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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その2)

2014年01月16日 12時39分08秒 | 戦後思想
三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その2)

特攻隊は犬死か
前回、三島由紀夫にとって『葉隠』は、戦中・戦後を通じての「座右の書」であった、というより、戦後においてこそますますその存在は、三島にとって光を放つものとなった、という意味のことを述べました。

三島のそのような言葉は、実のところ極めて反時代的なものであって、戦後社会は『葉隠』をほとんど禁書として扱ってきたのも同然である、と言っても過言ではありません。そのことと平行して、戦後社会は、神風特攻隊を「もっとも非人間的な攻撃方法」とし、それによって命を失った「青年たちは、長らく犬死の汚名をこうむって」きました。最近は、『永遠の0』がベスト・セラーになることで、そういう空気になにがしかの変化が起こっているような気がしますが、ここに至るまでずっとそういう扱いがなされてきたのは歴史的な事実である、と申し上げてよろしいかと思われます。

そのことを踏まえたうえで、三島は、特攻隊がほんとうに犬死なのかどうかを『葉隠』の読み込みを通して突き詰めて考えています。それに触れる前に、『葉隠』のもっとも有名な箇所から引きましょう。その後に、現代語訳も添えておきます(笠原伸夫訳 『葉隠入門』所収)。

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬはうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわつて進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり。我人(われひと)、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職を仕果(しおう)すべきなり。

(訳)武士道の本質は、死ぬことだと知った。つまり生死二つのうち、いづれを取るかといえば、早く死ぬほうをえらぶということにすぎない。これといってめんどうなことはないのだ。腹を据えて、よけいなことは考えず、邁進するだけである。″事を貫徹しないうちに死ねば犬死だ″などというのは、せいぜい上方ふうの思い上がった打算的武士道といえる。とにかく、二者択一を迫られたとき、ぜったいに正しいほうをえらぶということは、たいへんにむずかしい。人はだれでも、死ぬよりは生きるほうがよいに決まっている。となれば、多かれすくなかれ、生きるほうに理屈が多くつくことになるのは当然のことだ。生きるほうをえらんだとして、それがもし失敗に終わってなお生きるとすれば、腰抜けとそしられるだけだろう。このへんがむずかしいところだ。ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じて死んだとしても、それは犬死、気ちがいだとそしられようと、恥にはならない。これが、つまりは武士道の本質なのだ。とにかく、武士道をきわめるためには、朝夕くりかえし死を覚悟することが必要なのである。つねに死を覚悟しているときには、武士道が自分のものとなり、一生誤りなくご奉公し尽くすことができようというものだ。

言い方は表面上ごくあっさりとしているかのようですが、『葉隠』の話者としての山本常朝(じょうちょう)は、ここでとても微妙なこと、いいかえれば、ちょっとでも言い方がずれると受けとめられかたが違ってしまうようなことを、言葉を慎重に選びながらもなるべく率直に語ろうとしています。それを十二分に受けとめたうえで、三島は、こう言います。「人間は死を完全に選ぶこともできなければ、また死を完全に強いられることもできない」と。いいかえれば、「死の形態には、その人間的選択と超人間的運命の暗々裏の相剋が、永久にまつわりついている」というのです。

この言い方のわかりにくさを踏まえたうえでのことと思われますが、三島は、さまざまな例を挙げて、読み手を説得しようとします。

例のひとつめ、「葉隠」の死。上の引用で暗示されているような死は、一見、強制された死とは無限に遠い、選ばれた死であるかのようです。しかし、三島はそうではないと言います。すなわち、「葉隠」は選びうる行為としての死へ向かって、わたしたちの決断を促そうとしているのではありますが、その促しの裏には、山本常朝という「殉死を禁じられて生きのびた一人の男の、死から見放された深いニヒリズムの水たまりが横たわっている」というのです。いいかえれば、「選ぶ」という行為の積極的な価値を無に帰しかねないものとの相剋が、常朝の内面にはあったということです。ここで三島は、文学者らしい妄想を膨らまして世迷言を開陳しているわけではありません。次に引くのは、「葉隠」の文章であって、ほかのだれかの文章ではありません。

人間一生誠に纔(わづか)の事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚なることなり。この事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆んどへ終に語らぬ奥の手なり。我は寝る事が好きなり。今の境界相応に、いよいよ禁足して、寝て暮すべしと思ふなり。

定朝はここで、次のように言っています。「人間の一生なんてほんとうに短いものだ。だから、好きなことをしてくらすがよい。夢のようにはかなく過ぎるこの浮世で、好きでもないことをして苦しい思いをして暮らすのは馬鹿げている。これは誤解されるとろくなことがないので、若い人びとへ語らずに終わった秘伝のようなもの。わたしは寝ることが好きだ。いまの自分の境遇にふさわしい形で、なるべく家の中にとじこもって、寝て暮らそうと思っている」

これは、たとえば、俳人・小林一茶が六〇歳のときに阿弥陀様に「これから自分を荒凡夫(あらぼんぷ)として生きさせてほしい」と願い出た心持ちに通じるところがあります。つまり、定朝はここで、ニヒリズムとすれすれのふうわりとした生の肯定感をすんなりと吐露しているのです。この構えがあってこそ、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という死への覚悟の決め方が、豊かな身体性を伴った言葉として鮮烈にわたしたちに迫ってくるのではないでしょうか。

例のふたつめ、死刑。死刑は強いられた死としての極端な例であるかのようですが、三島によれば、「精神をもってそれに抵抗しようとするときには、それはたんなる強いられた死ではなくなるのである」。この視点は、三島が良質な文学的感性の持ち主であることを十分に物語っているのではないでしょうか。いいかえれば、三島はここで、文学なるものの存在根拠を、真正面からではなく側面から指し示しているのです。私はここに、福田恆存が「一匹と九九匹」という言葉で文学の本質を表そうとした心持ちに一脈通じるものを感じます。

例のみっつめ、自殺。これは、三島自身の死に方に大いに関わるものなので、私としても少なからず興味関心を喚起されます。三島は、「自由意思の極地のあらわれと見られる自殺にも、その死へいたる不可避性には、ついに自分で選んで選び得なかった宿命の因子が働いている」という言い方をしています。ここに、後の三島の死に様に関する予言的なものを読み取るのは、私だけではないでしょう。また、太宰治の死に様にも、その言い方が当てはまるように感じるのも、私ひとりではないでしょう。もっと言ってしまえば、すべての自殺に、その死を選び取ったひとびとの「宿命の因子」の所在を感じ取ることができるのではないでしょうか。私には、そのように感じられます。

例のよっつめ、病死。三島は、病死について「またたんなる自然死のように見える病死ですら、そこの病死に運んでいく経過には、自殺に似た、みずから選んだ死であるかのように思われる場合が、けっして少なくない」という言い方をしています。これで思い出すのは、私の母方の祖母のケースです。私事にわたって恐縮ですが、述べさせていただきます。祖母は、五〇年ほど前に胃がんで亡くなりました。まわりの人々は、当時その死をめぐって以下のような言い方をしました。

祖母は祖父とともに田舎でいわゆる万事(よろず)屋を営んでいました。だから祖母は、家事や客対応や業者とのやり取りや隣近所からの来客のもてなしで忙しくて、落ち着いてご飯を食べる時間的な余裕がほとんどなかった。で、その食生活のスタイルは、時間がちょっと空いたときにササッと済ますという形になってしまった。そのことが、胃がんにおおいに関係がある。まわりの人々は、そういう言い方をしたのです。そこには、自分の体をそっちのけにして、献身的によそ様のために働き続けた祖母の死を悼むひとびとの思いが込められていました。つまり、胃がんという病死は、いかにも祖母らしい死に方であるとひとびとは受けとめたのです(内輪ぼめのようで、あまり説得力がないのかもしれませんが、祖母は本当にとてもいい人だったのです)。

以上のように、死をめぐる選択性と不可避性・強制性の問題を具体例に即して検討したうえで、三島はこう述べます。

すなわち、「葉隠」にしろ、特攻隊にしろ、一方が選んだ死であり、一方が強いられた死だと、厳密にいう権利はだれにもないわけなのである。問題は一個人が死に直面するときの冷厳な事実であり、死にいかに対処するかという人間の精神の最高の緊張の姿は、どうあるべきかという問題である。

それを私なりに言いかえると、こうなります。すなわち、

ひとりひとりの死は、それがどのような形をとろうとも、100%の選択性や100%の不可避性・強制性として現象することはありえない。すべての死は、その両極の中間領域のどこかしらに位置する。その場合、問題として残るのは、人間としての尊厳を賭けた自由が、どこにどういう形で存する余地があるのか、ということなのである、と。それを三島流に「正しい目的にそうた死というものは、はたしてあるのだろうか」と言い直しても、基本は同じことでしょう。

三島は、『葉隠』の読み解きに即して、この問いに答えることはひとりの人間の判断を超えている、言いかえれば、それに答えようとすることは、「煩瑣な、そしてさかしらな」行為であると言います。その理由は端的に「われわれは死を最終的に選ぶことはできないからである」と述べられます。これまでの死をめぐる三島の議論を基本的に是とするならば、この理由づけもまた是とされるよりほかはないでしょう。ここで、三島はとても微妙なもの言いをしています。

だからこそ「葉隠」は、生きるか死ぬかというときに、死ぬことをすすめているのである。それは決して死を選ぶことだとは言っていない。なぜなら、われわれにはその死を選ぶ基準がないからである。われわれが生きているということは、すでに何ものかに選ばれていたことかもしれないし、生がみずから選んだものでない以上、死もみずから最終的に選ぶことができないのかもしれない。

三島は、死をめぐって何かを断言しようとしているわけではありません。むしろ断言しえないことをこそ、読み手に伝えようとしているようです。戦後思想批判の文脈に即するならば、戦後思想がひたすらに生の方向にのみ積極的な意義を見出し、死の問題を本腰を入れて考えようとせず、死の不可避性の問題と全身全霊で取り組んだ末に、決然として死に赴いた特攻隊員たちの秘められた胸の内に本気になって思いを致そうとしない態度の断定性・断言性に対して、三島は、生死観の根本から異議申し立てをしようとしているのです。『葉隠』のなかの「図に当たらぬは犬死などと」したり顔に言いたがる「上方風の打ち上がりたる武士道」とは、戦後思想にこそふさわしい形容である、という三島の声が聴こえてきそうです。「図に当た」る死とは、現代風に言い直せば、「正しい目的のために正しく死ぬ」ということであって、そういう主張は、空疎な不可能事であると、三島は言っているのです。

われわれは、一つの思想や理論のために死ねるという錯覚に、いつも陥りたがる。しかし「葉隠」が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さえも、人間としての尊厳を持っているということを(常朝は――引用者補)主張しているのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくであろうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。

「容赦ない」。この言葉ほど、「死」なるものにふさわしい形容句をほかに探すのはむずかしいような気がします。だからこそ、不可避的に有限性の意識を持った人間存在は、「死」に対して、ある姿勢を取らざるをえなくなる。″そのことの余儀なさにこそ、人間なるものの、言葉では言い表し難い尊厳が存する。そこに着目すれば、特攻隊を犬死であるなどとは、口が腐っても言えなくなる。そういう振る舞いは、死に直面しえない脆弱な思想の愚かしい不遜さにほからないない″と三島が言っているように、私の耳には響きます。これほどにまっとうな言葉を、一九六七年という戦後の真っ只中で表出しえた三島を、私は掛け値なしにたいしたものだと褒め称えたい。 (次回に続く)
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三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その1)

2014年01月12日 18時25分42秒 | 戦後思想
三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その1)

戦中・戦後を通じての「座右の書」
三島由紀夫の「神学」について、あれこれと考えているうちに、『葉隠入門』を読むことになりました。その感想をお話しすることにいたしましょう。

