マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

als etwas erscheinen

2014年04月24日 | マ行
 「小論理学(鶏鳴版)」の見直し(即ち「小論理学(未知谷版)」の準備)は「存在論」を終わり、「本質論」に入りました。その存在論の終わりの方の第108節の付録の中に次の一節があります。

──Wenn eine quantitative Veränderung stattfindet, so erscheint dies zunächst als etwas Unbefangenes, allein es steckt noch etwas anderes dahinter, und diese scheinbar unbefangene Veränderung des Quantitativen ist gleichsam eine List, wodurch das Qualitative ergriffen wird.

 これを松村訳(岩波文庫)はこう訳しています。文脈が分かるように、少し前から引きます。「限度のうちに存在する質と量との同一は、最初は単に即自的であって、まだ定立されていない。そのためにその統一が限度をなす二つの規定は、それぞれ独立性をも持っている。すなわち、一方では定有の量的諸規定は、その質へ影響を与えることなしに変化されうるとともに、他方ではこうした無関係な増減にはその限界があって、それを越えると質が変化される。例えば水の温度はまずその液体的流動性にたいして無関係であるが、しかしこの液状の水の温度の増減が或る点に達すると、この凝集状態は質的に変化し、水は一方では水蒸気に、他方では氷に変る。一般に量的変化が起る場合、それは最初それ以上の意味を少しも持たないようにみえる。しかしその背後には別なものがひそんでいるのであって、一見何でもなくみえる量の変化は、質的なものを捕える言わば狡智である。」

 真下・宮本訳(岩波書店)はこう訳しています。「限度のうちに見られる質と量の同一性はただやっと即自的に存在するだけで、まだ定立されてはいない。一体となって限度を成すところのこの両規定がそれぞれ別々にも通用するゆえんはここにあるのであって、一面では定在の量的規定は定在の質に影響を及ぼすことなしに変えられうるし、他面またこの無記な増減にも限度があって、これを踏み越せば質が変えられるのである。そういうわけで、水の温度は差し当たりは水の液的流動性とは無関係であるが、やがて液状の水の温度が増すか減るかするうちにこの凝集状態が質的に変わって、水が蒸気に変わったり、氷に変わったりする点がやってくる。或る量的変化が起こる場合、それは差し当たりは何かまったくさりげないことのように見えるが、しかしその後ろにはなお或る別なものが潜んでいるのであって、このさりげなく見える量的なものの変化は質的なものを捕えるためのいわば策略なのである。」

 私が問題にしたいのはここのerscheint als etwasという句を両方共、「みえる」と訳している点です。つまり、scheinenと同じ訳語を当てているのです。これで好いのでしょうか。やはりscheinenとの違いを意識してもらうためには別の訳語を使った方が好いと思います。長谷川宏のように、ヘーゲルのscheinenを「思える」と訳した上で、「本当にそうなのだ」という意味に取って、饒舌な愚論を展開している人もいるからです(長谷川宏著『ヘーゲル「精神現象学」入門』講談社の一一頁以下)。

 ここのerscheint als etwasは「である」の代用でしょう。つまり、「まずは実際にUnbefangenes〔邪気の無いもの=質の変化を引き起こさないもの〕)である」という意味です。「まず最初から、無邪気に見えるが本当は邪気のあるもの〔変化を引き起こすもの〕である」という意味ではありません。「文法」の156頁の「属詞文の代用形」を参照して下さい。

 ウォーレスの英訳はapparently without any further significanceとし、ジェラーツの英訳はit appears, to start with, to be something quite innocentとしています。これらの英訳ではどう取ったかは、私には分かりません。

 erscheint alsを使ったので有名なのは『資本論』の冒頭句でしょう。それはDer Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Pruduktionsweise herrscht, erscheint als eine "ungeheure Warensammlung", eine einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.(資本主義的な生産様式が支配的となっている社会では、富は商品の巨大な集積という形を取る。個々の商品は富の要素である。従って、我々の研究は商品の分析から始まる)となっています。

