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長谷川宏氏のお粗末哲学

2010年01月28日 | ハ行
              牧野 紀之

 長谷川宏氏が『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社)という本を出しました。その表紙を見ると、「ヘーゲル翻訳革命」をなし遂げた方だそうです。その「翻訳革命」とはどんなものか、既に私は2度にわたって検討しました。『鶏鳴』第144号の「ヘーゲルはどう訳すべきか」、及び同第146号の「再び・ヘーゲルはどう訳すべきか」です。

 それぞれ、ヘーゲルの「哲学史」と「歴史哲学」の長谷川訳を検討したものです。あまりにも大きな誤訳と誤解が多いことを指摘しました。「哲学の概念を覆す感動の新訳」と喧伝されています『精神現象学』の翻訳については、もう検討する気もありません。その後、長谷川氏はこの翻訳でドイツ文化協会からレッシング翻訳賞をもらったということを、或る雑誌で知りました。加藤周一氏などが選考委員を勤めているようです。選考委員の人たちは本当にきちんと検討したのだろうかと、疑問を持ちました。しかし、もう質問の手紙を出す気にもなりませんでした。

 今回、この「入門」が出版されました。前回、同じ講談社から新書として『新しいヘーゲル』というのを出しているはずです。この方は本当は「易しいヘーゲル」と題すべきだったと思います。しかし、「新しい」という言葉の方が、少なくとも日本の出版界では好まれますので、内容と異なった題名にしたのでしょう。しかし、「新しい」にせよ、「易しい」にせよ、大した内容のない本ですから、もう忘れられているようです。

 今回の本にも期待はしていなかったのですが、一応購入しました。そして、パラパラと読んでみたところ、最初から驚くべき間違いに出くわしました。次の文章です。

 ──わたしが一九九八年に上梓した翻訳(作品社刊『精神現象学』)では、読者のとまどいを軽減すべく、原文にないことばを補ったり、接続のしかたを変更したり、力点の置きかたを変えたり、と、あれこれ工夫をこらしたが、それでも一文一文にヘーゲルがどれだけのふくみをもたせようとしているのか、読みとるのは容易ではない。たとえば、「まえがき」の冒頭の一文はこうである。

 一巻の書物のはじめに「まえがき」なるものを置き、その書物で著者のねらいとする目的がどこにあり、また、同じ対象をあつかう前代や同時代の作品にどう刺激を受け、どう新境地を開いたかを説明するのが慣例のようになっているが、そうした説明は、哲学書の場合、不必要であるばかりか、事柄の性質上、不適当で不都合であるとさえ思える(001)。

 「思える」、という、断定を避けた結びのことばがすでにしてヘーゲルの思考のゆらぎをものがたっているが、後続の文は、このゆらぎに歯どめをかけるどころか、ゆらぎをいっそう大きくするようにつらねられる。

 客観的に見て、右の一文がいおうとしているのは、とりあえず以下の二点にまとめることができる。

 一、「まえがき」は暫定的なものにすぎず、それを読んだだけで全体の大筋がわかるというわけにはいかないこと。
 二、この「まえがき」は、著者のねらいや目的を述べたり、他の哲学書や哲学流派とのちがいを明確にしたりするものではないこと。

 その主旨を受けて、後続の3ページばかりは、哲学における真と偽のからみあいが論じられ、哲学的真理の全体性が確認されて、そこまでは首尾一貫している。

 「事柄は目的のうちではなく、展開過程のうちに汲みつくされるものであり、したがって、結論ではなく、結論とその生成過程を合わせたものが現実の全体をなす」(003)というさわりの一節は、右にまとめた一、二と見事に照応している。そして、そこから、哲学は大きく円環をなす概念の体系として提示されねばならない、という学問観が引きだされてくる。

 ヘーゲルの矛盾

 が、概念や体系を問題とするとなると、もう話は暫定的なものにとどまりはしないし、他の哲学者流とはちがう自分のねらいや目的を語らないで済ますわけにもいかない。で、ヘーゲル自身、冒頭の一文とはっきりくいちがう発言に出ざるをえない。

 「真理は概念の領域にしか存在の場をもたない、と主張されるとき、いまの時代に幅をきかせ、広く受けいれられている考えや、そこから出てくる帰結と、それが矛盾するような考えであることをわたしは十分承知している。この矛盾について説明しておくことは、たとえそれが、ここで批判の対象となる流行の思想と同様、一つの断定という以上の意味をもたないとしても、やってむだということはないだろう(004)。

 ここにいう「説明」こそ、冒頭の一節で「哲学書の場合、不必要であるばかりか、事柄の性質上、不適当で不都合であるとさえ思える」といわれた、当のものではないのか。それを、わずか三ページ先で──俗にいう舌の根も乾かぬうちに──、「やってむだということはないだろう」という。これは明白な矛盾だ。論理の必然性を強調してやまぬヘーゲルが、こんな矛盾をおかす。おかしくはないか。

 たしかに、おかしい。おかしいけれども、しかし、それが『精神現象学』の若きヘーゲルなのだ。矛盾にいらだって書物を投げだすようでは、『精神現象学』とはつきあえない。ヘーゲルがそんな矛盾をおかすはずがないと思って、なんとか辻棲の合う解釈をひねりだそうとすれば、こちらが苦しくなるだけだ。苦しみは、この本をいよいよ難解な書に仕立てあげることにしかならない。(11~14頁)

(以上はすべて、長谷川氏の文章です。その文章自身の中にヘーゲルからの引用文〔長谷川氏の訳による〕がありますし、一行あきもありますが、いずれにせよ、みな長谷川氏の文章です。)

 一体これは何なのでしょうか。長谷川氏はやれ「ゆらぎ」だ、やれ「からみあい」だと、文学的な言葉を使っていますが、そういう言葉に誤魔化されないようにしましょう。肝心な事は、ここで長谷川氏の言う「ヘーゲルの矛盾」とやらは、氏が「思える」と訳した言葉 scheinen の意味を「ヘーゲルが実際にそう思っている」と理解した場合にだけ発生する「矛盾」だ、ということです。

 では、ここで氏が「思える」と訳した scheinen はヘーゲルにおいて、あるいは少なくともこの箇所で、「私は実際にそう思っています」、あるいは「そうとしか考えられません」という意味なのだろうか。否。その意味は「そう見えるけれど、実際はそうではない」という意味です。従って、ヘーゲルは少しも矛盾したことを言っていないのです。「ヘーゲルの矛盾」とやらは長谷川氏の頭の中にあるだけです。それは、長谷川氏がヘーゲルの scheinen の意味を知らないという、単なる不勉強の結果、長谷川氏の頭の中に生まれただけです。

 この事実を指摘すればもう十分でしょう。これが「哲学の概念を覆す感動の新訳」を著した人のヘーゲル理解であり、「ヘーゲル翻訳革命」をなし遂げた方のヘーゲル理解であり、レッシング翻訳賞をもらった人のヘーゲル理解なのです。

 最近、長谷川氏の訳した『精神現象学』を丁寧に読んでみたという人から、長谷川氏の訳では分からないとか、あの訳は論理的でないという感想を聞くことが多くなりました。こういう翻訳を天まで持ち上げている評論家や書評家とは別に、健全な読者が日本には健在なようです。嬉しい限りです。(1999年06月07日)

  (『鶏鳴』第154号)

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