話は、三島由紀夫が『葉隠』をどう読んだかということと、私自身が『葉隠』そのもののどこに興味を抱いたかということの、ふたつがあるかと思われます。とはいうものの、そのふたつをくっきりと分けるわけにはいかないような気がします。なぜなら、私は三島の導きによって、今回はじめて『葉隠』に接したので、自覚しないまま三島の目で『葉隠』を見ている可能性を否定できないからです。しかし、そのあたりの判断は、読み手のみなさまに委ねることにして、とりあえず話を進めましょう。

まず、三島が『葉隠』をどう読んだのか、について。それは、「三 「葉隠」の読み方」において、三島自身によって端的に語られています。三島は、その冒頭で次のように述べます(引用文中の「戦争」とは、むろん大東亜戦争のことを指しています)。

「葉隠」がかつて読まれたのは、戦争中の死の季節においてであった。当時はポール・ブールジュの小説「死」が争って読まれ、また「葉隠」は戦場に行く青年たちの覚悟をかためる書として、大いに推奨されていた。

戦時中に、保田與重郎の諸著作や『古事記』や『万葉集』がそういう扱いを受けたことは知っていましたが、『葉隠』もそういう類の本だったとは、今回はじめて知りました。そうであるのみならず、『葉隠』は、三島自身にとっても、因縁浅からぬ書物であることは、「プロローグ 「葉隠」とわたし」にはっきりと書き記されています。そこで、三島が戦時中に熱心に読んだ本として挙げているのは、レーモン・ラディゲの『ドルチェル伯の舞踏会』と上田秋成全集と『葉隠』です。そうして、ラディゲと秋声とが戦後座右の書ではなくなっていったのに対して、『葉隠』だけはそうではなかったというのです。

三島は、「戦争中から読み出して、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十数年間、折にふれて、あるページを読んで感銘を新たにした本といえば、おそらく『葉隠』一冊であろう」とまで言い切るのです。これは、三島「神学」を理解するうえで、聞き捨てならない重大発言です。さらに三島は、「葉隠」を、戦後文学のなかで深い孤独を感じ続けざるをえなかった自分自身の反時代的な立場の「最後のよりどころ」と評してさえもいます。戦後においてのほうが、むしろ「わたしの中で光を放ちだした」とも言っています。ここから私たちは、三島が感じ続けた戦後思想空間の圧力のすさまじさに思いを致したほうがよいかもしれません。それがいかに凡庸な思想に過ぎないものであったとしても、絶対多数を占めてしまった場合、そこにすさまじい力が生まれることになります。それにあえて抗しようとする者は、思想の身体性をできうるかぎり強靭なものにしておかなければ、その圧力に耐え抜くのは不可能です。

戦後思想を振り返りながら、三島は、次のように述懐します。

われわれは西洋から、あらゆる生の哲学を学んだ。しかし生の哲学だけでは、われわれは最終的に満足することができなかった。

ここで私たちは、桶谷秀明が『昭和精神史』で述べた、次のような言葉を思い出してよいかもしれない。

この(伊東静雄の日記に記された「昭和二十年八月一五日」の神話的なイメージの原風景における――引用者補)内部感覚は、八月十五日からこの半月のあひだに、詔書を奉じ、国体護持を信じて生の方へ歩きだした多くの日本人と、すべてがをはつたと思ひ生命を絶つた日本人との結節点を象徴してゐるやうに思はれる。                (本書103頁・『昭和精神史』より)

つまり戦後とは、引用文に即して形容すれば「八月十五日からこの半月のあひだに、詔書を奉じ、国体護持を信じて生の方へ歩きだした多くの日本人」の世界、いいかえれば、「すべてがをはつたと思ひ生命を絶つた日本人」の存在を隠蔽し続けてきた世界となりましょう。それゆえ『葉隠」は、戦後において、その存在を忘却してしまうべき忌まわしい呪われた書物という「禁書」の位置づけを得るに至ったという意味のことを、三島は述べています。だから、『葉隠』を語るという振る舞いは、三島にとって、戦後思想の盲点を突くという契機をおのずから含むことになるのです。『葉隠』は、戦後思想の主流がなかば無意識に避けて通ろうとし続けてきた「死」を真正面から論じた書物、ということになりましょう。
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「自虐モード」の終焉   (イザ!ブログ 2013・12・17 掲載)

2013年12月28日 05時55分01秒 | 戦後思想
「自虐モード」の終焉

今日(十七日)の朝鮮日報が、〈「韓国は信頼できない」72%、日本人の反韓感情が最悪に「軍事的な脅威」、中国・北朝鮮に続き3位〉という記事を載せています。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/12/17/2013121701134.html?ent_rank_news 

読売新聞は16日、米国の世論調査会社ギャラップと共同で、米日両国民を対象に行った世論調査の結果「韓国を信頼できない」と回答した日本人の比率が72%に達し、「信頼できる」という回答(16%)を圧倒した、と報じた。一方、同じ調査で、米国人は韓国を「信頼できる」という回答(57%)が「信頼できない」という回答(41%)を上回った。また「中国を信頼できない」と回答した日本人は88%に達し、米国人も66%が「中国を信頼できない」と回答した。中国を「信頼できる」という回答は、米国(32%)が日本(5%)より多かった。日本人が挙げた「軍事的な脅威になる国」は、中国(78%)、北朝鮮(74%)、韓国(45%)、ロシア(40%)の順となった。韓国がロシアよりも軍事的脅威になるという調査結果は、2000年の調査開始以来初めて。

朝鮮日報といえば、発行部数が約230万部の韓国最大の新聞であり、韓国の新聞の中でも強硬右翼新聞に属するとされています。それで、韓国の国是は反日ですから、同紙は、反日の急先鋒という位置づけになるでしょう。

では、先に引用した記事もまた、韓国を「誤解」する日本を非難する論調なのかといえば、どうやらそうではありません。事実を淡々と伝えているだけなのです。最近の、パククネ政権の行き過ぎた反日媚中路線を批判する、同紙をはじめとする韓国保守系メディアの論調から察するに、むしろ、この事実を同政権に突きつけて、「大統領よ、この事実に対して如何に対処するのか」と暗に詰め寄っている感じがします。

その背景には、今後の日韓関係に対する韓国エリートとしての一定の危機意識があるのではないかと、私は推察します。それは、こういうことです。

昨年八月に李明博前大統領が竹島に上陸してからの、韓国側の執拗なほどの反日的な言動に対して、日本政府や日本の一般国民は、怒りを感じるというよりも、実は呆れ返ってモノが言えないというレベルに達しているのではないでしょうか。それが、ごく普通の大多数の日本人の反応でしょう(まあ、いろいろな人がいますからね)。そこには、戦後、朝鮮半島のふたつの国家に対して、不快感の表明を自らに対して禁圧し、不自然なほどの寛容さを強いられてきた日本人の集合的な意識が、しかるべき自然体の構えに戻ろうとするがゆえの逆流現象が伴っています。ごく一部の日本人による、いわゆるヘイト・スピーチは、そのことの過剰な現れとしてとらえるべきではないかと、私は考えています(だから許せ、と言いたがっているのではありませんよ)。

そうして、その「呆れ返ってモノが言えない」という態度が、韓国側からすれば、いまどきの日本人の薄気味の悪いクールさとして映っているのではないかと思われるのですね。平たくいえば、「日本人の反応が、なんだかこれまでと違うゾ。なんだか、ヤバイぞ」という感知が、韓国の知識層の間に生じているのではないか。

いちばん大きくいえば、ここ数年の中共の強硬で強引で執拗な侵略行為と韓国の「お笑いレベル」としか評しようのないほどに馬鹿げた反日的言動と北朝鮮・金正恩王朝の幼稚な恐怖政治の「おかげで」、「憂国」の知識人たちから「平和ボケ」と蔑まれつづけてきたごくふつうの日本人の間で、自虐史観の「薬効」がほとんどなくなってきてしまったのです。同じことですが、自虐史観というシビレ薬による日本人の思考回路の麻痺現象が、ほとんどなくなってしまった。

外交的な観点からすれば、東アジア諸国が、これまでのように「日本人のやましさにつけこむ」という強力なカードを失いつつある、ということです。中国が、かつての侵略戦争の事実を突き付けて迫ってきたとしても、「そりゃあ、そうかもしれないが、だからって、他人の国の領土を付け狙うのが許されるわけではないだろう」と反論されてしまうし、韓国に従軍慰安婦や「日帝三五年」をめぐって「反省」を求められたとしても、「そりゃあ、そうかもしれないが、だからって、子や孫の代にまで反日感情を吹き込んで、敵意を剥き出しにして、侮辱の限りを尽くすことが許されるわけではないだろう。だいいち、慰安婦をめぐる軍による強制連行の事実はなかったし、日帝三五年で朝鮮半島は近代化の礎を築いたではないか」と反論されてしまうのです。そういう反論を可能とする知識が、日本の一般国民の間に次第に定着してきた、ということです。

韓国保守系メディアと同じような戸惑いは、日本国内の、朝日・毎日・NHKなどの反日系売国メディアも実は感じているものと思われます。「おかしいなぁ。自虐モードがこれまでのようにあまり効かないぞ」というふうに。とくに、一般国民がNHKを見る目は、相当に厳しいものになっています。無理やり受信料をとられて、彼らの平均年収一八〇〇万円を下支えさせられているのが癪に障るというのが大きいとは思いますけどね。金の恨みと食い物の恨みは怖しいですよ。

そのことと、アニメ映画『風立ちぬ』や小説『永遠の0』が、世代の違いを超えて幅広い支持を受けていることとは、端的にいえば、パラレルの現象なのではないかと、私は感じています。教え子が明るい表情で「センセー、今度『永遠の0』を観に行くんだ」とこちらに語る時代になったのですね。「いろいろ言われてきたけれど、本当は、私たちってどういう歴史を歩んできたんだろう」という素直な思いが、地下水脈でとどまりきれずに地上に湧き出し始めた、ということなのでしょう。

知人から教えてもらった、次のような動画も時代の空気の変わり目を告げ知らせるものなのかもしれません。高校生がこういうものを作るとは、ちょっと前までは考えられなかったのではありませんか。高校生として、きちんと調べ、よく出来た作品に仕上がっているのではないでしょうか。自虐史観の戯画のような日教組のセンセイ方がこれをご覧になったら、総毛立って、生徒たちの間のこういう動きの芽生えを摘み取るのにやっきになるに違いありませんね。彼らは、自分たちの側からの言論弾圧の所在には、不思議なほどに気づきませんから。


日本の高校生が作った竹島問題検証動画が凄すぎる.avi


FBでたまたま見かけた次の動画にも、時代の空気の変化が刻み込まれているように感じます。いまの日本の感覚的にシャープな若者の、韓国に対する変なこだわりのないまともな眼差しが感じられるのです。そこにあるのは、ごくまっとうなクールでポップな視線です。これって、もってまわった理屈よりずっとストレートに、海外の若者たちに伝わるんじゃないかと思います。これらの若者の動きを「嫌韓」として乱暴にひとくくりにするのは、敗戦利得左翼による一種の印象操作にほかならないのではないでしょうか。

[Comfort Women Song] 韓国人慰安婦の歌


中韓に対する自虐感情が薄れつつある反面、アメリカに対する属国意識は、TPP参加への積極姿勢に見られるように、政府・既存マスコミ主導の形でむしろ強まりつつあるように思われます。その意味で、「戦後レジームからの脱却」は、いよいよ難所にさしかかってきたのではないでしょうか。本来は、その難しい流れを生産的なものや実り多きものに誘導する役割を担っているはずの、いわゆる知識人と呼ばれる人びとの多くが、そういう動向に対して鋭く反応しえない、旧時代的な戦後レジーム・センサーしか持ち得ていないような気が、私はします。それは、政治思想の左右を問いません。その意味で、韓国の知識層と日本の知識層とはよく似ています。脳に黴が生えてしまっているんですよね。
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長谷川三千子『神やぶれたまはず』 (その3) (その4) (イザ!ブログ ’13・10・31,11・12 掲載)

