NHK放映「トマ・ピケティ講義」第4回・強まる資産集中~所得データが語る格差の実態~(美津島明)
今回の講義は、まず『20世紀の資本』の立論の土台になっているデータの収集に関する話題に触れています。その次に、欧米先進諸国の資産集中や資本(資産)所得についての議論が展開され、最後に、有名な《r(資本収益率)>g(経済成長率)》に話が及びます。そのなかで、資産格差を読み解く4つのモデルとして「予備的貯蓄モデル」「ライフサイクルモデル」「王朝モデル」「ランダムショックモデル」が提示されていますが、原典では、それらが明示的に列挙されたくだりは見当たりません。おそらくピケティは、集まった意欲的な聴講生のために「本に書いてあることばかりしゃべっては申し訳ない」と思い、サービス精神を発揮したのではないでしょうか。
*資本所得についての概観
米国とフランスにおいて、富とそこからの所得(すなわち資本所得)の格差が減ったことこそが、20世紀前半に総所得格差が減少した唯一の理由です。労働所得格差は、構造的な意味では1900年-1910年から1950年-1960年までの間、減少していません。それでも総所得格差が急減したのは、基本的に高額な資本所有が崩壊したおかげなのです。このことは、他の先進国にもあてはまります。いまや、資本/所得比率(β)、すなわち国民所得に対する資本(資産)の比率が高まり、経済成長が低下している中で、資本集中が顕著になりつつあります。富の格差拡大(その帰結としての総所得格差拡大)の可能性が高まっているのです。
*ピケティの立論の土台としてのデータの出所について
ピケティは、格差の問題をはじめて実証的に提示したサイモン・クズネッツを高く評価しています。クズネッツの立論は、1913年から1948年までの米国連邦所得税申告と、クズネッツ自身が推計した米国国民所得に立脚しています。クズネッツは、それらの自分が集めたデータによって、米国の総国民所得のなかで、さまざまな階層のシェアがどう変わっていったか、あるいは、トップ1パーセントがどう推移したのかを計算できるようにしたのです。
ピケティは、自身の研究の相当部分が、「クズネッツによる1913年~1948年の米国における所得格差推移をめぐる革新的で先駆的な研究を、時間的にも空間的にも拡大したもの」であると言っています。ピケティは、スタッフや志を同じくする学者たちと手分けして、各国の税金データからトップ10パーセントやトップ1パーセントの所得を推計し、国民経済計算から各国の国民所得と平均所得を導きました。対象となった国を列挙すると、アメリカ・フランス・イギリス・カナダ・日本・アルゼンチン・スペイン・ポルトガル・ドイツ・スイス・インド・中国など二〇カ国に及びます。ピケティが、次のように胸を張るのもむべなるかな、ですね。
最終的には、世界の30名ほどの研究者による共同作業である世界トップ所得データベース(WTID)が、所得格差の推移に関する最大の歴史的データ源となっており、本書の主要なデータ源となっている。
また、次のようにも言っています。
これまでの研究と比べて本書が突出しているのは、私ができるかぎり完全で一貫性ある歴史的情報源を集め、長期的な所得と富の分配をめぐる動きを研究しようとしたことだ。
このような、膨大な量の歴史データの収集と整理ができるようになった背景には、コンピュータ技術のめざましい進歩があります。ピケティ自身、「本書は近年の研究技術改善に大きく負っている」と言っています。
*アメリカの「格差」へのまなざしの変質
DVDで、スタインベック原作の『怒りの葡萄』を観たときに感じたことがあります。それは、かつてのアメリカは、自助努力にナイーブなほどに重きを置いた社会であった、ということです。強欲金融資本の無理筋を押し通し、その果てに世界中に大迷惑をかけてもまったく恥じようとせず、また、TPPをゴリ押ししてでも自国に有利な交易条件を相手国に呑ませようとする、今日のアメリカの自分勝手で醜悪ともいえる振る舞いは、スタインベックが描いた、汗水たらして働いて生きる道を自力で切り開いていこうとする姿のシンプルな美しさとは似ても似つかぬものがあるのです。
そういう感想を漠然と抱いていた私にとって、ピケティの次の発言は、ぽんと膝を打ちたくなるようなものです。
