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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

 林芙美子『浮雲』のラスト・シーンについて

2013年12月09日 05時56分49秒 | 文学

新潮文庫 662円

当作品は、成瀬巳喜男監督の映画『浮雲』の原作です。また、林芙美子女史晩年の作でもあります。1949年の十一月から1950年の八月まで雑誌『風雪』に、同年九月から51年の四月まで雑誌『文学界』に連載されました。その約二ヶ月後の六月二十九日午前一時、女史は心臓麻痺のため死去しました。享年四十七歳。人生五十年の当時においても、若死にと言っていいでしょう。

たまたま私は、映画『浮雲』を原作よりも先に観ました。それに深い感銘を受けたことが、おのずとその原作への興味につながりました。映画『浮雲』が一般公開されたのは1955年の一月十五日。原作の完成から四年弱の月日が経っています。主人公の幸田ゆき子を演じたのは高峰秀子で、その恋人の富岡兼悟を演じたのは森雅之です。この二人の演技の絶妙な掛け合い・やりとりが、この映画の深い味わいをもたらしていると言っていいでしょう。高峰・ゆき子の断ち切り難い恋情の執拗さ・激しさを懐深く受けとめる森・高岡の言葉少ない演技の奥深さには、尽きせぬ魅力があります。その場限りの言い訳に終始し、弁護の余地がないほどに甲斐性のない薄情な男を演じながら、女心を吸引してやまない魔力を発散する圧倒的な存在感を観る者に感じさせる森雅之は、映画における演技なるものの奥義を体得した俳優なのではないでしょうか。そこには、理屈では割り切れないものがあるように感じます。

「映画『浮雲』の一番印象に残るシーンをひとつ」と言われたら、十人のうち九人は、ゆき子のデスマスクのラスト・シーンを挙げるのではないでしょうか。かくいう私自身もその一人です。

ゆき子は、富岡への、煩悩と痴情まみれの、腐れ縁としか形容しようのない恋情を断ち切ろうと思ってもどうしても断ち切れず、延々ともがき苦しみ続けました。そんな彼女が、富岡との道行の果てに、当時の「国境の島」屋久島で病魔の暴力によって図らずも命を奪われてしまいます。その臨終の場に居合わせることがかなわなかった富岡が山から戻り、人払いをして、ひとりでゆき子のデスマスクと向き合います。富岡は、ランプを引き寄せてゆき子の蒼白の顔を照らし出し、おもむろにゆき子の口紅に手を伸ばして、その唇に紅を引きます。そのときのゆき子のデスマスクは、聖性を帯びた崇高美を体現しています。煩悩から崇高美への無言の昇華は観る者に強い印象を与えます。富岡は、自分が失ったもののかけがえのなさにはじめて気づき、肩を落とし、全身を小刻みに震わせます。その孤独な無言の後ろ姿を写して映画は終わります。

では、この場面を原作はどう表現しているのでしょうか。まずは、ゆき子の孤独な臨終の場面から。ゆき子が下の引用文中で触れている仏印の思い出とは、営林署の職員として戦争のさなかに仏印(ベトナム)に別々に渡った二人が高原のダラットで出会い、恋に落ち、蜜月の日々を送った熱帯の甘味な記憶のことです。恋の陶酔のさなかで富岡は、内地に戻ったら、親も妻子も捨ててお前と結婚するとゆき子に誓ったのでした。しかし、内地に戻った富岡を待っていたのは、彼だけを頼りにする親や妻子とのどうしようもないしがらみでした。そこから、富岡はどうしても抜け出すことができなかったのです。それを仕方のないことと半ば諦めながらも、ゆき子は、ダラットの陶酔の日々をどうしても忘れることができなかったのです。

・・・・ゆき子は、胸もとに、激しい勢いで、ぬるぬるしたものを噴きあげて来た。息が出来ない程の胸苦しさで、ゆき子は、ぐるぐると軀を動かしていた。両手を鼻や口へ持って行ったが、噴きあげるぬるぬるはとまらないのだ。息も出来ない。声も出ない。蒲団も毛布も、枕も、噴き上げる血のりで汚れた。(中略)仏印での様々な思い出が、いまは、思い出すだにものうく、ゆき子はぬるぬるした血をうっうっと咽喉のなかへ押し戻しながら、生埋めにされる人間のように、ああ生きたいとうめいていた。ゆき子は、死にたくはなかった。頭の中は氷のように冷くさえざえとしながら、軀は自由にならなかった。