2013年12月25日 07時01分09秒 | 戦後思想
長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その3)
――「トカトントン」とは何の音なのか――




もう十年くらい前のことになるでしょうか。私は、青森県津軽半島のほぼ真ん中にある金木町(現五所川原市)に行ったことがあります。もちろん、太宰治の生家である斜陽館を見るためにです。五所川原駅で単線の津軽鉄道に乗り、左右に広がる田んぼの優しい緑に目を喜ばせるうちに、電車はほどなく金木町駅に着きます。駅前から線路とほぼ垂直に延びる細い道を一度だけ左折すると、徒歩で数分、車道沿いに二階建ての大きな木造建築が目に飛び込んできます。それが斜陽館です。太宰が、「苦悩の年鑑」の中で「この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もない。ただ大きいのである」と言ったとおりの、本当に大きな建物です。

大地主だった津島家は、戦後のGHQの農地改革によって没落し、この建物は手離されることになりました。それで昭和二五年から旅館「斜陽館」として旧金木町の観光名所となり、全国から多くの太宰ファンが訪れることになりました。しかし長く続いた当旅館もやがて閉鎖されることになり、平成八年三月に旧金木町に買い取られ現在に至っています。

入口で入場料を支払って建物の中に入るとすぐに、奥行きのある広々とした土間になります。その左手に、開放的でとても大きな囲炉裏が見えます。太宰は、十一人兄弟姉妹の十番目に生まれた六男坊ですから、津島家は相当な大家族です。むろん、ほかにたくさんの使用人がいたことでしょう。また、権勢家ですから、毎日のように近所の人びとも集まってきたことでしょう。地元の津軽三味線の名手たちがそこで演奏することもたびたびだったのではないかと思われます。金木町では、毎日のようにライヴ会場で津軽三味線が演奏されているのですから、それくらいのことは当たり前のように行われていたと思われます。

その大きな囲炉裏を見ていると、そこを囲む大勢の人々が、どことなくひょうきんな響きのある津軽弁で話に花を咲かせたり、津軽三味線に聞き入りながら杯を重ねたりする様子がおのずと脳裏に浮かんできました。太宰は、ちょっと変わったところのある子どもではあったのでしょうが、人びとのそういう様子をつぶさに見ながら成長したことは間違いありません。私が申し上げたいのは、太宰は、神経の先細りを招来するような近代的個人主義とは無縁の、良くも悪くも、人と人とのつながりが蔦のように絡まり合っている土着的な風土で生を受け、そこでパーソナリティの基底を育んだということです。

むろん太宰は、そのことを素直に受け入れたわけではありません。故郷をめぐって、彼には彼の屈託がありました。その屈託が、彼の文学的な営みの核を成していると言っても過言ではないでしょう。その営みの過程で、彼は彼なりに、近代の毒を身体の奥深くに入れてしまったことも、確かなことです。そのことが、彼をそそのかして故郷からおびき出し、異境で野垂れ死ぬことを余儀なくさせたと言ってしまっていいとも思います。その意味で、太宰もまた楽園から追放された悲しき近代のアダムたちのひとりなのです。

それをすべて認めたうえで、太宰が、近代とは無縁の土着的な風土で生を受け、そこでパーソナリティの基底を育んだことの重要性を、私は強調したいと思います。なぜならその成育史は、彼を無類の″語り部″にすることに大いに資するところがあったからです。ただし太宰の近代性は、彼をただの語り部ではなく、語り部である自分を見つめるもうひとりの自分をいつも伴った語り部にしました。

稗田阿礼が発した言葉を太安万侶が書き留めたのが『古事記』であるということは、高校で普通に教わることですね。古代において、語り部は、共同体の神に憑依して、神の言葉を自ずと語り出すだけでよかったのです。それを書き留める役割を担う人は別にいて、それは、太安万侶のような大陸の知識を吸収した当時の「知識人」だったのです。

ところが今様の物書きというのは因果な商売で、その作家が語り部の資質を持っていたとしても、稗田阿礼であるだけではダメで、太安万侶であることも必要とされます。そうでなければ、誰も自分が語ったことを聞いてくれないからです。そのことが、近代以降の語り部を先ほど述べたような複雑なものにします。そのことに対する鋭敏な意識が太宰にはありました。その意味で、太宰は自意識の強い作家でした。

心のなかにひとりの生々しい語り部を宿す太宰が、「徹頭徹尾〈神学的〉な出来事であつた」八月十五日に対して鈍感なはずがありません。これまでの話の流れから、″八月十五日″が、絶対性としての大東亜戦争を戦った日本人の共同性を凝縮した瞬間であることは間違いありません。そのことに、太宰の心のなかの語り部は激しく反応したに相違ないのです。その明らかな証拠が、小説「トカトントン」であるということになるのでしょう。

長谷川氏は、桶谷の「太宰治は八月十五日正午に『天籟』を聞き、その記憶を持続しつづけ、それを表現した数すくない文学者のひとりだつた」という言葉を引きながら、彼とともに「トカトントン」(一九四七年一月発表)の次の箇所を引きます。

厳粛とは、あのやうな感じを言ふのでせうか。私はつつ立つたまま、あたりがもやもやと暗くなり、どこからともなく、つめたい風が吹いて来て、さうして私のからだが自然に地の底へ沈んで行くやうに感じました。

死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました。前方の森がいやにひつそりとして、漆黒に見えて、そのてつぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒を空中に投げたやうに、音もなく飛び立ちました。

ああ、その時です。背後の兵舎のはうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞こえました。それを聞いたとたんに、眼から鱗(うろこ)が落ちるとはあんな時の感じを言ふのでせうか。悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持ちで、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした。    
(本書71・72頁)

この文章の前半について、長谷川氏は次のように述べています。

たしかにこの前半は、まさしく天籟を聞くといふ体験のなまなましい描写となつている。しかも、荘子の「斉物論」においては、その描写はもつぱら弟子が外側から見た姿として語られてゐるのであるが、これはいはば「形は槁木の如く、心は死灰の如く」の状態を内側から描き出した描写となつてゐる。その意味で、太宰治のこの文章は、「斉物論」以上に真にせまつた「天籟」体験の描写であるとすら言へるのである。   (本書72頁)

「トカトントン」において八月十五日の「天籟」を聴いた「私」は、戦時中に兵隊になり、「千葉県の海岸の防備にまわされ、終戦までただもう毎日毎日、穴掘りばかりやらされていました」。彼は「日本が無条件降伏という事になり」、故郷に戻り「Aという青森市から二里ほど離れた海岸のの三等郵便局に勤めている」人です。また、「私」の天籟体験を記した手紙を受け取ったのは、「罹災して生まれた土地の金木町に」帰ってきた「むざんにも無学無思想の」小説家という設定になっています。太宰のことを多少でも知る読者なら、手紙を受け取った小説家に作者がより多く投影されていると受け取る仕掛けになっています。言いかえれば、太宰は、自分が天籟体験をした事実になるべく気づかれないように人物設定をしたと考えることができるでしょう。自分自身の天籟体験と距離を取ることで、それが、当時の日本人全体のものであることをそれとなく読み手に受け入れさせようとしたのかもしれません。

太宰が天籟体験をしたことそれ自体への懐疑は、私にはありません。なぜなら、それを体験したことがない者が、その体験を「内側から描き出した描写」をものにすることなど到底できないからです。つけ加えれば、太宰は、本当に体験したことに嘘を巧みに織り込むことに長けた書き手ではありましたが、体験にまったく根ざさないまるまるの嘘を本当であると読み手に思いこませることに長けた書き手ではありません。

作中の「私」は、八月十五日正午に千葉県の兵舎の広場にいました。では、同日同刻、作者の太宰はどこにいたのでしょうか。年譜によれば、一九四五(昭和二十)年七月に、太宰は妻子を連れて津軽・金木町の生家に身を寄せています。また、家族とともに三鷹の自宅に帰ったのは、翌年の十一月です。だから太宰は、八月十五日を津軽・金木町の生家で迎えたことになります。青森県でも、一九四五年七月二八~二九日に、青森市が市街地の9割弱を焼失するほどの大規模な空襲を受けています。その被害のはなはだしさは、おそらく太宰の耳にも届いていたはずです。だから、太宰が終戦に至る日々に故郷でのほほんと暮らしていたとは考えられません。それなりの覚悟を胸に日々を過ごしていたはずです。

とはいうものの、金木町は田んぼのど真ん中にあります。いくら米軍が毎日雨あられのように爆弾を日本列島に投下しているとはいっても、空襲はそこにまでは及びません。つまり太宰は、一応牧歌的な田園風景のなかで八月十五日を迎えているのです。そのことの意味は、小さくないと思われます。

太宰はその地にとどまって、作家活動を続けることも可能だったのにそうしなかった。私は、そのことの意味を考えてみたいのです。仮に、太宰が金木町に留まって執筆活動を続けたならば、彼が三十九歳で命を落とすようなことはなかったのではないかと思われるのです。生家にいるときの太宰の執筆活動は、その前後と比べても一向に衰えを見せていないので、実家にたよらなくても、執筆活動で充分に糊口をしのぐくらいのことはできたはずです。だから、お金の問題で金木町を後にしたとは考えにくい。太宰の血族や周りの人びとは、「いま何も好き好んで焼け野原の東京に戻ることもあるまいに。苦労をしに戻るようなものだ」と言って引き止めるくらいのことはしたに相違ありません。

これはいまのところ想像の限りですが、焼け野原の東京に戻ることを決意した段階で、太宰の思想的身体は、死ぬことへ向けて半ば以上開かれていたのではないでしょうか。自分が「生の方へ歩きだした」日本人のひとりであることを押しとどめる強力な何かが太宰の心のなかにあったと思えてならないのです。

むろん私は、太宰に、「どうやらオレの時代が来たようだ。この際、東京に戻って大いに暴れてやろう」という文士としての山っ気や、「太田静子に久しぶりに会いたい」という男としてのあだ心がなかったとは申しません。むしろ、おおいにあったことでしょう。そういうひとりの愚かな煩悩まみれの存在としての太宰に、死へ不可避的に向けられた「思想的身体」が二重写しになっているというべきなのでしょう。

これもまた想像の限りなのですが、太宰が八月十五日の意味をより深く考えるようになったのは、故郷の牧歌的な田園風景とは対照的な、東京の荒涼とした一面の焼け野原を目の当たりにしてからなのではないでしょうか。「身と霊魂とをゲヘナにで滅ぼ」す腹を密かに固めたのも、その光景が自分の身体にきっちりと織りこまれてからのことなのではないでしょうか。その覚悟をあえて言葉にすれば、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という言い方になるのでしょう。その意味では、『敗戦後論』の加藤典洋が言うほどには、「私」の訴えと「あなた」の返答ぶりとはそれほどに喰い違ってはいないのであって、内的な連関からすれば、「あなた」が「無愛想でブッキラボーな返答」をしたことには、必然性があったと私は考えます。端的に言えば、「私」に対して、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という声ともっと真摯に向き合えと難じているのです。そうして、もっと「明るくて、単純な言い方」を心がけよ、と。

