エマニュエル・トッドが語る「ドイツ帝国」のいま (美津島明)
エマニュエル・トッドの『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』(文春新書)を読んで、少なからず衝撃を受けた。
正直なところ、自分のドイツ認識は、おおむね1990年の西ドイツと東ドイツの統一あたりでストップしていて(大方の日本人はそんなところではなかろうか)、その後のドイツがEUで独り勝ち状態であることは知ってはいるが、そのことが本当のところ何を意味するのかは深く考えてこなかった(日本がアベノミクスの一環として異次元緩和を断行しはじめたころ、それに対してメルケルが、「通貨安誘導の疑いあり」といちゃもんをつけたときは、少なからず違和感を抱いたことはあった)。
トッド氏によれば、〈それは、「ドイツ帝国」の誕生を意味する〉となる。
次の地図を見ていただきたい。本書中に掲げられているものである。見出しにあるとおり、「ドイツ帝国」の勢力図である(ちなみに、カッコをつけているのは、トッド氏の見解である、ということを強調したいからである)。
http://youyou-to.hatenablog.jp/entry/2015/06/23/070000より転載
トッド氏の見解を全面的に受け入れるかどうかは別として、この地図をしっかりと読み込めば、一般的なヨーロッパ地図からは想像もできない、ダイナミックなヨーロッパ像が浮かんでくる。みなさんにもそれを実感していただければ、と思っている。
まず、フランスが淡いグレーになっていることに注目したい。それは、トッド氏によれば、フランスがドイツに「自主的隷属」していることを意味し、フランスのエリートたちは、ドイツの大陸支配に協力しそれを支えている。つまり、フランスの協力なしに「ドイツ帝国」の成立はありえない、とされる。要するに、黒とグレーの塊がドイツのパワーの中心を表しているのである。トッド氏の言葉を借りれば、「この塊が、ヨーロッパ全体のシステムの中で被支配者となった南ヨーロッパを従属した立場に置き、抑え込んでいる」。詳細には触れないが、それは、ドイツの金融資本のひと握りの支配者たちが、フランスのエリートたちを従えていることを意味する。政治体制の側面からは、高度な責任を自覚しそれを担おうとする貴族制ではなくて、それを回避して支配することの旨味を独占しようとする寡頭制である、とトッド氏は見ている。彼は、ふたつの政治体制の違いをそう考えている。
黄色で塗られた南ヨーロッパの国々、すなわち、ギリシャ・イタリヤ・スペイン・ポルトガルは、事実上ドイツの支配下にある、とされる。これは納得できる。というのは、これらの国々は、EU内の敗者であって、EUで独り勝ちしたドイツの財政上の厳しい諸要求、すなわち財政規律の原則を呑まなければ、ドイツの財政援助を受けられないことになっているからである。
赤い色は、氏が「ロシア嫌いの衛星国」と呼ぶ国々で、ポーランド・バルト三国・スウェーデンである。これらの国々は、ドイツ支配圏に自ら積極的に参加することによってロシア破滅の夢を果たそうとしている、という。氏によれば、これらの国々は、ロシア嫌悪の情念が深いので、ドイツが覇権的な行動に走った場合それに力添えをしかねない危険性を有する。ポーランドについて、氏は「ロシアに対するポーランドの敵意は恒常的で時代を越え、けっして鬱に転じることがない躁状態のようなもの」とまで言っている。
フィンランドとデンマークが赤色の「ロシア嫌いの衛星国」ではなくて、南欧と同じ黄色の「事実上の被支配」に色分けされているのは、意外に感じる人が多いのではないだろうか。私もそのひとりである。それについて、氏は次のように言っている。
スウェーデンとは逆に、デンマークは気質において真正のリベラルだ。デンマークが持つイギリスとの絆は、人口の大半が典型的なスカンジナビア風バイリンガルという事実を超えている。デンマークは西の方に目を向けており、ロシアのことをさほど気に病んでいない。
フィンランドはというと、ソ連と共に生きることを学んだ国であり、ロシア人と理解し合う可能性をなんとしても疑おうとするような理由を持っていない。
フィンランド人たちにとって、自分たちの国を植民地化しかねない強国は実はスウェーデンなのだ。だから彼らが本当にスウェーデンのリーダーシップのもとに戻りたいと思っているのかどうかを私は疑う。