 英訳はThe wealth of those societies in which the capitalist mode of production prevails, presents itself as "an immense accumulation of commodities," its unit being a single commodity. Our investigation must therefore begin with the analysis of a commodity.です。

 仏訳はLa richesse des sociétés dans lesquelles règne le mode de production capitaliste s'annonce comme une "immense accumulation de marchandises". L'analyse de la marchandise, forme élémentaire de cette richesse, sera par conséquent le point de départ de nos recherches.です。

 これなら「事実そうである」という意味だということは明白でしょう。

 長谷川の誤解した「精神現象学」の該当箇所はこうなっています。原文はEine Erklärung .. scheint nicht nur überflüßig ..です。英訳はベイリーのそれもミラーのそれも同じくseemsを使ってit seems not only superfluousとしています。イポリットの仏訳もparaîtreを使っています。

 この冒頭の部分はとても読みにくいものです。なぜなら、これに続いて、同じ様に「余計に見える」理由を次から次へと繰り出していますが、一々「だから、予めの説明は余計に見える」という結論は書いていないから、何のためにこういうことを言うのか分からないからです。私は、角括弧でその理由を一々補った上で、逆接の始まる部分の冒頭に「〔さて、以上のようなわけで、序言で本論の目的や一般的結論や他の哲学との違いを述べるのは不都合に見えるのだが、しかし実際には、それも書き方次第で必要かつ有意義になりもするのである。というのは以下のようなわけである。そもそも〕真理が現存する真の形態は真理を叙述した「科学という体系」でしかありえない。〔そして〕〜」、と補って訳しました。

 元に戻って、「小論理学」のここでは「無邪気なものに見えるが、実際はそうではない」と誤解し易い理由は、その後にallein es steckt noch etwas anderes dahinterと続き、しかもscheinbarなどという語さえあるからでしょう。

 では、「Aと見えるが実際はそうではない」のと、「Aとして現象しているが、背後には別のものが隠れている」のと、どう違うでしょうか。前者は錯覚であり誤解です。「実際に在る事柄を見落としている」のです。後者は正確な観察です。「背後にある」という事は、「今は表に出ていない」、つまり「まだ生まれていない」という事です。錯覚でも誤解でもありません。表面だけとはいえ、正しく見、正しく理解しています。

 「文法」にも「関口独和辞典抄」にもerscheinenのことは書いていないようですので、「小論理学(未知谷版)」の出版を待たずに、この点を発表しておこうと思った次第です。

 私の解釈に異論のある方はどうぞ「コメント」欄に書いて下さい。又、erscheint alsについて、関口が何か言っている箇所を見つけた方もコッメント欄を使って教えてください。お願いします。

2014年4月24日、牧野 紀之

      関連項目

長谷川宏のお粗末哲学
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学校徴収金(PTA会費、後援会費)

2014年04月18日 | カ行
 2012年度に静岡県立高校92校が保護者から集めた学校徴収金(PTA会費、後援会費)を、教職員の旅費や施設修繕費など学校運営の経費として支出した総額は4758万円で、2011年度から54%減少したことが4月16日までに、県監査委員の2013年度調査で分かった。

基準策定で抑制、県監査委員2013年度調査

 県監査委員の学校徴収金を対象にした行政監査の実施や、県教委による学校運営における公費支出の基準策定などが影響し、各校が学校運営に充てる経費としての支出を抑制したとみられる。県監査委員は県教委の基準に基づいた適正な支出が行われているか調べるため、2014年度は数校を抽出して特別監査を実施する方針。

 調査によると、学校運営の経費に学校徴収金を充てた支出の内訳は、教職員の勤務時間内の出張に支払う旅費が579万円、施設を修繕する施設費3594万円、授業用教材の購入にかかる需用費345万円、備品費15万円、実験実習費223万円となっている。