太宰は、思想的身体の次元で言えば、野垂れ死ぬ腹を固めて荒涼とした東京という異境に彷徨い出てきたのです。では、なにゆえ太宰は死のうと思ったのか。そのことには、彼の一種の戦友感覚が深く関わっています。端的に言えば、それが、先ほど述べた〈自分が「生の方へ歩きだした」日本人のひとりであることを押しとどめる強力な何か〉なのではないかと、私は考えます。そのことについては、後ほど触れましょう。

太宰の思想的身体が、不可避的に死に向けられていたからこそ、彼の耳は、天籟をぶち壊す「トカトントン」の予言的な響きを生々しく聴きとることになりました。長谷川氏は、そのことを的確に次のように言います。

河上徹太郎は昭和二十一年春の段階で、「あのシーンとした国民の心の一瞬」を振り返つて、「今日既に我々はあの時の気持と何と隔りが出来たことだらう!」と嘆じてゐたのであるが、ここには、その「隔り」の最初の動きがどのやうなものであつたかが、刻明に描かれてゐるのである。

「あのシーンとした国民の心の一瞬」の静寂は、ここでは、まず物理的なもの音によつて破られる。と同時に、その「誰やら金槌で釘を打つ」トカトントンといふ音は、そのしいんとした瞬間の「悲壮も厳粛も」ぶちこはしてしまふ。

それによつて、「憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で」その場に立ちつくす青年の姿は、一見すると、あの「天籟」を聞いたときの隠者の″呆然自失″のさまと似通つてゐるやうにも見える。しかし、このトカトントンなる音は、もちろん「天籟」ではない。これは明らかに「あのシーンとした国民の心の一瞬」の静寂を壊すものとして現はれてをり、その意味ではむしろ「天籟」と敵対するものと言つてよい。そしてこの小説「トカトントン」の主役は間違ひなくトカトントンの方なので、正確に言へば、太宰治は「天籟」の記憶を「持続しつづけ、それを表現した」といふよりも、「その記憶を持続しつづけ、それが壊されてゆくさまを表現した作家」と言ふべきであらう。
     (本書72・73頁)

上に引いた文章のなかで、私がとりわけ注目したいのは、最後の″太宰治は「天籟」の記憶を「持続しつづけ、それを表現した」といふよりも、「その記憶を持続しつづけ、それが壊されてゆくさまを表現した作家」と言ふべき″という箇所です。″天籟が壊されゆくさま″とは、端的に言えば、精神史としてとらえられたときの戦後史そのものです。

つまり、戦後史における人びとの心のなかのどこかしらにつねに潜在していて、時折ひょいと顔を出しては、私たちを「憑きものから離れたやうに、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持ち」に陥らせ続けてきた当のものを擬音化すると「トカトントン」になるのです。その意味で、長谷川氏が、″精神史の病理として、この「トカトントン症状」は描かれてゐるのである″と言っているのは、正鵠を射た言葉です。例えば、〈日本国民は、戦争の惨禍を経験することによって、主体的に戦争を放棄し平和国家として生きることを決意したのだ〉という戦後神話につながるような言説が胸を張って展開される場面に触れるたびに、そこに敗戦による精神的麻痺状態の所在が感じられて、私は「トカトントン」の虚しい響きが聴こえてくるような気がします。

平たく言えば、強国アメリカにコテンパンにやっつけられて尻尾を巻いているだけのことを、変に力んで美化しようとするなよ、と言いたくなってくるのです。もっと卑近なことを言えば、あまり偉そうに言えた義理じゃないのですが、〈市民として〉と言いたがる人に限って、どこか個人的な勇気に欠けるところがあって、そのことをカモフラージュするために、そう言っているような気がしてならないのです。そういう空言・虚言がまともな言説としてまかり通っている場面に触れると、私は、つい「トカトントン」の響きが聴こえてくるような気がしてしまうのです。

これは、長谷川氏自身きちんと別の言い方で指摘していることですが、「トカトントン」は、実は、数ヵ月後に自死をひかえた三島由紀夫の次の言葉によってイメージされた将来の日本なるものとも内的な関連があります。

私はこれからの日本の大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら『日本』はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機質な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つている人たちと、私は口をきく気にもなれなつているのである。   (本書83頁)

これは、「トカトントン」という音を視覚化して表現したものとしてとらえることができます。ユーモアがあるかないかの大きな違いはありますが、日本の行く末について抱いたイメージに関して、太宰と三島とは、とても近いところにいたのです。つまりふたりは、ほとんど同じものを見ていた。また、「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という思いの切実さにおいても、ふたりはよく似ていました。さらには、その思いの切実さが、一種独特の戦友感覚に根ざしていた点も、情死の姿をとった戦死という、死に方における二重性もそっくりです(この点、おそらく異論があることでしょう)。ちなみに、もっとも大きな違いは、太宰には土着的なものに根ざした語り部が息づいていたのに対して、三島にはそういうものはなくて、ひたすらなる人工的な観念の構築物への意志があるだけ、という点です。

ここでひとつ、ずっと気にかかっていたことに触れたいと思います。当ブログの寄稿者でもある小浜逸郎氏が、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書・二〇一二年)において、戦前の思想家四名、戦後の思想家三名を取り上げています。そのなかで、福澤諭吉は別格として、戦中に書かれた和辻哲郎『倫理学』、時枝誠記『国語学原論』、小林秀雄『無常といふこと』と比べると、戦後の吉本隆明、丸山真男、大森荘蔵の諸著作はどうしても見劣りがしてしまう、という率直な感想を述べています。それは、なぜなのでしょうか。その理由がひとつでないのはそのとおりなのでしょうが、私には、そのことと、戦後思想が″「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました″という大東亜戦争の絶対性を集約した声と正面から向き合うことなく「生の方へ歩きだした」日本人だけにその視線を向けたこととの間には、深いつながりがあるような気がしてならないのです。言いかえれば、和辻や時枝や小林がそれらの著書に取り組んでいたとき、彼らはみな、″死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました″という声と向き合わざるをえない情況にあった。つまり彼らは、大東亜戦争の絶対性と自分の思想的営みとがどう切り結ぶのかという課題に対して、言い逃れがきかない状態に身を置き続けたのです。そのことが、戦後思想に対する彼らの卓越性をもたらすことにおおいに関連があるのならば、戦後思想がいやしくも思想的劣位にあることに甘んじるのを潔しとしないのなら、とにもかくにもその声と素手で向き合う勇気をふるうよりほかにないことだけは確かであるような気がします。その課題の前では、知識人を気取っている場合ではないのです。

(ここで、大急ぎでつけ加えておきたいことがあります。それは、先の三島由紀夫の日本人に対する遺言のような言葉に対して、それを全面的に肯定することに、いささかためらうところがあるということです。端的にいえば、「豊かになって何が悪い。豊かになることは、それ自体、とても重要なことで、それをどこか軽く見る思想的な構えは、それが三島のものであろうと誰のものであろうと、到底受け入れることはできない」という言葉になります。そこを言わなければ、私たちは、もうひとつの虚偽に陥ることになります。これはこれで、とても込み入った問題に発展しますので、ここでは、これだけにとどめておきます)

話を戻しましょう。戦後まもなくの時期において、太宰が、「トカトントン」の響きに耳を傾けることで、その後の戦後精神史に対して予言的なスタンスをとることができたのは、その思想的身体において「死なうと思ひました。死ぬのが本当だ、と思ひました」という声と真正面から向き合おうとする姿勢を崩さなかったからです。そうして、その姿勢の核には、太宰独特の戦友感覚が存在した、という意味のことを先に述べました。そのことに触れておきましょう。

彼独特の戦友感覚は、「散華」(一九四四年・「新若人」三月号)を読めば、よく分かります。『散華』については、私が触れるまでもなく、本書で長谷川氏が詳しく取り上げています。長くなりますが、とても印象的で胸を打つ文章なのでそのまま引きましょう。

この「散華」といふ短篇には三人の若者が登場するのであるが、そのうちで話の中心となるのは三田君といふ青年である。鉄縁の眼鏡をかけ、「俗にいふ『哲学者のやうな』風貌」の三田君は、しずかに黙って作者の話を聞きながら、その話の「たいへん大事な箇所だけを敏感にとらへて」うなずく、といつた若者であつたといふ。

やがて三田君は、作者の友人の山岸氏のもとで詩を学ぶやうになり、山岸氏に彼のことをたづねてみると、「いいはうだ。いちばんいいかも知れない」と言ふ。しかし作者自身は、三田君の書く詩が、どれもそれほどよいとは思へず、首をかしげてゐた――そんな風に太宰治は書いてゐる。

その後一時体をこはしてゐた三田君は、元気になるとすぐ兵役につき、何度か葉書をよこすのだけれど、やはり作者はどうも感心しない。「山岸さんから『いちばんいい』といふ折紙をつけられてゐる人ではないか」と不満を感じてゐる。と、そこに最後の一通が届く。


御元気ですか。
遠い空から御伺ひします。
無事、任地に着きました。
大いなる文学のために、
死んで下さい。
自分も死にます、
この戦争のために。


この葉書に、作者は「最高の詩」を見る。

「うれしかった。よく言つてくれたと思つた。大出来の言葉だと思つた」と作者は言ひ、三田君が本当に「『いちばんいい詩人』のひとりである」ことを、からりと何の疑ひもなく信じるに至つたと語る。

やがてその年の五月の末、アッツ島の守備隊が玉砕し、八月末の新聞で、その名簿のなかに作者は三田君の名前を発見する。「任地」とはアッツ島のことだつたのである。「任地に第一歩を印した時から、すでに死ぬる覚悟をしてをられたらしい」と作者は言ふ。そして、「そのやうな厳粛な決意を持つてゐる人は、ややこしい理屈などは言はぬものだ。激した言ひ方などはしないものだ。つねに、このやうに明るく、単純な言ひ方をするものだ。さうして底に、ただならぬ厳正の決意を感じさせる文章を書くものだ」と述べたあと、最後にもう一度、あの三田君の便りを引いて、「散華」は終わつている。
 (本書87~89)

これにつけ加えることがあるとすれば、三田君の最後の便りは全部で三回引かれていることと、太宰が作中で自分を詩が分からぬ田舎者として自虐的に描いている点を除いては、ユーモアはなるべく抑えられていて、三田君の最後の便りが全編に響きわたるように書かれている点くらいです。

このくだりから、大東亜戦争の絶対性を受け入れることで、戦場において戦う友と文学という場で戦う太宰とが固く結ばれているのが分かります。太宰の戦友感覚とは、そういうものなのです。太宰自身作中でそのことを「純粋の献身を、人の世の最も美しいものとしてあこがれ努力している事に於いては、兵士も、また詩人も、あるいは私のような巷の作家も、違ったところはないのである」と率直に語っています。それは、「生の方へ歩きだした」戦後に取り残された太宰にとって、無視し得ぬ大きな負債のようなものになったはずです。そうして、結局戦後の太宰は、それに殉じることになったのではないかと、私は考えます。彼は、戦後を生き抜きえない文学者であることを宿命づけられていたという印象がどうしても強く残るのです。その点、戦後思想的な弛緩とは無縁の人でした。

太宰が「天籟」を聴いたのは確かなことでしょう。しかし彼が、その神学的な中身に深く言及することはあまりなくて、もっぱら、それが壊され続ける事態にその鋭敏な感性を働かせることになりました。八月十五日の神学的中身は、依然謎のまま、吉本隆明にバトンが渡されます。