私たちはここ数十年で、米国はヨーロッパに比べより不平等だという事実にはもう慣れっこになったし、多くの米国人がそれを誇りにさえ思っているのも知っている(格差は起業家的ダイナミズムの必要条件であるとしばしば主張され、ヨーロッパはソヴィエト式平等主義の聖域と化していると非難されるのだ)。でも一世紀前には、認識と現実の両方が正反対だった。誰の目にも、新世界は旧世界ヨーロッパに比べて不平等でないのが当然だったし、このちがいは誇るべきこととされていた。
アメリカは、機会の平等の実現と本腰になって取り組むべき時期にさしかかっているのかもしれません。そうしないとこのままでは、歴史的な意味での共同記憶を見失い、図体がでかいがゆえにひたすら周りに迷惑をかけるだけの、国民意識のボート・ピープルになってしまうのかもしれません。
しかし、ピケティの、アメリカのそういう「回心」の可能性についての見通しは、次の引用に見られるとおり、かなり悲観的です。
米国では、20世紀とは社会正義の大躍進と同義ではない。実は、米国における富の格差は19世紀初めよりも現在のほうが大きい。だから失われた幸福な米国は、国の起源と結びついている。ボストン茶会事件の時代へのノスタルジアはあっても、「栄光の30年」や、資本主義の行き過ぎに歯止めをかけるための国家干渉の絶頂期に対するノスタルジアはない。
「栄光の30年」とは、ふたつの世界大戦を通じて著しく小さくなった所得格差が安定的に推移した戦後30年間を指しています。ちなみに、1773年の「ボストン茶会事件」とは、イギリス本国と茶の販売権をめぐって対立し、インディアンに変装した北米植民地人がボストン入港中の東インド会社の船をおそって茶箱を海中に投げ込んだ事件で、アメリカ独立革命のきかっけとされています。
*格差拡大の力としての《r(資本収益率)>g(経済成長率)》
「ピケティって、どういう人?」と聞かれたとき、新聞や雑誌でピケティ関連の記事を読んだことのある方ならば、とりあえず「r>gの人」と答えることでしょう。それくらいに、《r>g》という不等式は有名です。
では、《r>g》とはどういう意味なのか、それが格差の拡大とどういう関係があるのか、について、ピケティの講義内容との重複を恐れずに述べてみようと思います。というのはピケティ自身が、『21世紀の資本』のなかで、
これ(r>gのこと――引用者注)は本書できわめて重要な役割を果たす。ある意味で、この不等式が私の結論全体の論理を総括しているのだ。
とまで言っているからです。
まずは、定義を確認しておきます。
rは資本の平均年間収益率で、利潤・配当・利子・賃料などの資本からの収入を、その資本の総価値で割ったものだ。gはその経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ。
では、資本とは何でしょうか。
私のいう資本は人的資本(奴隷社会以外ではどんな市場でも取引できない)は除いているが、「物理」資本(土地、建物、インフラなどの物質財)だけにかぎられてはいない。「非物質」資本、たとえば特許などの知的財産は含める。これは非金融資産(個人が特許を直接持っている場合)か金融資産(個人がその特許を持っている企業の株を持っている場合。このほうが通例だろう)に分類される。
ここで注意したいのは、ピケティが、「資本」と「富」と「財産」と「資産」という4つの言葉は入れ替え可能で、完全に同義なものとして扱っているという点です。それらは、ストック概念を表すものとしてひとくくりにできる、ということであり、そうした方が、格差拡大の力を鮮明にあぶりだすうえで好都合である、ということではないかと思われます。それゆえ、
「国富」「国民資本」は、ある国でその時に政府や住民が所有しているものすべて(ただしそれが何らかの市場で取引できる場合のみ)の総市場価格として定義しよう。これは非金融資産(土地、住宅、商業在庫、他の建物、機械、インフラ、特許、その他の直接所有されている専門資産)と、金融資産(銀行預金、ミューチュアル・ファンド、債券、株式、各種金融投資、保険、年金基金等々)から金融債務(負債)の総額を引いたものの合計となる。民間個人の資産と負債だけを見ると、結果は民間の富、民間財産または民間資本となる。政府や各種政府的存在(町、社会保障機関など)が保有する資産や負債を考えると、結果は公共の富、公的財産または公的資本となる。定義からして、国富はこの両者の合計だ。
