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反省、die Reflexion。cf. 外的反省

2011年12月14日 | ハ行
 01、反省という言葉は普通の日本語ですが、元は漢文の中にあったのだと思います。「三省堂」という会社の「三省」とは「1日に3回反省する」という意味ですが、これは中国の故事に由来するのだと思います。「この場合の反省概念は広い意味です。それは「自分のこれまでの言動やあり方についてその可否を考えてみること」(新明解国語辞典)です。

 02、しかし、普通は、道徳的に悪い点とか目的に適っていなかった点(間違っていた点)などを自分で振り返って考えてみるという意味に使われています。ですから、「君も少し反省した方がいいよ」といった忠告の言葉があります。又、会社などで思った通りの結果が出ない場合、「失敗の原因を反省してみる」といったことが言われます。これが狭義の反省です。

 03、反省概念の広狭二義は批判概念の広狭二義に似ています。批判という言葉も、元は、カントの「純粋理性批判」のように、或る対象を分析的に検討してその対象の意義と限界を明らかにするという意味だったのですが、普通は、対象(相手)の悪い点を暴き出すという狭い意味に使われます。

 04、哲学では、明治以降、reflexionの訳語としてこの昔からある「反省」という言葉が使われました。

05、さて、哲学史ではイギリス経験論の中心人物ロックが反省を取り上げました。彼は生得観念を認めたデカルトに反対して人間の知識の源泉は経験だけであるとして、その経験を外部の事物に対する経験(感覚)と内部の心や身体状態に対する経験(反省)とに分けました。
 06、ヘーゲルの反省概念はカントのそれを改作して受け継いでいます。ヘーゲルは思考と光の反射との一致を指摘します。

 「反省(反射)という表現は差し当たっては光について使われます。光が直進し、反射面に当たり、そこから返ってくるということです。我々はここに二重のものを持っています。第1に直接的なもの、存在しているものであり、第2に媒介されたもの、定立されて存在しているもの、です。〔しかるに〕或る対象について反省し追考する時には、その対象をその直接性においてではなく、媒介されたものとして知ろうとしているわけですから、先の光の反射の場合と同じ〔ように対象を二重に見ようとしているわけ〕です〔から、これを「反省」と呼ぶのは根拠のあることです〕」(ヘーゲル『小論理学』第112節への付録)。

 07、或る対象をそのものとして(その直接性において)知るのが(ヘーゲル論理学の第1段階の)存在論です。それを媒介されたものとして、つまり他者との関係において、特に自己固有の他者との関係において知るのが(その第2段階の)本質論です。従って、本質論の論理は反省と呼ばれるのです。

 (第3段階の)概念論は、その一見異なったもの同士の相互関係として捉えられていたもの全体を、発展的に自己運動する全自然の契機と見て、人間=自我をその発展の中心的結節点として、しかもその発展の「論理」を自覚しながら考察していく立場です。

08、自称マルクス主義者たちは「相互作用」や「相互連関」を最高の立場かのように思っていますか、それはまだ低い段階です。

 09、光学では reflexionは「反射」と訳されているようです。

 10、生理学でも「反射」という言葉がありますが、これはreflexの訳語です。この言葉はデカルトが使ったようです。これは、外から刺激を受けることなしに起きる運動に対して、刺激があって初めてそれに対する反応として起きる運動のことです。パヴロフの条件反射はドイツ語ではder bedingte Reflexと言います。「反射的に~する」という日本語はこの生理学の反射概念と結びついているのだと思います。

  用例

 01、〔幼女連続誘拐殺人事件の判決を報じて、犯人のMには〕謝罪の言葉や反省はなく(2001,6,28,NHK)
 02、〔PL学園野球部の暴力事件での甲子園予選欠場について〕反省すべき点は大いにあるでしょう。(2001,6,30, 朝日)
 03、ハンセン病訴訟で問われた「立法不作為」にも国会として十分な省察を加えたとは言えない。(2001,6,30, 朝日)

  参考1

 01、反省諸規定──概念の自己内存在へと移行しつつある存在である。かくして、概念はここでは未だに概念として顕在的には定立されておらず、自己の外の物として直接的存在を身につけている。(大論理学第1巻44頁)

 02、経験を反省する認識のやり方は次の通りである。まず現象の中に諸規定を知覚し、次にこの諸規定を根拠としてそこからこれらの規定のいわゆる「説明」のために対応する根本素材又は力を仮定し、この根本素材又は力が当該の現象の諸規定を現出すると考えるのである。(大論理学第1巻171-2頁)