長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その4)
――吉本隆明における「神への憤怒」――




吉本隆明は、私の読書歴において、もっとも影響を受けた思想家のひとりです。と同時に、自分のこれまでの人生の無意識の舵取りにおいても、少なからぬ影響を受けたような気がしています。人生には、書を読んだり、ものを考えたりすることのほかにたくさんの楽しいことや豊かなことがあります。ところが、それらの多くをあたら犠牲にして、書を読んだり、ものを考えたり、さらには、それを文字に写し取ったりすることに、私は、自分の持てるエネルギーの大半を費やす生き方を選ぶことにいつのまにかなってしまいました。私は大学の先生でもないのですから、そんなことをしてもあまりお金にはつながりません。そんな無謀な生き方を選ぶうえで、吉本隆明の存在が濃い影を落としているような気がするのです。そういうこととあまり縁のない方からすれば、私の言っていることは、おそらく大げさに聞こえるものと思われますが、若いころに吉本隆明に入れこんだ経験がお有りの方ならば、すんなりと分かっていただけるのではないでしょうか。ちなみに、私が2009年に書いた『にゃおんのきょうふ』には、吉本隆明との訣別を果たす、という意味合いが込められていました。

だから、吉本隆明については、私なりに、考えられるだけのことは考えてきたと思っています。それは、吉本にこだわりつづけることで半生を棒に振った者としてのなけなしの自負のようなものです。

しかるに『神やぶれたまはず』において、長谷川氏は、私がまったくと言っていいほどに考えの及ばなかった鮮やかな吉本像を提示しています。しかし、それは、奇を衒ったものではなくて、本書におけるそれまでの論の運びからおのずと浮びあがってきたという趣なのです。そのことにも、私は少なからず衝撃を受けました。つまり、その吉本像は、言われてみれば「コロンブスの卵」のようなものだった、ということです。そこに焦点をしぼってお話しましょう。

まず、気になるのは、吉本が戦争体験なるものをどう捉えていたのか、です。長谷川氏は、それをうかがわせる文章を『高村光太郎』から引きます。

戦争のような情況では、だれもその内的な体験に、かならず生命の危険をかけている。だから、この体験を論理づけ、それにイデオロギー的よりどころをあたえれば、もはや他の世代にたいして和解するわけにはいかない重大な問題を提出することを意味する。わたし自身にしても、戦争期の体験にたちかえるとき、生き死にを楯にした熱い思いが蘇ってきて、もはやどんな思想的な共感のなかへも、この問題を解決させようとはおもわなくなってくる。

長谷川氏が指摘するように、ここに示された吉本の構え方は、「その2」で取り上げた桶谷の「原体験」にそっくりです。また、氏によれば、それを「支える思想も、驚くほど似通つてゐる」として、同じく『高村光太郎』から、次の文章が引かれます。

わたしは徹底的に戦争を継続すべきだという激しい考えを抱いていた。死は、すでに勘定に入れてある。年少のまま、自分の生涯が戦火のなかに消えてしまうという考えは、当時、未熟ななりに思考、判断、感情のすべてをあげて内省し分析しつくしたと信じていた。

長谷川氏がいうごとく、「まさしくこれは、桶谷氏の語つてゐた、あの「本土決戦」の思想そのもの」です。

では、ふたりの間で何が決定的に異なるのでしょうか。長谷川氏によれば、それは、敗戦という事実に直面した場面における、あるいは、その後における天皇その人に対する態度です。しばらく、氏の言葉に耳を傾けましょう。

吉本氏は、神に向けられるはずの怨みや憤りを、なにかしら別の方向へと向けてしまふ。あの、自らの戦争体験のもつ神学的な側面についてはつきりと語つたインタヴューにおいてすら、「生き神さん」や天皇についての恨みがましい言葉は一つも語られてゐない。ただ、「戦後は、自分が天皇を生き神さまと考えたことには問題があったなと思いましたが」といふのみで、天皇自身、「生き神さま」自身に問題があった、とはひと言も語らないのである。

このやうな吉本氏の姿勢は、「天皇はわたしにとって死んだ」と断言する桶谷氏と、際立つた対照をなしてゐる。桶谷氏は、敗戦後、村に天皇自決の噂が流れたといふことを回想し「一度死んだものがもう一度死ぬなどとはゆるしがたい愚劣であった」といふ激しい言葉でその憤りをあらはしてゐる。さうした憤怒の表明は、吉本氏の場合、まつたく見られないのである。
 (本書152頁~153頁)

同じような戦争体験観を持ち、同じように本土決戦での決死を覚悟したふたりが、天皇その人に対する態度において、かくも異なってしまうのはなぜなのでしょうか。それについて、長谷川氏は次のように述べます。

おそらくそれは、桶谷氏がいはば紙ひとへのところで、天皇を神とは考へてゐなかった、といふことによるのであらう。たしかに、桶谷氏は三島由紀夫の語つた「神の死の怖ろしい残酷な実感」といふ言葉に共感し、その実感は自分にも「おぼえがある」と言つてゐる。しかし、桶谷氏の場合には、それは微妙なところで比喩的な表現にとどまつてゐたのだと思われる。(中略)ただ一つ、両氏が異なつてゐたのは、「神と己との直接性の意識」をもとめるか否か、といふ点であつたと思はれる。桶谷氏には、そのやうなものを求める必要はなかつた。

氏はなによりも「民族の歴史と神話を信じていた」のであり、天皇はただ、その信仰に「密着した何か」であつたにすぎない。

これに対して、吉本氏にとつての「生き神さん」は間違ひなく「神」であつた。そこに「神と己れとの直結性」をもとめうるほど、確固とした神であつた。また、その直結性を拒まれたとき、その憤怒が、ほとんどユダヤ教における〈神への憤怒〉の逆説に近づくほど、それはリアルな実感に裏打ちされた「神」なのであつた。

だからこそ吉本氏は、ちやうどユダヤ教徒やキリスト教徒が神への憤怒を口にしないやうに、天皇や「生き神さん」への憤怒を口にすることがないのである
  (本書153頁~154頁)

私がさきほど「私がまったくと言っていいほどに考えの及ばなかった鮮やかな吉本像」とは、上に引いた文章の終わりの二段落の太字で示された部分です。

また、ここまではっきりと特異な吉本像を描き出した文章を、私はほかに知りません。この吉本像を補助線にすると、吉本隆明の次の有名な文章の味わいがとても深いものになります。

敗戦は、突然であった。都市は爆撃で灰燼にちかくなり、戦況は敗北につぐ敗北で、勝利におわるという幻影はとうに 消えていたが、わたしは、一度も敗北感をもたなかったから、降伏宣言は、何の精神的準備もなしに突然やってきたのである。わたしは、ひどく悲しかった。その名状できない悲しみを、忘れることができない。それは、それ以前のどんな悲しみともそれ以後のどんな悲しみともちがっていた。責任感なのか、無償の感傷 なのかわからなかった。その全部かもしれないし、また、まったく別物かとおもわれた。生涯のたいせつな瞬間だぞ、自分のこころをごまかさずにみつめろ、と しきりにじぶんに云いきかせたが、均衡をなくしている感情のため思考は像を結ばなかった。 (『高村光太郎』より)

吉本は、ここで自分自身いまだにはっきりとこういうものだとは言い得ぬ「名状できない悲しみ」を味わった体験を生々しく語っています。いつまでたってもその意味が自分にとってはっきりしないけれど、その記憶が鮮やかな体験とは、少なくとも通常のものではなくて、いわば異常な体験です。個人の実感を超え出たところを有する体験である、とも言えるでしょう。

この言葉に、平成十六年に行われたインタヴューにおける「僕は家族のためにも祖国のためにも死ねないと徹底して考えて、出した結論が天皇のため、生き神さんのためなんです。(中略)生き神さまは政治に直接には関与しないけれど、国家を一人で背負う巫女的な存在で、その眷属が政治をおさめる天皇になる。立憲君主なんてやつでなく、昔からそういう信仰で日本は統治されてきたわけで、こいつのためなら死んでもいいと当時はリアルに感じられたんです」という発言を重ね合わせると、次のことが浮びあがってくるように思われます。

当時の皇国青年・吉本隆明は、彼なりのやり方で、大東亜戦争という絶対的なものを闘っていました。そうして、天皇という「生き神さん」のためなら死ねるという思いを固めるに至りました。つまり吉本は、「神の前に自らの死をさしだ」す腹を決めたのでした。ところが、突然にもたらされた敗戦において、吉本は、「生き神さん」から、そのささげものを拒否され「生きよ」と命じられることになりました。そのときに彼が感じた「名状できない悲しみ」にじっと目を凝らしてみると、それは、神を深く信じていたからこそ感じる激しい〈神への憤怒〉を、神をなおも信じ続けようとするからこそ、表出できないという、だれに対しても説明し難い深い不条理感から湧き出た感情であることが分かってきます。

このときの吉本は、絶対性を帯びた大東亜戦争を観念的な意味で極限まで闘い切ったがゆえに、敗戦という晴天の霹靂によって、しばらくは立ち上がれないほどの精神的な打撃を受けることになりました。しかしそのことによって、吉本は、図らずも、文化の違いという通常は超え難い壁を超えて、実は神学の領域という普遍的な場に足を踏み入れていたのです。苦しくとも、そこに留まり、そこを深堀りしたならば、吉本は、「戦後」の限界を突破するとても大きな普遍思想を掴み取ることができたのかもしれません。あるいは、その営為は吉本を狂気あるいは死に追い込むことになったのかもしれません。

いずれにしても、戦後の吉本は思想家としてその道を選びませんでした。そのことで吉本は、彼の崇拝者たちから「戦後最大の思想家」と呼ばれるほどの存在になったのですから、思想家として悪い選択をしたとは言い切れません。その歩みをたいしたものだとも思います。しかしながら、彼が選んだ道が、彼自身を含めた日本の「大衆の原像」が被った敗戦のトラウマを根のところから乗りこえる契機を有するものではなかったことだけは確かです。長谷川氏は、どうやらそのことをとても残念がっているようで、本書に次の言葉を記しています。

吉本隆明氏の敗戦時に体験した「やるかたない痛憤」は、その核心部をみづから「ごまかさずにみつめ」ることのないまま、素通りされ、ずらされ、捨て去られてしまつた。ひょつとすると、われわれの敗戦体験を明らかにするための大きな手がかりを含んでゐたのかもしれない〈神への憤怒〉は、つひに白日のもとにさらけ出されることのないまま埋もれたのである。   (本書157頁)

ここで私は、桶谷秀明における戦後の日本人のあり方の「二分法」を評した長谷川氏の次の言葉を思い出します。

多くの人々が戦後の日本人のあり方をさまざまに分類し、評論してきたのであるが、言ふならば、それはすべて「生の方へ歩きだした」日本人のなかでの分類にすぎない。「生の方へ歩きだした」日本人を丸ごとひとまとめにして、敗戦後に生命を絶つた日本人と並べ置くといふ対比の仕方は、他に例を見ないものと言つてよい。

この言い方を借りれば、吉本隆明は、思想家として「『生の方へ歩きだした』日本人を丸ごとひとまとめにして、敗戦後に生命を絶つた日本人」や大東亜戦争の最中においてその絶対性に殉じた人びとと「並べ置くといふ対比の仕方」をしうるだけの貴重な敗戦体験をしながらも、その方法を捨てて、「生の方へ歩きだした」日本人にだけ視線を注ぐことで自分の戦後の道を切り開いていったと言いうるのではないかと思われます。それはそれで、いろいろと思想の果実をもたらしたことは確かなことだとは思います。しかしそれが、「われわれの敗戦体験を明らかに」し、それを大きく乗りこえることに資する道でなかったことだけは確かなのではないかと、私は考えます。

吉本思想の評価をめぐっては、長谷川氏の吉本評をひとつの大きなきっかけに、そう遠くない未来に地殻変動的な変化が起こるような気がしています。そのとき、護教的な吉本主義者は、おそらくその変化を乗り切ることができないのではないか。私たちが戦後思想の限界を乗り越えていくうえで、それは好ましいことなのではないでしょうか。