という「国富」「国民資本」の定義は、そのまま「資本」の定義として受けとめることができるでしょう。こちらのほうが、すっきりしますしね。
g(経済成長率)は、前期国民所得に対する当期国民所得の増加率と理解すればよいのではないかと思われます。
では次に、r>gが意味しているものについて触れましょう。まずは、次のグラフをごらんください。
〈世界的な収益率と経済成長率 古代から2100年まで〉
http://cruel.org/books/capital21c/pdf/F10.9.pdf
これまでの人類の2000年以上の歴史を通じて、常に資本収益率(r)が経済成長率を上回っていたことが一目瞭然です。この歴史的事実に関して、ピケティは、
体系的に資本収益率が成長率よりも高くなる大きな理由はあるのか?はっきり言っておくが、私はこれを論理的な必然ではなく、歴史的事実と考えている。
と述べています。ピケティは、われわれにr>gを論理的必然として納得する以前に歴史的事実として受け入れることを求めているのです。しかし、その事実を受け入れてもなお、r>gが格差拡大の原因となる理由については別途考えてみる必要があります。ピケティは、「伝統的農耕社会と、第一次世界大戦以前のほぼすべての社会で富が超集中していた第一の原因は、これらが低成長社会で、資本収益率が経済成長率に比べほぼ常に著しく高かったことだ」として、その因果関係を次のように具体的数値を挙げて説明しています。
たとえば成長率が年約0.5-1パーセントと低い世界を考えよう。
人類は、グラフにあるとおり、19世紀を迎えるまでは、常に1パーセント未満の成長率しか経験したことがなかったのです。超低成長社会がずっと続いたわけです。引用を続けます。
資本収益率(資本所得/総資本――引用者注)は、一般的には年間4、5パーセントほどなので、成長率よりかなり高い。具体的には、たとえ労働所得がまったくなくても、過去に蓄積された富が経済成長よりもずっと早く資本増加をもたらすわけだ。
労働所得は、経済成長率、すなわち国民所得の増分とおおむね歩調をそろえて増えると考えられます。それに対して、資本がその5倍から10倍の率で収益をもたらすとすれば、富が集中する富裕層やさらには超富裕層が所得を増やす点で俄然有利になるのは、けっこう分かりやすいのではないでしょうか。
たとえば、g=1%でr=5%ならば、資本所得の5分の1を貯蓄すれば(残り5分の4は消費しても)、先行世代から受け継いだ資本は経済と同じ率で成長するのに十分だ。富が大きくて、裕福な暮らしをしても消費が年間レント収入より少なければ、貯蓄分はもっと増え、その人の資産は経済よりもはやく成長し、たとえ労働からの実入りがまったくなくても、富の格差は増大しがちになるだろう。
いささか補足すると、いま国民所得100のうちの資本所得を25とします。その5分の1を貯蓄してほかをすべて使ってしまったとしましょう。また、資本/所得比率(β:総資本/国民所得)を5とすると、総資本100×5=500だったのが、次年度には500+25×5分の4=520となります。その増分は、520×5%=26、26-25=1 となり、次年度の国民所得の増分{100+1(前年度の国民所得の増分)}×1%=1.01とほぼ等しくなります。「先行世代から受け継いだ資本は経済と同じ率で成長するのに十分だ」とは、おおむねそういうことを指しているものと思われます。
こういう事態が、年を追うごとに累積していくのですから、rとgのはなはだしい差が、富裕層とその他大勢の格差の拡大に与える影響は非常に大きなものであることがお分かりいただけるのではないでしょうか。
このように、rとgのはなはだしい差は、「相続社会」の繁栄にとって理想的な条件である、とピケティは、フランス人らしいエスプリをこめて言います。ここで「相続社会」とは、「非常に高水準の富の集中と世代から世代へと大きな財産が永続的に引き継がれる社会」のことです。ピケティは、21世紀にそういう社会が再び到来することを、生々しいデータを提示しながら、強く懸念しているわけです。
では、第4回の講義をアップします。
<トマ・ピケティ講義>第4回「強まる資産集中」~所得データが語る格差の実態~