これらの記述自体、ヨーロッパ事情に疎い私としては、とても興味深いものであるとは思う。しかし、これらの記述から、フィンランドとデンマークがドイツの事実上の被支配国であることが納得できるとは言い難い。
そこで、フィンランドの歴史についてにわか勉強をしてみた。すると、次のような歴史が明らかになった。
フィンランドは、もとはアジア系の民族であると言われているが、12世紀からスウェーデンが支配するところとなった。その後、18世紀に入り、北方戦争でスウェーデンがロシアに敗れたため、フィンランドの少なからぬ領土がロシアに割譲された。このころからフィンランドの民族的自覚が始まり、反スウェーデンの動きが強まった。19世紀になってナポレオン戦争が始まると、ナポレオンが大陸封鎖令への参加の代償としてロシアのフィランド領有を認めた結果、ロシア軍がフィランドに侵攻し、スウェーデンはそれに抗しきれずフィンランドをロシア領とすることに同意した。その後1917年、ロシア革命でロシア帝国が滅亡したことを受け、フィンランドは同年12月に独立を宣言した。
もう少し、フィンランドの歴史を述べよう。
1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が始まると、ソ連もまたポーランドに侵攻した。さらに同年11月末、フィンランドに侵入。それをきっかけに「冬戦争」とも呼ばれるソ連=フィンランド戦争が始まった。フィンランドは粘り強く抵抗したが、40年3月、講和した。その後フィンランドは、ソ連の圧力に備えて、ナチス=ドイツに接近、41年6月、独ソ戦が開始されると、ドイツに同調してソ連に侵攻した。しかしソ連軍に反撃され、44年、ドイツとの協力関係を解消することと領土割譲、賠償金の支払いを条件にソ連と講和した。これを「継続戦争」ともいう。この二度にわたるソ連との戦争でフィンランドは多くの犠牲を出し、国力を消耗し、ドイツに協力したために枢軸側陣営の敗戦国として戦後を迎えた。
http://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-118.html
以上からだけでは、トッド氏の「フィンランド人たちにとって、自分たちの国を植民地化しかねない強国は実はスウェーデンなのだ」という発言の当否を判断することはかなわないが、フィンランドが、一筋縄ではいかない、過酷な歴史を経てきた国であることだけは分かった。いまのところ、それでよしとするほかはない。それに比べれば、ナチ占領下のフランス・レジスタンスなどチャラいと思ってしまうほどである。
次に、青色の「離脱途上」とされたのは、イギリスとハンガリーである。イギリスは、目下EUから離脱するかどうかをめぐって国論が二分されている。トッド氏は、イギリスの、EUからの離脱は確定的であると断言する。私もおおむねそうだろうと思っていたので、納得である。イギリスはもともと海洋国家であり、大陸ヨーロッパは彼らが生きていく必須の場所ではないのだ。ドイツが覇権を手にしたヨーロッパなど、汚い言葉を使えば、犬に喰われてしまえ、というのが彼らの本音なのではなかろうか(トッド氏は、そんな下品な言葉は使っておりませんよ)。端的に言えば、アメリカ・カナダをふくむ旧大英帝国が、イギリスの生きる場所なのである。そこに、大陸中国とインドをふくめると、この言い方はますます説得力を持つのではないだろうか。その意味で、イギリスが同盟関係にあるアメリカの意向に反してまでも中共のAIIB(アジアインフラ投資銀行)への参加を表明したことには、彼らなりの大きな意味合いがあるものと思われる。同じくAIIBに参加したドイツにも、やはり深謀遠慮があるはずだ。
では、ハンガリーはどうか。なぜ、イギリスとともにEUからの離脱国のトップランナーと目されるのか。トッド氏の言葉に耳を傾けてみよう。
ヴィクトール・オルバーン首相はヨーロッパで評判が悪い。(中略)何よりもまず、ドイツのプレッシャーに抵抗するというのが彼の評判の悪い理由だ。なぜハンガリーが反ロシアでないのか、ハンガリーは一九五八年にソ連の激しい弾圧を受けたのに、と訝しく思えるかもしれない。(中略)一九五八年、ハンガリーだけがソ連の圧力に正面から向かいあったのだ。ポーランドやチェコ――この両国の人びとは当時、ほんの少ししか、あるいはまったく動かなかった――に比べて、ハンガリー人たちは(ロシアを――引用者補)赦すことができるのだ。