話を戻しましょう。吉本が抱き、あえて表出することのなかった〈神への憤怒〉を導きの糸にして、次は三島由紀夫の『英霊の聲』に目を凝らしてみましょう。 (続く)  
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 長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その1)(その2) (イザ!ブログ 2013・10・26,28 掲載)

2013年12月25日 05時24分59秒 | 戦後思想
長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その1)


詩人・伊東静雄

かつて私は、当ブログで木下恵介の『陸軍』を論じたことがあります。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/7ad13147688249e05a2d76171e2ec640 そのおり、当作品には本当の意味での反戦文学の契機が存すると述べました。また私たちが、反戦の意味を本気でつかもうと思うのならば、大東亜戦争の真っ只中に飛び込んでいって、かつての日本人たちとともに戦い、ともにもみくちゃになり、ともに敗戦のときを迎えるよりほかはないという意味のことを述べました。そうしてそれは、戦争を経験していない者にとっては、本質的に想像力の問題である、とも。戦後において流通している俗流歴史観によれば、反戦思想は、過ちの歴史を二度と繰り返さないという決意を固めることによって育まれるとされるのですが、私は、その「過ちの歴史」を何度でもくぐり抜ける観念の旅を敢行することによってしか、真の反戦思想は掴み取りえないと考えたわけです。

そこには、戦後に流通した「反戦」なる概念のまがい物性を否定的に乗り越えたいという私なりの思いがありました。もっと踏み込んで言ってしまえば、自由・平等・人権・平和などという、戦後に流通し続けてきた肯定的諸価値に対する疑念が湧いてくるのをいかんともしがたいという思いがありました。そういう諸価値に安住していられれば、どれほど楽に生きられるだろう、ということでもあります。何の因果で、かくも疑い深くなってしまったのか、自分のことながらどう考えてみてもよくわからないところがあるのです。私の場合、いわゆる保守思想にアクセスする以前からそうなのです。私には、そういう諸価値に何の疑いも持たずにそれらに基づいて言説を展開しようとする論者のナイーヴさに対する抜きがたい違和感や、さらには嫌悪感さえもがあります。そういう論者は、一種の「思想の敗戦利得者」の姿として私の目には映るのです。それは自分でも処理し難い激しい情念です。そこだけ取り出して言うならば、パリサイびとの偽善を激しく非難するイエスの気持ちが分かるほどです。

話を戻しましょう。反戦なるものにまつわって、そういうことを考えてはみたものの、そういう意味での想像力を発揮することは、実のところ言うは易く行うは難しなのです。なかなかその先へ進むことがかなわないままに、いたずらに時が過ぎていきました。

一国の歴史のうちには、ちやうど一人の人間の人生のうちにおいてもさうであるやうに、或る特別の瞬間といふものが存在する。

上記は、見返しと扉をめくった本書の「序」の冒頭です。それがすっと目に飛び込んできたとき、私は心の片隅に震えのようなものを感じました。それをあえて言葉にすれば、次のようになります。「お前はこれから日本の歴史においてとても重要なことを目撃する観念の旅を始めることになる。そうしてそれは、お前が考えようとして考えあぐねていたことに大いに関係のある旅である」。珍しいことに、そういう直観が働いたのです。

幸運なことに、その直観は当たっていました。だから、本書は私にとても実り多いものをもたらしてくれました。むろん、その分大きな課題も残されました。それらが具体的にはどういうことなのかをお伝えするのが、この文章の柱となるのでしょう。

本書は、文中の「ある特別な瞬間」とは何であり、そこで実は何が起こったのかにきっちりと答えています。というより、本書の論点はあえてその一点にぎゅっと絞り込まれています。著者ご自身によれば、それに直接関連しない事柄は、思いきりよくバッサバッサと刈り込まれました。だから、本書を読み終えた者は、それを肯定的に受け入れるにしても逆に拒否するにしても、本書から輪郭のくっきりとした歴史の一瞬の鮮烈なイメージを受け取ることは間違いありません。その意味で、本書は「読み手に、伝えたいことの核心だけを伝える」という書き手の姿勢が感じられて実に清々しいし、言っていることの責任の所在がはっきりしてもいます。それに対して批判的なアプローチが可能なのは分かりますが、私は、むしろ著者の潔いスタンスを諒とする者です。知性なるものは、懐疑においてよりもむしろ他を捨ててひとつのことを選ぶ決断においてこそ高度に発揮されるものであると思うからです。別言すれば、考えることは一定の決断に向けて開かれたものであることが必要である。なぜなら、そうであってこそ、言論の本当の意味での責任が生まれるからである。そう思うのです。

「ある特別な瞬間」とは何であり、そこで実は何が起こったのかについてとりあえずさわり程度に触れておきましょう。

「ある特別な瞬間」とは、一九四五年八月十五日正午に日本国民がラジオで昭和天皇の「終戦の詔書」を聴いたときに、国民の心のなかで起こったことを指しています。では、いったい何が起こったのでしょうか。著者は、それを語り切るために、戦後日本の選りすぐりの思想家たちとの語らいに十年の歳月をかけました。もちろん、ずっとかかりっきりというわけではなくて、気長に折に触れてという形だったのでしょうが、本書と取り組みはじめてから十年の歳月が流れたのは確かなことです。本書には、それだけの膨大な時間が織り込まれているのです。三〇五ページの、分厚いとは言えないほどの分量なのですが、読後、もっと大部の本を読んだような感触が残るのは、そういう事情があるからなのではないでしょうか。その歳月分の重みを尊重するならば、先の「国民の心のなかで起こったこと」をあっさりとここで言ってしまうことを、私はいささかためらってしまいます。もったいぶるわけではなくて、そうしてしまうと、それをはじめてご覧になった方(それを想定して、この文章を書いています)は、おそらく字面だけは追えるものの本当のところ何が何だかわからないのではないかと思われるからです。それではあまりにもったいない。

そこで、必要最小限のまわり道をして、著者の対話の相手となった思想家たちとのやり取りのポイントを順次押さえながら、そのとき「国民の心のなかで起こったこと」に肉薄して行こうと思います。そんな流れをたどることで、読み手が、本書の提示した鮮やかなイメージを等身大で受けとめることが可能になれば、私としては本望です。むろん、それを受け入れるにしろ、拒否するにしろ、ということです。そうして、それは私自身の問題でもあるので、出来うる限りそのイメージに対する私のスタンスも明らかにするよう心がけましょう。また、その一連の試みが、本書の単なる祖述に終わってしまったのではつまりませんから、折に触れて私見を織り込むことにします。もしもウザイと感じられたならば、そこは読み飛ばしていただいてもけっこうです。

著者の対話の相手を、掲載順に列挙しましょう。折口信夫、橋川文三、桶谷秀明、河上徹太郎、太宰治、伊東静雄、磯田光一、吉本隆明、三島由紀夫、そうしてデリダ。

あらかじめ申し上げておけば、吉本隆明や三島由紀夫との対話が最大のポイントになります。また、それらの重要性をくっきりとあぶり出すために、著者は、デリダの『死を与える』に焦点を当てようとします。その過程で図らずも、思想家としての吉本の価値と三島の『英霊の聲』の評価をめぐって、読み手は重大な視線変更を余儀なくされます。むろん、そのほかの思想家についても同じことが言えます。その意味で本書は、戦後においてもっとも考えるべきことをどこまで深く考えているかという観点から、戦後の諸思想家の大胆な読みかえ作業、さらには、戦後思想のパラダイム変更を敢行しているともいえるでしょう。本書は、思想書としてとても刺激的で挑戦的な本なのです。

それでは、そろそろ本文に入ってゆきましょう。

本文の冒頭に登場するのは、折口信夫が戦後まもなくに書いた詩「神 やぶれたまふ」です。

「神やぶれたまふ」

神こゝに 敗れたまひぬ─。
すさのをも おほくにぬしも
青垣の内つ御庭(ミニハ)の
宮出でゝ さすらひたまふ─。

くそ 嘔吐(タグリ) ゆまり流れて
蛆 蠅(ハヘ)の、集(タカ)り 群起(ムラダ)つ
直土(ヒタツチ)に─人は臥(コ)ひ伏し
青人草(アヲヒトグサ) すべて色なし─。

村も 野も 山も 一色(ヒトイロ)─
ひたすらに青みわたれど
たゞ虚し。青の一色
海 空もおなじ 青いろ─。


著者は、「ここには、絶望の極まつた末の美しさ、酸鼻のきわみのはてに現はれる森と静まりかえつた美しさといふものがあ」り、「昭和二十年八月十五日正午の、『あのシーンとした国民の心の一瞬』のかたち」があると評します。「あのシーンとした国民の心の一瞬」とは、河上徹太郎が敗戦後ほどなく書いた「ジャーナリズムと国民の心」の一節であり、後に桶谷秀明によって『昭和精神史 戦後篇』(平成十二年)に再録されることになったものでもあります。詩の終末部の青のイメージには、八月十五日の快晴のそれが織り込まれています。そのイメージは、詩人・伊東静雄の日記の次の一節にもはっきりと顔をのぞかせています。

十五日陛下の御放送を拝した直後。
太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面を木々を照し、白い雲は静かに浮かび、家々からは炊煙がのぼつてゐる。それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然に起こらないのが信ぜられない。  
(101頁)

この一節に込められた不可思議な激情が、時の風化作用を経てなおも遠く残響として残ったときに、それは、次のような世にも美しい叙情詩として結晶しました(この詩は本書からの引用ではありません)。

夏の終り

夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐわしい大気の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落とす静かな翳は
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
いちいちさう頷く眼差のやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田(みずた)の面を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
ずっとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる


         (詩集『反響』創元社・一九四七年 より)

「気のとほくなるほど澄みに澄んだ/かぐわしい大気の空をながれてゆく」「白い雲」。このイメージの淵源は、上記の日記の一節の「太陽の光」が「透明に強く田と畑の面を木々を照」す中に「静かに浮か」ぶ「白い雲」に求めることができるでしょう。動いているかとどまっているかの印象の違いはありますが、前者に〈時の流れ〉を織り込めば後者になると解釈すると、両者はスムーズにつながるのではないでしょうか。

私が頭をつっこみかけているのは一種の作品論ですから、異論があるのは承知していますが、要は、伊東静雄にとって、八月十五日の森とした青空のイメージが、一種のアーキタイプ(元型)のようなものとして心の奥深くに貼り付いてしまったことが確認できれば、私としてはそれでいいのです。そうでなければ、「夏の終わり」のような決定的で鮮やかな印象を与える叙情詩を書くことは不可能であると思います。

そうして、その同じ事態が、伊東静雄のみならず、折口信夫にも、橋川文三にも、桶谷秀明にも、太宰治にも、吉本隆明にも、三島由紀夫にも、それぞれ個性の数だけのバリエーションを伴いながらも、シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)の形で起こった。本書は、そのように読み手に語りかけ、そのことの深い意味合いの気づきに読み手を誘い込んで行こうとするのです(磯田光一を外したのには、後述しますが、訳があります)。

流石に折口は、著者によれば、敗戦のアーキタイプの意味をきちんとつかんでいます。彼は、敗戦の只中から、新しい神学を打ち立てる必要性を悟り、学生たちに「あなたがたの中に、神道の建設に情熱を向ける者が出てもらいたい」と熱をこめて語りかけているのです。

しかし折口の「新しい神学」を打ち立てる試みは挫折しました。それは何故なのでしょうか。その理由を語るには、彼の愛弟子の春洋(はるみ)のことに触れないわけにはいません。