 PTA会費は92校全てが徴収した。生徒1人当たりのPTA会費の年額は平均1万2283円。最高額が3万1200円で、最少額は2400円。後援会費を徴収しているのは90校で、平均額9314円、最高額は2万6400円だった。

 県監査委員は「学校間でPTA会費や後援会費の負担額に差があるのは問題では」としている。

公費と区別、グレーゾーンも

 県監査委員が2013年度、県立高校3校を対象に学校徴収金に関する特別監査を実施した結果、県教委の基準に明確に違反しているとして是正を求める支出はなかった。ただ、体育館の緞帳(どんちょう)の修理費やグラウンドの土の購入費など、公費か学校徴収金のどちらを使うべきかが判然としない「グレーゾーン」の支出もあった。

 監査結果によると、3校のうち1校では、体育館の緞帳の修理費21万4000円、グラウンドの土の補充費8万3000円が、いずれも後援会費から支出されていた。県監査委員は緞帳修理費について「体育館のような基幹的施設の補修は本来、公費支出すべき」、土の補充費も「体育授業にも不可欠なグラウンド整備を安易に部活動関係の支出としていないか」としている。

 グレーゾーンが生じる背景には、県教委の基準に「学校の一層の魅力化、特色化を図るため実施される部活動、進路指導、学校行事の充実や教育環境整備などの事業に要する経費については、PTAなど学校関係団体から支援を受けることが可能」と記されていることがある。県監査委員は「基準自体があいまいさを残しているのでは」とみている。
(静岡新聞ネット版、2014年4月17日)
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田中茂範著『表現英文法』を読む

2014年04月17日 | タ行
   ──博識はまだ学問ではない(ヘーゲル)──

 田中茂範著『表現英文法』(コスモピア株式会社)を読みました。書名が気になっていたからです。私は、文法を理解文法と表現文法に分けて考え、整理する方が、正しいし、書き落とすことが少なくなるという考えで、『関口ドイツ文法』ではそれを実行していたからです。他者の「表現文法」とはどいうものかに関心があったからです。

 入手してすぐに、「わかるから使えるへ」という副題(みたいなもの)が付いているのを知り、疑問を持ちました。そして、目次を見て、表現文法という言葉を理解文法に対比して使っていないらしいと知り、分からなくなりました。

 一応全体に目を通しましたので、感想を箇条書き的にまとめることにしました。全体をまとまった文にするほどの価値のあるものとも思いませんでしたので。

 第1に、「表現文法」という言葉については、幾つかの箇所で触れていますが、最後の「特別コラム・表現者の視点と言語表現」が最も正確でしょう。そこにはこう書いてあります。

 「表現英文法は、表現者である語り手(話し手、書き手)を想定して表現をとらえるところに特徴があります。どのような表現も語り手が紡ぎだすものであり、語り手の見方というものが表現に反映されます。そして、語り手は表現することを通して事態(=意味)を構成するのです。最初から事態があって、それを英語で表現するのではありません。表現することを通して、事態は構成されるのです。(中略)

 小説の場合は、主人公を中心とした登場人物がいて、登場人物が語り手の役割を演じることで、表現行為が成り立ちます。書き手(小説家)は、物語の作り手であり、物語の主人公あるいは登場人物では(通常)ありません。読み手は作られた作品の中に身を置いて、小説の中で移り変わる語り手に注目することで、英語を読み、物語の世界を事態として構成していくわけです。もちろん作家が語り手(ナレーター)として物語に参加する手法がとられることがありますが、いずれにせよ、表現は語り手の視点から行われるということは、英語表現を理解する上で最も重要な原理です」(654-5頁)

 重要なところに下線を引いておきました。要するに、英文を理解するための1つの重要な視点として、「発話者の視点に注意するように」ということでしょう。そして、実際にも、この視点は貫かれていると思いました。要するに、この本は、私の分類では「理解文法」の一種なのです。