 03、反省は移行の止揚としての移行である。というのは、反省では〔存在がではなく〕否定的なものが[他者ではなく]自己自身と直接に一緒に成るからである。(大論理学第2巻14頁)

 04、反省の判断は本質的に包摂の判断であった。(大論理学第2巻293頁)

 05、反省、それは自己意識の形式的な普遍性及びその統一である。(法の哲学第15節への注釈)

 06、反省という表現は差し当たっては光について使われる。光は直進し、反射面に当たって帰ってくる、という事である。我々はここに二重のものを持っている。第1に、直接的なもの、存在しているものである。第2に、媒介されたもの、定立されて存在するものである。この事は我々が或る対象について反省し、追考する時、その対象をその直接性においてではなく、媒介されたものとして知ろうとしている限りで、やはり先の光の反射の時と同じである。(小論理学第112節への付録)

 07、思考による反省は区別を度外視し、あらゆる事情の下で同様に働き同様に関心を持たせる普遍的なものを固定する。(歴史における理性51頁)

 08、反省の道──特殊から普遍へと登って行く。(歴史における理性81頁)

 09、普遍的なものという形式を感性的な現象の中に混入させること、即ち反省(ズ全集第18巻102頁)

  参考2

 01、反省はReflexionである。所与を所与としてそのまま受取るのではなく、どうしてそうなるかの理由を問い媒介を求めることであり、納得の行くようにすることであり、したがって自我と不離である。反省の立場は悟性の立場とほぼ同一であるが、悟性よりも自我性、主観性が強いようである。しかしヘーゲルでは反省は自我への反省であるのみならず、己れの本質に反省することでもあるが、こういう場合にはむしろ還帰と訳した。(金子武蔵訳「精神現象学」上巻462-3頁)

 02、「直接態」という規定は、直接態ではないもの(すなわち「媒介態」)に対立しており、この対立において媒介態から区別されることによってのみその意味をもっている。例えば、「右」という規定がつねに「左」という規定に対立しており、「左」から区別されることによってのみ意味をもち、「左なしの右」ということが考えられない・無意味な規定であるのと同様である。この場合に、「右」という規定は、自己から出て「左」という規定にぶつかり、「いや、左ではない」として再び自己に帰ってくることによってはじめて「右」として規定される。「左」についても同じことがいえる。この関係は、光が鏡にあたって反射してもどってくる運動に似ている。それでヘーゲルはこのように、自己から出て相手にぶつかり再び自己へともどってくる思考の運動を「反省」とよぶ。(ドイツ語のReflexionは「反射」と「反省」との両方の意味をもっているので、前述の光の運動との類比がことばの上で有効にきいてくるのだが、両者を訳し分ける必要のある日本語ではうまくゆかない)。──

 以上に述べたような「反省」という概念の意味を知っていないと、ここの「単一な直接態」という表現が「反省の表現」であるという叙述が理解できない。すぐつづけてヘーゲルが「媒介されたものとの区別にかかわりあっている」と述べているのは、「直接的なもの」が対立する相手が「媒介されたもの」であるということの指摘である。──

 なお、「反省」については本質論で詳しい規定と展開が与えられている。(寺沢訳書1、383頁)

 02、ここでの「反省」は先に説明した「外的反省」ではなくて、カテゴリー自身の論理的展開の過程でおこなわれる・本来の反省である。その意味はすでに01で述べておいたが、揚棄する運動に即してさらに説明しておこう。或るもの(A)が揚棄されるということは、一面では、このAが止めさせられ終らせられることであるが、これはAに対立するものである非Aが現われてくることである。同時に、揚棄されることによってAは保存されもするのであるから、Aがなくなってその代りに非Aが現われてくるわけではない。Aが保存される限りでAは残るが、またAが終らせられる限りで非Aが現われてくる。だから、Aが揚棄されることによってAと非Aとの統一が達成されるのである。このことをヘーゲルはここで「それに対立するものとの統一にはいりこんでしまったその限りにおいてだけ、揚棄される」と述べている。──

 ところで、この場合におこなわれる思考の運動は、Aから出て・非Aにぷつかり・ふたたびAに帰ってくるという「反省運動」にほかならない。だから揚棄されたものは「ひとつの反省されたもの」である、とヘーゲルはいうのである。(寺沢訳書1、388頁)

     関連項目

外的反省