(第5回に続く。全部で6回分あるようですが、第5回・6回はまだ放映されていません)
今回の講義は、まず『20世紀の資本』の立論の土台になっているデータの収集に関する話題に触れています。その次に、欧米先進諸国の資産集中や資本(資産)所得についての議論が展開され、最後に、有名な《r(資本収益率)>g(経済成長率)》に話が及びます。そのなかで、資産格差を読み解く4つのモデルとして「予備的貯蓄モデル」「ライフサイクルモデル」「王朝モデル」「ランダムショックモデル」が提示されていますが、原典では、それらが明示的に列挙されたくだりは見当たりません。おそらくピケティは、集まった意欲的な聴講生のために「本に書いてあることばかりしゃべっては申し訳ない」と思い、サービス精神を発揮したのではないでしょうか。
*資本所得についての概観
米国とフランスにおいて、富とそこからの所得(すなわち資本所得)の格差が減ったことこそが、20世紀前半に総所得格差が減少した唯一の理由です。労働所得格差は、構造的な意味では1900年-1910年から1950年-1960年までの間、減少していません。それでも総所得格差が急減したのは、基本的に高額な資本所有が崩壊したおかげなのです。このことは、他の先進国にもあてはまります。いまや、資本/所得比率(β)、すなわち国民所得に対する資本(資産)の比率が高まり、経済成長が低下している中で、資本集中が顕著になりつつあります。富の格差拡大(その帰結としての総所得格差拡大)の可能性が高まっているのです。
*ピケティの立論の土台としてのデータの出所について
ピケティは、格差の問題をはじめて実証的に提示したサイモン・クズネッツを高く評価しています。クズネッツの立論は、1913年から1948年までの米国連邦所得税申告と、クズネッツ自身が推計した米国国民所得に立脚しています。クズネッツは、それらの自分が集めたデータによって、米国の総国民所得のなかで、さまざまな階層のシェアがどう変わっていったか、あるいは、トップ1パーセントがどう推移したのかを計算できるようにしたのです。
ピケティは、自身の研究の相当部分が、「クズネッツによる1913年~1948年の米国における所得格差推移をめぐる革新的で先駆的な研究を、時間的にも空間的にも拡大したもの」であると言っています。ピケティは、スタッフや志を同じくする学者たちと手分けして、各国の税金データからトップ10パーセントやトップ1パーセントの所得を推計し、国民経済計算から各国の国民所得と平均所得を導きました。対象となった国を列挙すると、アメリカ・フランス・イギリス・カナダ・日本・アルゼンチン・スペイン・ポルトガル・ドイツ・スイス・インド・中国など二〇カ国に及びます。ピケティが、次のように胸を張るのもむべなるかな、ですね。
最終的には、世界の30名ほどの研究者による共同作業である世界トップ所得データベース(WTID)が、所得格差の推移に関する最大の歴史的データ源となっており、本書の主要なデータ源となっている。
また、次のようにも言っています。
これまでの研究と比べて本書が突出しているのは、私ができるかぎり完全で一貫性ある歴史的情報源を集め、長期的な所得と富の分配をめぐる動きを研究しようとしたことだ。
このような、膨大な量の歴史データの収集と整理ができるようになった背景には、コンピュータ技術のめざましい進歩があります。ピケティ自身、「本書は近年の研究技術改善に大きく負っている」と言っています。
*アメリカの「格差」へのまなざしの変質
DVDで、スタインベック原作の『怒りの葡萄』を観たときに感じたことがあります。それは、かつてのアメリカは、自助努力にナイーブなほどに重きを置いた社会であった、ということです。強欲金融資本の無理筋を押し通し、その果てに世界中に大迷惑をかけてもまったく恥じようとせず、また、TPPをゴリ押ししてでも自国に有利な交易条件を相手国に呑ませようとする、今日のアメリカの自分勝手で醜悪ともいえる振る舞いは、スタインベックが描いた、汗水たらして働いて生きる道を自力で切り開いていこうとする姿のシンプルな美しさとは似ても似つかぬものがあるのです。
そういう感想を漠然と抱いていた私にとって、ピケティの次の発言は、ぽんと膝を打ちたくなるようなものです。
