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浜松大空襲

2012年06月19日 | ハ行
 1945(昭和20)年6月18日、浜松市の市街地は米軍の空襲で約1万5000戸が全焼し、1000人以上が死亡した。焼け野原となった当時を写した貴重な写真が残っていた。

 焼け野原を撮影した写真は2枚。いずれも浜松市中心部の中区常盤町辺りを撮ったもの。1枚に写っているれんが造りの2階建ての大きな建物は、当時、現地にあった「丸八平野紙店」(現在は浜松市南区)の倉庫の一部とみられる。一帯はがれきばかりとなり、幹だけになった木が立つ。

 撮影し、ネガを保管していたのは現場近くに住む102歳の鈴木宗一さん。当時35歳だった。妻と3人の子は妻の実家に預け、自身は実家のある愛知県豊橋市に住み、豊川海軍工廠に動員されていた。常盤町の自宅には家族は住んでいなかった。

 あの日未明、浜松方面から爆撃音が響き、炎で夜空が赤くなっていたという。夜が明け、鈴木さんが自宅に駆けつけると、周辺は焼け野原になっていた。がれきの間に遺体がずらりと並べられていた。

 「ああ、何もかもなくなったんだな」。悲しいとか怖いとか、そんな気持ちにならなかった。頭がぼ―っとなった。

 それまでも浜松市は頻繁に空襲に遭い、日夜の空襲警報で市民はへとへとになっていた。「これでもう空襲はないな、という肩の荷が下りたような不思議な感覚だった」。

 戦争の負けを直感した。自宅のがれきを掘り出すと、高熱で一部溶けた陶器の七福神の貯金箱が出てきた。

 鈴木さんの義弟、藤井利一さん(92)は当時、歩兵部隊にいた。現在の浜松市北部の三方原に爆撃機の拠点だった飛行場があり、周辺で塹壕掘りなどの任務に就いていた。

 空襲から一夜明けて部隊は市街地の後片づけを命じられた。現地では人が焼けたにおいが鼻についた。防空壕から、折り重なるようにして亡くなった大人や子どもを引っ張り出した。

 そこで、鈴木さんに出くわした。「えらいことになった」と言い合った。鈴木さんがカメラを構えていたのを覚えている。丸八平野紙店の倉庫をバックに藤井さんが納まった写真は、この時に撮影されたものだ。

 浜松市の戦後の復興を写真に撮ってきた郷土史研究家の神谷昌志さん(82)は「戦時中はカメラは珍しくフィルムも乏しかった。カメラを構えているのを憲兵が見つけたら飛んできただろう。当時の写真が残っていたとは驚きだ」と話す。

 丸八平野紙店の5代目社長長・平野新太郎さん(75)は当時は小学3年生で、疎開していた。今月(6月)上旬、この写真を見てもらうと、「うちの倉庫だ」と言った。戦後、焼け残った倉庫に入り、堅く縛った紙の周りは焦げたのに、真ん中はそのままだったので不思議に思ったのを覚えている。

 鈴木さんは、曇った日にはいまも空襲を思い出すという。「ブーン、ブーンって不気味な音が上空から聞こえるんだ。機体は見えない。いつ爆弾が落ちてくるか分からない。あれは嫌だった」。

メモ・浜松大空襲

 1945年6月18日午前0時過ぎ、B29爆撃機約100機が浜松市中心部に来襲、約6万5000発の焼夷(しょうい)弾を落とした。市調べで1157人(警察調べでは1717人)が死亡した。
 同市には軍施設や軍需工場が多くあり、空襲や艦砲射撃で計27回の被害にあったが、この空襲の被害が最も大きかったとされる。

  (朝日、2012年06月14日。高田誠)

     感想

 浜松市には復興記念館というのがある(あった?)のですが、私が行った時は閑古鳥が鳴いていました。ああいうのはネット上に作っておく方が適当だと思います。