マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

幼児の使う言葉に間違いはない

2020年09月24日 | ヤ行
   
 最初に断っておきますが、「間違いはない」ということの意味は、認識論を知らない人には「間違い」と思える用語法でも、認識論的には十分に説明の付く「間違い」であり、その意味で「正しい間違い」だと言うことです。大人の間違いとは違う、と言ってもいいでしょう。
 さて、本論に入ります。
 長女が幼稚園に入ってすぐの頃でした。先生たちの名前が問題になっていた時、私が「じゃあ、園長先生の名前は何と言うの?」と聞いたら、長女は即座に「園長先生は園長先生じゃないの!」と、「決まってるじゃないの」と言わんばかりの口調で答えました。
 私は、それ以上何も聞きませんでしたが、心の中で、「幼児にとってはすべてが固有名詞なのだな」と理解しました。「お父さん」や「お母さん」はもちろんの事、幼稚園の「A子先生」も友達の「誰々ちゃん」も、みな同じ固有名詞なのです。いや、「固有名詞と普通名詞の区別の未分化の状態」と言った方が正確かもしれません。
 なぜこのような何十年も前の事を今更思い出したのかと言いますと、この八月に五歳と三ヶ月の孫(T子とします)がパパである息子と二人で五日間くらい帰省してくれて、面白い事に気付いたからです。
 二、三日たって少しなれた頃、T子ちゃんが私に聞くでもなく、話すでもなく、独り言を言うような調子で、しかし顔は私の方を向いて、「Tちゃん(自分の事)のおじいちゃん(私・牧野の事)のことを……(この辺はっきりしない)、パパは『お父さん』と言ってる」とつぶやいたのです。「おじいちゃんはおじいちゃんと言えばいいのに。何かおかしいなあ」と言わんばかりの顔に見えました。「一人の人に二つの名前があるのかな」とまでは、考えなかったでしょうが。
 私は、何が起きたのか、直ちに推察しましたが、何も言わず、もちろん説明などしませんでした。来年までには自然に氷解しているでしょう。しかし、ほとんどの子は意識することもなく、その段階を超えて行くのに、T子ちゃんが、これに気づき、しかも口に出した事は、素晴らしい事だったと思います。大進歩だったと思います。
 これを認識論的に説明すると、どうなるでしょうか。私見では、これが、ヘーゲルの論理学で考えると、「意識が存在論の段階から本質論の段階に入りかけた」ということだと思います。その本質論をヘーゲルは「仮象」から始めました。と言うことは、それをヘーゲルは「現象」とはしなかったということです。
 毛沢東の『実践論』がその典型ですが、自称マルクス主義者は、みな、「認識は現象の認識から始まる」としています。確かに、「存在(ヘーゲルがその論理学の中で『存在』とした物や事柄)」は人間に直接与えられている物事ですから、それ自体としては、つまり存在論的には現象と同じです。
 しかし、認識論的にはそうは言えません。その事態を「現象」として認識するには、現象とは異なる世界があって、その世界の「現象」なのだと理解できる段階まで進んでいなければなければなりません。それは本質との関係、一般的に言うならば、次元の違う他者との「関係」ですから、本質論の段階に入るのです。
 しかるに、その他者との関係も、単に「孤立している物ではなく、何かとの関係の中にあるのだ」と気付いただけの段階と、その事物自身の本質の現れなのだと気付く段階とでは大きな違いがあります。ヘーゲルが前者を仮象とし、後者を現象とした所以です。
 こういう正当な区別を認識論に持ち込んだのはヘーゲルだけだと思います。しかし、今回、許萬元の論文「ヘーゲルにおける体系構成の原理」を読んでみて、彼にはこの事態は分かっていなかったな」と判断しました。
 実際、幼児と一緒にいると、いろいろな事に気付きます。すでに幾つかの事は書いてありますが、はっきり言いますと、言語関係の専門家の皆さんがこういう点に関して自分の経験を書くことが少な過ぎると思います。かつて、ドイツ人女性と結婚してらした某教授から、「自分の子供も最初は gegeht などと言っていた」というお話を伺いました。ドイツ語を知っている人ならこの「間違い」が「正当な間違い」であることはすぐに分かります。私が遺憾とするのは、こういうドイツ人の幼児の「間違い」を、経験した実例だけでもいいですから、きちんと収集して、何かの文章にまとめてくれなかったことです。ドイツ語学の教授なのに、です。
 真理は生活の中に在るのだと思います。
 

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1 コメント

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Unknown (あきら)
2020-10-01 21:53:56
いつも拝読しています。面白い記事でした。
哲学の学習はほとんどしたことがありませんので記事中の哲学の専門的な議論は難しかったですが、

> 幼児にとってはすべてが固有名詞なのだな」と理解しました。「お父さん」や「お母さん」はもちろんの事、幼稚園の「A子先生」も友達の「誰々ちゃん」も、みな同じ固有名詞なのです。いや、「固有名詞と普通名詞の区別の未分化の状態」

の指摘は、私にも3歳の息子がいるため最近ピンと来ることがありました。

アンパンマンのキャラクター(バイキンマンや食パンマン)の時計のおもちゃを持っており、出かけるときに子供に「アンパンマンのおもちゃ持っていく?」と聞きました。大人としては「アンパンマンのキャラクターのおもちゃを持っていく?」と聞いたつもりだったのですが、子供は「嫌!」と拒否しました。「じゃあ何を持っていくの?」と聞いたらバイキンマンの時計を持ってきて「これ!」と言ってきました。(結局アンパンマンのキャラクターの時計持ってきたじゃないか)と思ったのですが、大人が「アンパンマン」と言うときは「アンパンマンというキャラクター」と「アンパンマンというアニメ作品全般」を文脈で使い分けていますが、子供はまだ前者の「アンパンマンというキャラクター」としてしか理解できないのだなと思いました。

このような日常生活のちょっとした疑問を理解するのに役立つのであれば、哲学を勉強する価値がありそうだなと思いました。
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