私たちはここ数十年で、米国はヨーロッパに比べより不平等だという事実にはもう慣れっこになったし、多くの米国人がそれを誇りにさえ思っているのも知っている(格差は起業家的ダイナミズムの必要条件であるとしばしば主張され、ヨーロッパはソヴィエト式平等主義の聖域と化していると非難されるのだ)。でも一世紀前には、認識と現実の両方が正反対だった。誰の目にも、新世界は旧世界ヨーロッパに比べて不平等でないのが当然だったし、このちがいは誇るべきこととされていた。
アメリカは、機会の平等の実現と本腰になって取り組むべき時期にさしかかっているのかもしれません。そうしないとこのままでは、歴史的な意味での共同記憶を見失い、図体がでかいがゆえにひたすら周りに迷惑をかけるだけの、国民意識のボート・ピープルになってしまうのかもしれません。
しかし、ピケティの、アメリカのそういう「回心」の可能性についての見通しは、次の引用に見られるとおり、かなり悲観的です。
米国では、20世紀とは社会正義の大躍進と同義ではない。実は、米国における富の格差は19世紀初めよりも現在のほうが大きい。だから失われた幸福な米国は、国の起源と結びついている。ボストン茶会事件の時代へのノスタルジアはあっても、「栄光の30年」や、資本主義の行き過ぎに歯止めをかけるための国家干渉の絶頂期に対するノスタルジアはない。
「栄光の30年」とは、ふたつの世界大戦を通じて著しく小さくなった所得格差が安定的に推移した戦後30年間を指しています。ちなみに、1773年の「ボストン茶会事件」とは、イギリス本国と茶の販売権をめぐって対立し、インディアンに変装した北米植民地人がボストン入港中の東インド会社の船をおそって茶箱を海中に投げ込んだ事件で、アメリカ独立革命のきかっけとされています。
*格差拡大の力としての《r(資本収益率)>g(経済成長率)》
「ピケティって、どういう人?」と聞かれたとき、新聞や雑誌でピケティ関連の記事を読んだことのある方ならば、とりあえず「r>gの人」と答えることでしょう。それくらいに、《r>g》という不等式は有名です。
では、《r>g》とはどういう意味なのか、それが格差の拡大とどういう関係があるのか、について、ピケティの講義内容との重複を恐れずに述べてみようと思います。というのはピケティ自身が、『21世紀の資本』のなかで、
これ(r>gのこと――引用者注)は本書できわめて重要な役割を果たす。ある意味で、この不等式が私の結論全体の論理を総括しているのだ。
とまで言っているからです。
まずは、定義を確認しておきます。
rは資本の平均年間収益率で、利潤・配当・利子・賃料などの資本からの収入を、その資本の総価値で割ったものだ。gはその経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ。
では、資本とは何でしょうか。
私のいう資本は人的資本(奴隷社会以外ではどんな市場でも取引できない)は除いているが、「物理」資本(土地、建物、インフラなどの物質財)だけにかぎられてはいない。「非物質」資本、たとえば特許などの知的財産は含める。これは非金融資産(個人が特許を直接持っている場合)か金融資産(個人がその特許を持っている企業の株を持っている場合。このほうが通例だろう)に分類される。
ここで注意したいのは、ピケティが、「資本」と「富」と「財産」と「資産」という4つの言葉は入れ替え可能で、完全に同義なものとして扱っているという点です。それらは、ストック概念を表すものとしてひとくくりにできる、ということであり、そうした方が、格差拡大の力を鮮明にあぶりだすうえで好都合である、ということではないかと思われます。それゆえ、
「国富」「国民資本」は、ある国でその時に政府や住民が所有しているものすべて(ただしそれが何らかの市場で取引できる場合のみ)の総市場価格として定義しよう。これは非金融資産(土地、住宅、商業在庫、他の建物、機械、インフラ、特許、その他の直接所有されている専門資産)と、金融資産(銀行預金、ミューチュアル・ファンド、債券、株式、各種金融投資、保険、年金基金等々)から金融債務(負債)の総額を引いたものの合計となる。民間個人の資産と負債だけを見ると、結果は民間の富、民間財産または民間資本となる。政府や各種政府的存在(町、社会保障機関など)が保有する資産や負債を考えると、結果は公共の富、公的財産または公的資本となる。定義からして、国富はこの両者の合計だ。
