マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

うなぎいも

2016年02月06日 | ア行

浜松産のサツマイモ「うなぎいも」が出世街道を快走中だ。もとは造園会社の農業参入で生まれた地域ブランド。外観の不ぞろいさから菓子材料などに使われてきたが、ファンの声を背に、野菜としての出荷も増え始めた。ブランド誕生から5年目を迎えて生産量は7倍弱に拡大。人気は海を越えるまで成長している。

 「土にうなぎの栄養分を加えて育てたサツマイモ」「ねっとり濃厚な昧は一度食べたら忘れられない」

 JR浜松駅から車で5分ほどの浜松市南区卸本町。雑貨や服飾の店が並ぶ一角にあるアンテナショップ「うなぎいも王国」入り口には、丸々太った自慢のサツマイモが、説明文を添えて山盛りに置かれていた。

 「知名度が上がり、『イモのままでほしい』という消費者の声が増えてきた。期待に応えられるよう、出荷を増やしています」。

 生産者でつくる組合で理事長を務める伊藤拓馬さん(37)は、菓子用の加工向け出荷から始まったうなぎいもの歴史を説明する。

 イモそのものはサツマイモの一品種「べにはるか」。人気の秘密は浜松らしさにこだわったブランド戦略で、捨てられるはずだったウナギの頭や骨を肥料にして栽培するのが特徴だ。

 誕生のきっかけは、伊藤さんが取締役を務める造園会社「コスモグリーン庭好」(浜松市南区安松町)が農業参入で得た苦い経験だった。刈った枝を肥料にする技術を生かして、2009年に南区の耕作放棄地で野菜栽培を始めた。ところが、病気になったり、虫がわいたり、結果はさんざん。トラクターや資材を買うために1千万円以上を投じており、形が不ぞろいでも、唯一、インターネット通販で売れたサツマイモにかけることを決めた。

 「ただのイモならばプロの農家と勝負にならない」と、ペースト状にしたイモでつくるプリンなど加工品に力を入れた。ウナギの頭や骨を肥料に使い始めたのも、消費者に選ばれるための工夫だ。2011年にキャラクターをつくって「うなぎいも」の名前で売り出した。生産者による加工販売を後押しする県の応援で商談会に出すと、菓子材料としての人気が急速に広がった。

 今では約20社が30種以上の「うなぎいも」認定商品をつくる。県西部農林事務所の山崎明さんは「独自のストーリーやキャラなど、売るためのこだわりが成功につながった。全国でも参考になる事例だ」という。

 組合は生産量を増やそうと2013年にできた。建設会社などの「異業種参入組」にも育てやすいようマニュアルを整え、収穫したイモは組合が買い取る。2015年には栽培面積が17haまで拡大。生産量は300トンほどになり、ブランドができた2011年と比べ、面積は6倍弱、生産量は7倍弱まで増えた。

 野菜で出荷した方がもうけは多いため、大きさや形といった基準を満たしたイモは買い取り価格を2倍にする。今では生産の4割弱が野菜として出荷される。

 昨秋からは県の勧めで台湾への輸出も始めた。現地の百貨店で売り出すと、新たなチャンスが見つかった。「もっと小さいものが欲しい」との反応だ。

 これまで100g未満は「商品にならない」と畑に捨てていたが、台湾では50g以上なら売れるとわかった。来季は初年度のl・6倍の10トンを輸出する計画だ。

 地域の子ども向けのイモ堀り体験など、ブランドづくりのあの手この事は、まだまだ続く。「観光や教育ともつながりを持ち、本物のウナギと並ぶ浜松の名物に育てたい」と伊藤さんは夢を膨らませている。
(朝日、2016年02月03日。山本友弘)

感想

 トピア浜松農協は農協に口座を持っている人の誕生日に菓子折をプレゼントしています。先日受け取ったものは「愛知県豊田市」の会社の小倉ようかんでした。私は、「なぜうなぎいもを使ったお菓子にしないのか」と抗議しておきました。
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浜松市の巨大防潮堤についての行政と市民との話し合い

2016年01月29日 | ハ行

 昨年の12月29日の本ブログで、この巨大防潮堤の完成が2年遅れることになったとの報道をお伝えしました。これをきっかけにしてか、はっきりした事は知りませんが、市民の側(主として縄文楽校)が行政側に質問状を送ったようです。

 それに対する行政側の回答が本年1月13日、浜松市にある静岡県西部総合庁舎の702号室で、「話し合い」という形で行われました。縄文楽校の一員としてそれを知ったので、興味を持って同席してきました。出席者は、行政側が6名くらい、市民側が遅れてきた人を含めて8名くらいでした。

 会は、市民の側の質問に対して行政側が逐条的に答えるという形で進みました。全体として問題なく進んだのですが、工事の実情を知らない私には正確な事は分らないのですが、どこかの堤で3メートルの幅のある個所に「1メートル幅だけ広葉樹を植えさせて欲しい」という市民の要望に対して、行政は「それは出来ない。ここはクロマツだけと既に決まっている」と回答しましたので、もめました。

 長いやりとりになり、私と妻は途中で退席せざるをえなかったのですが、行政の答えに対して、日頃は温厚なSさんが条理を尽くして「広葉樹を植えた方が防潮という目的に適うし、広葉樹を植える事は可能だ」と主張して譲らなかった芯の強さに感心しました。

 後で聞くと、結局、行政側は「持ち帰って再検討する」という事になったようです。この防潮堤事業は「市民と協力して進める」という事になっているために、無下に市民の主張を無視することはしにくいそうです。

 そもそも縄文楽校が行政とこれほど連絡を取りながら進めているとは知りませんでした。私が入会したのは2014年の3月ですから、まだ2年も経っておらず、事情にうといのです。

 「市民の意見を聞くようなそぶりをしながら、実際には無視する」という例は沢山経験していますが、この件は今後も注意して行く事にします。なにしろ「気付かない」川勝知事と、「気付かない」鈴木康友市長ですから、どうなることでしょうか。東北では「慌てて巨大防潮堤に賛成して失敗した」という反省が出てきているそうです。我が浜松市の防潮堤も既にかなり出来てきているのですが、我々の縄文楽校への賛同者も増えてきているようです。途中で踏みとどまる英断が下される事があるのでしょうか。
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活動報告、2016年1月12日

2016年01月12日 | カ行

 このところブログの更新の頻度が落ちています。最近では久しぶりに少し大き目の仕事をしているために、余力がないからです。

 前回の10月15日付けの活動報告で報告しました仕事がまだ終わっていません。要するに『小論理学』(未知谷版)のための「付録」をこの訳書に相応しいものにしようと準備をしているということでした。具体的には金子武蔵の本を読んで問題点を確認した上で、許萬元の処女論文を検討している、ということでした。

論文「評注・『ヘーゲルにおける概念的把握の論理』」は原文の3倍くらいのものに成りました。それ程多くの批評を書いたということです。
代案として出す論文は現在の案では「概念的理解の環境と構造」としてありますが、これはほぼ書いてあるのですが、終章だけ残っています。丸山圭三郎のホモ・ロクエンス仮説をしっかり調べてみようと考えたからです。

 きっかけは丸山の本で次の句を読んだことです。「サルトルに限らず、意識の明証性を重んずる西欧知の表街道の学者たちは、まことに長い間『意識以前』を学問の対象とすることを拒否していた。その理由の一つは、『主体の意識をのがれるものを対象化することは不可能である』という考えが支配的であったことに見出される。ギリシア古典期からヘーゲルに至る西欧形而上学の思考形式は、一貫してこの『対象化思考様式』であったのだから、意識野に現前しない『無意識』が学問の領域から閉め出されたのも当然と言わねばならないだろう。

 これに対してフロイトがとった戦略は、そのままでは対象化不可能と思われていた『無意識』を、一つには神経症者の臨床分析から、二つには健常者の失錯行為や夢の解釈によってアプローチしようとするものであった」(『言葉・狂気・エロス』講談社現代新書83頁)。

 これを読んで私自身も「表街道」しか知らない事を認めました。前回の活動報告でも触れました「絶対知にまで行かないで途中で止ってしまう意識をどう考えるか」の問題に繋がるかもしれない、と考えたのです。

 そこで、取りあえず丸山のものを少しずつ読んでいます。例によって「牛歩」です。現時点ではこう考えています。

 丸山は根本的には正しいことを言っていると思いますが、全体として、そのソシュール研究の場合のように細かく、厳密な所と、雑な所とがある事に気付きました。そのために誤解しているのに、自分では気付いていない大事な点もあると思います。

 何よりも、丸山は我々とは逆で、「表街道」をしっかり学ばずに、「裏街道」にばかり関心が向っているために、「表街道」に属する論文の書き方では感心しない点があります。そこで、丸山の考えを体系的に整理し直した上で疑問点については対案を出そうと思っています。そういう訳で、まだまだ時間が掛かりそうです。

 ついでに別の事を書いておきます。12月06日だったと思いますが、本ブログで許萬元の授業を受けたことのある人に、どういう授業だったかを教えて欲しいと要望しました。しかし、今に至るまで何の連絡も戴いておりません。読者の中には許萬元の授業かゼミに出たことのある人はいないのでしょうか。

 よろしくお願いします。牧野紀之
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政策提言のシンクタンク

2015年12月31日 | サ行

1、政策提言の新団体

SEALDs(シールズ)メンバーら安全保障関連法に反対する学生団体「SEALDs」のメンバー奥田愛基さん(23)らが学者や弁護士とともに、政党への政策提言などを行う新団体「ReDEMOS(リデモス)」を設立し、14日に参院議員会館で記者会見した。「国会前抗議を原点に、日本の民主主義を問い直す場をつくる」という。

 リデモスは「DEMOS(民衆)への応答」との意味で命名。市民のためのシンクタンクと位置づけ、安保法制など政治課題に関する情報発信や、政党や市民への政策提言をメールマガジンなどを通じて行う。

 代表理事に奥田さん、理事には「安全保障関連法に反対する学者の会」でも活動する上智大の中野晃一教授、水上貴央弁護士の2人が就任。学生が研究員になり、テーマに応じて専門家や弁護士と連携していく。
     (朝日、2015年12月15日。市川美亜子)

2、学者40人、民主へ政策提言へ

 民主党への政策提言を目的に、人文社会系の学者約40人が研究会「リベラル懇話会」を設立し、15日に記者会見した。同党の議員らとの勉強会を経て政策案をまとめ、来年1月末ごろまでに同党に意見書を出す。メンバーは稲葉振一郎・明治学院大教授、北田暁大・東大教授ら。「民主党への押しかけシンクタンク」と位置づけ、少子化や雇用、歴史認識などの分科会別に同党議員と議論し、政策をまとめる。
(朝日、2015年12月16日)

3、市民連合

 安全保障関連法に反対して国会前で抗議してきた学生団体「SEALDS(シールズ)」などの5団体が12月20日、来年の参院選に向けて野党統一候補を支援する「市民連合」を設立し、東京都内で記者会見した。来年4月の衆院北海道5区補選でも野党候補を応援するという。

 設立されたのは、「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」。「SEALDs」 「学者の会」「ママの会」など5団体の有志が中心。ほかの団体にも参加を呼びかける。

 全国32の1人区で候補者を絞り込むよう野党に働きかける。安保法の廃止や集団的自衛権行使容認の閣議決定の撤回といった基本方針に賛同する候補者を推薦し、選挙応援などをする。独自候補は擁立しない。

 会見に出席した山口二郎・法政大教授は「政党同士の話し合いによる共闘が難しい現実を見て、発足に至った。自民党政治への対抗軸をつくり、市民に働きかけていきたい」と訴えた。

 「SEALDs」メンバーで筑波大院生の諏訪原健さん(23)は「市民がリーダーシップを発揮して自分たちで社会を動かしていく。民主主義を取り戻すということだ」と話した。
 (朝日、2015年12月21日)

4、牧野の感想

1の記事を見た時、「動き出したな」と思いました。同時に、「これはスタートだ。どこまで行くかな」と注視する事にしました。3がその現実化でしょう。まあ、順調な一歩でしょう。「政策提言」や「選挙の応援」ではまだまだです。次にどういう形を採るか、興味深く見守ります。

2は期待出来ません。民主党にも、いやかつての社会党にもこういう人達が付いていたと思います。坂野潤治などです。「自分はやらないけれど、応援はする」という学者です。


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浜松市沿岸の防潮堤

2015年12月29日 | ハ行

県整備浜松市沿岸の防潮堤
本体完成は19年度、2年遅れ

 静岡県が浜松市の沿岸域で整備している防潮堤の本体部分の完成が、当初の予定より2年遅い2019年度にずれ込む見通しとなった。12月7日に同市南区の市防潮堤資料室で開かれた防潮堤整備推進協議会で、県が明らかにした。

 出席した県浜松土木事務所の説明によると、地盤の改良や保安林の伐採に想定以上の日数がかかっているためだという。

 一方、同事務所は工法の工夫で費用を圧縮し、堤本体の整備は一条工務店グループから寄付を受けた300億円で賄うことが可能になったと説明した。具体的には…蕕涼婆未鬟好螢牴臭▲灰鵐リートと山土を混ぜる「CSG材」に3割ほど現地の砂を混ぜるB召旅事現場で出る残土を無料で確保する、などの措置を取るという。

 ただし、堤に付帯して設ける安全柵や堤に上がる通路、さらにサイクリング道路のように平時に市民が活用する設備の費用は含まれていない。県は、企業や市民の寄付を積み立てている浜松市の「津波対策事業基金」を活用すべく、市と協議するという。

 県は12年度、防潮堤整備について、一条工務店や浜松市と3者基本合意を締結。浜松市は市費で山土の確保と運搬をし、県が同社の寄付を元に防潮堤を造ることにした。13年度から試験施工し、17年度完成を目指していた。
 (朝日、2015年12月8日)

感想・自然に逆らって力で津波を押さえようとするからこうなるのだと思います。まあ、お手並み拝見としましょう。我々は我々の道を行きます。
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詳細索引・英独仏の比較

2015年12月17日 | 「関口ドイツ文法」のサポート

166──同語反復文での英独仏

175──「○○も○○だ」での英独仏

180──「それは○○のせいだよ」

580──序数詞と英独仏

697──冠詞用法での比較(現在はこの項目はありません。第2版に載せる予定)

742──時制の一致・不一致

1042──間接話法での場所表現

1061──評辞+dass文で評辞を省くか間投詞で評辞に替えた場合

1321──動詞の元来の意味での受動相

1388──ist und bleibt

1413──不定冠詞+抽象名詞で評価を表す

1451──目的語の繰り返し

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「許萬元の思い出」をまとめたい

2015年12月06日 | カ行

 インターネットで「許萬元(我々は当時「キョマンゲン」と言っていましたが、今では「ホ・マンウォン」と原語で言うらしい)」と入れて検索して見ましたら、彼についての思い出的な文章として、以下の「参考」に引きました2つが分かりました。

 私の一番知りたいことは立命館大学での「哲学概論」の授業がどのようなものであったかと大学院での「哲学演習」(東洋大学でのそれでもいいです)がどのようなものであったか、です。この2点及びそれ以外の事でも、ともかく許萬元についての「体験」を持っていらっしゃる方は教えてくださいませんか。お願いします。

    2015年12月06日、牧野紀之

 参考1・最近、ネットで許萬元(ホ・マンウォン)氏が、すでに2005年に逝去されていたことを知った。ヘーゲル研究の第一人者であったと思う。私が20代の時(1977年頃)、東京の労働学校で「弁証法」の講座(12回)があり、その講師が許萬元氏だった。弁証法の論理や、ヘーゲルの著作をわかりやすく解説する許萬元氏の講義を、夢中になって聞いていた。すでに主著である、「ヘーゲル弁証法の本質」(弁証法の理論 上巻)、「認識論としての弁証法」(弁証法の理論 下巻)、「ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理」を出されていた。講義の後、駅へ向かう道を歩きながら、許萬元氏に「次の著作は何ですか」と聞いてみた。氏の答えは「資本論の論理」を考えているということだった。私は、「資本論の論理」が出版されることを、心待ちしていた。残念ながら、それは叶わなかった。ヘーゲルに対する深い理解と、それを労働者にやさしく教えようとした許萬元氏に感謝を捧げたい。(多田)(静岡県労働者学習協会のブログ、2013年09月20日)

 感想・「1977年頃」は記憶違いでしょう。『認識論としての弁証法』の出たのは1978年で、立命館の教授になったのが1983年ですから、この両方の間ということでしょう。

 参考2・許萬元先生の思い出

服 部 健 二

 経営学部教授を経て文学部に移籍され、哲学専攻に属され、定年後特任教授として勤務されていた許萬元フォーマンウォン先生が2005年8月25日に逝去された。特任教授として5年間勤められた後も、非常勤講師として2年間主に哲学概論の講義を担当してこられたから、享年72歳であった。体調が良いときは、大学院の研究指導にも出席され、時にヘーゲル理解について鋭い質問や助言をなされるだけでなく、研究指導が終わった後の懇親会には、ご自分は食べられないので失礼するといいながら、いつも飲食代の足しにとカンパされていた。その時の先生の人懐っこい笑顔が忘れられない。

 先生は、1933年朝鮮済州道のお生まれである。東京の朝鮮人中高校在学中、校長先生に勧められ、中央大学文学部で哲学を学び、1959年4月に東京都立大学人文科学研究科に進学された。そこで『弁証法的論理学試論』(大月書店、1957年)などの著作がある寺沢恒信教授の指導を受けられ、寺沢流の解釈とは異なるヘーゲル論理学の唯物論的読解を志向された。その成果が博士課程修了の年に出版された学位論文『ヘーゲルにおける現実性と概念把握の論理』(大月書店、1968年)であった。中央大学初の哲学による文学博士であったと聞く。そして助手になられたのだが、それは在日朝鮮人として初めての東京都職員になられたことを意味する。

 私が許先生のお名前とこの本を知ったのは1972年のことであったと思う。大学院での梯明秀教授の経済哲学ゼミに、細見英先生に報告者として参加していただいたことがある。細見先生は、京都大学経済学部卒業後、かつて立命にあった大学院特別研究生制度によって学費免除と研究費毎月1万円を支給される奨学生として、立命館大学大学院経済学研究科に入学され、その後ひたすら梯経済哲学を吸収され、梯教授の一番弟子と目されていた方である。立命館の大学院経済学研究科を出られ、立命の助手から助教授まで勤められた後、1972年に関大経済学部に移られたのだが、ちょうど『経済学史学会年報』にヘーゲル研究動向の論文(「新版(ヘーゲル研究の動向)──生誕200年をふりかえつて」)を発表されていたので、その論文のお話をしてもらったときのことである。議論が日本の研究動向について及んだとき、許先生のこの学位論文が話題となった。「鳶が鷹を産んだ」という細見先生の評に、梯教授が賛意を示され寺沢批判をされたことと、細見先生が「主体思想」の国の人らしいヘーゲル解釈だといわれたことが、今でも鮮やかに記憶に残っている。

 当時、というより戦後のマルクス主義哲学者は、レーニンの指摘に従ってヘーゲル論理学の唯物論的読解をしようとしており、寺沢恒信氏の研究もその最初の試みであったといえるが、今読んでみてもどこか図式的でぎこちなさを禁じえない。梯ゼミで話題になったあと、すぐに許先生の著作を買って読んでみると、梯経済哲学に親しんだ目からすると意外と共感するところがあった。対象科学としての経済学の諸範疇を主体としての人間の対象的本質を解明する諸範疇として読み直すという経済哲学の方法に、ヘーゲル論理学の諸範疇を主体的実践的な認識論として読もうとする許先生の姿勢が重なってみえたのである。もちろん許先生は弁証法を認識論にとどめることには反対なのだが。許先生は学位論文に続き、『ヘーゲル弁証法の本質』(1972年)、『認識論としての弁証法』(1978年)を世に問われ、1988年にはこの両著をまとめて『弁証法の理論』(創風社)の上下巻とされた。ヘーゲル論理学の理解をめぐって見田石介民らと論争を続けてこられたこともあって、上巻だけで一万部という哲学書としてはまれに見る売れ行きがあったという。

 許先生が立命館大学経営学部教授として赴任されたのが1983年、私が文学部助教授に採用されたのがそれに先立つ81年であった。一般教育担当者が専門に近い学部に所属することとなったために、先生は1993年に文学部に移籍された。私が学部主事のときであった。それから卒論指導などご一緒することもあって、あるとき梯ゼミでの先のエピソードを話し、かねてから思っていたことを聞いたことがある。「先生はあの著作を書かれたとき、梯先生の思想から大きな影響を受けておられたのではないですか?」「そうです、そうです。何回も読みました」という答えであった。ヘーゲル弁証法の思弁的契機を重視され、悟性的契機の強調を批判されておられると感じていただけに、私にはその答えで十分であった。

 許先生はヘーゲル弁証法の唯物論的解釈にあたって、これまでの解釈がヘーゲルのここは観念論的だからだめ、ここは唯物論的だから良いといった切捨て主義をとられなかったし、またヘーゲルの観念論を唯物論に転倒させれば、弁証法が手にはいるという単純な弁証法理解を批判され、弁証法の諸契機として総体性と内在性と歴史性に着目されそれらがヘーゲルとマルクスでどうことなって組み合わされているのかを分析されてきたと思う。そうした研究姿勢は、ヘーゲルについての現在主流の、資料批判を踏まえた文献史的研究のスタイルとは異なるし、マルクス主義からマルクスやエンゲルスを切り離す現在の研究手法とも異なる。しかしながら、許先生の弁証法研究には、やはり伝統的なマルクス主義の教科書的なヘーゲル理解、マルクス理解とは鋭く一線を画するところがあって、ヘーゲル・マルクス問題を自分の問題として格闘した一人のデンカーの姿が示されているといえよう。

 最後に私事になるが、私が梯経済哲学の手法を援用して、経済学の対象的諸範疇を、主体の対象的本質を示す諸範疇としてだけでなく、社会的自然に転化した自然の姿と、人間の自然に対する関わりを示す諸範疇を読み取ろうとしたとき、許先生が暖かく見守ってくださったこともあった。また、船山信一先生の『日本哲学者の弁証法』をこぶし書房から復刻した際に、私が書いた解説「船山信一の人と思想」に意外と感心してくださったこともあった。後者の件は、許先生が戦前の唯物論におけるいくつかの論争の当事者であった船山信一の仕事を高く評価しておられたからであろうと思う。前者の件については、私としては許先生にも議論を展開してほしかった点である。『認識論としての弁証法』がその表題にもかかわらず、その背後に存在としての弁証法を秘めていると思うだけに、梯的な全自然史の思想をどう評価するのか、ぜひ聞いてみたいところだからである。今となっては忙しさにかまけて議論を詰めてしなかったことが悔やまれる。ヘーゲルについて論じる機会があれば、そのときにでも、一字一句をおろそかにしない許先生のヘーゲル解釈と哲学的議論を戦わしてみたい。(はっとり けんじ 立命館大学文学部教授)

 感想・こういう文章が雑誌『立命館哲学』の第17集(2006年)に出ていることを知ったので、1部送っていただきました。


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緑を破壊する「音楽のまち」浜松市

2015年11月19日 | ハ行

11月10日の朝日新聞静岡版に次の記事が載っていました。

1、浜松「森岡の家」問題。市の解体に反発続く

静岡銀行頭取などの実業家が輩出した平野家が1993年に旧浜北市に寄贈した浜松市の施設「森岡の家」(浜北区貴布祢(きぶね))の解体工事が進んでいる。市は隣接する文化センターの駐車場にする方針だが、保存を求める団体が訴訟を起こすなど反発も続いている。

 森岡の家は遠州鉄道浜北駅から徒歩数分。約4200平方メートルの敷地に家屋や土蔵、長屋門、庭園などがあり、市の浜北文化センターに隣接する。

 「耐震・安全に難」

 市が解体を決めたのは、「座敷」と呼ばれた棟の耐震性がきっかけだ。「座敷」は1889(明治22年、平野家第5代当主で実業家の平野又十郎氏が建てて客間として使っていたもの。市は有料貸し出しや施設見学の受け入れをしてきたが、2008年に「倒壊の危険がある」との耐震調査結果が出た。

 市は見学だけに切り替えたが、見学者は年間300人程度。市は施設の廃止方針を定め、昨年1月に諮問機関「浜北区協議会」の答申を、同3月には市議会の議決を取り付けた。

 市浜北区まちづくり推進課の藤本正明課長は「わずかな見学者のために、年に170万円の維持管理費をかけられない」と廃止理由を話す。「座敷」は市指定文化財になるレベルではなかったという。敷地内の松やイチョウの大木についても「専門家によると古くても樹齢150年程度。むしろマツクイムシの被害や倒木の危険性があり、落ち葉で側溝が詰まって周辺住民からの苦情が多い」と主張。今年1月には地元の連合自治会から樹木伐採や整地を求める要望書が出された。

 跡地は隣接する市浜北文化センターの駐車場にする予定だ。文化センターは現在、310台しか収容できないうえ、民間から借りている95台分の土地の返却を求められているという。

「市民の憩いの場」

 一方、保存を求めている「『森岡の家』市民の会」のメンバーは「文化財的な価値だけでなく市民の憩いの場になっている」として市と協議を重ねたが折り合わず、7月に解体のための公金の支出差し止めなどを求める住民監査請求をした。その際、連合自治会の要望に対する反論として、保存に賛同する地元住民の署名も提示。市民の会によると署名は994人分だ。

 市民の会は市監査委員の請求棄却ないしは却下を受け、9月16日に浜松市長を相手取り、支出差し止めを求める住民訴訟を静岡地裁に起こした。

 しかし市は、まだ口頭弁論も行われていない10月16日に解体工事に着手。座敷や門などは既に取り壊した。以前なら建設中止を求める仮処分を申し立てるケースもあったが、同課は「地方自治法の改正で、住民訴訟は民事保全法が規定する仮処分をすることができない」として問題はないと説明。「廃止と決めながら一年待った。議会が議決した以上、解体せざるを得ない。駐車場の整備で周辺の渋滞緩和もはかり、地域貢献につなげたい」と言う。

 一方、市民の会のメンバーは「法的には着工にあらがえないとしても、怒りを禁じ得ない。保存を求めてきた建物がなくなり、大変な喪失感を覚える」と話している。
 (朝日、静岡版。2015年11月10日。大島具視、大内悟史)

2、囲み記事。東郷和彦・京都産業大教授が朝日紙に寄稿

 反発の声を横目に解体工事が進むなか、県対外関係補佐官を務める東郷和彦・京都産業大教授(70)が、工事中止と施設保全を求めて本紙に寄稿した。元外交官の東郷氏は「森岡の家は日本が世界に誇る価値があり、世界的に注目を集める可能性がある」として残る庭園の一部保存を訴える。

 ──6月下旬のある日、県庁で新聞を見ていたら、「森岡の家解体手続きへ」という見出しが目に飛び込んできた。全く信じがたいことが目の前で起きていた。日本人が世界に誇れる、何百年の歴史を持つ森と、明治以来の日本文化の結晶だった家をもつ森岡の庭園をとりこわす。駐車場にするために。

 世界は今「グローバリゼーション」という恐ろしい時代に入っている。情報がネットを通じて瞬時に世界をかけめぐる。魅力のあるところに人が殺到する。どの国も自分の魅力を発信するために必死になっている。

 世界は自分にないものに魅力を感じる。日本に来る外国人は、日本にしかないものを求めて飛んでくる。7月上旬、森岡の庭園を見に行った。天にそびえる松の木や、樹齢100年を超える銀杏の巨木や、明治の文化力を示す平野又十郎氏の屋敷は、静岡がこの地に残した宝物だと感じた。それを所有者たる浜松市が自分で壊す !

 しかし、それでは嫌だという声が庭園周辺の住民の署名として集まっているではないか。あの森は鎮守の森として、窒息感のある都市化生活の癒やしだった。あの森は、浜北の地元植木職人にとっては、自分たちの仕事場の象徴であり、彼らは自発的管理を申し出ていたという。そして、この地の歴史の深さを発掘している郷土史家にとっては誇りだった。これこそ、日本の未来と子供たちに希望を残す、今の現場の声なのである。

 東京の外交団や外国人記者なら、誰ひとり理解できないだろう。オリンピックに来る外国人が関心をもてるツアーが組めるのに、その一番の「売り」を自分で壊すとは!

 1980年代、英国の日曜紙「オブザーバー」の日本特派員をしていたピーター・マクギル氏は署名サイト「Change.Org」に載った本件を知り、「浜松市は歴史遺産を保存し、この文化破壊を即刻中止すべきだ」との声を寄せてきた。

 にもかかわらず、「法律的に間違いはない。だから即刻壊す」という声が他ならぬ行政の責任者から発信され、裁判所はいったんこれを止めることすらできない。制度疲労を起こした今の日本の怠慢が、先祖と未来の子供たちに涙を流させている。

 まだ止められる所が残っている。この問題の実施に責任と権限を持つ人たちに、賢明さと勇気を伏してお願いしたいのである。(終わり)

 3、牧野の感想

 この記事を読んで早速11日に、妻と二人で現場を見に行ってきました。

 建物の解体は全部終わっていました。引き抜いた木の根などが積み上げられ、それをパワーシャベルか何かで片付けている所だと思われました。残っているのは太い大木が全部で10本あまりかな。それと相当痛んだ築地塀が20〜30メートルくらいかな。これだけでした。

 周りに見に来ている男性が一人いましたので、聞いてみました。毎週水曜日に来ているとの事でした。二週間くらい前から始まったとのことでした。現場の周囲に沿った道を一周してみました。その時家の前に出ていた主婦らしい人と話しましたら、「一週間くらい前からかな」と言っていました。

 市の言い分も分からないではないのですが、では本当はどうしたら好かったのかな、と考えて見ました。

 浜松市の一番悪い所は、「浜松を庭園都市にする」という大方針がないことだと思います。この大方針がない中で、せいぜい中方針でしかない「音楽のまち」を標榜しているので、おかしな事になるのだと思います。

 浜松市の第二に悪い所は、大きな問題が起きた場合に「本当の専門家」に相談しないことです。ニセの専門家では困ります。防潮堤の件もそうです。この件は誰よりも宮脇昭さんに相談するべきでしたのに、それを避けて、計画を立てました。そのため、相当貧弱になってしまっているとはいえ、まだ残っている中田島砂丘を一層台無しにするような巨大防潮堤を作ることになりました。折角の寄付の300億円を使って。我々は仕方ないので、その防潮堤の北側に宮脇理論による防潮林を作っています。しかし、我々に賛成してくれる人は着実に増えています。
 
 さて、この「森岡の家」の問題はどうするべきだったのでしょうか。都市計画に関わった実績のある建築家に頼んで、今問題になっているすべての条件をなるべく多く満足させる解決案を作ってもらうと好かったと思います。その時には文化センターの一部を作り直すくらいの事は認めても好いと思います。とにかく「本当の専門家」は素人では考えも着かない解決案を出してくれるものです。

 緑の破壊では、今、浜松市ではかつて防風林だった所が急速に民間の会社に売られて、コンクリートに変わっています。先日もその防風林と並んでいる道路を走ったのですが、本当にびっくりしました。我々「NPO法人・縄文楽校」が管理を任されている部分もほんの少しあるのですが、コンクリート・ジャングルの中の小さなオアシスに成ってしまいました。これの命も後何年持つのでしょうか。

 役所は「それは行政の所有地ではない」と言うでしょうが、防風林組合が金に困って売りに出す時には、「庭園都市・浜松を作る」という観点から、緑を残して解決する方法を考えるのが役所の仕事だと思います。
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世の中はなぜ好くならないのか(その3)

2015年11月15日 | ヤ行

 テレビを見ても、新聞を読んでも、あるいは又ラジオを聞いても、大成した人の若い頃の苦しかった修業の話が出てきます。私はそういう話を聞いたり読んだりするのが好きな方です。これを聞くと、先ず自分の過去の事を反省します、「自分はこれほど苦しい修業をしただろうか」と。同時に、「こういう立派な人が相当沢山いるのに、なぜ世の中は好くならないのだろうか」とも考えます。今では、この反省はいつも同じ結論にたどり着きます。「世の中を好くする力よりも、悪くする力の方が大きいからだ」と。

 「毒にも薬にもならない」という言葉があります。薬とは要するに上で言及したような立派な人たちです。毒とはマスメディアで報ぜられる犯罪者のような人たちでしょう。では「毒にも薬にもならない人」とはどういう人たちでしょうか。犯罪をしている訳ではないけれど、無気力に仕事をこなす人だと思います。人生という場で「消化試合」をしている人でしょう。しかるに、世にはこの最後の種類に分類される人が極めて多いのだと思います。この人たちの作り出す「ドローンとした雰囲気」が世の中を覆っているのだと思います。立派な行為も犯罪も結局この背景を前提しているのであって、この背景は、少なくとも現在の日本では、変える事が出来ない程大きな力になっているのだと思います。

 11月11日の朝日新聞静岡版を読んでいたら、県教委が全国学力調査の結果発表状況をまとめたのを機会に、「県内小中学生に『自ら進んで学ぶ力』が不足しているとして、親子向けに家庭学習の必要性を伝える動画を作った」と書いてありました。

 『自ら進んで学ぶ力』が不足しているのは、その不足の程度のひどさで生徒、親、平教師、校長、教育長で比較しますと、一番不足しているのは教育長と校長だと思います。教育長は週間活動報告のブログも出してなければ、県民と日頃から議論をする姿勢がどこにもありません。

校長も同じです。学校のホームページを開いて「校長」の欄を見てご覧なさい。式辞みたいなものを載せているだけです。世の中や学校で起きている問題を元にして、全教職員、全生徒と議論をしようという姿勢は全然ありません。ここを改善しなければ教育は好くならないという事自体を認識していないのだと思います。

 教育長や校長に比べれば親や生徒自身は結構、この『自ら進んで学ぶ力』の必要性を自覚していると思います。

 静岡県では教員の不祥事が相変わらず続いています。浜松市でのイジメ自殺事件はまだまだ解決にはほど遠い段階です。トップにやる気がないのですから、どうしようもありません。

     関連項目

世の中はなぜ好く成らないのか(その1)

世の中はなぜ好く成らないのか(その2)

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明善翁

2015年11月12日 | マ行

1月14日(金)は、東区天竜川町の妙恩寺で、第88回明善祭がありました。

 明善翁は、江戸時代の末期から明治時代にかけて、私たちの郷土遠州の発展の基礎を築きました。

 翁は天保3年(1832年)、この天竜川下流の遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)に生まれました。

 幼い頃から、たび重なる天竜川の水害による惨禍を身をもって体験した翁は、天竜川水系の治山治水と開発こそ、この遠州の人たちのしあわせを高める唯一の道であると確信し、この大事業を実行し、大正12年(1923年)、大きな業績を残して91歳の生涯を閉じました。

 天竜奥地の大美林と天竜川護岸、そして浜名・磐田両用水による豊かな遠州の大穀倉地帯など、今日に見るこの姿は、翁及び翁の意志によって設立された金原治山治水財団の功績と、関係市町村の努力に負うところが多大であります。

 ただ一筋に遠州を愛し、天竜川とともに生きた翁の尊い精神が、国営天竜川下流農業水利事業及び国営三方原用水事業にも引き継がれて、今も脈々と生き続けております。
 (浜松市天竜区二俣町鹿島。明善翁胸像の碑文より)

(山崎ブログ、20111年01月15日より)

(ブログ「浜松市政資料集」2011年01月18日より転載)



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