ハンガリーは、ロシアに対するルサンチマンを持つ必要がないほどに歴史的な理由からプライドを保つことができている。平常心でいられる。だから、アンチ・ロシアとしてドイツの勢力圏に飛び込む衝動が湧いてくる心理的な契機がない、と言っているのである。このあたり、歴史の妙味を語っているようで、とても興味深い。韓国が反日の呪縛からどうしても抜け出せないのは、ポーランドやチェコと同様に、当時の日本の圧力に屈してしまっていて「ほんの少ししか、あるいはまったく動かなかった」からである。それゆえ、日本をどうしても赦すことができない。そんな風に、トッド氏の言葉が響いてくるのである。
それはそれとして、ハンガリーは、アイスランドに続いて、2013年に中央銀行の国有化を断行した。政府が、中央銀行の有する通貨発行権を取り戻したのである。これは、世界金融資本の支配からの脱却の試みを意味する。日本のマスコミではその詳細についてほとんど報道されないが(分かっていてもあえてしないのだと思う)、国民経済の重視を本気で考えようとする者にとっては、無視しえない動きである。トッド氏が言うように、ハンガリーはいつでもEUから離脱しうる条件を着々と整えつつあるのだ。ちなみにアイスランドは、EUに加盟していない。
そうして最後に、一時期世界情勢ネタを独占した観のあるウクライナに触れよう。これを、氏は、だいだい色に塗った。だいだい色は、「統合途上」である。ドイツは、ウクライナを統合する途上にある、というのだ(ここでは触れないが、グルジア・アルバニア・マケドニア・ボスニアヘルツェゴビナ・セルビアも「統合途上」国家とされている)。
このことに触れるには、ドイツがEUで独り勝ちするに至った経緯・ポイント・仕組みを押さえる必要がある。
それは、トッド氏の言うところを要約すれば、次のようになる。ドイツは、部品製造を部分的にユーロ圏の外の東ヨーロッパに移転して、非常に安い労働力を利用することで、EU内で他を圧倒する競争力を獲得した。具体的には、ポーランド、チェコ、ハンガリーの労働人口である。ドイツは、コストが安くて教育水準の高い彼らの労働を用いて自国の産業システムを再編したのである。つまりドイツは、安くて良質な労働力を利用することの旨味をかみしめることになった。それで次はウクライナに目をつけた、というわけである。
四五〇〇万人の住民を有するウクライナの労働人口は、ソ連時代からの遺産である教育水準の高さと相俟って、ドイツにとって例外的な獲得物となるだろう。これはとりもなおさず、今後非常に長きにわたってドイツが支配的な地位を保つという可能性、そして特に、支配下の帝国を伴うことによってアメリカを上回る実質的経済大国になるという可能性にほかならない。
つまり、(氏によれば)ドイツの新たな外交目標は、ウクライナを安い良質な労働力として、自国の経済的支配領域に併合することと目されるのである。むろんこれは、氏の推測・予想であるから、一種の仮説ではあるが、検討するに値する有力な仮説である。
では、ロシアのプーチン大統領は、ウクライナについてどう考えているのか。氏によれば、それはきわめて単純なもので、〈ウクライナにNATOの基地があるのは困る。望まない。そんなところに基地を作られてしまうと、ただでさえバルト三国とポーランドから成るロシア包囲網がいっそう強化されてしまう。だから、そういうことはやめてくれ〉ということである。新たな国家統合にまい進しているときに、他国を侵略するなどという大袈裟な所業にかまけてはいられない、ということである。これも、一理も二理もある見解だ。
さらに、ウクライナ国民の内情は、どうなっているのだろうか。氏によれば、いまのウクライナは、新露派の東部とEU派の西部とキエフを含む中部ウクライナとに分かれている。面白いのは、中部ウクライナの情況についての説明である。
印象的なのは、中部ウクライナ人、すなわち、ウクライナ語を話し、あまりロシア人が好きでなく、もともとギリシャ正教であるけれども、極右には誘惑されていない人びとが行動しないということだ。西ウクライナの擡頭は、多数派を占める中部ウクライナがどれほどバラバラになっていて、組織を組む能力がなく、つまり前国家的状態にあるかを示している。
