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鶏鳴・ヘーゲル原書講読会の1ヶ月

2018年11月15日 | ハ行
   ヘーゲル原書講読会の1ヶ月

 10月15日に「ヘーゲル原書講読会」のお知らせを発表してから1ヶ月が経ちました。誰も来ないのではないかという心配は始めからありませんでした。と言いますのは、この春、3月だったと思いますが、大学に入学が決まった方から「弟子入りさせてほしい」というメールをいただいて、それ以来連絡を取っていたからです。私は、かねてから、「『小論理学』が出来たら、『原書講読会』をやろう」と決めていたので、そのことを伝えて、待ってもらっていました。と言っても、その間にも連絡を取り合った訳です。

 さて、かくして始まりましたが、内容は手探りです。手探りは今も、続いています。決まっている事は、「大学(院)レベルの真の哲学ゼミを目指す」ということだけです。この目標に向かって、内容を少しずつ具体化しています。

 先日、或る方から「もう少し詳しい説明がほしい」というメールをいただきました。その中心点を引用します。

──さて,もう少し詳しく知りたいこととは,具体的な指導内容です。
 先生はブログの中で,指導に関わるものとしては,
1. 「大学院レベルの哲学演習の会」であること
2.目的は,「自分の考え方を確認し、更に発展させて哲学的思考能力を高めること」
3.指導形態は,「基本的に個人指導」
4.指導内容は,「基本的に、牧野の既に発表してある論文や本を読んで、「これはどういう意味か」「これでいいのか」「他の考えはないか」といったことを一つ一つ考えて、その考えを大小の論文にまとめること」(なお,「哲学書や哲学論文の「和文独訳」にも力を入れる」)
5.「この「原書講読会」は、各自が自分の哲学を作って生きてゆくための「基礎的修練の場」にすぎない」 
などの点を挙げておられます。

 私が充分に把握できなかったのは,上記の内,その指導内容と,この会の名称である「鶏鳴ヘーゲル原書講読会」との関連性です。
 会の名称は「ヘーゲル原書講読会」となっているのですが,上記の4の内容には先生の御著作等を読んでその考えたところを文章にするとあり,ヘーゲルの原書の講読との関連が直接には書かれておらず,その繋がりが理解できませんでした。
 例えば,先生の翻訳である『精神現象学』や『小論理学』などで挙げられている注釈に関して,原文と照らし合わせながら考え,それについての意見なりを書いて提出するということなのでしょうか。しかし,それではいわゆる原書講読という言葉のもつイメージとは違うようにも思えます。

 大学3回生の時,私がドイツ語講読の授業を選択した際,たまたま受講生は私一人でありました。そのため,その講義の担当の先生はブレヒトの専門家でしたが,私が講読したい本を好きに選んで良いと言われたため,私はマルクスの『経済学批判要綱』を選びました。事前に私が訳文を作成し,授業当日にその先生が添削を行い,独文の構造把握やその内容理解について話し合うというのが,その授業の大まかな流れでした。私が原書講読という言葉でイメージするのはそういうことであり,すなわち,ドイツ語による原書の文構造なりの理解とその内容理解というが中心,ということになります。残念ながら,その内容に関する議論はほとんどありませんでした。

 辞書で「講読」という項目を調べますと,広辞苑では「書物を読み,その意味を説きあかすこと。また,その科目。「原書—-」」と出てきます。先生が常々書いておられるように,これも用例を詳らかに示しているものではありませんが,講読というのは,議論を発展させるものではないように思えます。

 もちろん「原書講読」という言葉を聞いて懐く私のイメージが,世間一般が懐くイメージと異なるのかもしれません。よって,もしそうであれば,申し訳ありませんが,私にその旨をメールにてお伝えください。ただ,もし私が感じていることが,先生の当該ブログを読んだ他の方が一般的に感じるかもしれないこと,すなわち,「概念的個別(?)」(「昭和元禄と哲学」は,すばらしい論文です。価値形態論の理解に欠かせないものであると思っています)であると思われるならば,ブログにて詳細を伝えてくだされば,喜ぶ方も多いかもしれません。(引用終わり)──

 まだ文字通りの「原書講読」は始めていませんが、私の考えている「本当の原書講読」は大きく分けて二つの内容があります。
 第一は、「横文字を訳すこと」です。これは前半と後半に分けられます。前半は、「一応正確な日本語に訳すこと」です。そこには「文脈を読むこと」も入ると思います。後半は、「中級以上の文法に属する事柄があったならば、それを確認すること」です。
 第二は、そこを読んで考えた哲学的問題を出し合うことです。これの前半は、「哲学ではなく、哲学史的な背景を考えること」です。後半は、文字通り「現実を哲学すること」です。

 私の経験した哲学ゼミでは、どれも、「第一」の「前半」だけでした。それも、文脈を読む練習ないし指導はありませんでした。寺沢氏は「君たちは文脈が読めない」と何度も叱りましたが、氏自身文脈の読めない人で、まして「文脈を読む技術」という考えを知らない人でした。
 「後半」もたまにはありましたが、ほとんど「あった」と言えるほどのものではありません。私の出席したゼミの先生で、関口文法を研究していた人は居なかったと思います。「不定冠詞の内的形容」は誰も知らなくて、「一つの」と訳しておしまいでした。
 「第二」も「前半」は少し、ときたま、ありました。ゼミではなく、訳書と著書で考えますと、金子武蔵氏の『精神現象学』の注釈はこれに当たると思います。許萬元の著書は、ヘーゲルとマルクスとエンゲルスとレーニンの言葉を整理したもので、これに入ると思います。
 「第二」の「後半」を実践したものはないと思います。「哲学ゼミはどうあるべきか」という「現実問題」をテーマにしたことはありませんでした。「議論の認識論」もありませんでした。「自己反省なき哲学ゼミ」は「哲学ゼミ」と言えるのでしょうか。
 レーニンの『哲学ノート』はこれが本当の哲学だと提案しただけで、自分は実行出来なかったのだと思います。今回の私の『小論理学』が初めてでしょう。ですから、これの出版を待って、この会を始めたのです。

 「ヘーゲル原書講読会」と名付けたのは、やはりヘーゲルを原書で読んで考えることが、哲学的に考え、論理的思考能力を高めるのに、最適だと思うからです。ですから、それを最高として、その準備を含めてやっていこうというわけです。
 特に初めの内は、参加者の実情が分かりませんので、いろいろと課題を出して、取り組んでもらいます。今参加している方は19歳か20歳くらいですから、まもなく79歳に成る私とは60歳も離れている訳で、経験と認識の前提が違います。まずはこのギャップを確認することから始めています。『哲学夜話』に所収の論文「人間の相互理解」を読んでほしいと思います。もっとも、ここに書いた事を十分に認識しておらず、実行しなかったのが、これまでの私でした。今回はこのことの反省から出発しています。

 これくらいの説明でどうでしょうか。

11月15日、牧野紀之


 関連項目

ヘーゲル原書講読会、開講


PS

 コメント欄に、この「詳しい説明」を求めてこられた K.Hさんへ。
 あなたの書いていましたメルアドに返信を、二度にわたって送りましたが、返ってきて
しまいました。
 私のPC技術の未熟さのせいでしょうが、困っています。
 すみませんが、鶏鳴出版あてに手紙をください。
 お願いします。牧野紀之(15日17時に記す)
431-2201 浜松市北区引佐町東久留女木 307-2