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友の死(レオポルト・ヴィンクラー)

2012年05月06日 | ア行
        これは『関口存男の生涯と業績』(三修社1959年)に収められたヴィンクラーさんの追悼文(原文はドイツ語で、Der Hingang eines Freundes)の翻訳です。

ヴィンクラーさんに対する追悼文集「悼慕(とうぼ)」(横浜国立大学独乙研究会1962年)に木山学氏の訳が載っていますが、自分でも訳してみたいと思いましたので、訳出しました。そして、その文集から2つの文章を付録としました。それによると、ヴィンクラーさんは1889年11月10日に生まれ、1962年4月3日に亡くなったのでした。今年で逝去50周年というわけです。

 「悼慕」そのものはpdf化して「絶版書誌抄録」の「その他」に収録してあります。これは或る読者がインターネットで探し当ててくれました。ネット時代のありがたさです。

 そう言えば、ヴィンクラーさんの『真意と諧謔』(Ernst und Scherz、1950年)は幻の書でしたが、これもネットのお蔭で見つかり、ついにコピーを入手する事に成功したのでした。こちらもpdf化して「絶版書誌抄録」の「関口系、中級篇1」の中に入っています。

 その「悼慕」の該当箇所を見ますと、この訳文は「ウィンクラー先生作品」という名目の所に載っています。他の作品は載っていません。ということは、『真意と諧謔』は当時既に幻の書になっていたのでしょうか。とにかく学生たちにも知られていなかったと推測せざるを得ません。これを探し当て入手したことはとても好かったと思います。

 先日その中の1篇「晩年のゲーテの1日」を訳出しましたが、皆さんが他の作品を訳して下さることを希望します。

 2012年5月6日、牧野 紀之


          友の死(レオポルト・ヴィンクラー)

 「関口さんが亡くなりました」という悲しい知らせが軽井沢にいる私の所に届いたのは昨年[1958年]の夏のことでした。いつも通り平穏な生活をしていた私にとってそれはまさに青天の霹靂でした。

 身近な人の急死は誰にとっても「どうして?」としか思えない受け入れがたい出来事です。信州の山の中に独居していた私も悲報を伝える簡潔な葉書を手にしたまま立ちすくみました。長い間親しくしていたかけがえの無い友がこんなにも突然他界するとはと、どうしても気持の整理が付かず、ただただ茫然自失するばかりでした。

 最後にお会いしたのは[1958年1月に亡くなった]奥様の棺の前でした。この時は関口さんも茫然自失の体(てい)でした。思えば、それ以前から既に我々は会うことが少なくなっていました。慶応大学での講義の日が別でしたし、互いに遠く離れて住んでいましたし、それに歳を取ると誰でも多かれ少なかれ孤独に成って行くものですから。

 そうはいっても、奥様の死を知らされた時はもちろんお通夜に駆けつけました。そして、心からの哀悼の意を表し、お別れの言葉を伝えました。長い闘病生活の間にも何回かお見舞いに行きましたが、そのたびに聖母マリアのような忍耐強さと運命を甘受する潔さを以て苦しみに耐えているお姿を見て、心を動かされました。と同時に、敬愛する人の衰えて行くのを止められない無力感をどうしようもありませんでした。実際、関口夫人は日本女性の全ての美徳を一身に体現したような方でした。人としての優しさにおいても、夫へ寄り添う姿においても、日本女性の鑑(かがみ)でした。その奥様が亡くなったのです、長患いの後に。棺の傍らで私を迎えた親友の言葉はただ一言、「一巻の終わりだ」でした。

 この言葉には愛する人との永遠の別れをどうしても受け入れる事の出来ない苦しみが出ていましたが、同時に、取り乱さないように何とか堪(こら)えているのも分かりました。私には仏教での死の解釈を語り、子ども達には「お母さんの魂は今でも傍(そば)にいるのだから、余り泣かないように」と諭していました。しかし、この言葉から聞こえて来たのは、そのような言葉では慰めにもならない事を知る者の絶望でした。そこに立っていたのは、全精力を奮い起して気を落ち着かせようとしているにも拘わらず、妻の死という現実には抗し難く心の支えを失った男の姿でした。

 そして、その後まもなく、死は彼自身の心臓を襲ったのでした。まるでかの中世の神秘劇「各人」(Jedermann) が現実世界で起きたかのようでした。逝去を知らせる葉書を手に私は自問しました。彼は自分自身のこの世からの別れという残酷な事実をどう受け入れたのだろうか、どんなことでも理屈できちんと説明しなければ気の済まなかった関口さんは、死に行く自分をどう慰めたのだろうか。あるいは死の魔手に余りにも急に捕まったので自分の死について思いを巡らせる時間的余裕がなく、自分に対しては「一巻の終わりだ」と言うことは出来なかったのだろうか。

