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市民社会、ブルジョア社会

2011年01月30日 | サ行
  参考

 01、市民社会とは、その個人性によって互いに一層切り離された全ての個人のこのような闘争であり、特権という鎖から解放された自然的な生命力の無拘束な運動一般である。

 民主制の代議制国家と市民社会との対立は、公の共同体と奴隷制との古典的な対立の完成した姿である。近代世界では各人は同時に奴隷制の成員であり、かつ共同体の成員である。

 市民社会の奴隷制こそ外見上はまさに最大の自由である。なぜなら、個人は自分の疎外された生命要素、即ち財産、産業、宗教等がもはや一般的な絆や人間との結びつきを断って運動することを自分自身の自由だと思っており、〔市民社会にあるのはまさに〕そういう個人の一見完成された独立だからである。

 しかし、そういう〔生命要素の自由な〕運動は〔個人の独立ではなく〕むしろ個人の従属と非人間性の完成されたものなのである。特権に代わってここでは権利が入りこんでいる。(マルエン全集第2巻123頁)

 02、無政府性は人々をそれぞれの部署に割り当てるような特権から解放された市民社会の法則である。そして、市民社会の無政府性は近代の公的状態の基礎であり、逆に又、公的状態はこの無政府性を保証するものである。両者はどんなに対立していようとも、同時に互いに条件付け合っている。(マルエン全集第2巻124頁)

 03、正確にそして散文的な意味で言うならば、市民社会の成員は原子(アトム)ではない。

 原子の特徴的性質は「いかなる性質をも持たない」ことであり、従って「自己の外なる他者に対して自己自身の自然必然性によって条件づけられた関係を持たない」ということである。原子は自己自身の中に全充実を持っているのである。

 市民社会の利己的個人は、空想の中では自分は原子のように自己充足したものだと思い込むかもしれないが、感覚的現実にぶつかって否応なしに外界と他人との意味を理解する。彼の本質的な活動はどれも欲求となり、他者への欲求を生じさせる。しかるに個人は皆、自分の欲求を満たす直接的な手段を持たないから、他人の欲求を満たす媒介者となって媒介的に自己の欲求を満たすことになるのである。

 つまり、自然必然性や利害が市民社会の成員を1つにまとめているのであり、彼らの真の絆は市民的生活〔経済生活〕であって、政治生活ではないのである。(マルエン全集第2巻127-8頁)

 04、市民社会(ブルジョア社会)は、ブルジョアジーによって肯定的に〔積極的に〕代表されている。(マルエン全集第2巻130頁)

 05、〔人々の〕交流形式だが、歴史のこれまでの全段階にあった生産諸力に条件づけられ、そしてまた〔逆に〕生産諸力を条件づけてもいる形式が市民社会であり、それは……単純家族と複合家族といわゆる種族制度とを前提とし基礎としている。(マルエン全集第3巻36頁)

 06、市民社会は、生産力の或る発展段階のなかでの個人の物質生活に関する全関係を包括する。それは、或る段階にある商業上及び産業上の全生活を包括し、この限りでは国家や民族を越えて行くのだが、他方では、それは又外に向かっては民族性として現れ、内に向かっては国家として編成されなければならない。(マルエン全集第3巻36頁)

 07、市民社会という単語は、(身分関係の装いを持たない)所有の諸関係が古代及び中世の共同体から抜け出て形成され始めた18世紀に生まれた。市民社会がそれとして発展するのはブルジョアジーが生まれてからである。

 しかしまた、生産と交流から直ちに展開される社会組織はあらゆる時代を通じて国家及びその他の観念論的上部構造を形作っており、それは常に「市民社会」の名で示されて来た。(マルエン全集第3巻36頁)

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