 「はじめに」の中で「学校文法」の欠陥を指摘していますが、それは「学校文法が理解文法に偏っているから」ではありません。文法の知識は教えても、「文法力を養わない」からであり、「文法の全体像を与えない」からであり、「文法項目の関連化がない」からだそうです。一応、そうだと認めて、本書はその欠陥を是正しているのでしょうか。「?」でしょう。『英語の学び方』(旺文社)を著した高田誠が「文法をきちんと教える日本の学校の英語教育は基本的に正しい。会話重視に傾きつつある現状は嘆かわしい」と言うのとは反対の立場のようです。

 では慶応大学の英語の教師である田中はどういう授業をしてどういう成果を挙げているのでしょうか。それが書かれていないのは困ります。又、こういう「表現者の視点」を重視すると英文理解がどう深まるのか、田中は何か翻訳でもしているのでしょうか。ネットで検索しても分かりませんでした。

 学問も知識も応用して見せなければ本当の意義は分かりません。いや、応用して、他者を感心させるような成果を挙げれば、「この人の語学はどんなものなのだろう」と人々は興味を持つでしょう。関口存男(つぎお)の語学は「ファオスト」を初めとするゲーテの作品の訳で実証されています。又、田中がどういう授業をしているのかも分かりません。これでは困ります。

 第2点。レベル的には中級文法だと思いました。関口のドイツ文法と比較したら、話になりません。連語と冠詞の関係どころか、連語論すらありません。「過去における未来の表現」もありません。地の文の形をした伝達文くらい、小説を読んでいれば気付くはずですが、それも見当たりません。高等文法など求める方が間違っているのでしょう。全然出てきません。

 359頁に「動作の初めから終わりまで」という題名がありますが、その内容は関口の単回遂行動作論(不定冠詞論に所収)の片鱗すらありません。「移轍」などに気付くほどの語学力は全然ないようです。

 大学での英文法がこのような低いレベルでよいのでしょうか。疑問です。もちろん英語も知らない私には、中級文法とはいえ、学ぶ点はありました。これはいずれ出すであろう『関口ドイツ文法』の改訂版に取り入れるつもりです。

 小さなことですが、多くの横組み本と違って、句点とピリオドを使わずに、日本語本来の句点と読点を使っているのは正しいと思います。

 第3点。「文法研究の方法」を確認していないようです。無自覚的に「用例」を使い、「連想関係」を使っています。そのために不徹底です。

 用例は使っていますが、「用例主義」とまでは言えないと思います。同属目的語(340頁)のタイプは私の集めた英文用例よりも少ないと思います。連想関係主義とも言えません。同じ意味を表現する複数の言い方を並べて違いを説明してはいますが、所与の実際の文章を取り上げて、「ここをこう言えば、ニュアンスはこう変わる」といった検討はしていないようです。私は、日本語についてですが、拙著『関口ドイツ文法』の第1部の「文法研究の方法」に収めた「ソシュールの連想関係」でそれを例示しました。

 第4点。文法は本質的に「比較文法」であることを自覚していないようです。日本人が日本人向けに英文法を説明するのですから、日英の違いなどへの言及は少しありますが、少なすぎます。「参考文献」は英語の本ばかりですが、英文法についての日本人の先達の成果は学ばなかったのでしょうか。しかも、日本語文法の研究書を全然読んでいないようです。提題の「ハ」を、提題という意味形態を文法形態としては持っていない英語ではどう表現するのか、などという問題意識は、薬にしたくても無いようです。

 大学院に入るには外国語が2つ以上「出来る」必要があるのではないでしょうか。英文法を語るにしても、そのほかにもう1つの外国語を引き合いに出して比較すると、視野が広がるでしょう。慶応大学ではそういう事はしていないのでしょうか。