 関口さんが死んだ。この知らせは、旧友の死に接するといつもそうであるように、私自身の死ももはやそう遠い事ではないという事実を警告してくれましたが、それだけではありませんでした。これは何よりもまず、この日本で関口さんと共に過ごした若き日々の哀愁を帯びた思い出につながるものでした。

 彼が初めて私を訪ねてきてくれたのは1917年のことだったと思います。当時、二人は共に上智大学に通っていました、彼は学生として、私は教師として。その上、二人共大久保に住んでいて、すぐ近くだったのです。目の前に座っている姿が今でもまぶたに浮かびます。細身で健康がすぐれているとは思えない青年でした。ようやく結核が癒えたばかりでした。そのために陸軍将校への道を諦めたのでした。

 関口さんのドイツ語の並はずれた物であることはすぐに分かりました。実際、陸軍幼年学校で2,3年勉強しただけでこんなにも完璧なドイツ語を物にする事が出来るとは、俄かには信じられませんでした。関口さんには又、鋭い知性と生き生きした心と優れた能力がある事も直ちに分かりました。青春を目いっぱい楽しみ、活力豊かで、未来に希望を持って生きている青年であると同時に、人生から少し離れて批判的に、あるいはまた皮肉な目で見る態度をも併せ持っていました。これが実に魅力的だったのです。

 関口さんは当時まだ新婚ホヤホヤで、生まれたばかりの長女を合わせて一家3人で、すぐ近くに住んでいました。自然に交際が始まりましたが、ほとんど私の方が彼を訪ねるという形でした。小さく質素な家に伺ったのですが、そこで奥様を知り、尊敬するようになりました。

 外(ほか)の友達も何人か定期的に集まっていました。作家とか画家とか映画俳優とか新劇関係の人とかでした。やがてそこから若いボヘミアン・グループが生まれました。皆、物質的には貧しくとも、将来に大きな夢を持ち、自分達の生活を作り上げようと意気軒高だったのです。

 外国人であり、本来はアウトサイダーである私にとっては、こういう仲間が偏見もなく受け入れてくれ、同志として認めてくれた事は、日本での最初の生活での最大の喜びでした。興味を持ったからこそ来た日本で、この国の人たちとこのような心の結びつきを得る事以上の願いはなかったからです。関口さんとその仲間たちは私にまさにこの絆を与えてくれたのです。外国の街・東京に来て初めは人間的なつながりもなく見捨てられたような気持になる事もありましたが、この仲間たちと一緒になってからは、そういう事もなくなりました。それどころか、何の繋がりもない外国にいるのだという事を忘れてしまう事もしばしばでした。

 狭い部屋で、畳の上に、小さな机を囲んで座り、語り合いました。芸術や文学の事、言葉の問題、芝居の話などの外に、個人的な事柄も話題になりました。奥様はちょっとしたものを出して下さり、いつも後ろに控えていて、その様子は柔和な影が周りに浮んでいるような感じでした。この集まりは快いものであっただけでなく、人間として成長できるような有意義なものでした。

 もちろん一座の精神的支柱は関口さんでした。その卓越した見識で皆を引っ張り、批判精神旺盛なジョークを飛ばしていつも座をなごませ、楽しい集いにしてくれました。特に私にとってはこの夕べは特別の幸福でした。なぜと言って、外国で疎外されている苦しみを忘れさせてくれたからです。

 このグループからはその後、新劇の世界との結び付きも生まれました。踏路社(とうろしゃ)という新劇集団の稽古に関わるようになり、神楽坂にみんなしてよく出かけたものです。ヘッベルの「マリア・マグダレーナ」とか、ヴェデキントの「春の目ざめ」といった西洋の演劇を上演しようと必死に努力している若い人たちに助言をし、指導をしてさし上げました。当時既に有名になっていた女優の松井須磨子とか劇作家の坪内逍遥などと知り合ったのもこの時でした。

 この劇団と他の劇団が一緒になってその後、築地小劇場が生まれました。ここでも文学と劇について関口さんは求められるままに助言を惜しみませんでした。彼は演劇が本当に好きで、後には共同演出家の1人となったこともありました。しかし、結局は語学の仕事に集中する事になったので、そういう余技のための時間が取れなくなり、終わってしまったのです。

 私には関口さんの語学について評価する意志もなければその資格もないと思っています。しかしドイツ語は私にとっては母語ですし、日本の大学でドイツ文学のほかにドイツ語の授業をも担当してきた者として、彼のドイツ語学について一言も述べないわけには行きません。それは、率直に言って、実に感嘆するしかない程完璧なものでした。私の短くない日本滞在中ドイツ語学で彼に比肩しうる人にはついに1人も出会いませんでした。個人的に話をしていた時にもそう思いましたし、又手紙を受け取る度にドイツ語の文章構成法と言い廻しに精通している事に舌を巻きました。無数の語句をマスターしており、それをまた巧みに操るのです。その上更に、自分で新しい表現を作り出したりもするのです。しかも外国語では母語でよりもはるかに難しいジョークや皮肉まで使って手紙を書くのです。