ゆき子は、「生埋めにされる人間のように、ああ生きたいとうめ」きながら死んでいったのです。そこにはまるで神も仏も救いもなにもないかのようです。次は、富岡がゆき子のデスマスクとひとりで向き合う場面です。ちょっと長くなります。

ゆき子は、相当苦しんだとみえる。四囲の血の汚れが、富岡の眼をとらえた。富岡は、何をする気力もない。次の部屋の火鉢に、しゅんしゅんと煮えたっている湯を金盥(かなだらい)にうつして、それにタオルを浸し、富岡は、ゆき子の顔を拭いてやった。いつも枕もとに置いているハンドバッグから、紅棒を出して唇へ塗ってやったが、少しものびなかった。タオルで眉のあたりを拭っている時、富岡は、何気なく、ゆき子の瞼を吊るようにして、開いてみた。ゆき子の唇がふっと動いた気がした。「もう、そっとさせておいて‥‥‥」と云っているようだ。(中略)ランプをそばによせて、じいっと、ゆき子の眼を見ていた。哀願している眼だ。富岡はその死者の目から、無量な抗議を聞いているような気がした。ハンドバッグから櫛を出して、かなり房々した死者の髪を、くしけずって、束ねてやった。死者は、いまこそ、生きたものから、何一つ、心づかいを求めてはいない。されるがままに、されているだけである。(中略)二人の昔の思い出が、酔った脳裡を掠め、富岡は、瞼を熱くしていた。(中略)風が出た。ゆき子の枕許のローソクの灯が消えた。富岡は、よろめきながら、新しいローソクに灯を点じ、枕許へ置きに行った。面のように、表情のない死者の顔は、孤独に放り出された顔だったが、見るものが、淋しそうだと思うだけのものだと、富岡はゆき子の額に手をあててみる。だが、すぐ、生き身でない死者の非情さが、富岡の手を払いのけた。富岡は、新しい手拭も、ガーゼもなかったので、半紙の束を、屋根のように拡げて、ゆき子の顔へ被せた。


ひとりぼっちでゆき子の死を悼む寡黙な富岡の姿が、感傷を交えぬ淡々とした筆致で描かれています。この冷静な筆致に、私はリアリスト林芙美子女史の尋常ではない物書き魂を感じます。

ここで、ひとつ気になることがあります。映画『浮雲』のゆき子の死には無言の救いがありました。そういうものが原作のゆき子の死には見当たらないような気がするのです。それはそれでかまわないといえばそうなのですが、ちょっと引っかかるところがあるので、そのことにこだわってみようと思うのです。

まずは、ゆき子が死んだ場所がなにゆえ屋久島であったのか、について。林芙美子の紀行文「屋久島紀行」(www.aozora.gr.jp/cards/000291/files/4989_24353.htmlで閲覧できます)を読み解きながら、そのことを考えてみましょう。

この紀行文は、1950年の七月に「主婦之友」に掲載されました。結果的に屋久島行きは、雑誌連載中の『浮雲』終末部の舞台の取材旅行ともなりました。おそらく、屋久島を見聞して林女史は、さまよえる魂の持ち主ゆき子の死に場所を屋久島にすることに心を決めたのでしょう。

では、屋久島の何に林女史は心を動かされたのでしょう。林女史は詩の形でこう述べています。

一切の強欲の軋轢の苦役から

放免せられてゐる山々

一寸きざみに山へ登りつめる廣い天と地
鋭利な知能を必要とはしない自然
老境にはいつた都會を見捨てて

柔い山ふところに登りつめる私

私はその楽しみの飽くことを知らない


また、屋久島の山々の威容については、次のような描写もあります。

山々は硯を突き立てたやうに、の上にそそり立つてゐる。陽の工合で、赤く見えたり、紫色に見えたりした。私達は、その山にみとれてゐた。


次は、屋久島の大自然とそれに溶け込んでいるかのような島民の穏やかで素朴な人情との美しい描写です。

嶮岨(けんそ)な山壁を見てゐると、何事もない、人跡絶えた島にも見える。千年近い屋久杉があの山中に亭々とそびえてゐるのだ。海沿ひは年中温暖な土地と見えて、どの樹木も夫婦木のやうに、根元から二本に分れて大きくなつたものが多い。松は本土のやうにひねくれた枝ぶりを持たない。みな空へむかつて、箒のやうに繁つてゐる。村の娘達は、すれちがふたびに、旅人の私達に、丁寧にあいさつをして通り過ぎて行った。