 どうして皆さん、関口文法を研究しないのでしょうか。ドイツ語関係の学問をしている人ですら関口を研究しないのですから、英語やフランス語とかの人は尚更、勉強しないのは当たり前なのでしょう。しかし、私の本の読者の中には英語関係の人もいるはずですし、フランス語関係の人も少しは分かっています。そういう方々は、「ドイツ語以外の人でも、関口をやると大いに役立つぞ」と発言し、自分研究成果でそれを証明してくださいませんか。切なるお願いです。これは私のためではなく、学問自身のためです。

 「おわりに」を読みますと、「読者の方々からの批判やコメントを受けて更に高まりたい」旨の発言もありますから、それに期待しましょう。

 本書を読みながらしきりと思い出されたのがヘーゲルの言葉でした。このブログ記事の副題にした次第です。博識はあっても学問のない田中の本と、学問はあっても知識の乏しい拙著「関口ドイツ文法」とを比較すると、ヘーゲルのこの言葉の意味が分かるでしょう。

        関連項目

英語教育(高田誠著「英語の学び方」)
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外的反省

2014年04月14日 | カ行
 01、カントが所与の特殊の中に普遍を探す能力として挙げた反省は外的反省である。それは所与のものである直接的なものに関係する。(大論理学第2巻19頁)

 02、この際とくに注意しなければならないことは、〔その昔の形而上学の認識〕方法が、認識すべき対象、例えば神に、述語を「付加する」という方法だったということです。しかし、こういう方法は対象に対する外的反省〔の方法〕です。というのは〔これでは〕諸規定(諸述語)は認識主観の表象の中に予め出来上がったものとしてあり、それを対象に外から付加するにすぎないからです。これに反して、対象の真の認識とは、対象が自分自身から自己を規定するのであって、その述語を外から取って来るようなものではないのです。しかるに、もし〔外的反省の〕述語〔属詞〕を付加するという方法で認識しようとすると、精神〔認識主観〕はそういった述語では〔対象を〕認識し尽してはいないのではないかという〔当然の〕感じを持つことになります。ですから〔昔の〕東方人たちは、この立場から、全く正当にも、神を「多くの名を持つ者」「無限に多くの名を持つ者」と呼んだのでした。心情はそのような有限な規定では、どれによっても満足しません。そこで〔昔の〕東方人たちの認識はそういう〔付加される〕述語を次から次へとどこ迄も求めゆくことになるのです。(小論理学第28節への付録)

  参考
 01、カテゴリー自身の論理的展開に内在しておこなわれる反省ではなく、この論理的展開を外から観察するものが、この論理的展開の過程をとびこえて、その結果を先取りしておこなう反省を、ヘーゲルは「外的反省」とよぶ。(寺沢訳書1、385頁)

 02、例えば、6と3はことなっており、6は3よりも大きく、6は3の2倍であり、3は素数であるが6は素数でなく、6は3の倍数であり、3は6の約数である、等々のことは、ヘーゲルによれば比較する外的反省にのみ属することであって、6と3という数そのものに属することではなく、6と3はたがいに無関心的である。数についてのこのような考え方は大いに批判の余地のあるものである。ヘーゲルのこのような考え方が生まれたのは、例えば自然数の全体を「自然数系」として、実数の全体を「実数系」としてとらえる、という見地から箇々の数をとらえていないことによるものと考えられる。とにかくヘーゲルにとっては、つぎのパラグラフで述べているように、数は本質的に「外面性」なのである。(寺沢訳書1、406頁)

 03、あとの「注解」で述べられているように、ヘーゲルが「外的反省」とよぶのは、通常「反省」と呼ばれているもののことである。外的反省はまず、或る事実(直接態)を与えられたものとして前提する。そして何らかの一般的規定(原理・ 法則など)をみいだし、前提された事実をこの一般的規定によって媒介されたものとして示す。これが、通常「反省す る」といわれている運動のなすことである。このような反省によってもたらされる一般的規定は、前提されている事実に とって外的な規定である。つまりその事実にとって本来は無関係な規定が反省によって外からもたらされるのであるから、 このような反省をへーゲルは「外的反省」とよぶのである。