 その後中年にさしかかった頃から、関口さんは語学関係のちょっとした仕事や文法や教科書や辞書など、根気と集中力を必要とする仕事を始めました。この方面での成果は関口存男という名前を日本におけるドイツ語学の歴史に永遠に残すことでしょう。その頃の彼はいつも書斎に座って仕事に没頭していて、会うのは少なくなりました。

 それでも、夏には軽井沢の私の家を訪れてくれることもありました。会うと決まって、大久保のあの狭い家での若かったころの話になりました。二人の友情を大切にしてくれて、「会えて嬉しい」と言うその様子は、いつまでも青春真っただ中のあの頃のままでした。死の少し前には、まだ生きている旧友を集めてもう1度楽しい夕べを過ごしたいものだとも語っていました。

 その願望も彼の急死によって果たせぬ夢となった今、私はただただ関口さんがあの世でも、大久保の小さな家でと同じように理解ある親しい仲間との心楽しい集まりを楽しんでいてくれる事を願うばかりです。

 関口さんの死で私の心の中には何かポッカリと大きな穴が開(あ)いたような気がします。関口さんのいない日本などというものは私にとってはどこかが欠けた器のような物です。たしかに最近は会う機会も少なくなってはいましたが、彼の事はいつも意識していましたし、彼の事を思い、彼の生活がもう少し楽で幸福なものであってほしいといつも願っていました。と言いますのも、親友の私には私生活上の事も打ち明けてくれていて、生活が必ずしも楽ではない事を知っていたからです。その事で私は暗い気持になりました。彼は寄る年波もあって性格が少し陰鬱になり、敢えて言うならば、時には愚痴をこぼす事さえありました。

 それでも関口さんはその困難に雄々しく立ち向かい、あの強靭な闘争心で俗世を超越しようとしたのです。それを知っていたからこそ、奥様の棺の横で口にした「一巻の終わりだ」という言葉には強い衝撃を受けたのです。この先どう生きていけば好いのか分からなくなったのではないか、という悲しい印象を持ったからです。そして、彼の逝去を知った今思う事は、あの時の心に受けた衝撃が彼自身のあまりにも早すぎる死と関係しているのではないか、という事です。と言いますのも、ゲーテの言葉に「死を欲しない人は死なない」という意味深長な句があるからです。

 関口さんが何の前触れもなく突然他界してしまった今となっては、私に出来る事と言えば、日本での最良の友人であった関口さんをいつまでも忘れることなく、あの不屈の自立した魂が安寧と安らぎの得られる所だと言う彼岸に無事帰郷することを祈るばかりです。彼のこの世での故郷である日本の仏教の教えに依るならば、彼岸では人は皆、慰められ、故郷(ふるさと)に還ったようなほっとした気持ちになれると言いますから。(1959年1月)

付録1・ウィンクラー氏の生涯

         ドクター・クラウス(オーストリア大使館)

 レオポルド・ウィンクラー氏は1889年11月10日に生まれ、1912年には日本の土を踏んで、その風土と人々を大変好んで、しばらくはこの地に住まうことを決心した。実際、幾度か、休暇には故国オーストリアに帰ったが、その間を含めて50年間というもの日本で生活を送ったのである。

 青年時代からウィンクラー氏は教育に関心を持ち、1915年はじめて上智大学と東京高校で教鞭をとり、後には、横浜国大、東京外語大、慶応義塾でも講義を行った。

 その教職──独会話と文学史──と並んで、彼は日本のスキーの先駆者であった。1913年設立の日本アルペンスキークラブの創立者の1人となって、今日、日本国民の幅広い階層に親しまれているスポーツとなった因をこの地にもたらした。スキー場の発見と開発に努力し、多くの日本の山々をスキーによって登ることをやってのけたのもこの人であり、それからはスキーの為に新聞や雑誌を通じて運動したのである(1)。

 ウィンクラー氏は15年間にわたって、オーストリアの主要日刊紙『ノイエ・フライエ・プレッセ』の日本通信員をつとめたり、又オーストリアの世界的名声ある詩人として双璧をなすフーゴ・フォン・ホフマンシュタール、シュテファン・ツヴァイクとも親しい交わりを持っていたのである。自身も文学活動に忙しく、1929年にその著作 "Drei Stufen neuer deutscher Dichtung", 1942年には詩集 "Libelleneiland"、それから教科書として "Anfaenderdeutsch", "Deutsch fuer Fortgeschrittene", "Deutche Gedichte", "Elementar Deutsch" 等々を出版した。