また、西ウクライナの人びとについての説明もきわめて興味深い。私たちは、なんとなく、親EU派が多い西ウクライナの人びとに対して、民主主義を求めるモダーンな印象を持っているけれども、氏は、それとは似ても似つかぬ実態を描き出す。
ウクライナの極右と東部ウクライナの親露派の間で起こっている衝突が明白にするのは、国の歴史的不在だ。西ウクライナの人びとはユーロッパに加入したがっている。彼らにとってはまったくノーマルなことだ。ナチスドイツとの協力の伝統を持っている極右勢力が、いったいどうしてドイツのコントロール下に入ったヨーロッパに加入したがらないわけがあろうか。
この言い方で、私は、西ウクライナについてのちぐはぐな印象が、ジグゾーパズルのなかなかはまらなかったピースがカチッとはまるように、納まるところに納まったような気がする。
ここまで書き進めてみて、あらためてわが身を振り返ってみると、自分がいかに「プーチン悪者説」を垂れ流す欧米寄りの情報に毒されているかを痛感せざるをえない。
「プーチン悪者説」の流布は、おそらく、さらなる強大化を目指す「ドイツ帝国」を最も利する政治的イメージ戦略であり、アメリカは、それに乗ることで、自国の覇権が決定的に低下していることを世界からひた隠しにしているのである。とすれば、かなり危うい事態である。日本が能天気にそれに組することは愚かであると言わざるを得ない。というのは、国際世論を背景に正義の味方の顔をしてウクライナをわが物にし、さらに強大化した「ドイツ帝国」が、そういう同国の動向に対して脅威を感じるにちがいないロシアをけん制するために中共と手を組むのは、大いにあり得ることであるからだ。それは、中共にとっては安全保障上大いにプラスになり、その分、日本にとってはマイナスになる。
このように本書は、ヨーロッパの情況についての見方を刷新してくれる、お買い得の本である。お勧めしたい。
なお、チャンネル桜に出演した川口・マーン・恵美氏が、本書について面白い切り口でいろいろと発言している動画を、掲げておこう。それをご覧になれば、本稿でご紹介したトッド・ドイツ論と重ね描きができるので、いろいろと得るところがあるのではないだろうか。
【川口マーン惠美】膨張するドイツ「帝国」の衝撃[桜H27/9/3]
エマニュエル・トッドの『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』(文春新書)を読んで、少なからず衝撃を受けた。
正直なところ、自分のドイツ認識は、おおむね1990年の西ドイツと東ドイツの統一あたりでストップしていて(大方の日本人はそんなところではなかろうか)、その後のドイツがEUで独り勝ち状態であることは知ってはいるが、そのことが本当のところ何を意味するのかは深く考えてこなかった(日本がアベノミクスの一環として異次元緩和を断行しはじめたころ、それに対してメルケルが、「通貨安誘導の疑いあり」といちゃもんをつけたときは、少なからず違和感を抱いたことはあった)。
トッド氏によれば、〈それは、「ドイツ帝国」の誕生を意味する〉となる。
次の地図を見ていただきたい。本書中に掲げられているものである。見出しにあるとおり、「ドイツ帝国」の勢力図である(ちなみに、カッコをつけているのは、トッド氏の見解である、ということを強調したいからである)。
http://youyou-to.hatenablog.jp/entry/2015/06/23/070000より転載
トッド氏の見解を全面的に受け入れるかどうかは別として、この地図をしっかりと読み込めば、一般的なヨーロッパ地図からは想像もできない、ダイナミックなヨーロッパ像が浮かんでくる。みなさんにもそれを実感していただければ、と思っている。
まず、フランスが淡いグレーになっていることに注目したい。それは、トッド氏によれば、フランスがドイツに「自主的隷属」していることを意味し、フランスのエリートたちは、ドイツの大陸支配に協力しそれを支えている。つまり、フランスの協力なしに「ドイツ帝国」の成立はありえない、とされる。要するに、黒とグレーの塊がドイツのパワーの中心を表しているのである。トッド氏の言葉を借りれば、「この塊が、ヨーロッパ全体のシステムの中で被支配者となった南ヨーロッパを従属した立場に置き、抑え込んでいる」。詳細には触れないが、それは、ドイツの金融資本のひと握りの支配者たちが、フランスのエリートたちを従えていることを意味する。政治体制の側面からは、高度な責任を自覚しそれを担おうとする貴族制ではなくて、それを回避して支配することの旨味を独占しようとする寡頭制である、とトッド氏は見ている。彼は、ふたつの政治体制の違いをそう考えている。