 例えば、「エジプトで古代文明が発生した」という事実を前提としてうけいれ、「古代文明は定住農業とともにはじまる、 そして定住農業は大河の流域で最初に成立する」という一般的規定にもとづいて、「エジプトにはナイル河がある、だか らここで定住農業が成立し、古代文明が発生した」と論ずるならば、これは前提された事実を前記の一般規定によって媒 介されたものとして示したのであり、「エジプトで古代文明が発生した」という事実について反省したのである。

 だがしかし、同じ事実は、他の一般的規定、例えば青銅器の使用によって媒介することもできるだろう。ことなった一般的 規定によって媒介されうるということは、これらの一般的規定が前提されている事実にとって外的な規定にすぎないとい うことの証拠である。こうして、このような反省は「外的反省」である。

 また、外的反省がもちいる一般的規定は、「一般的」とはいっても、論理的規定ではなく、経験的知識にもとづく実在 的規定である。だから「外的反省」はまた「実在的反省」ともいわれる。外的反省が経験的知識を必要とするということ がまた、外的反省が一義的に決定されない(同じ事実がことなった一般的規定によって媒介されうる)ということの一つ の理由でもある。(寺沢訳書2、294頁)

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反省


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NHK職員の待遇

2014年04月10日 | ア行
 NHK職員の待遇は厚く、「放送界のキャリア官僚」とか「電波貴族」とも称される。給与水準のみならず各種手当や健康保険、取材現場での特権もある。彼らが安倍政権にすり寄るのは、この厚遇を守りたいからではないか。

 昨年4月、NHKは5年かけて職員の給与を10%削減することを決定した。

 この給与カットに先立って当時の松本正之会長は国会審議で「NHK職員の給与というのは、やはり受信料で成り立つ公共放送であるということで、社会一般の水準とか公務員給与の状況等も熟慮して決める、考えていくべきものだというふうに思っております」(2012年3月22日、衆院総務委員会)と答弁した。

 だが、10%カットしたところで「社会一般の水準」とはかけ離れている。2013年度予算から試算した職員の平均年収は約1177万円だ(給与支出総額を職員数で割った数字)。

 平均的な国家公務員の年収約600万円(一般的な事務職である行政職俸給表「一」職員の平均、2013年度)を大幅に上回り、仮に10%削減されても民間サラリーマンの平均年収408万円(国税庁「民間給与実態統計調査」、2012年)の2倍以上ある。

 しかも10%削減は基本給や賞与について適用されるだけで各種手当はそのままだ。元NHK経理担当職員の立花孝志氏はこう語る。

「NHK職員の厚遇を支えるのは各種手当です。たとえば扶養家族が3人いれば世帯給が月額3万7500円、子供2人が23歳未満ならさらに1万7500円が支給されます。

 住宅補助手当は首都圏で扶養家族がいれば月5万円、地方だと2万円になりますが単身赴任であれば毎月3万3000円の単身赴任手当があります。

 その他にも物価の高い都市部勤務の職員のための地域間調整手当、北海道の職員には寒冷地手当もあるし、海外赴任の職員には国内家族手当が毎月10万〜15万円、現地に連れて行った子供一人につき教育手当7万円など挙げていけばきりがありません。

 残業代の割増率は30%、休日出勤は40%で一般企業よりも高い(法定は25%と35%)」

 ちなみに、立花氏のNHK職員時代の給与明細(2004年)を公開しよう。高卒、入局19年目(37歳)の時のもので年収は1100万円超あった。

 明細には<クリエイティブ>手当がついていたが、これは全一般職に一律で年2回、各4万2000円支給されていた。厚遇批判を受け2013年度より廃止された。

(niftyニュース、2014年04月07日)

    関連項目

NHK職員給与
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「関口ラジオドイツ語講座」のテキストについて

2014年04月09日 | 読者へ
「関口ラジオドイツ語講座」のテキストについて、或る読者から下記のようなお手紙と共にコピーをいただきました。ありがとうございます。

 「絶版書誌抄録」を初めとして、特にネットへの掲載等については読者のSさんのご支援を受けています。今回も、早速その仕事をしてくださいました。ありがとうございます。

 ご提供いただいたものは既に「絶版書誌抄録」に載っています。自由にご利用くださって、関口ドイツ文法を学んでください。

 このようなご協力をいただける事を心から感謝しています。今後もよろしく。

2014年4月9日
                       牧野 紀之

          

初めてお便りさせていただきます。

 貴サイトの「関口ラジオ・ドイツ語講座」を利用させていただきながら、ドイツ語の勉強ををしているIという者です。

 1957年といえば関口の死の前年のはず、そういえばしきりに咳払いをしている回もあります。しかし、全体的に軽妙な中、変哲も無い例文を十回位も一心に繰り返している所など、思わず襟を正さずにはおられません。

 ドイツ語の習得は長年の夢でしたが、貴サイトのお陰で少し近づけそうです。あの関口存男の文字通り謦咳に接することができるとは、正しく夢です。無償のご尽力、本当にありがとうございます。

 さて、その講座のテキストについてなのですが、貴サイトの「関口ラジオドイツ語講座のテキスト」および「絶版書誌抄録」中の「テキスト」を大いに利用させていただいてきました。ただ残念なことに前者は原テキストの全文ではありませんし、後者は〔1957年の〕4月から8月号までにとどまっています。

 そこで、原テキスト全体がどこかにないものかと探したところ、9月以降〔1958年3月までの〕分について今般コピーを入手することができました。貴サイトを利用してドイツ語を学ぼうとする他の初心者の方にあるいは役立つかもしれないと思い、送らせていただく次第です。

 サイトに載せるには又牧野先生にご負担をおかけすることになり、恐縮の極みですが、機会があればそれをご検討くだされば幸いです。

 あらためまして有用な資料のご提供、心よりお礼申し上げます。

3月30日
                          I・Y

                                      
     関連サイト

「絶版書誌抄録」
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ライプニッツ

2014年04月04日 | ラ行
 .薀ぅ廛縫奪弔蓮悒皀淵貧澄戮梁14節で、「一(l'unité)すなわち単純な実体(la substance simple)の中に多(une multitude)を含みかつこれを表現する推移的な状態は、いわゆる表象(la perception)に他ならない。これは意識的表象(l'aperception)もしくは意識(la conscience)と区別すべきである」と述べている。

 「単純な」(simple)といわれているのは「合成された」(composé)に対立する意味であって、「モナドとは単純な実体にほかならない」(『モナド論』第一節)といわれているように「単純な実体」とは「モナド」のことである。またそれが「一」とも言いかえられていることは、ヘーゲルの用語「一」とのあいだに用語上の連関さえあるように思われ、興味をひく点である。そして『デポスにあてた一七〇六年七月十一日の手紙』に「表象とは一の中における多の表出に他ならない」といっている(河野与一訳『単子諭』、岩波文庫版、二二三ページによる)ように、表象とは一のなかに多を含む・または表現するモナドの作用であって、意識されるものをも意識されないものをも含んでいる。したがってヘーゲルがここで「観念性という意味より以上の意味をもっていない」といっているのは、正確な解釈である。

 ◆屮皀淵匹砲呂修譴鯆未辰討發里入ったり出たりすることができるような窓がない」(『モナド論』第七節)。「しかし単純な実体の中にあるのは或るモナドが他のモナドに及ぼす観念的影響(une influence ideale)だけであって、この影響も神の仲介によるのでなければその効果をもつことができない。すなわち神がもっている観念の中で或るモナドが『神は万物の始め以来他のもろもろのモナドを支配してゆくにあたってそのモナドをもかえりみる』ということを正当に要求できるというにとどまる。

 実際に、創造されたモナドは他の創造されたモナドの内部に物理的影響(une influence physique)を及ぼすことができないのであるから、或るモナドが他のモナドと依存関係をもつにはこの仕方による他ないのである」(同上書、第五一節)。──

 この二つの引用文をよめばわかるように、ここでヘーゲルが否定しているのは、モナド相互間の物理的影響である。神がもっている観念を媒介にしてモナド相互間に依存関係が存在するということは、ここでいっているように「モナドそのものには何のかかわりをももたない」ことなのである。(寺沢1、395頁)
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「文法」のサポート、詳細索引・比喩

2014年04月03日 | 「関口ドイツ文法」のサポート
266──比喩詞を基礎とする換言的規定

544──比喩の成句

608──換称代名詞と比喩

1165──比喩的援用のwie

1391──誇張(性質の誇張、量の誇張)
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「文法」のサポート、詳細索引・was

2014年04月02日 | 読者へ
110──wasに導かれる主文
366──4格の量詞を取る動詞とwas
416──文意を受けるwasに代わるwie es, wie dies
448──etwasの通俗形としてのwas

460──疑問詞のwasを受ける関係代名詞はdas
465──文意を受けるwasに代わるwelcher句
466──属詞としての先行詞を受けるwas

480──不定関係代名詞was(総論)
484──文意を受けるwas

534──疑問代名詞wasを規定する形容詞
1180──4格の量詞を取る動詞とwas

1232──疑問代名詞was
1233──Wer sind Sie?とWas sind Sie?

1248──付加疑問文を作るwas
1424──断り書きを作るwas

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「文法」のサポート、冠詞問題への重要な但し書き、715頁

2014年03月30日 | 関口独和辞典抄
★ 重要な但し書き、715頁

 1. , und selbst in einer Zeit, in welcher vielleicht mehr als jemals früher von "Arbeit" und "Arbeiten" gesprochen wird, .. (労働術1頁)〔今までになく頻繁に「労働」とか「働く」という言葉が使われるようになったこの現代において〕

 説明・「現代」「当今の時節」という「特定の時代」を指しているにもかかわらずわざわざ不定冠詞を用いた点に注意せよ。関係分や二格句で特定〔関口はここで「形容」と言っていますが、牧野が訂正〕される名詞にも、その「性質」に特に注意を向けさせるために、わざわざ不定冠詞を用いることが多い。例・Ich kann es nicht übers Herz bringen, aus einem Haus zu ziehen, das ich 20 Jahre lang bewohnt habe.(二十年間も住み慣れたこの家から出てゆく気にはなれない)(労働術27頁)

 2. .. noch im neunzehnten Jahrhundert haben die Bürger einer Republik, ... den Satz verfochten, dass gewisse Menschenrassen zur Arbeit für andere auf ewige Zeiten hinaus erheblich verurteilt seien.(労働術3頁)〔十九世紀になっても共和国である我が国の市民の中には「人間の中には永遠に他者のために働くように定められている人種がいる」という説を擁護した者がいたのである)

 説明・強調せんとする性格が名詞そのものによって既に十分暗示されている場合には、関係文や二格規定は必ずしも必要としない。

 感想・要するに、不定冠詞が付いているという事は「性質の強調」ではあるのですが、だからといって、「その性質を持った事物一般」を指しているとは限らない。文脈から分かる「特定のもの」を指している場合もある、ということです。逆に言えば、「特定のもの」を念頭において言う場合でも定冠詞を使うとは限らず、不定冠詞を使う場合もある、ということです。冠詞の問題はかくも深いのです。

 それにしても、こういう重要な但し書きを文法書の中に書かないで、読本の注解の中に書いて済ますという態度はいただけません。この事は「話法の助動詞の省略」の場合でも同じで、それは911頁の「感想」に書きました。
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