 故国オーストリアへの慕情をウィンクラー氏は気高い深い愛の気持で、生まれ故郷でもない日本に結びつけ、そこで50年もの長い年月を過ごしたのである。その間日本の文化に深く浸透しようと努めた。わけても、日本の音楽を愛好し、三味線や、尺八の音に親しんだのである。

 1957年、日本政府は教育事業の功績から、勲四等瑞宝章を授与した。55年には東京都より文化メダルを受けている。この光栄につづいて、慶応大学では、59年、名誉教授に推挙した。

 ウィンクラー氏はまた、オーストリア国民の為にも非常に骨を折り、日本のオーストリア人協会で1957年創立以来、会長の座にあった。

 オーストリアの元首は1960年、彼の故郷とオーストリア・日本の親交における功労に感謝してGROSSE GOLDENE EHRENZEICHEN[最高栄誉金メダル]というオーストリア最高の栄誉を与えた。

 日本スキー連盟でも、1961年、敬意を表して功労メダルを贈っている。

 ウィンクラー氏は1962年4月3日、突然、悲しい姿となって我々の許を去った。彼が生涯に為した仕事は、その教え子達が、今日、日本の社会、文化の面で、多くの指導的人物となっており、オーストリアと日本の人々の友好を続けてほんとうに実を結んでいる。この事実によって、我々はこの大きな喪失を慰めることができるであろう。(足立悠介訳)

(1) 1957年の勲四等瑞宝章の授与の際、朝日新聞は『人寸描』でこう書いています(「悼慕」の53頁に転載されている)。「祖国では山岳スキーの創始者ズダルスキーから直接スキー技を教えられ、45年前に富士の麓で一本杖シュテムボーゲンを公開、また五色温泉や各地スキー場の開設、インターナショナル・スキークラブの創設などに骨折ってきたのだから、有名なレルヒ大佐と共に我が国スキーの草分けでもある」。

付録2・編集後記

 麗かな春日和に爛漫と咲き乱れた桜の花。そこに物思いに沈んだ会葬者の群れ。何かそぐわない感じの外人墓地に佇んで、亡くなられた先生に対する感謝の気持ちをどのように表したらよいものかと。当初は独研部員のみによる追悼文集を作る予定でしたが、この一事が日墺親善の為に少しでもお役にたてば、先生ももっと喜んで下さるだろうと、朝日新聞の読者のひろば欄で広く追悼文を募りましたところ、遠くはバンコックから、各時代層の様々な方々から丁重な追悼文が寄せられ、孤独の中にもにじみ出た先生のお人柄が偲ばれ、編集者一同深く感動に胸を打たれました。

 日本には、御身寄の方が全然いらっしゃらなかった為、原稿の募集の際も、非常に苦労を極め、又日と共に欲が出て、故先生の唯一の肉親である妹さんにまで御寄稿を依頼しましたので、編集の終ったのが亡くなられてからなんと半年も経った十月の事。早くから原稿を寄せられた方々には非常な御心配をおかけした事と思います。心からお詫び申し上げます。
 又、お葬式の時以来、いろいろと御援助いただいたオーストリア大使館の方々を始め、一家総出で御協力をいただいた関口家の方々、佐藤先生を始め横浜国大の先生方、そして原稿を寄せられた方々、あるいは部外ながら独文印刷のお手伝いをして下さった吉田由紀子さん等、多くの方に深謝申し上げます。

 尚、原稿の中には既に発表されたものもありますが、その転載を快く許して下さった郁文堂、三修社、並びに数々の御協力を賜りました朝日新聞社、毎日新聞社に御礼申し上げます。
 出来上がったものは資金、発行部数の関係から非常に貧弱な体裁になりましたが、内容は凡ゆる人々の誠意と故先生への暖かいお気持の結晶と申せましょう。御玉稿を粗末にした事になりましたらお許し下さいますよう。

 尚、編集委員は下記の五名でした。

  足立啓介、山口厳、木山学、保坂安雄、野尻旦

 ・発行日は「1962年12月25日」となっています。

      関連サイト

「絶版書誌抄録」の「その他」


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1 コメント

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芳名帳の中のWinkler氏 (長坂俊宏)
2013-11-05 11:38:47
だいぶ前に(1990年代初頭?)社員旅行で訪れた竹久夢二伊香保記念館に昔の芳名帳がガラスケースに展示されており、あるページが見開き状態で見えるようになっていたのですが、そこに当時そこを訪問されたであろうLeopold Winkler氏の名前が記載されていたのを覚えています。何年頃の記載かは不明です。また、それがこのWinkler氏と同一人物かどうかは分かりませんが。
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