という「国富」「国民資本」の定義は、そのまま「資本」の定義として受けとめることができるでしょう。こちらのほうが、すっきりしますしね。
g(経済成長率)は、前期国民所得に対する当期国民所得の増加率と理解すればよいのではないかと思われます。
では次に、r>gが意味しているものについて触れましょう。まずは、次のグラフをごらんください。
〈世界的な収益率と経済成長率 古代から2100年まで〉
http://cruel.org/books/capital21c/pdf/F10.9.pdf
これまでの人類の2000年以上の歴史を通じて、常に資本収益率(r)が経済成長率を上回っていたことが一目瞭然です。この歴史的事実に関して、ピケティは、
体系的に資本収益率が成長率よりも高くなる大きな理由はあるのか?はっきり言っておくが、私はこれを論理的な必然ではなく、歴史的事実と考えている。
と述べています。ピケティは、われわれにr>gを論理的必然として納得する以前に歴史的事実として受け入れることを求めているのです。しかし、その事実を受け入れてもなお、r>gが格差拡大の原因となる理由については別途考えてみる必要があります。ピケティは、「伝統的農耕社会と、第一次世界大戦以前のほぼすべての社会で富が超集中していた第一の原因は、これらが低成長社会で、資本収益率が経済成長率に比べほぼ常に著しく高かったことだ」として、その因果関係を次のように具体的数値を挙げて説明しています。
たとえば成長率が年約0.5-1パーセントと低い世界を考えよう。
人類は、グラフにあるとおり、19世紀を迎えるまでは、常に1パーセント未満の成長率しか経験したことがなかったのです。超低成長社会がずっと続いたわけです。引用を続けます。
資本収益率(資本所得/総資本――引用者注)は、一般的には年間4、5パーセントほどなので、成長率よりかなり高い。具体的には、たとえ労働所得がまったくなくても、過去に蓄積された富が経済成長よりもずっと早く資本増加をもたらすわけだ。
労働所得は、経済成長率、すなわち国民所得の増分とおおむね歩調をそろえて増えると考えられます。それに対して、資本がその5倍から10倍の率で収益をもたらすとすれば、富が集中する富裕層やさらには超富裕層が所得を増やす点で俄然有利になるのは、けっこう分かりやすいのではないでしょうか。
たとえば、g=1%でr=5%ならば、資本所得の5分の1を貯蓄すれば(残り5分の4は消費しても)、先行世代から受け継いだ資本は経済と同じ率で成長するのに十分だ。富が大きくて、裕福な暮らしをしても消費が年間レント収入より少なければ、貯蓄分はもっと増え、その人の資産は経済よりもはやく成長し、たとえ労働からの実入りがまったくなくても、富の格差は増大しがちになるだろう。
いささか補足すると、いま国民所得100のうちの資本所得を25とします。その5分の1を貯蓄してほかをすべて使ってしまったとしましょう。また、資本/所得比率(β:総資本/国民所得)を5とすると、総資本100×5=500だったのが、次年度には500+25×5分の4=520となります。その増分は、520×5%=26、26-25=1 となり、次年度の国民所得の増分{100+1(前年度の国民所得の増分)}×1%=1.01とほぼ等しくなります。「先行世代から受け継いだ資本は経済と同じ率で成長するのに十分だ」とは、おおむねそういうことを指しているものと思われます。
こういう事態が、年を追うごとに累積していくのですから、rとgのはなはだしい差が、富裕層とその他大勢の格差の拡大に与える影響は非常に大きなものであることがお分かりいただけるのではないでしょうか。
このように、rとgのはなはだしい差は、「相続社会」の繁栄にとって理想的な条件である、とピケティは、フランス人らしいエスプリをこめて言います。ここで「相続社会」とは、「非常に高水準の富の集中と世代から世代へと大きな財産が永続的に引き継がれる社会」のことです。ピケティは、21世紀にそういう社会が再び到来することを、生々しいデータを提示しながら、強く懸念しているわけです。
では、第4回の講義をアップします。
<トマ・ピケティ講義>第4回「強まる資産集中」~所得データが語る格差の実態~
(第5回に続く。全部で6回分あるようですが、第5回・6回はまだ放映されていません)