黄色で塗られた南ヨーロッパの国々、すなわち、ギリシャ・イタリヤ・スペイン・ポルトガルは、事実上ドイツの支配下にある、とされる。これは納得できる。というのは、これらの国々は、EU内の敗者であって、EUで独り勝ちしたドイツの財政上の厳しい諸要求、すなわち財政規律の原則を呑まなければ、ドイツの財政援助を受けられないことになっているからである。
赤い色は、氏が「ロシア嫌いの衛星国」と呼ぶ国々で、ポーランド・バルト三国・スウェーデンである。これらの国々は、ドイツ支配圏に自ら積極的に参加することによってロシア破滅の夢を果たそうとしている、という。氏によれば、これらの国々は、ロシア嫌悪の情念が深いので、ドイツが覇権的な行動に走った場合それに力添えをしかねない危険性を有する。ポーランドについて、氏は「ロシアに対するポーランドの敵意は恒常的で時代を越え、けっして鬱に転じることがない躁状態のようなもの」とまで言っている。
フィンランドとデンマークが赤色の「ロシア嫌いの衛星国」ではなくて、南欧と同じ黄色の「事実上の被支配」に色分けされているのは、意外に感じる人が多いのではないだろうか。私もそのひとりである。それについて、氏は次のように言っている。
スウェーデンとは逆に、デンマークは気質において真正のリベラルだ。デンマークが持つイギリスとの絆は、人口の大半が典型的なスカンジナビア風バイリンガルという事実を超えている。デンマークは西の方に目を向けており、ロシアのことをさほど気に病んでいない。
フィンランドはというと、ソ連と共に生きることを学んだ国であり、ロシア人と理解し合う可能性をなんとしても疑おうとするような理由を持っていない。
フィンランド人たちにとって、自分たちの国を植民地化しかねない強国は実はスウェーデンなのだ。だから彼らが本当にスウェーデンのリーダーシップのもとに戻りたいと思っているのかどうかを私は疑う。
これらの記述自体、ヨーロッパ事情に疎い私としては、とても興味深いものであるとは思う。しかし、これらの記述から、フィンランドとデンマークがドイツの事実上の被支配国であることが納得できるとは言い難い。
そこで、フィンランドの歴史についてにわか勉強をしてみた。すると、次のような歴史が明らかになった。
フィンランドは、もとはアジア系の民族であると言われているが、12世紀からスウェーデンが支配するところとなった。その後、18世紀に入り、北方戦争でスウェーデンがロシアに敗れたため、フィンランドの少なからぬ領土がロシアに割譲された。このころからフィンランドの民族的自覚が始まり、反スウェーデンの動きが強まった。19世紀になってナポレオン戦争が始まると、ナポレオンが大陸封鎖令への参加の代償としてロシアのフィランド領有を認めた結果、ロシア軍がフィランドに侵攻し、スウェーデンはそれに抗しきれずフィンランドをロシア領とすることに同意した。その後1917年、ロシア革命でロシア帝国が滅亡したことを受け、フィンランドは同年12月に独立を宣言した。
もう少し、フィンランドの歴史を述べよう。
1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が始まると、ソ連もまたポーランドに侵攻した。さらに同年11月末、フィンランドに侵入。それをきっかけに「冬戦争」とも呼ばれるソ連=フィンランド戦争が始まった。フィンランドは粘り強く抵抗したが、40年3月、講和した。その後フィンランドは、ソ連の圧力に備えて、ナチス=ドイツに接近、41年6月、独ソ戦が開始されると、ドイツに同調してソ連に侵攻した。しかしソ連軍に反撃され、44年、ドイツとの協力関係を解消することと領土割譲、賠償金の支払いを条件にソ連と講和した。これを「継続戦争」ともいう。この二度にわたるソ連との戦争でフィンランドは多くの犠牲を出し、国力を消耗し、ドイツに協力したために枢軸側陣営の敗戦国として戦後を迎えた。
http://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-118.html
