車大工であった父の影響を受けて、幼いころから物事の仕組みや成り立ちに興味を持っていた河合小市は、わずか11歳で山葉寅楠の設立した「山葉風琴製造所」に入所しました。所員の中でも群を抜いた力量を発揮した小市の名は「発明小市」として、たちまち知られるようになりました。
小市が寅楠の工場に入った1897(明治30)年、寅楠は「日本楽器製造」を創設し、本格的に日本初の国産ピアノの製造を始めます。しかし、完成した第1号の国産ピアノは、「アクション」という部分に輸入品を使ったものでした。アクションとは、打鍵するとハンマーが弦をたたくというピアノの心臓部のメカです。複雑な仕組みで、外国の技術も公開されていなかった当時、日本では誰も作ることができませんでした。
寅楠は、国産のアクションの開発という難題を小市に命じます。研究熱心な小市は不眠不休で製作に取り組み、ついに自力でアクションを作る方法を発明。1903(明治36)年、国産アクションを取り付けたピアノを完成させたのです。
その後も小市はオルガンの音をストップさせる「カップラー」や、手仕事でしか作れなかったピアノやオルガンの黒鍵を自動製造する黒鍵製造機など、次々と新しい機械を発明していきました。
1927(昭和2)年に「日本楽器製造」を退職した小市は、同年に彼を慕って集まった部下たちと寺島町の自宅に「河合楽器研究所」を創設しました。
当時まだ高価だったピアノを全国の小学校に普及させるため、小市は「昭和型」というピアノを完成。小さいながらピアノの基本性能をすべて備えた上に、およそ半分の値段で売り出されたこのピアノは、広く学校に普及していったのです。
1929(昭和4)年、「河合楽器製作所」と名前を変えて以降も、河合楽器は日本楽器(現ヤマハ株式会社)とともに日本の2大楽器メーカーとして競い合いながら、質の高い楽器を生み出していきました。
小市は生涯、楽器の研究を続け、亡くなる1955(昭和30)年までに28件もの特許と実用新案を取得し、浜松の楽器産業の発展に大きな功績を残したのです。
(浜松市のメルマガ、2008年09月05日号から)
感想
今日のヤマハと河合の違いを考えると、技術と共に経営能力という点も考える必要がありそうです。ソニーやホンダは技術の担当者と経営の担当者の両方で人を得たと言われています。これは他のことでも言えるでしょう。
(以上、ブログ「浜松市政資料集」2008年09月06日に初出)
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