本書によれば、石川県能登半島生まれの「藤井春洋は二十一歳のときから折口の家に身を寄せ、出征まであしかけ十六年間、生活をともにしつつ折口の薫陶を受けた、文字通りの愛弟子」です。折口の同性愛的な傾向を考えれば、当然肉体関係もあったのでしょう。そんな存在であった春洋が、一九四三年、二度目の召集を受け、金沢歩兵聯隊に入営し、四四年七月、硫黄島に着任し、陸軍中尉を拝命するのですが、同月に、折口信夫の養子として入籍します。本書によれば、「氏にとって藤井春洋氏を失ふといふことは、我が子を失ふことであると同時に自らの学問の後継者を失ふことであり、また自らの生活そのものを失ふことでもあった」とあります。まったくもって、そのとおりだったことでしょう。四五年三月十九日、春洋は硫黄島にて戦死しますが、それを知った後の折口の取り乱しぶり、落胆ぶりは、身も世もないほどのものだったようです。そうして彼は、死に至るまでついにその精神的な打撃から回復することがかなわなかったようでもあります。折口は春洋の故郷の能登一ノ宮に父子の墓を建て、次のような碑文を刻んでいます。

もっとも苦しき  たたかひに  最もくるしみ  死にたる
むかしの陸軍中尉  折口春洋  ならびにその 父 信夫の墓


この碑文は、折口の心にぽっかりと空いた傷口が遂にふさがらないまま鮮血を流し続けたことを生々しく伝えています。こうしたことを踏まえたうえで、長谷川氏は次のように述べます。

折口信夫氏は、明らかにその(すなわち、大東亜戦争の――引用者補)「絶対的なもの」を垣間見てゐた。さもなければ、あの「神 やぶれたまふ」のやうな詩が書けたはずもないし、また「神道宗教化」を言ひ出したはずもない。しかし、氏にとって、その「絶対的なもの」をそれとしてつかみ出すのは、ほとんど構造的に不可能なことであつた。単に、折口氏が自らの悲歎をのりきることができず、それを見つめる勇気に欠けてゐた、といふのではない。実は、本来それを為すべき者は折口氏ではなしに、「息子」の春洋氏であつた。

長谷川氏は、ここで一見謎めいたことを言っています。ここで述べられていることをまっすぐに受けとめるならば、著者は、″新たな神学を打ち立てるのは、折口信夫にとってはなはだしい難事であって、実は「息子」の春洋にしかできないのだ″と言っているように読めますね。それは、いったいどうしてなのでしょうか。その謎解きは、デリダの『死を与える』を論じるときまで待たなければなりません。デリダはそこで『旧約聖書』の「イサク奉献」を取り上げるのですが、その詳細については、そこで説明しようと思います。(*と言いましたが、いま取り組み中の「その4」三島由紀夫編で、先取りしています。2013・12・25 記す)とりあえず端的に、著者は″イサクの父は、実のところ神学の真髄の内側に入ることができない。それができうるのは、息子のイサクである。折口信夫はあくまでも「イサクの父」の立場にあり、藤井春洋こそが「息子のイサク」立場にある。だから、折口が新らしい神学を打ち立てるのは構造的に不可能なのだ″と言っている、とだけ申し上げておきましょう。

次に対話者として登場するのは橋川文三です。長谷川氏によれば、橋川文三は、″「戦争体験」を「絶対的な戦争をやつた経験」として語らうとした人″です。私としても、それに異論はありません。保田与重郎を排撃・無視しようとする戦後の風潮のなかで『日本浪漫派批判序説』(一九五九年)を世に問い、自分はなにゆえ戦時中保田に強く惹かれ続けたのかをきちんと述べようとした橋川の心に、〈絶対的なものとしての大東亜戦争〉という観念があったことは間違いないと思われるからです。

橋川文三には、戦前と戦後をどうつなぐかという課題をめぐっての遠大な構想があったようです。彼は、戦前と戦後とを分断している、先の大戦と敗北という結末そのものの内に「超越的な価値」を見出そうとしました。つまり、戦前と戦後とを分断しているものの核心に両者をつなぐものを見出そうとしたのです。その分かりにくい難事を成し遂げなれば、両者はつながらないという確信が彼にはあったのでしょう。彼は、日本人が体験した戦争・敗戦と「イエスの死」とを対比させて、その分かりにくいことがらの重要性をなんとか伝えようとします。

私は、日本の精神伝統において、そのようなイエスの死の意味に当たるものを、太平洋戦争とその敗北の事実に求められないか、と考える。イエスの死がたんに歴史的事実過程であるのではなく、同時に、超越的原理過程を意味したと同じ意味で、太平洋戦争は、たんに年表上の歴史過程ではなく、われわれにとっての啓示の過程として把握されるのではないか。 (「『戦争体験』論の意味」)

著者の言葉を使うならば、橋川はここで、太平洋戦争とその敗北の事実を「神学的な領域」として把握し、そこに踏み込む入口に立っています。「イエスの死」を持ち出すことによって、彼がそのことをはっきりと自覚していたことが分かります。そういうアプローチをしなければ、その歴史過程を「超越的原理過程」としてつかみ取ることはかなわないことを、言いかえれば、戦前と戦後とをつなぐことはかなわないことを、彼はよく分かっていたのです。

しかるに、この論考が書かれてからおよそ二十年後の昭和五四年に、橋川は、次のような言葉をもらしています。

結局あの戦争はあったことはあったが、なかったといっても少しもかわらないことになる。  (41頁)

謎めいていて、また、相当に過激でもあるこの言葉を、著者は、次のように受けとめます。

これは、橋川氏の「戦争体験論」そのものの敗北宣言である。戦争体験のうちに「超越的意味」をさぐらうと求めつづけて、つひにその試み自体がつひえ去つたことを自ら認めた宣言である。(中略)けれども、見方を変へれば、橋川氏は自らのあの企てを忘れ去つてはゐなかつたのだ、といふことにもなる。「あの戦争」に、なにか超越的な意味をさぐらうとしつづけた人間でなければ、このやうなことは決して言へない。  (41頁~42頁)

自分の試みがどういう性格のものであるか十分に分かっていたはずなのに、橋川の試みはなにゆえ失敗してしまったのでしょうか。それは、「あの戦争」を太平洋戦争と呼んでしまったところに、致命的な誤りがあると著者は言います。著者によれば、この呼称を選んだ段階で、橋川はあらかじめ「戦争体験」をその内側からとことん掘り下げる道筋を放棄しているのです。


それは、橋川氏がいかなるイデオロギイ、いかなる歴史観にくみしてゐるか、といふこととは直接にかかはらない。それは、ただ端的な事実――「太平洋戦争」を体験した日本人はゐないといふ事実――によるのである。自ら積極的に戦争に参加した人であれ、不満をかかへつつそれを横目でながめてゐた人であれ、すべての日本人は「大東亜戦争」を体験したのであつて、それ以外ではない。 (40頁)

たかが呼称、されど呼称なのです。「あの戦争」について正鵠を射た問題意識を持ちながらも、橋川が呼称の問題につまずいて、戦争体験を徹底的に内側から掘り下げる道をまえもって自分から塞いでしまったという思想の悲劇に、私は、戦後の言語空間の歪みの強度のはなはだしさをあらためて感じる思いがします。

十月二十日に、私は、著者の長谷川三千子氏を交えての本書の読書会に参加しました。そのとき、当ブログに本書の書評をお書きになった由紀草一氏が、「自分が『軟弱者の戦争論』(2006)を書いたとき、大東亜戦争という呼称を使うのに、けっこう勇気が要った。それがいまでは、その呼称を使っても、そのときほどの抵抗感がない。そこに、時代の変化を感じる」という意味のことを言っていました。私なりの言い方をすれば、いまは以前とくらべると戦後の言語空間の歪みからいささかなりとも距離を置くことが可能になったのではないかと思われます。本書もまた、それを可能とすることに大いに貢献しているのではないでしょうか。私たちは、もう二度と、橋川文三の思想的悲劇を繰り返してはならないのです。 (続く)



長谷川三千子『神やぶれたまはず』について(その2)



私は、長谷川氏の文章にとても惹かれます。旧仮名遣いが特徴的なその文章には、独特の、読み手の身体性に心地よくなじむゆるやかなリズムがあって、いちどハマったらクセになってしまう、危険な文体でもあります。なんというか、読み進みながら、すぐ傍らで著者自身が丁寧に朗読している声が聴こえてくるような雰囲気が感じられるのです。それで、読書会のときに、ご本人にご自分の書き進めている文章は朗読して出来具合を確認していらっしゃるのかどうか訊いてみました。すると、「いい気になって書いた文章を翌日みると『ああダメだ』とガッカリしてしまうことがしょっちゅうです。何度も読み返してみて、こういう感じかなという感触が得られるところまで直します」という意味のことをおっしゃいました。それで、いま述べた、氏の文章を読み進めるときの自分の感触がこういうものだと正直に言ったところ、「そういう感じなら、私の読み返しはなんとか成功したのでしょう」とのお答えでした。氏の見事な文章の陰には、無限の推敲があることを知って、感慨を新たにしました。

さて、本文に戻りましょう。次に登場するのは、桶谷秀明の『昭和精神史』と『昭和精神史 戦後編』です。これらは、合わせると文庫版で約1300ページという膨大な量の書物であるのみならず、内容の点でも、昭和を生きた日本人の心の歴史を考えるうえで到底無視し得ない存在です。その意味で、桶谷のライフ・ワークとも言えるでしょうし、戦後の広い意味での思想史においても、ひとつの「事件」と形容しても過言ではなかろうと思われます。私が主宰している読書会でもかなり力を入れて取り上げたことがあり、読書仲間とかなり突っ込んだ話をし、その詳細にもいろいろと触れはしましたが、いまもっとも鮮やかに残っているのは、なぜか、桶谷の思想家としての孤独な精神の立ち姿です。お会いしたこともないし、いまどんな顔をしているのかもよく分からないのですが、それは確かなことです。

そういえば、その孤独な立ち姿は、どこか橋川文三のそれに通じるところがあるような印象があります。その印象には、おそらく根拠があって、ともに〈大東亜戦争の絶対性〉という神学的リアリティを懐深く抱いて戦中をくぐり抜け、そのまま戦後という精神的異空間に放り出された者に特有の孤独を刻印されている、ということなのでしょう。

いささか脇道にそれますが、それで思い出したのは、当ブログでも触れたことのある小野田寛郎氏の存在です。彼もまた、「〈大東亜戦争の絶対性〉という神学的リアリティを懐深く抱いて戦中をくぐり抜け、そのまま戦後という精神的異空間に放り出された者」のひとりです。ただし、彼の場合、本当にいきなり放り込まれた点と、戦後という精神的異空間が高度に確立された只中に放り込まれた点が、彼らとは違います。心の準備が一切できない状態で唐突に暴力的に放り込まれたのです。それを思うと、彼が抱いた孤独感には、到底余人にはうかがい知れない凄まじいものがあっただろうことが、戦争を知らない者にもじゅうぶんに分かるのではないでしょうか。と思うのですが、小野田氏が祖国に帰還してから一年足らずでそこを後にしたことを当時非難した者が少なからずいたそうです。それは、人の心をまったく思いやらない、野蛮で想像力のかけらもない言動にほかなりません。小野田氏のことについては、後にふたたび触れることがあるような気がします。

では、桶谷氏の敗戦時の精神の風景はどのようなものであったのでしょうか。長谷川氏は、次のような桶谷の印象深い文章にスポット・ライトを当てます。

敗戦の年、わたしは、北陸の山村にいて、芋がゆをすすりながら幼い弟妹を抱えていた母と、家族の生命を支えるために山の斜面のわずかな畠を耕す生活を送っていた。わたしは中学の二年になっていたが、数ヵ月前、中学を退学していた。乏しい食糧と農民の卑小な頑ななエゴイズムにとりかこまれた日常はやり切れなかった。召集された父はもはや帰らないと覚悟していた。じぶんについてはこの先どのようにして何年生きるなどという算段は問題外であった。