以上からだけでは、トッド氏の「フィンランド人たちにとって、自分たちの国を植民地化しかねない強国は実はスウェーデンなのだ」という発言の当否を判断することはかなわないが、フィンランドが、一筋縄ではいかない、過酷な歴史を経てきた国であることだけは分かった。いまのところ、それでよしとするほかはない。それに比べれば、ナチ占領下のフランス・レジスタンスなどチャラいと思ってしまうほどである。
次に、青色の「離脱途上」とされたのは、イギリスとハンガリーである。イギリスは、目下EUから離脱するかどうかをめぐって国論が二分されている。トッド氏は、イギリスの、EUからの離脱は確定的であると断言する。私もおおむねそうだろうと思っていたので、納得である。イギリスはもともと海洋国家であり、大陸ヨーロッパは彼らが生きていく必須の場所ではないのだ。ドイツが覇権を手にしたヨーロッパなど、汚い言葉を使えば、犬に喰われてしまえ、というのが彼らの本音なのではなかろうか(トッド氏は、そんな下品な言葉は使っておりませんよ)。端的に言えば、アメリカ・カナダをふくむ旧大英帝国が、イギリスの生きる場所なのである。そこに、大陸中国とインドをふくめると、この言い方はますます説得力を持つのではないだろうか。その意味で、イギリスが同盟関係にあるアメリカの意向に反してまでも中共のAIIB(アジアインフラ投資銀行)への参加を表明したことには、彼らなりの大きな意味合いがあるものと思われる。同じくAIIBに参加したドイツにも、やはり深謀遠慮があるはずだ。
では、ハンガリーはどうか。なぜ、イギリスとともにEUからの離脱国のトップランナーと目されるのか。トッド氏の言葉に耳を傾けてみよう。
ヴィクトール・オルバーン首相はヨーロッパで評判が悪い。(中略)何よりもまず、ドイツのプレッシャーに抵抗するというのが彼の評判の悪い理由だ。なぜハンガリーが反ロシアでないのか、ハンガリーは一九五八年にソ連の激しい弾圧を受けたのに、と訝しく思えるかもしれない。(中略)一九五八年、ハンガリーだけがソ連の圧力に正面から向かいあったのだ。ポーランドやチェコ――この両国の人びとは当時、ほんの少ししか、あるいはまったく動かなかった――に比べて、ハンガリー人たちは(ロシアを――引用者補)赦すことができるのだ。
ハンガリーは、ロシアに対するルサンチマンを持つ必要がないほどに歴史的な理由からプライドを保つことができている。平常心でいられる。だから、アンチ・ロシアとしてドイツの勢力圏に飛び込む衝動が湧いてくる心理的な契機がない、と言っているのである。このあたり、歴史の妙味を語っているようで、とても興味深い。韓国が反日の呪縛からどうしても抜け出せないのは、ポーランドやチェコと同様に、当時の日本の圧力に屈してしまっていて「ほんの少ししか、あるいはまったく動かなかった」からである。それゆえ、日本をどうしても赦すことができない。そんな風に、トッド氏の言葉が響いてくるのである。
それはそれとして、ハンガリーは、アイスランドに続いて、2013年に中央銀行の国有化を断行した。政府が、中央銀行の有する通貨発行権を取り戻したのである。これは、世界金融資本の支配からの脱却の試みを意味する。日本のマスコミではその詳細についてほとんど報道されないが(分かっていてもあえてしないのだと思う)、国民経済の重視を本気で考えようとする者にとっては、無視しえない動きである。トッド氏が言うように、ハンガリーはいつでもEUから離脱しうる条件を着々と整えつつあるのだ。ちなみにアイスランドは、EUに加盟していない。
そうして最後に、一時期世界情勢ネタを独占した観のあるウクライナに触れよう。これを、氏は、だいだい色に塗った。だいだい色は、「統合途上」である。ドイツは、ウクライナを統合する途上にある、というのだ(ここでは触れないが、グルジア・アルバニア・マケドニア・ボスニアヘルツェゴビナ・セルビアも「統合途上」国家とされている)。
このことに触れるには、ドイツがEUで独り勝ちするに至った経緯・ポイント・仕組みを押さえる必要がある。
それは、トッド氏の言うところを要約すれば、次のようになる。ドイツは、部品製造を部分的にユーロ圏の外の東ヨーロッパに移転して、非常に安い労働力を利用することで、EU内で他を圧倒する競争力を獲得した。具体的には、ポーランド、チェコ、ハンガリーの労働人口である。ドイツは、コストが安くて教育水準の高い彼らの労働を用いて自国の産業システムを再編したのである。つまりドイツは、安くて良質な労働力を利用することの旨味をかみしめることになった。それで次はウクライナに目をつけた、というわけである。