島の子どもたちや娘たちの描写には、筆者の尽きることのない深い共感がこめられています。

バスは道いつぱいすれすれに、の軒を掠め、がじまるの下枝をこすつて遲い歩みで走つた。私はしつかりと窓ぶちに手をかけて、暗い道に手を振つてゐる子供達を見てゐた。かあつと心が焼けつくやうな氣がした。家々に歸り、子供達は、二つの眼玉を光らせたバスのヘッドライトを夢に見ることだらう。私は時々窓からのぞいて、暗い道へ手を振つた。

(中略)

子供は繪になる生々した顔をしてゐた。娘は裸足でよく勤勞に耐えてゐる。私は素直に感動して、この娘達の裸足の姿を見送つてゐた。櫻島で幼時を送つた私も、石ころ道を裸足でそだつたのだ。



   屋久島は山と娘をかかへて重たい島

   素足の娘と子供は足の裏が白い

   柔い砂地はカンバスのやうだ

   遠慮がちに娘は笑ふ

   飛魚の頃の五月

   屋久島のぐるりは銀色の魚の額ぶち

   青い海に光る飛魚のオリンポスだ。


これを屋久島賛歌と称することを躊躇すべきもっともな理由が私には見い出せません。と同時に、ここに私は、林女史自身の再生への祈念を読みとりたいと思います。屋久島の風土に、女史は永遠を見出しているのです。

事後的な言い方になりますが、屋久島を訪れた女史に残された余命はおおよそ一年ほどでした。心のどこかで女史は、自分の来し方行く末を強く意識していたものと思われます。それは、自分に即して人間の魂の問題に思いを馳せることでもあります。そういう実存的でもあり普遍的でもある、女史の身体がらみの生死観の核心にある琴線におそらく屋久島の独特の風土が触れたのでしょう。

「ゆき子の死に場所は屋久島である」という確信を得た女史の姿が、私には浮かんできます。

そこで、最後の疑問です。ならば、ゆき子の死に筆者の再生への祈念が投影されなかったのはなぜなのでしょう。なにゆえ、筆者は救いのない形でゆき子の死を描いたのでしょうか。

ゆき子は、血まみれで苦しみながら死んで逝きました。ここで私は、次のような普遍的な事実に突き当たります。

赤ん坊は血まみれで生まれて来ます。そうして、胎内で母の心音を聴くことで得られていた平和が破られたことに全身で反応し産声という名の悲鳴を上げてこの世にその姿を現します。それが偽らざる生の原風景であります。そこに人間の生の悲劇性を読み込むのは、間違っているというわけではないのでしょうが、いささか感傷への傾きが過ぎるところがあるように感じられます。そういう感慨を超えたところに、この厳粛な事実は存在しているのではないかと思われます。

そこから振り返るならば、ゆき子が血まみれで苦しみながら死んで逝ったことは悲惨であるとも、救いがないこととも言い切れなくなってきます。そこでわれわれは、黙るよりほかにない次元に触れているのではないでしょうか。

その「黙るよりほかにない次元」から、血まみれで苦しみながら死んで逝ったゆき子と血まみれで悲鳴をあげながら生まれて来る赤ん坊とが二重写しになるのではないでしょうか。

そうとらえるならば、ゆき子の死と再生の地屋久島とが深いところで沈黙のうちにつながるのではないかと思われます。その二つが永遠の相においてつながると言いかえてもいいでしょう。

映画『浮雲』で、ゆき子のデスマスクが沈黙のうちに崇高美を体現するのは、成瀬監督に、そういうつながりへの感知があったからなのではないでしょうか。ここで、原作のゆき子の死と映画のゆき子の死とが、見かけの違いを超えて、少なくとも私のなかではつながります。

最後に、富岡とゆき子には、仏印という外地から内地への引き上げ者という側面があることを付け加えておきます。激変した敗残の戦後日本には、外地から戻った二人が生きていける場所はもはや残されていなかった。だから、二人はともによろよろともたれあうようにして彷徨いながら、日本の南の果ての屋久島にたどり着くほかなかった、という意味合いも、この小説の結末にはあります。そこは、当時の日本でいちばん仏印に近い場所だったのです。

これを読んで、映画『浮雲』にも興味をお持ちになったならば、下に全編が収録されていますのでご覧ください。約126分です。はじめにしばらくCMが続きますが、あわてずにお待ちください。
v.youku.com/v_show/id_XMjQ4MzQzNjIw.html

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