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美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

由紀草一氏  「主権者意識と人権と」  (イザ!ブログ 2012・12・20 掲載)

2013年12月05日 22時30分34秒 | 由紀草一
対話を継続したいと考えますが、2カ月に一度の応答では、よほど奇特な人でない限りトレースしてくださらないでしょうね。(前回の美津島の投稿 http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/0c1a4820280064ac07dcb9365ee3dd30

例えば、拙文を読んで、美津島さんの、私への応答に限らず種々の発言を思い出していただき、いろいろな角度から、戦後民主主義の問題など、考えるよすがにしていただけたら幸甚です。ただ私としては、あくまで美津島さんと議論するつもりで文を綴りますので、結果として、他の人の役にも立てばいいなあ、と願うばかりです。

「教育問題については、私には由紀さんに対する異論はありません」とのことです。そんなことはないんじゃないかな、と思うんですが。いやいや、絡むような言い方はやめましょう。異論が出ていないのだから、これに関しては今回云々するのはやめます。

たった一つの話題だけは振っておきます。今度の選挙で、大方の予想通り、自民党単独で294議席、公明党と合わせると325議席の安定多数を得て、安倍晋三さんが総理として復活することが確定しました。美津島さんや小浜逸郎さんなど、私が信頼している人々が安倍支持を表明しているのだから、私も、こと経済政策については、安倍さんに期待することにします。

しかし、選挙前のTVCFを見ていたら、安倍さんが出てきて、「日本を取り戻す」なるキャッチコピーを言っていました。その三本の柱のうちの一つが、「教育を取り戻す」だそうで。そう言われると私としては、かつての安倍内閣時の「教育再生会議」を思い出して、いやな気分にならざるを得ません。

これは直接は中曽根内閣時にできた臨時教育審議会以来の「教育改革」路線を引き継ぎ、その集大成といった構えで、いろいろ学校に、つまりは教員に、余計な仕事を押しつけたものです。例えば教員免許更新制。私は、これが廃止されそうだ、というだけで、民主党政権を支持したのですが、民主党にはこの一事すら裏切られました。

その他再生会議、というよりここに集成された一連の教育改革についての批判を、私は夏木智との討議の形でまとめ、できれば出版したかったのですが、どこも引き受けてくれるところはなく、我々の同人誌『ひつじ通信』に載せただけで終わりました。それは我々の力不足というだけで、誰かを恨んだりする筋合のものではありません。

今は一番言いたかったことだけを言います。学校教育に関する基本理念が現状のままである限り、どのような改革も必ず改悪になる、そうならざるを得ないのです。安倍さんが具眼の士であるなら、これをわかっていただきたいのですが、無理かなあ。教育に関する「誤った思想」(佐伯啓思『経済学の犯罪』より)は、ある意味経済のよりタチが悪いようです。

上記は、私の生涯の目標の一つになりそうな事案なので、これからも、誰にも頼まれなくても、折にふれて申し上げていくことになるでしょう。

で、今回は、美津島さんのお題にあった「主権者意識」と、「戦後民主主義」理念のうちでも特に「人権」について述べましょう。

まず、「主権」sovereign powerという言葉の意味ですが。これには二つあることは御存知ですよね? 国家主権、というのは、ある国家が、他国の干渉を受けずに、独自に法律を決めて、統治してよい権利のことです。近代国家とは、この権利を備えた国のことです。そしてこの主権の及ぶ地理上の範囲を、その国家の「国土」と呼ぶのです。

一方、「主権者」というと、「至高の力の持ち主」ということです。絶対権力者です。なんせ、主権者は間違えることはない。というか、彼が間違っている、と判定するだけの権威が国内に存在しない。普通は、王権神授説などに基づく、絶対王制の王様が主権者であって、ただし文字通りそうであった王様は、世界史上、そんなに多くはいません。

では、「国民主権」とはどういう意味なのか。国民の「一般意思」を至上とする、ということでしょうか。そんなものがあるのかどうか。ルソーが「社会契約論」で述べているところは難解で、私などの理解力では及ばないので、どうぞ教えてください。今のところ、悪い頭で考えたところでは、これは純粋な理念なのであって、現実に存在している、としてはならないものなのではないでしょうか。すると現実的な意味としては、「至高の力の持ち主、つまり絶対権力者なんてものは、個人としてはもういないんだよ」ということにしかならないような。

因みに、日本国憲法の「国民主権」は、よく知られているように、前文以外では第一条にのみ登場します。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。まるで、国民は、天皇制存続のための「主権」だけを認められているかのようですね。

それと、「主権の存する日本国民の総意」は、「一般意思」と同じなのでしょうか、違うのでしょうか? 同じだとすると、この場合の国民の総意=一般意思はいったいどういうふうに確認されたのか。日本国憲法は、大日本帝国憲法の「改正案」として、昭和21年の第90回帝国議会で可決されたのですから、反対者はいても、議会の多数決によって定められた、それが「国民の総意」だ、でいいんでしょうか。でも、たとえ直接民主制によって、国民の大多数が賛成したことでも、それは「全体意思」であって、「一般意思」ではないのですよね?……もしかしたら私は、基本的なところで大間違いをしているかも知れず、やっぱり詳しい人に御教示願うしかないようです。

こんなていたらくなので、他人に対してエラソーに御教説を垂れるなんてこと、できるはずがないんですが、それでも、「対外的独立性・統治権という意味での主権を守ることについて、主権の存する国民が当事者としてあまり真剣に考えてこなかったということです」というお言葉には、二つの「主権」があまりに無造作に並置されていて、無用な混乱を招くんじゃないかなあ、という危惧はどうしても拭えません。