四五〇〇万人の住民を有するウクライナの労働人口は、ソ連時代からの遺産である教育水準の高さと相俟って、ドイツにとって例外的な獲得物となるだろう。これはとりもなおさず、今後非常に長きにわたってドイツが支配的な地位を保つという可能性、そして特に、支配下の帝国を伴うことによってアメリカを上回る実質的経済大国になるという可能性にほかならない。
つまり、(氏によれば)ドイツの新たな外交目標は、ウクライナを安い良質な労働力として、自国の経済的支配領域に併合することと目されるのである。むろんこれは、氏の推測・予想であるから、一種の仮説ではあるが、検討するに値する有力な仮説である。
では、ロシアのプーチン大統領は、ウクライナについてどう考えているのか。氏によれば、それはきわめて単純なもので、〈ウクライナにNATOの基地があるのは困る。望まない。そんなところに基地を作られてしまうと、ただでさえバルト三国とポーランドから成るロシア包囲網がいっそう強化されてしまう。だから、そういうことはやめてくれ〉ということである。新たな国家統合にまい進しているときに、他国を侵略するなどという大袈裟な所業にかまけてはいられない、ということである。これも、一理も二理もある見解だ。
さらに、ウクライナ国民の内情は、どうなっているのだろうか。氏によれば、いまのウクライナは、新露派の東部とEU派の西部とキエフを含む中部ウクライナとに分かれている。面白いのは、中部ウクライナの情況についての説明である。
印象的なのは、中部ウクライナ人、すなわち、ウクライナ語を話し、あまりロシア人が好きでなく、もともとギリシャ正教であるけれども、極右には誘惑されていない人びとが行動しないということだ。西ウクライナの擡頭は、多数派を占める中部ウクライナがどれほどバラバラになっていて、組織を組む能力がなく、つまり前国家的状態にあるかを示している。
また、西ウクライナの人びとについての説明もきわめて興味深い。私たちは、なんとなく、親EU派が多い西ウクライナの人びとに対して、民主主義を求めるモダーンな印象を持っているけれども、氏は、それとは似ても似つかぬ実態を描き出す。
ウクライナの極右と東部ウクライナの親露派の間で起こっている衝突が明白にするのは、国の歴史的不在だ。西ウクライナの人びとはユーロッパに加入したがっている。彼らにとってはまったくノーマルなことだ。ナチスドイツとの協力の伝統を持っている極右勢力が、いったいどうしてドイツのコントロール下に入ったヨーロッパに加入したがらないわけがあろうか。
この言い方で、私は、西ウクライナについてのちぐはぐな印象が、ジグゾーパズルのなかなかはまらなかったピースがカチッとはまるように、納まるところに納まったような気がする。
ここまで書き進めてみて、あらためてわが身を振り返ってみると、自分がいかに「プーチン悪者説」を垂れ流す欧米寄りの情報に毒されているかを痛感せざるをえない。
「プーチン悪者説」の流布は、おそらく、さらなる強大化を目指す「ドイツ帝国」を最も利する政治的イメージ戦略であり、アメリカは、それに乗ることで、自国の覇権が決定的に低下していることを世界からひた隠しにしているのである。とすれば、かなり危うい事態である。日本が能天気にそれに組することは愚かであると言わざるを得ない。というのは、国際世論を背景に正義の味方の顔をしてウクライナをわが物にし、さらに強大化した「ドイツ帝国」が、そういう同国の動向に対して脅威を感じるにちがいないロシアをけん制するために中共と手を組むのは、大いにあり得ることであるからだ。それは、中共にとっては安全保障上大いにプラスになり、その分、日本にとってはマイナスになる。
このように本書は、ヨーロッパの情況についての見方を刷新してくれる、お買い得の本である。お勧めしたい。
なお、チャンネル桜に出演した川口・マーン・恵美氏が、本書について面白い切り口でいろいろと発言している動画を、掲げておこう。それをご覧になれば、本稿でご紹介したトッド・ドイツ論と重ね描きができるので、いろいろと得るところがあるのではないだろうか。
【川口マーン惠美】膨張するドイツ「帝国」の衝撃[桜H27/9/3]