中学を退いたことをべつに残念ともおもわなかった。日本が永遠に亡びないと断定することは、わたしに生きることが無意味ではいと信じさせるに充分だった。

わたしは、この山村にいて、近く、竹槍をもって米ソの侵入軍と一戦をまじえ死ぬだけなのである。わたしの死地はこのやり切れない日常の世界であるはずだった。しかし、その日には、この日常世界は一変し、わたしたち日本人のいのちを、永遠に燃あがらせる焦土と化すであろう。わたしはそれを待っていた。
 (本書96頁・『土着と情況』所収「原体験の方法化について」昭和37年 より)

ここには、耐えがたい日常を忍びながら、それが「わたしたち日本人のいのちを、永遠に燃あがらせる焦土と化す」ときを息を凝らすようにして待っているひとりの皇国少年がいます。桶谷は、皇国少年であることを脱した後においても、その姿をある確信を持って描き出しています。″あのときはオレもいっぱしの皇国少年でね″などと頭を書きながら弛緩した精神で描き出しているのではありません。では、その「確信」とは何なのでしょう。長谷川氏は、次の文章を引用することで、それを説明しています。

現在、わたしのモチーフの究極のところにあるのは、いかに強力な史観、いかに優勢な時代精神のもとにあろうと、ひとりの人間の原体験は、それらと同等の独立した価値をもつという確信である。(本書100頁・従前)

ここで桶谷は、思想なるものに何かしらの形で関わろうとする者にとって、きわめて重要なことに触れています。彼が言わんとしていることを私なりに言いかえると、次のようになります。すなわち、″戦後は、命至上主義の世界であり、その考え方が圧倒的に優勢を占めている。しかるに、自分が皇国少年であった戦中においては、いかに死ぬかということが何より大事であった。それは、戦後思想からすれば、一顧だにされる必要のない、唾棄すべき全否定の対象となるほかはない。しかし、戦中における自分の精神の相貌には、自分の全存在の重量がかかっていた。そのことが自分にとって決定的な何かであることは間違いない。それゆえ、ものごとを突き詰めて考える場合、必ずといっていいほどに、自分の心はそこへ舞い戻る。その不可避の精神の在り処を自分は原体験と呼ぶほかはない。それを戦後思想的価値観に無造作に譲り渡すことは、自分で自分の首を締める振る舞いに等しい。そんなことは断じてできない″私は、桶谷の言葉をそういうものとして受けとめます。

そういう確信を持っているからこそ、桶川は、伊東静雄が日記に記した神話的な〈八月十五日のアーキタイプ〉について、次のように述べることができるのではないでしょうか。

この(伊東静雄の日記に記された神話的な原風景における――引用者補)内部感覚は、八月十五日からこの半月のあひだに、詔書を奉じ、国体護持を信じて生の方へ歩きだした多くの日本人と、すべてがをはつたと思ひ生命を絶つた日本人との結節点を象徴してゐるやうに思はれる。   (本書103頁・『昭和精神史』より)

この箇所について、長谷川氏は次のように述べています。

敗戦後の日本人をこのやうに二分法でとらへた人を、私はほかに知らない。あとで見るとほり、多くの人々が戦後の日本人のあり方をさまざまに分類し、評論してきたのであるが、言ふならば、それはすべて「生の方へ歩きだした」日本人のなかでの分類にすぎない。「生の方へ歩きだした」日本人を丸ごとひとまとめにして、敗戦後に生命を絶つた日本人と並べ置くといふ対比の仕方は、他に例を見ないものと言つてよい。   (本書104頁)

管見の限りですが、私もほかには知りません。この二分法は、〈大東亜戦争の絶対性〉がキー・ワードになるものと思われます。つまり桶谷は、大東亜戦争の最中にその絶対性に殉じた戦死者に、戦後において自ら命を絶つことで連なった日本人と、そうすることなく「生の方へ歩きだした」日本人とを対比させているのです。ここでひとつお断りしておきたいのは、私はなにも、大東亜戦争における戦死者が皆その絶対性に殉じたといいたいのではなくて、戦後において大東亜戦争を意識しながら自ら命を絶った日本人の心中には、その戦争の最中にその絶対性に殉じた戦死者の姿があっただろうことが申し上げたいだけです。さらには、どっちがいいとかわるいとかの問題ではないことも、誤解を恐れるがゆえに付け加えておきます。

長谷川氏は、この二分法をとても重視しているように感じます。つまり、敗戦という歴史的な事実に、〈大東亜戦争の絶対性〉に殉じた、広い意味での戦死者の存在が内在していることに対する感度があまり鋭くない思想家や文学者を、著者は、あまり評価していないように感じられるのです。その感度を、戦友感覚と言いかえると、少なくとも『戦後史の空間』の磯田光一には戦友感覚があまり感じられないし、石原慎太郎に至ってはまったくと言っていいほどに感じられないとして、本書においてかなり厳しい評価を下しているのです。彼らは、〈大東亜戦争の絶対性〉の問題をそれほどあるいはまったくといっていいほどに引きずることなく戦後空間に歩みだしているようなのです。それに対して、これまで取り上げた思想家や文学者には、鋭い戦友感覚があるとして高く評価しています。また、これから取り上げることになる太宰治や吉本隆明や三島由紀夫にも鋭い戦友感覚があるとされ、本格的な検討の対象になっているのです。彼らの戦後とは、敗戦のもたらした精神的な麻痺との悪戦苦闘の歴史であると申し上げても過言ではない、ということです。著者は、どうやら彼らのそこに向けて目を凝らしているようなのです。

桶谷秀明に、話を戻しましょう。桶谷は、先ほど述べたような敗戦の原風景に関する「確信」をさらに大きく独特の歴史観の形に広げて、『昭和精神史』と『昭和精神史 戦後篇』を著しました。これらの著書で、桶谷は八月十五日をどう描いたのでしょうか。著者が引用した箇所を孫引きしましょう。

八月十五日正午、昭和天皇の終戦の詔勅を聴いて、多くの日本人がおそはれた″呆然自失″といはれる瞬間、極東日本の自然民族が、非情な自然の壁に直面したかのやうな、言葉にならぬ、ある絶対的な瞬間について考へた。そのとき、人びとは何を聴いたのか。あのしいんとした静けさの中で何がきこえたのであらうか。

『天籟』(てんらい)を聴いたのである、と私は(『昭和精神史』の第二〇章で――引用者補)書いた。天籟とは、荘子の『斉物論』に出てくる言葉で、ある隠者が突然、それを聴いたといふ。そのとき、彼は天を仰いで静かに息を吐いた。そのときの彼の様子は、『形は槁木の如く、心は死灰の如く』『吾、我を喪ふ』てゐるやうであつたといふ。

そういう状態でなければ『天籟』は聞こえない、と荘子は隠者の口を通して語つてゐる。
 (本書61頁 『昭和精神史 戦後篇』より)

桶谷は、八月十五日正午、日本人は、昭和天皇が終戦の詔書を読み上げるのを聴きながら、音なき音としての「天籟」を聴いた、と言うのです。ふつうに考えれば、そう言われて「そうですか」と素直に納得してうなずく読み手はいないでしょう。平成三~四年当時の人々は、この言葉に触れて、はじめはキョトンとし、やがて、著者に対して憐憫の情を抱くか、何もなかったことにするかのいずれかだったでしょう。たとえ、他の箇所に大いに感動していたとしてもです。

私自身、読書会でつぶさに内容を検討した気でいましたが、残念ながら「天籟」という言葉の印象はあまり残っていなくて、せいぜい、桶谷好みのレトリックが使われているのだろうくらいにしか受け取らなかったと思います。桶谷自身、「だから、どうしたといふのか。そんな怪訝をともなふ反感あるいは薄ら笑ひを、私はたびたび経験したが、賛意をつたへてくれた人はひとりもゐなかつた」と言っているくらいです。さらには、「私のいつてゐることは独断妄念にすぎないのであらうか」とまで突き詰めています。ここで桶谷は、孤独な想念を抱いた者が不可避的に襲われる不安を率直に語っています。

その不安を払拭するかのように、桶谷は、「天籟」という言葉で自分が指し示そうとした事態に同じように気づいたと思われる四人の文章を引用します。それは、昭和二十年九月五日の朝日新聞の社説の筆者と伊東静雄の前回引用した日記の一節と河上徹太郎の文章と太宰治の小説「トカトントン」です。

河上徹太郎の名とその文章のごく一部分は、前回の当文章に出てきましたが、とても重要なものなので、ここできちんと掲げておきましょう。

国民の心を、名も形もなく、ただ在り場所をはつきり抑へねばならない。幸ひ我々はその瞬間を持つた。それは、八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である。理屈をいひ出したのは十六日以後である。あの一瞬の静寂に間違ひはなかつた。又、あの一瞬の如き瞬間を我々民族が曾て持つたか、否、全人類の歴史であれに類する時が幾度あつたか、私は尋ねたい。御望みなら私はあれを国民の天皇への帰属の例証として挙げようとすら決していはぬ。ただ国民の心といふものが紛れもなくあの一点に凝集されたといふ厳然たる事実を、私は意味深く思ひ起こしたいのだ。今日既に我々はあの時の気持ちと何と隔たりが出来たことだらう!                                        (本書50頁 「ジャーナリズムと国民の心」より)

河上徹太郎の文章を真正面から受けとめるならば、桶谷が「天籟」という言葉によって指し示そうとした何かとても重要なことが、八月十五日には確かにあるようです。それは、伊東静雄が詩的直観によって神話的なアーキタイプとして定着したイメージともどうやら深い関連がありそうでもあります。そこまでは、おぼろげながら私にも分かってきました。

長谷川氏は、現存する思想家ではおそらくただひとり、桶谷の「天籟」という言葉には、八月十五日の謎を解明するうえで極めて重要な手がかりがあることを直観し、深く洞察し、それを読み手がきちんと読めば分かる表現にまで十年の歳月をかけてゆっくりと練り上げたのです。それが、本書の価値の核心をなすものです。しかし、私たちがそこにしっかりとした足取りでたどり着くまでには、太宰治、吉本隆明、三島由紀夫という三つの山を越えた後、『旧約聖書』の「イサク奉献」という峠を越えなければなりません。太宰治の「トカトントン」については、次回に取り上げることにして、差し当たり、次の引用をしておきましょう。文章中の「佐藤氏」とは、『八月十五日の神話』を書いた佐藤卓巳のことです。

佐藤氏は、竹山昭子氏の『玉音放送』を引用して、「この放送の祭儀的性格」を指摘する。すなわち、それは単なる「降伏の告知」ではなく、「各家庭、各職場に儀式空間をもたらした」出来事であり、この放送を通じて国民全体が「儀式への参加」をした。だからこそそれが「忘れられない集合的記憶の核として残った」のだ、と佐藤氏は述べるのである。さらに氏は「この場合、昭和天皇が行使したのは、国家元首としての統治権でも大元帥の統帥権でもなく、古来から続いた祭司王としての祭祀大権であった」と述べて、この八月十五日の玉音放送が徹頭徹尾〈神学的〉な出来事であつたことを指摘してゐるのである。

これはきはめて重要な正しい認識であり、あの「シーンとした国民の一瞬」の謎を考へる上でも、出発点とすべきところである。    (本書69頁)

「八月十五日の玉音放送が徹頭徹尾〈神学的〉な出来事であつた」というキー・センテンスを手放さないようにしながら、私たちは次の「その3」で、太宰の「トカトントン」の音に耳を澄ませてみることにしましょう。  (続く) 
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