以下、念のために。「国民主権」をどういう意味にとったとしても、「対外的独立性・統治権という意味での主権を」具体的に「守る」義務なんて出てきません。つまり、例えば、これから尖閣列島に中国軍が押しよせてきたとしても、日本国民である美津島さんや私が、個人として、すぐに、それと戦うためにかの地へ出かけていく、なんてこと、やる義務はない、どころか、やってはいけないことです。たとえ徴兵制が施行されたところで、対外戦争は国権の発動なのであって、国家の決定を俟って初めてできるのですから。

もちろん美津島さんはそんなことをしろと言っているのではない。戦後の日本人は、ただ権威に逆らって、好き勝手だけを主張するようなことのみを「民主主義」の名のもとにやってきた。結果として、内側では、自分たちの好き勝手を民主的な正義のように偽装した左派勢力が政権中枢にまで入りこむことを阻止できず、外側では、他国の日本に対する好き勝手が、まるで正当な権利であるかのように国際社会で主張されるのを許してしまった。今こそ我々は、政治家や官僚任せにするのではなく、自ら主体的に、この国の運営を真剣に考えるべき時だ。大雑把には、これが美津島さんの主張なのでしょう。

大筋では異論はありません。以下に述べることはいわば老婆心です。いわゆる保守派の言論に対して私が常々感じている違和感を、かすかに、美津島さんのにも感じますので。それ以上に、保守化したと言われる日本人が見落としがちなんじゃないかと思えることを、この際言っておきたいと思います。

好き勝手、と上で申しました。それが激しくなって、他人の好き勝手を踏みにじるところまでいったら、エゴイズム、と言い換えていいでしょう。それを主張すること自体が悪なのでしょうか? 答えは、「否」です。故吉本隆明が、戦後によいところがあるとすれば、国民が好き勝手=私利私欲を大っぴらに追求できるようになったことだ、と言っていたと思います。私はそれを、個々人にとってよい、というよりは、社会にとってよいことだ、と感じているのです。

なぜか。まず忘れてはならないのは、人間には必ず欲望があり、その実現を目指して行動すること自体は自然なことだ、ということです。何時代であっても、それは変わらないでしょう。欲望はこれだけ普遍的なので、よく目につきます。そしてもちろん、自分のよりは他人のそれのほうが、よりよく目につきがちなものです。結果として、放っておいたのでは人間の集団、大は国家・社会から小は家族まで、まとまりがなくなって、成り立たなくなる、とおそらくは必要以上に思えてくるので、欲望追及を抑えるためのモラルや制度ができたのだ、と考えて大筋で、いや、一面では間違いないでしょう。

それもまた、人間が社会的な動物であり、必ず社会の中で生きなくてはならない以上、当然なことです。ただ、ここで難しいのは、他人の欲望追及を抑えようとすること自体が欲望の追求になってしまう、ということです。自分が得をするために、他人の得は最小限にしたい。これもとてもありがちな欲望の形です。ただ、それをむきつけの形で押し出したのでは、あからさまなエゴイズムになってしまうので、偽装が始まるわけです。このように要求するのは我私(われわたくし)のためならず、社会全体のためである、という具合に。だから当然この偽装はその時の社会に広く認められている正義に添って行われます。

戦前だと「大日本帝国の臣民」としてのモラル、代表的なのは「愛国心」でしょうね、これをやたらにふりかざした人がそうです。ただ自分が大きな顔をしたい、威張りたいだけなのに(これも私利私欲に含まれる)、当時は誰も公には批判できなかった皇民意識が看板として使われた。こういうのが偽装です。戦後は「民主主義の理想」としての「主権者意識」とか「人権」とかに、民主主義とは関係のない「平和主義」まで加えられて、主に左翼によってずいぶん勝手に使い回されました。

マンガから例を取りましょう。青木雄二プロダクション(鬼才青木雄二が他界した後も、スタッフによって創作活動を継続している)「新ナニワ金融道」に、その名も左浴田佐助(さよくだ さすけ)なる悪党が登場し、NPO活動を隠れ蓑にして、数々の悪行を働きます。例えば、コンビニに、自分の息のかかった若者を就職させる。彼らはわざとレジを打ち間違えたり、客とトラブルを起こしたりして、頸になるようにし向ける。その後、このコンビニは人権無視で弱者を虐げる経営をしていると抗議デモをかけて、営業を妨害し、廃店に追い込む。別にコンビニ経営者に金を請求したわけではないので、彼の行いは私利私欲を離れた純粋な「弱者救済」に見え、批判しづらい。が、実は裏で地上げ屋(ではなくて債権回収専門のサービサーなんですが、細かいところは元の作品に当たってください)と結託していて、経営者をこの土地から追い出すために、もちろん金をもらって、やっていたのだった。

NPO活動をしている人の全部が、さらには純正な左翼、つまり共産主義者のすべてが、こんな悪党だと言うわけではありません。中には立派な人ももちろんいるでしょう。てな言い訳が必要と感じられるだけでも、この正義の看板は有効なんですよねえ。もちろん私は、人の問題ではなく、世の中で公認されているので、反論しづらくなっている、看板の危険性を申し上げたいのです。

そもそも、人権なんて言葉自体が曲者です。主権と同様、よくわからない。それでまたしてもよくわからないままに言っちゃって、大間違いだったら諸賢の御叱正を願っておきますが、これはどうやら、発生からして、対権力関係で問題になることだと考えるのがいいようです。権力とは、「強制的に人に何かをさせる力」のことですから。ただ、なんでもやらせることができるわけではない。そこには限界があってしかるべきだ。権力を行使される側から見たら、自分を守るために、これとこれは権力側の命令があっても従わなくてもよい、そういう領域をあらかじめ決めておく。ただし逆に、こちらが無条件・無限定の権利であって、絶対だ、なんてことはありません。どちらの側にであれ、「絶対」を認めたら、人間の世の中はもたないんです。

こう考えたほうがいい、という根拠は、私たちの日常生活で、他人とつき合う上で、「人権」なんて言葉をつかわなくちゃいけない場面なんてあるのか、と思えることです。例えば、私が美津島さんの「人権を守る」なんて言ったとしたら、具体的にはいったいどういうことになるんでしょうか? およそイメージがつかめないんじゃないですか?

もちろん言葉はいろいろ転用されたり拡張されたりして使われますから、私人間でも、例えば、いじめている側はいじめられている側の人権(「幸福に生きる権利」かな?)を阻害しているのだ、と言ってもいいのでしょう。それでいじめ問題が解決しやすくなるなら。なぜ解決しやすくなるのかと言えば、警察など、公的な機関が介入しやすいからです。もっとも、そこまでいかなければどうにもならないと考えられる「いじめ」は、もう立派な犯罪ですので、ことさら「人権問題」と言う必要が実際上あるのかどうかの疑問は残ります。例えば、も三度目ですが、私が美津島さんの金を盗んだとして、「由紀草一は美津島明の人権を侵害した」なんて言う必要がありますか? 由紀はドロボーだ、堅い法律用語がほしければ窃盗罪だ、で十分ではないですか。

企業の場合だと、会社法人として公的な性格もありますし、雇用者側は被雇用者に対して業務上の権力も揮えますから、「人権問題」なる言葉のリアリティーも増してきます。不当な人事・給与の減額・馘首、など、被雇用者の社会的な信用や、まして生存権を直接脅かすものは、「人権侵害」と呼んでもそんなに違和感はないでしょう。そこに左浴田のような悪党がつけいる隙もまた、生じたわけです。

そこで、まず必要なのは、法律上あるいは社会通念からしてそれがどの程度に「不当な」行いであったかどうかの吟味です。最初から「人権侵害」なんてデカ過ぎる言葉を押し立てるのは、とにかく相手を黙らせてこっちの言い分を通そうというエゴイスティックな動機から出ている、とみてまず間違いないでしょう。

そう思えば、人権擁護法案のいかがわしさも簡単に理解されるのではないでしょうか。詳細は、美津島さんがおっしゃる通りでしょうが、単純に、「人権」を表に立てていること、しかも適用範囲が曖昧で、つまり限定がないこと、だけでも、もうダメだ、とみなしていい。

これがヒネた見方だと感じられるとすれば、それこそ戦後の左翼的な風潮がしからしめるものであって、私はこういうのこそが健全な庶民感覚だと思うのです。今の日本に一番必要なのは、少なくとも私には意味がよくわからない「主権者意識」より、平凡な日常生活を送る庶民の感覚のうち使えるものを拾い上げて、政治・経済上にも生かしていく智恵ではないかと思うのですが、いかがですか?

繰り返します。エゴイズムがエゴイズムとして主張されるなら、別に問題はないのです。過剰なまでに要求が通るなんてこと、ありませんから。険呑なのは、何やら美しい理想めいたものの蔭に隠されたエゴイズムです。

でも、他人を騙すよりもっと危ないことがあって、それは自分自身を騙すことです。つまり、理想に酔っぱらって、自分で自分のエゴイズムが見えなくなってしまうときです。

大正末から昭和初頭の日本陸軍には、「皇国のため」という名目で自分たちの勢力拡大を図った軍幹部がたくさんいました。「国のため」に仕事をしていると言いながら、財閥と結託して私腹を肥やすことしか頭にない政治家もいました。一部の青年将校たちがそれはインチキだ、と見抜いたまではいいのですが、そこから進んで、自分たちこそ国を救わねばならない、そのためには自ら「愛国心」の化身にならねばならぬ、とまで信じた。そして、現にそうなった、と信じたら、日本をダメにしている腐った奴らは一掃してしまうこともできる。否、是非そうすべきだ、ということになった。

彼らは純粋だったのかも知れませんけど、だからこそ危ない。私利私欲はないようなので、他人からも自分自身からも批判されず、どこまでも突っ走る。国家全体を恐慌に陥れるような残虐行為は、多くはこのような純粋な人々によって遂行されるのです。

だからここで安倍さんに、改めてお願いしたい。教育に関する我々の意見は受け入れてもらえなくてもしかたないですが、愛国心教育、なんてものだけはよしてください。戦後の日本では、愛国心は広く公認された価値観とは言えず、その分危険性は少ないとはいえ。だいたい、公権力の一部である公教育が、国民の価値観にまで具体的に立ち入ろうとするのは控えるべきなのです。憲法学者のうちの改憲論者として著名な慶大の小林節氏が、「政治家が愛国心を国民に説くなんて僭越だ。そんなことより、国民が自然に愛せるようなよい国にしていくようにするのが政治家の務めだ」とおっしゃっているのが、この場合至当だと思います。

しかし、これだけではすまないのが人の世のやっかいなところですね。対外問題は? 中国はどうするんだ? と言われると。

「正義は危ない」と言った舌の根も乾かぬうちに申しますが、こんな私でも「いくらなんでも」はある。2010(平成22)年の尖閣沖での中国漁船衝突事故のときには。日本の巡視船にぶつかってきた中国の「漁船」の船長が起訴されそうになったら、中国にいたフジタの社員四名が、許可なく軍事施設を撮影したとかなんとかの理由で、身柄が拘束されましたね。人質だ、とはさすがに中国政府は言わなかったですが、そうに違いない、と日本人が思うのを止めもしなかった。

いやはやなんとも、ヤクザでもめったにやらない(日本の。チャイニーズ・マフィアや蛇頭などはどうか知らない)やり口ですな。もしも、大東亜戦争中に日本がしたことがすべて彼らの言う通りだったとしても、例えば南京陥落のとき中国の非戦闘員を三十万人だか四十万人殺したのだとしても(そんなこと、あるわけないですが)、また尖閣諸島が、これまたあちらの言う通り、あちらの領土だというのが正当だったとしても、それらとなんの関係もない日本人を捕まえる口実になんてなりっこない。北朝鮮の拉致問題と同様、この不正ぶりは、正義の味方なんてまっぴら御免と常日頃思っているこの私をも正義の怒りで焼かれそうになるすごいものです。

こんな国との領土問題が、「実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならない」なんて、閑人の寝言にしかならない。いや、一般論なら、実務的に解決することは不可能ではないと言えます。尖閣は両国の共同統治として、付近の漁業権などはまた別に協定を作ればよい。といって、中華民国も絡んでいるので、簡単にはいかないが、その方向なら、話し合いは進められるから、暴走漁船やら、尖閣の上空に飛行機を飛ばす、なんて、大国にはあるまじきみっとみないイヤガラセはやらなくても済むはずだ(でも、やったりして……、との懸念も拭えませんが、まあやる必要はなくなるはずです)。

それができないのは中国のお家事情からです。日本にほんのちょっとでも妥協することは、敗北であり、許されないことになっているようですからね。国際司法裁判所に提訴することさえ、妥協になるんです。日本に無条件に尖閣諸島を譲渡させるのでなければ、あとはすべて敗北。するとできるのは、忘れたような顔をするか(即ち、棚上げ)、戦争しかない。

なんとも困った国です。私利私欲なら、上に述べたような妥協のしようもあるのです。情念が、少なくとも自分では正義だと信じているものへの情念が絡んでいるのが厄介なのです。「愛国有理」というやつが。中国政府は、領土拡張と、国内の自分たちへの不満を日本へ向けることでかわそうとする私利私欲は、きっとあるのでしょう。しかし国民の間に一度燃え広がった情念を、いつも自分たちの都合のいいように利用できるかどうか、はなはだ危うい。実現可能な妥協策をとれなくしているという意味では、明らかに損な道を選ばざるを得なくなっているのかも知れない。この危険は、中国政府にはどれくらい自覚されているのですかね。

もう一つ、これは美津島さんがおっしゃっていることでもありますが、この問題から見えてきたことがあります。先程私は、「エゴイズムがエゴイズムとして主張されるなら、別に問題はないのです。過剰なまでに要求が通るなんてこと、ありませんから」と申しました。しかし、衆を恃み暴力を使って、自分の好き勝手を通そうとするヤクザ者も世の中にはいます。それをどうするかって、もう警察による有形力の行使しかないでしょう。仙谷由人が、「国家は暴力装置だ」と言ったんですけど、なんのつもりだったんですかね。暴力装置を含まない国家なんて、なんの役にも立ちはしない。

戦後の日本は、国内的にはともかく、対外的には、暴力なしですまそうとしてきました。でも、国際社会には警察がありません。日本に対して無茶なことをする奴がいたらどうする? そんな国はないんだ、と思わせることに、左翼的な言論人たちは多大なエネルギーを費やしてきました。でもやっぱり心配、ということなら、万が一のときには国連があるさ、アメリカも助けてくれるさ、だからよけいな気苦労はしないでね、とも言った。しかしこれではよその国の軍事力に頼っているからこそ成り立つ「平和主義」だ、結局軍事力は否定できていないんだ、という簡単な論理も意識の外に追い出せるぐらいまで一般の日本人を洗脳できたのですから、左翼的な言論及び言論人侮るべからず、ではありますね。

以上は拙著『軟弱者の戦争論』で縷々申しましたので、これ以上は申しません。つけ加えるべきこととしては、尖閣問題がこれ以上悪化して、いよいよ戦争、ということになった場合、アメリカは頼りになりますか、ということなんですが、これはけっこう怪しい。

かの国は最近、「尖閣諸島は日米安保条約の範囲内」だが、「領有権の問題については、特にどちらの味方もしないので、どうぞ両国で話し合ってくれ」というメッセージを発していますでしょう。これを中国向けとすると、こんな意味になるんじゃないかと思います。

「中国はんとは最近商いでふこうお付き合いするようになりまったさかい、あんなこまいシマのことで、それも、わてらんとこのでもないのに、揉めとうはありまへん。けど、あんまり手荒なことされたら、わてらにもメンツがありまっさかい、黙ってるわけにもいかんようになるかも知れまへんで。そこんとこ、あんじょうよろしく頼んまっさ」。これがいわゆる米軍の抑止力で、これもなかったら、中国はさっさと軍隊を送ってきていたんじゃないですか。

でも、結局のところ、有事の際、アメリカがどれくらい日本を助けてくれるのか、わかったものではありません。安保条約はあっても、理屈なんて後からいくらでもつけられますもの。まあ仕方ない、アメリカは所詮他国なんですから。必ずこっちの都合のいいように動いてくれる、なんて期待するほうが、こっちの得て勝手なんです。

すると、最終的には、自分の国は自分たちで守るしかない。そういうのが主権者意識なんだ、と言われるなら、反対する理由はありません。いざ戦争となったら、ホットな愛国心よりクールな戦略のほうが大事になると思いますが、前者が全然なしではすまない。

ただ、美津島さんがこの言葉で徴兵、つまり国民皆兵まで考えていらっしゃるとしたら、それには賛成しません。よきにつけ悪しきにつけ、専門分化の時代で、ちょっとやそっとの訓練で近代兵器を扱えるようになんてなりませんから。その部分は自衛隊、安倍さんの構想がうまくいけば国防軍になるかな、に任せるに如くはないと思います。

何も恥ずかしいことではないでしょう。家の近所でヤクザ同士のドンパチが始まったとしたら、私は体を張って家族を守ろうとするよりは(そんなことしたって屁の突っ張りにもなりません)、警察の保護を求めます。それが当然でしょう? ただ、これも美津島さんがおっしゃったように、国民の代表として、国民と国土を守るために身命を賭して働く人々への敬意を忘れなければ、それでよいのだと思います。

長々と書きました。ご返事をお待ちします。


*これに対して、私は、まだ返事を書いていません。実はご本人に対して、どうにも返事が書きにくい旨をお伝えしています。というのは、これ以上踏み込むと、論争のポイント・オブ・ノー・リターンを踏み越えるのではないかという感触が生じたのです。私は、由紀草一氏を打倒すべき論敵とはまったく思っていません。それどころか、傾聴に値する教育言説家と思っています。ほかに打倒したい論客は山ほどいるのです。で、「共食い状態は避けたい」と、由紀氏に申し出た次第です。そうなることは、私に少なからず苦痛と空虚感とをもたらすことが目に見えています。どんな場合でも議論の徹底を図るべきであるという「議論原理主義」の観点からすれば、私は情けない奴ということになりそうです。今回に関して、私は、その批判を甘受いたします。
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由紀草一 民主主義・正義・教育教 (イザ!ブログ 2012・9・2 掲載)

2013年11月27日 20時53分18秒 | 由紀草一
八月十三日に私が投稿した「教育問題と戦後民主主義と日教組 soichi2011さんへの返事」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/6018fe3b4272cc174490daf9af05fcb6に対するsoichi2011こと由紀草一氏からの返事を掲載します。

「教育現場で教師たちを悩ましているモンスター・ペアレンツの自己中心的な言動(オバタリアリズム)に対して、現実的にも原理的にも無効である戦後民主主義を思想的にきちんと埋葬することが必要である。戦後民主主義は、オバタリアリズムを原理的には肯定するほかない。それを信奉してきた日教組は解体されるべきである」という私の主張をめぐって、根底からの考察がなされています。

***************

美津島明 様

バトンタッチされてから、個人的な用事で、渡されたバトンを返すのがすっかり遅くなってしまいました。今も忙しいと言えばそうですが、やはり気になるのは体より心の疲れです。そのために、表現という私の生きがいに場を与えてやろうというお申し出は、本当にありがたいものです。

で、お言葉に甘えて、「戦後民主主義」と「学校の現状」につきまして、牛の涎の如く長々しく愚見をご披露したいと思います。もとより、このブログは美津島さんのものですから、以下の拙文中、あまりにも議論の本筋を逸脱している、と思われましたらその部分の削除、また、拙文全体が「載せるだけの価値なし」と思われましたら、全体をボツにしていただくのも、すべて御自由です。

まずはやっぱり、戦後民主主義について語りましょうか。現実的な問題解決には結びつかなくても、「正しい考え」がある、という線を崩すほどニヒリスティックにはなれないとしたら、言葉の整理は一応しておいたほうがよろしいでしょうから。

石川達三「人間の壁」と言えば、もう知る人も少なくなりましたが、昭和32年の佐賀県教組の、教職員定員削減(首切り・減給を含む)反対闘争を描き、一時は「日教組運動のバイブル」と言われた小説です。この中の「拡大闘争委員会」の章で、一人の教師がこんなことを言います。

つまりですな、日本の政府は、僕はこまかい所まではよく知らんですが、要するに資本主義政府だろうと思うんです。ところがその政府が、われわれに要求している教育の体系は、民主主義教育なんです。

(中略)

資本主義政府ではあるけれども、資本主義教育をやる訳にはゆかないし、それでは憲法に違反することになるから、やむを得ず文部省は民主教育を看板にしているんだが、本当は学校で民主教育をされたら困るらしい。ところが日本中の先生たちはたいてみんな貧乏で、プロレタリヤですから、そういう教師に日本の教育を任せておいたら、資本主義教育なんかやるはずはないんで、みんな民主教育をやりたがります。(岩波現代文庫版 中巻P.211~212)


「何を言ってるの?」とは思いませんか? 民主主義と資本主義が対立するもののように言われている。社会主義、という言葉こそ使われていませんが、「プロレタリヤ」なるおなじみの用語からすると、どうもそこに親近性があるらしい。社会主義こそ民主主義と矛盾しない体制? と、すると、「プロレタリア独裁」とは何? 独裁と民主主義は矛盾しないの?

てなことを言うと、訳知りの人に憐れまれるかも知れませんな。

「民主主義というのは、戦後初期の日本では、あるいは部分的には今でも、左翼が掲げた看板なんだよ。戦前のプロレタリア文学の正嫡をもって任じた中野重治たち『新日本文学』派は自分たちの理念を『民主主義文学』だと言ってたんだし。今もある共産党の下部組織は『民主青年同盟』でしょう? 外国では日本のすぐ近くに『朝鮮民主主義人民共和国』てのがあって、ここでは一度も選挙が行われたことはないでしょう?」

はい、その通りです。言葉の中でも特に「民主主義」なんていうデカすぎる抽象語は、時代により集団により、かなり得手勝手に使われる。そういうもんです。

しかし、純然たる誤用、あるいは言っている本人も半分以上自覚している欺瞞だったら、それほど強く人々を動かすことはできません。問題は、ある言葉にこめられた情念であり、それがどれくらい広く、深く共有されているか、なんです。

この時代の、日教組の良心的な教師たちは、戦前の「軍国主義教育」あるいは「皇民教育」が、戦後「民主主義教育」に変わったのだ、ということはそれこそ疑うことのできない公理としてみんな認識していた。戦前の教育は、国民を無謀な戦争に駆り立て、塗炭の苦しみを嘗めさせた、悪の代名詞である。もう二度と再びそこへもどってはならない、と。そこで、「愛国心」だの「道徳=修身」だのという、戦前の匂いのする言葉はすべて忌避される。新時代の「民主主義」は絶対にそれとは違うはずである。

もう一つ、先の戦争は、財閥と軍部が結託して、金儲けのために植民地を増やそうとして起こしたものだ、という認識も、彼らには常識であった。だから「資本主義」は悪である。一方、「民主主義」はよいもののはず。ならば「資本主義」とは対立する。この三段論法(ですか?)で十分。

そもそも、言葉の定義なんて次元より、現に資本家の走狗たる政府自民党は、やっと芽生えた民主主義教育を守ろうとする教師たちを蔭に陽に弾圧している。だから、資本主義は民主主義の敵なのだ。そう言って何か不都合はあるか?

…ありますよ。戦前の日本はすべて悪、愛国心も悪、とするところから生まれてくる極端な、というよりは常軌を逸した反日感情は、例えば美津島さんの心に逆の情念を植え付けてしまったではないですか。情念といっしょに言葉のイメージが反転して、民主主義は、少なくとも日教組など左翼勢力が看板にした「戦後の民主主義」は悪なんだ、ということになりました。

これでは民主主義が可哀そう過ぎます。人は理屈よりは情念によって大きく動かされるものであることは今も昔も変わりません。問題は、善悪の基準が反転した情念同士の間には、決して妥協が成立しませんので、しまいには戦争しかなくなってしまうところです。知性って、そういうときに、少しは役にたたないものでしょうか?

それで、知性の担い手が知識人であるはずなんですよね。

昔西部邁さんが小林よしのりさんとの対談で、「知識人というのは村はずれの変わり者(あるいは、狂人、だったかな?)なんだ」と言っていたことを思い出します。

例えば、ある村で普通に通用している言葉に対して、「その使い方は正しくねえだよ。それは本来かくかくしかじかの意味なんでよ~」なんぞと、無益な知識をひけらかしては、他の村人からうるさがられたり、笑われたりで、まともに相手にされない。しかしたまに、村の常識では対応しきれない異変が出来したときには、変わり者の意見が役に立つ、かも知れない。

例えば、今年はたいへんな凶作で、いつものような規模では村祭りはやれんなあ。んでも、完全にとりやめではさびし過ぎるべえ。最小限でもやるべし。んだが、そんでは、最小限とはなんだ? 神輿を担ぎ回ることか? 村の娘や子どもたちの踊りか? どっちだ? どっちが大切だ? 逆に言うと、やらずにすますか、規模を縮小するとしたら、どっちにすんだ? 村人それぞれに思い入れがあって、どうにも調停がつかない。だいたい、「思い入れ」は情念なんで、話し合いにならない。感情的な反目が増すばかりで、ものごとが一歩もすすまなくなった。

ところへしゃしゃり出てきた変わり者。「古い文献によるとだな、この村の祭りはよ、昔とんでもねえ悪天候が長く続いたんだとさ。そんとき、神様にいろいろおうかがいしてよ、そしたらこの神様がえれえ踊りが好きでな、そんで娘っ子とガキもでえ好きだと御宣託があったんでよ、踊らしてみたら天気がよくなんだったんだと。それが起こりだから、祭りでてえせつなのは踊りなんだんべよ」などと言う。

それでものごとが落ち着いた、めでたしめでたし、なんてことのほうがずっと少ないでしょうねえ。でも、なんとなく、議論の道筋はついたような気がしませんか? 「こいつが言ってることは本当はどの程度に正しいのか」とか、「元はこいつが言っている通りだとしても、その後の歴史の中で祭りの意義が変わったように思えるのを、どう評価するか」なんて具合に問題を立てたら、その線でああだこうだ言っているうちに、「落とし所」が見つかるんじゃないか、な? 村人がそう思ってくれたら、もう変わり者の役目はすんだんで、あとはまた村はずれにもどって、役にも立たない、誰も聞かない理屈を捏ねていればよい。

私は、知識がないので、知識人とは言えないんですが、生来理屈をこねたがる性分なんで、まあ、この村はずれの変わり者に、実際、職場などでもなっているんです。それで、親愛なる美津島さんへの失礼も顧みず、今も現にやっています。

因みに、先の「人間の壁」中の教師も、これから文部省や佐賀県とどう戦うのかが議題の、切迫した会議の席上で上のようなことを滔々と述べるので、笑われたり、「議事進行!(=余計なことを言うな!)」と言われたりします。他の参加者からすれば、言っている内容がまちがっている、というのではない、そんな原理論に悠長に耽っている場合ではない、というわけです。でも、彼が原理論をやってくれたおかげで、日教組活動の根底にあったものは今もよくわかる、そういう効能はあります。私が滔々と述べるところも、無益かも知れないが、せめて皆様に笑っていただけたら幸いです。

これから、村はずれの変わり者が民主主義を云々します。

そもそも何が一番根本なのかと言いますと、ホッブズさんあたりを元祖とする社会契約説でよかろう、と思います。たぶん皆さんご存じでしょうが、ざっとまとめますと、

「人間はみんなエゴイズムの固まりであって、放っておけば自分のことだけ考えて勝手なことばかりやる。それでは世の中が保たれないので、強そうな連中に依頼して、利害の対立が生じたら調停してもらうことにした。これが公権力の起こりである」

こうまとめると、自分ですぐにあらが見えるんだから世話はない。ざっと挙げますと、

(1)これは歴史的な事実とは言い難い。権力者がまずいて、それが元は自分の支配下になかった者たちまで征服するようになってから、その征服を正当化するために編み出された理屈のうちでも、たぶん一番新しいもの。そう言ったほうがまだしも事実に近い。

(2)これで世の中をまとめるためには、公権力の裁定には皆が従う、という同意が必要である。もちろん、皆が心から同意するとは限らない。社会の全員が納得するような正義や善がいつでもどこでも見つかるものなら、元々こういう話にはなっていない。公権力の裁定に不満で、従わない者には、有形力(暴力の上品な言い方)が行使され、つまり無理矢理でも従わせることもまた、同意されていなければならない。

ところで、しかし、公権力はいつも正しいか? そんなこと、あるわけない。それなら、公権力が明らかに間違っているときには、従わないほうが正しく、無理矢理従わせようとするほうが悪である。いわゆる「権力悪」。これをどうしたらいいか。難問中の難問です。

(3)ここで言われる公権力は、エゴイズムの調停者であるだけだ。本当の人間の価値とか、生きがいとかは全然与えない。ありがたいものだとは全然思えないのだが、それでもよいのか。

それでよい、と私は思います。人間的な価値とかは、権力が容喙すべきものではない。宗教や芸術が扱うべき事柄だ。てなことを言ってますと、宗教が大勢信者を集めた場合、それは有形力も備えますから、その意味で一種の権力になります。そういうのはどうするのか、も歴史的な難問で、日本ではこれが少なかったんでよかった、とはよく言われますね。

でもやっぱり、(3)も問題になります。日本人には、キリスト教みたいな宗教心は薄くても、よその国人々と同じぐらいには、「正義」という言葉や概念に、個々人のエゴイズムや利害の調停以上のものを求めたがるものですから。

その輝かしい「正義」こそ、とてもやっかいです。エゴイズム以上に、と私は思います。これからはその話になって、「美津島さんの言ったこととなんのつながりがあるの?」と思われるかも知れません。しかし、美津島さんがこの場合一番大事に思っているらしい「公を担う私」まで射程に収めるにはこの迂廻路を通ったほうがいいと思えますので、どうぞご辛抱を。

人間はみんな自分が一番可愛い。それは自然なことであって、悪ではない。それがわかったら、もうひとつ、自分だけでなく、他人にもエゴイズムがあるし、それを非難することはできない、まで認めたらよろしい。そうであるならば、押さえるべきところは押さえないと、結局自分のエゴイズムだって通らなくなる。これが正義のすべてだ、なんて言うと、それこそ小学生にするお説教みたいなもんじゃないか、それだけのはずがあるか、と多くの人が思うでしょう。

実際、それだけでは話は決しておさまりません。ただ、制度は調整のためにこそある、という「根本」は必ず押さえておくべきだと思うので、しつこく繰り返します。

例えば我が畏友夏木智がよく持ち出す交通信号。誰でも車を運転したら、赤信号なんかでテレテレ止まっていないで、直に目的地へ行きたいもんです。だからと言って、みんなが他人には譲らず、自分の行きたい道をどしどし行くだけなら、危なくて、運転そのものができなる。つまり、「車を運転したい」という、エゴイズム、とは言えないか、自分の都合、から考えても、とても都合の悪いことになる。

これはわかりやすいですね。だからと言って、というか、だからこそ、「交通信号様はありがたい」などと崇拝する人はいません。

民主主義、というか民主制もまた、利害調整の原理であって、交通信号のうんと複雑になったものに過ぎない(複雑な分だけ調整が難しく、壊れやすいのは確かですが)、などと言われて満足する人は今でも少ないでしょう。もっとずっと輝かしいか汚らしいか、大きな意味があるはずだ、と。だからこそ、人々の情念を絡め取ることができて、言葉と概念の限りない混乱が生じるのです。

それでようやく美津島さんがおっしゃっていることに直接絡むんですが。

戦後民主主義は、教育の場にどのような不都合をもたらしたか。まず、悪平等。すべての人間は本来平等である、というのは、いかにも民主主義的な理念ではあります。「すべての人間」の中には子どもも入る、と。子ども=生徒も一個の人格を持つものとして尊重されねばならない、と言った人はいたし、今もいます。教師も生徒も、基本的には平等なんである、とも。

それなら、生徒は教師の言うことにいつも従う必要はない。「授業だから教室へ入れ」と言われても、いやなら入らなくてもいいのだし、「勉強をしろ」と言われても気分が乗らなければやらなくてもよい。そのために、学校内で勝手放題やる生徒がでてきて、やがて学級崩壊にも至るのだ、と。

いかにももっともらしい。しかし、現場教師として、個々の生徒の顔を思い浮かべると、どうしてもズレている、と思えます。教師の言うことを聞かない子どもは、「自分たちは権利主体だから」と考えてそうしていると思いますか? あるいは、モンスター・ペアレンツ、美津島さんの言うオバタリアンたちは、自分の子を権利主体として扱ってくれ、と要求しているのでしょうか? むしろ、それなら話は早い。

教室へ入りたくない? はいどうぞ、どこへでも行って。勉強したくない? だったらやらなくていいよ。君に関することは、君自身が決めればいいんだから。ということはつまり、その結果どういうことになっても、それは君の「自己責任」ということになるんだよ。あ、念のために断っておくけど、君一個の範囲を超えて、例えば授業中騒いで妨害したという場合には、他の生徒の学習権を侵害したことになる。教師からみたら業務妨害になる。だから、応分の責任はとってもらうからね。「責任の主体」であることがつまり、「権利の主体」である、ということなんだから。

保護者の皆様、このような言い分にご満足いただけますでしょうか? モンスターペアレンツほど、受け入れないんじゃないかなあ。そして、美津島さんはどうだかわかりませんが、戦後民主主義教育を唾棄すべきものとしている、いわゆる保守派の皆さんも、この点では同様でしょう。

そういうズレはあっても、平等主義をタテマエとする戦後民主主義は、オバタリアンたちと親和性はあるだろう。だから、彼女たちをとめられないんだろう、と言われますか。それはその通りです。しかし、他の体制・思想だって、自分勝手なことを言う人はどうしても出てきてしまう。それは見ておかないと、民主主義に対して著しく不公平になるでしょう。

日教組の教師たちやその同調者たちの怨嗟の的になった、そしてそうなることで、組合活動に正当性を与えることになった、日本の軍国主義はどうでしょうか。確かに、威張りくさる軍人はいたんですよね。ああ、美津島さんが以前ある会で見せてくれた映画「拝啓天皇陛下様」にも出てきましたっけ。あれでもそうでしたが、下士官ほど、自分より下の者に対しては強圧的な態度になりがちなもののようです。

私の父は、いわゆる戦中派の端っこで、最近ボケてきましたが、そういう人の常として、昔のことは実によく覚えている。思い出話の一つに、小学校へ少佐・中佐クラスの軍人がやってきて、講演などしていった時のことがあります。彼らはたいてい、軍隊内部では出世が見込めなくなった者で、その分、外部でやたらに威張る。「大日本帝国の臣民たるものは」どうたらこうたら垂れて。御真影のガラスが汚れていると言っては校長を叱り飛ばし、自分の講話中児童がよそ見をしていたと言っては教師を詰る。

彼らは心底大日本帝国の栄光を信じ、そのためなら命を投げ出す覚悟でいたのでしょうか? そんなことはわかりませんし、だいたい、重要でもありません。とりあえず、彼らは、その場では帝国の代表者なので、「正義は我にあり」と考えていた。ただ威張りたい、大きな顔をしたい、というだけのエゴイズムないし虚栄心が、そこで正当化される。そして、自分の正義に逆らう奴は、悪の「非国民」に決まっているのだから、叱り飛ばすなんて序の口、やっつけてしまってよい。

このような心性が日本を大東亜戦争の破滅にまで導いた、というのが戦後左翼の言い分なわけで、私はそれは、部分的には真実であろうと思います。で、この心性が軍国主義と呼ばれ、戦後は悪の代名詞となった。するとそれに反対するのは絶対に善で、その善に反対するのは悪で…、で冒頭につながります。正義はかほどにやっかいなものなのです。いつでも、どこでも。

ただ、次の違いはあります。封建主義や軍国主義の時代は、社会の正義は少数者の占有物であった。だから威張る人は少数で、多数はただ威張られるだけの存在であった。民主主義は正義の門戸を広くした。少なくとも、そのような思い込みは与えた。このため、正義のインフレが生じて、以前よりは世の中が無秩序に見える。そんなもんじゃないですかね。

オバタリアンも、その子どもたちも、どうやら「正義は我にあり」と言った様子をしています。ともかく、教員に対しては。しかし、彼らに正義を供給しているのは民主主義ではない。では、何か? 一種の宗教だ、と私は思います。呼び名としては、今まで使わせてもらった「お子様教」より「教育教」というほうがどうやらふさわしい。

その根本教義は、「どんな人間でも、よい教育によって、よくなる」です。だから、生徒が悪いとしたら、よい教育ができない教師が悪いのです。そこを反省しないで、生徒を叱り飛ばすなんて、とんでもない教師だ、と、煎じつめればこういうことになる非難に、現在の教師は実際に晒される機会が多いのです。

話がややこしくてすみませんが、だからと言って、日本の多くの人が、教師批判が大好きなオバタリアンを含めて、心からこの宗教の信者かというと、どうもそうでもないような。

上の教義をちょっと具体的にしてみます。「どんな悪い奴でも、よい教育によって矯正できる」。「どんなに馬鹿な奴でも、よい教育によって学力をつけられる」。どうです? これ、その通りだと思えますか? それとも、笑えますか? 

こういうのは論破できません。以下と同じですから。

A「神様を信仰しているのに、ちっとも御利益がないぞ」。B「そりゃ、信仰心が足りないからだよ」。A「それじゃどこまで信仰したらいいんだ?」。B「御利益があるまでだよ」。

念のために、教育教用に文句をあてはめておきます。

A「よい教育を受けたってよくならない奴もいるじゃないか」。B「そりゃ、教育のよさが足りないからだよ」。A「どこまでいったら十分によい教育と言えるんだ?」。B「教育を受けた人間がよくなるまでだよ」。

こんなことにかかずりあっているほどヒマな人間はそうはいませんわな。しかし、教師が「そんなの、オレ、知らないよ。オレにできるのは交通整理みたいなことだけだよ」などと言うと、不安がる人はとても多いです。そしたら、教師は、勉強ができない子や、素行の悪い子をただ放っておくようになるんじゃないか、ということらしいですねえ。だから、自分はともかく、教師は、教育教を信じてほしい、とこの部分は本気で思うようです。

考えると不思議な話ですね。しかしこの感情は、現代の正義の感情と直接結びついているらしい。

そして、どっちが原因でどっちが結果かは知りませんが、教師のほうでも、自分は交通整理よりは崇高な何かをしている、少なくとも、しようと努力している、という顔をしたがるんですな。

ここに罠がある。まことに、「先生と、言われるほどの馬鹿はなし」でして。教師はいくらでも嘲笑されるんです。まず、そんな非現実的なことを信じている馬鹿者として。次に、それでいて実際は何もできない無能力者として。そして、何しろ話が大きいし曖昧でもあるので、次のような要請も、もう現実に出てきています。

「教育は立派なことなんだから、先生は信号機よりは立派なんでしょう? それなら、うちの子が運転したいときには、一時止めたりせずに、ずっと走らせてやってくださいよ。そうじゃないと、あの子のやる気が殺がれるんですから」

今日本中の教師たちを脅かしているモンスター・オバタリアニズムの真髄を、試しに言葉にしてみるとこうなります。

こう言う彼女たち自身は本当の教育教信者ではないかも知れませんが、ただ、少なくとも信じるふりをして、その教義からして、不正を働いているとみなせる教師を非難する正義を手に入れているんです。たぶん、三日やったらやめられないぐらいには、面白いでしょうなあ。

そして、文科省は、教育教の総本山みたいな顔をしなくてはならないので、私が以下の自分のブログで述べたような現実的な施策にはなかなか踏み切れないのです。現実的だというだけで、もう、教育教の「夢」を傷つけますから。教育教には今や、そういう実害が出てきています。

「そろそろいじめへの具体的な対策を その1」
blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/4edea3ee82e28b5478bedeba2ab5d921

改めて美津島さんへ。お言葉にすっかり甘えて、好き勝手にしゃべり散らしました。今後どれくらい時間はかかってもかまいませんから、できたら、対応してください。


Soichi2011こと由紀草一
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