/父は敗戦前、満州国のいわば高級官僚で、日本の文部省にあたる教育司の長官や、日本の人事院にあたる人事処の長官などをしていた。その教育司長時代、吉林市にあった教員養成のための吉林師導大学の先生たちとも交流があったようで、そこにいらした阿部先生には同郷ということもあって親しくしていただいていたらしい。阿部先生の方では、入学願書などで旧知の木田清の長男が入ってくることを知っておられたらしく、最初の授業のあとに声をかけてくださった。/ところが、私の方はそのころすでにワルで名を売っていたのでややこしいことになった。阿部先生や知性派の友人の前ではいい子ぶっていたが、ほかの先生や同級生たちの前ではワルぶってみせなければならない。複雑な二重人格を演じ分けることになった。》
若き日の木田さんは、敗戦後の混乱の中で、家族を養う必要があり、闇屋家業に手を染めていた。そうしたことは、今となってはなかなか想像できませんが、多分にアウトローな生活を余儀なくされていたのでしょう。学生生活においても、いわゆるバンカラとはちがうかもしれませんが、ある種の粗野さを振りまきながら、そのじつ、不安や充ち足りない心をもてあましていたのです。そうした気分を忘れようとして、手当たり次第に本を読みあさりもしたといいます。イイコとワルとの二極分裂。相当深刻な精神的危機をくぐりぬけたのだと思います。
もう一つ留意しておきたい点があります。木田さんは、こうした自己成型を率直に書き記していますが、どちらかというと、ワルだったと見られることを好んだらしい、否、そうではなく、ワルを強調することで、結果的に、イイコだった自分をカムフラージュしていたふしがある、ということなのです。三浦雅士氏は、「出発点としての木田元」というエッセイで、こんなことを述べています。
《少なくとも私の印象では、木田さんは生松さんに、自分は戦後、闇屋をやっていたということは強調しても、父が満州の高級官僚でシベリア抑留から帰ってからも新庄市長を何期かつとめた政治家であったということは話していなかったと思う。生松さんの口ぶりでは、木田さんはそもそも哲学をやるような境遇にはなかった、なぜなら闇屋あがりの農林専門学校出なのだから、というわけで、これは何も生松さんが木田さんを貶めているのではなく、木田さんが生松さんに語ったことを、おそらく感心しながらそのまま私に話してくれただけなのである。先祖が山形の素封家――なにしろ芭蕉を泊めた庄屋なのだ――で、父は新庄市長――地元でいまも尊敬されている――だということは、あえていうが、おくびにも出さなかったのだとしか思えない。》
三浦氏のこうした印象が事実だとすれば、木田さんは、盟友といわれる生松さんにも、ワルの面だけ見せて、イイコの面は明かさなかったことになります。そのことにはたして特別の意味があったかどうかはわからないのですが、気になっています。つねに穿った意見を述べる癖のある三浦氏は、木田さんには、十代の頃の自分が抱えていた「不安と疑惑」が正当なものだという確信があったのだといいます。さらに、その確信は、木田さんが江田島海兵学校の一年生のときに、原爆を目撃した体験から来ているのだというのです。
《不安と疑惑に苛まれるのは自分が劣っているからではない。むしろ苛まれないほうがおかしい。原爆を生んだ理性に対しては根源的な不安と疑惑をもって当然なのだ、という確信があったのだと思う。》
ヨーロッパ中心主義、理性中心主義に対する批判ということなら、たしかに、後年の木田さんの反哲学構想につながっています。しかし、かりに木田さんが「不安と疑惑」の正当性を確信していたからといって、イイコの自分を見せたがらなかった理由にはなりません。むしろ、そこには恥じらいの意識というか、独得のこだわりがあるような気がします。しかし、今のところ、材料もないのでこの話はやめにします。些末なことにこだわりすぎたかもしれません。失礼しました。
木田さんの交友関係がテーマでした。後藤さんが他に注目する人はいますか。
後藤 『哲学以外』収録の「佐伯先生のこと」は、佐伯彰一氏との交流についてのエッセイです。中央大学内の遠距離通勤教職員用宿泊設備に偶然同じ曜日に宿泊していたことから朝食を御一緒するようになったとのことです。この「朝餉の会」と名付けられた朝食会においてどのような話が展開されたのか、我々読者としても知りたいところです。幸いなことに雑誌『大航海』第38号(2001年4月)に、佐伯彰一氏と木田元氏の対話「思想の力・文学の力」が掲載されております。この対話を「朝餉の会」の拡大版テキストとして読んでみると楽しいと思います。この対話において、木田先生は保田與重郎に関して次のように発言されています。
《桶谷秀昭の『昭和精神史』は、戦前・戦後篇を通して昭和の初めから二・二六事件、さらに三島の自決までを一つの歴史として描いています。その歴史を貫いているのが、「情」としての日本、という概念だという。ただね、その「情」としての日本、というのがぼくにはわからないんです。どうも桶谷さんはその概念を保田與重郎から学んだ、ということらしい。保田がその「情」としての日本なるものを、生まれ育った大和の地から感得したのだとすると、満州育ちのぼくに分からなくても当然ということになるのですが。》
このような保田に関するする問題は持続的に考察されたようで、2008年出版の『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書)の最終章「小林秀雄と保田與重郎」において詳しく論じられております。保田與重郎問題は我々が個人のレベルでクリアしなければならない課題ですね。昭和文学史、昭和精神史の領域に、木田先生は、独自の見解を示してくださったように思います。
上田 佐伯彰一氏については、ぜひともこの文学談義でもとりあげたいですね。「佐伯先生のこと」の中で、木田さんは「私は先生のご本のなかでも、特に『物語芸術論』が好きで、かれこれ三、四回は読み返している」といっています。コンラッド、フォークナー、谷崎・芥川論争などをとりあげたこの評論は、出色の出来です。保田與重郎については、木田さんが私淑した小林秀雄の対極にあるような、もう一人の大きな存在として、徐々に意識せざるをえなくなったのだと思います。木田さんは満州育ちなので、日本的な「情」ということがわからない、という発言は、どのような思想史的文脈でとらえるのがいいのか、よく考えてみる必要があります。たとえば、木田さんには、左翼体験はなかったらしい。したがっていわゆる転向問題も生じなかったようです。このことも、はたして満州育ちと関係があるのかないのか、といったことですね。
(おわり)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます