マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

スギナ茶を飲む

2017年03月20日 | サ行

 2月17日付けのブログで自家感作性皮膚炎に罹ったことを報告しました。何人かの方から助言をいただきました。ありがとうございます。お陰様で健康はゆっくりですが、着実に回復してきています。自己判断では既に80%くらい回復したかな、という所です。

 ① スギナ茶

その後私の知った事で大きなことは「スギナ茶」です。こういうものがある事自体初耳でした。ともかく偶然知りました。本を読んで、大いに関心を持ちました。まず通販で購入し、次いで近所のフリーマーケットと言いますか、農家の皆さんが開いている朝市でも売っている(しかも断然安い)という事を知りました。

 3月1日の朝から実行し始めています。まださしたる効果があるのかさえ実感できていませんが、もちろん悪い結果は出ていませんので、今後も続けるつもりです。

 しかし、困ったことが1つあります。通販で買ったものに書かれてある「飲み方」と本(書名を忘れた)に書いてある「飲み方」とが違うので、どちらの飲み方を採用しようか、迷っている事です。

 前者(A)にはこう書いてあります。──沸騰水500cc~1リットルに対してティーバック1袋(4g)を入れます。火を弱火にして3~5分間、煮出します。好みの濃さになったらティーバックを取り出す。

 後者(B)──2つまみか3つまみ(2~3g)の茶葉を水250ccで煮沸すること、2~3分です。朝食30分前に飲用してください。二番煎じは駄目です。又、煎じて溜めておくのも好くありません。

 今の所は、私としては次のようにしています。水400ccを沸騰させ、そこに茶葉4gを入れて4分間弱火で煎ずる。火を止めて、直ちに全部飲む、というものです。400ccの水は370ccくらいに減っていますので、私が250cc、妻が120ccくらいに分けて飲みます。

前回のブログではドクダミ酒について、「みなさまも知らないだろう」といった事を書きましたが、間違っていたようです。「スギナ酒」で検索すると、出てきました。200ccの焼酎に対してスギナの茶葉1gとありました。ドクダミ酒も載っていました。茶葉と酒との比率も同じでした。私のやり方は果樹酒の本に載っている他のものから推量したのですが、それは「水600ccに対して茶葉15g」というものでした。これだと上のやり方と比べて茶葉が2倍になるわけです。まあ、これで好いと思っています。ともかく今は続けてみて、効果を見ることにします。

 ② 胃潰瘍の薬をいったん服用中止にしました

 「今飲んでいるクスリをいったん止めてみたら? 今回の病気との相乗効果で却って悪い影響が出る場合もありますから」とのK医師の提案で、胃潰瘍の薬(タケプロン)を中止してみました。実際、タケプロンには世話になりました。これのおかげで40歳前後から20年以上苦しめられていた胃潰瘍による苦しみから、解放されたとは言えませんが、3日に1錠飲んでいれば大した苦しみもなく過ごせてきたのです。

それを止めても好いとは。「そういう考えもあるのか」とすぐに実行しました。その後、1回だけ、「又胃潰瘍が出たのかな」と感じた時、飲みました。それ以外は飲んでいませんが、胃潰瘍がぶり返しているとも思えません。望外の大成果です。

 ③ 『小論理学』の再校

これもゆっくりですが着実に進んでいます。3月19日現在で650頁まで来ています。最終頁が1153頁ですから、あと503頁ということになります。

慣れてきたとはいえ、今後もスピードアップは望めないでしょう。春になって仕事がし易くなるだろうとは思います。これは好条件です。しかし、「索引」のほかに「箴言集」と「例解集」を途中から加えましたので、それに「索引」自身の作り方を途中から変えましたので、いったん校正が終わっても、すぐには出版社に送り返さないで、もう一度自分で全部を見直そうかなとさえ考え始めています。この本はそれくらいするに値する、あるいはそれくらいしなければならない作品だと思っています。なにしろ「ヘーゲルを読んで哲学したい」と思っている読者に歓迎されることを目指しているのですから。

結論として、「連休の最終日までに終える」が最速で進んだ場合で、多分それより少し遅れるでしょう。後は編集者にご苦労をお願いするだけです。まあ、いずれ又報告しますが、病気を治し、再発を防ぐことが大前提です。これは私の仕事ですから、気を付けます。

3月20日、牧野紀之
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

リベラルアーツを考える

2017年03月05日 | ラ行

 次の記事がありました。

 1、最前線、米国の作文教育から学ぶ

朝日新聞編集委員 三浦俊幸(みうら・としあき)

 米国の大学といえば、日本ではハーバード、エールといった総合大学が有名だが、実は、学部教育に力を入れている全寮制の小規模のリベラルアーツカレッジに根強い人気がある。学部はそこを出て、大学院で総合大学というのも有力コースだ。今月、戦後多くの日本人留学生を米国に送り出したグルー・バンクロフト基金の視察団に同行した。

 リベラルアーツは「一般教養」と訳される。しかし、実態は、訳語から連想される雑多な科目の寄せ集めとはまったく違う。私自身、特派員の仕事や米国の大学での研究員生活を通じて、多少知っているつもりだったが、リベラルアーツ教育の濃密さは予想以上のものだった。

 訪問先はプリンストン(ニュージャージー州)、スワスモア(ペンシルベニア州)、カールトン(ミネソタ州)、ポモナ(カリフォルニア州)の4校。プリンストンは総合大学だが、学部教育に力を入れる。

 4校に共通するのは、思考の訓練の場としての作文教育である。単なる作文講座ではない。個々の学生の興味、専門に応じて細やかな指導が進められ、カリキュラム全体が書く力の養成で貫かれていた。

 ポモナ大で見た新入生向けの授業は、アニメ、小説などを通じて現代日本文化などを学ぶコースで、十数人単位のクラスは、教員との質疑でたえず発言を求められる。1学期に4本のリポートを書かせ、作文指導には、上級生とリサーチを助ける図書館スタッフも加わる。

 ポモナ大のオクストピー学長は、「いまトップ企業が求めるのは、コンピューター科学を専攻しながら、英文学を学ぶような人材です」という。人間の理解やコミュニケーション能力が基本なのだ。プリンストン大の幹部も「何を学ぶにせよ、卒業時には、いい文章を書けるようになっています」と請け負った。

 こうした大学はもちろん全米でも一握りである。米特有の寄付文化に支えられた巨額の基金のおかげで、寮費も含めて年間500万円以上かかる学費も、親の所得によっては、返還義務のない奨学金ですべてまかなわれる。その魅力にひかれて、全米、国外から学生が集まる。

 週60時間の学習を前提にした宿題の量は半端ではない。日本の大学を選ばず、東大、慶応、早稲田を中退して来た日本の学生に会ったが、勉強ざんまいの生活を送る彼らが語ったのは、一方通行になりがちな日本の授業への不満と、双方向性を重視する米国の教育の魅力だった。

 彼らのような学生は少数だが、年々増えている。自分の力だけを頼りに挑戦する姿はたのもしい。だが、日本の大学に魅力が乏しいことが一因であるとすれば、深刻だ。大学教育に何を求めるのか。米国の作文重視は、大きなヒントになる。
(朝日新聞に載ったのは2016年秋ですが、記載するのを忘れました)

 2、牧野の感想

 たしかにここで紹介されている教育は「かなり」立派なものだと思います。しかし、新聞記者ならば、もう少し広い視野から取材をして考えてほしいと思います。欠けている点を書きます。

 ① 「白熱教室」とか言われてNHKTVで大いに紹介されました授業についてはどう考えるのでしょうか。

 ② それを、あるいはそればかりNHKが大々的に宣伝したことをどう考えるのでしょうか。

 ③ 財政的な基礎として、アメリカでは「寄付」や「資産の運用」が大きな役割を果たしているそうですが、日本でそれが出来ないのはなぜなのでしょうか。

 ④ 私が数か国の方から聞いた知識では「学級通信」を出している教師のいるのは日本だけらしい(「学校新聞」なら出している所もあるらしい)、まして「教科通信」を出している教師は外国ではゼロらしいのをどう考えるのでしょうか。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

服役者には生きる力を養う訓練が必要

2017年02月25日 | ハ行

          山本 譲司

 この10年で、刑務所の中は本当に変わりました。「管理あって処遇なし」だったのが、教育や職業訓練が積極的に行われるようになり、隔世の感があります。

 一時は7万人を超えた受刑者は、今は約5万人です。新たな受刑者をみると、窃盗や薬物、詐欺(無銭飲食)、交通事犯で8割近くを占めます。殺人にかかわった人は未遂を含めて1%ほどです。

 犯罪認知件数が減る一方、再犯率は上がっています。高齢者と障害者の増加が目立ちます。何が起きているのか。社会の中に居場所のない人が、重罪ではない犯罪を繰り返しては、刑務所に「避難」している。刑務所というところは結局、社会の問題を映し出す鏡なのですね。

 このように刑務所が福祉の代替施設となっている状況を著書で指摘してきましたが、受刑者処遇法の施行以降、改善しました。各都道府県に地域生活定着支援センターが設置され、本来の福祉へとつなげていく回路もできました。刑務所には福祉職や心理職のスタッフが配置され、更生プログラムが組まれています。一挙手一投足を監視され自由を奪われることは、言われたことをするだけなので実は楽なのです。はじき出された社会という場を常に意諭しながら、自分で考える訓練をさせられる方がずっと厳しい。だから、刑務所の中に社会をつくる必要があります。

 私が運営にかかわっているPFIという半官半民方式の刑務所では、訓練生の責任感と自主性を培う処遇を行っています。ほかの刑務所でやっているような隊列行進はなく、受刑者はそれぞれ一人で歩きます。いつか戻る街には、行進している人などいませんから。資格の取得を促し、所内で就職面接もしています。

 受刑者にとっては厳しい、充実した処遇をしてこそ、納税者の一人として社会に復帰させることができます。単純作業だけではなく、教育や職業訓練を徹底させ、生きる力を少しでもつけさせることが大事なのです。

 今後の課題は、障害のある受刑者の処遇です。刑期を終えて社会に出ても、やっていけそうにない人たちがいます。そもそも裁判を受ける能力があったのか疑わしい人も見受けられます。付添人をつける少年事件の審判のように、第三者を加えた審理の進め方を検討してほしいです。

 刑務所の中と出口がこの10年で変わったとはいえ、入り口の刑法は明治以来の旧監獄法を前提にした懲役刑一辺倒のままです。罪に応じた償い方の選択肢を増やしていく必要があります。社会にいながら奉仕活動をする刑もその一例です。罪を犯した人たちをどう受け入れるか、一人ひとりの意識も問われています。   (聞き手・北郷美由紀)

(朝日、2016年09月03日)

 感想

 筆者(聞き書きのようですから「話し手」とでもいうべきか)は元衆議院議員だった人で、秘書の給与か何かの問題で懲役刑となったようです。元々志の高かったひとなのでしょう。服役中も模範的で、所に協力して働いたようです。

 この記事もたくさんのことを教えてくれます。ぜひこういう動きが伸びて行ってほしいものです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

敗戦後中国に残った日本兵

2017年02月24日 | ハ行

1、知られざる留用者の実態

 70年前、中国で終戦を迎えた日本人の集団引き揚げが始まった。当時、中国は共産党と国民党の内戦状態にあったが、双方の求めで現地に残って働いた日本人がいる。「留用者」と呼ばれ、家族を含めると最大で8万人にものぼった。

 旧満州(現中国東北部)にいた鉄道技術者や医療従事者、日本軍の兵器工場の関係者らが主で、敗戦直後の混乱の中、多くは身の安全と衣食住を約束される形で残った。長い人で8年。今の中国が建国された1949年当時、共産党は「革命」に貢献してくれたとたたえたが、日本でその存在はほとんど語られず、中国でも話題に上らなくなった。

 留用された日本人のことを私が知ったのは3年ほど前、中国・陜西省出身の祖母から話を聞いたのがきっかけだった。「どんな気持ちであの時期を過ごしたのか」。それを知りたくて留用経験者を訪ね歩いた。

 土木関係の技術者として共産党に留用された父(故人)と共に残された橋村武司さん(84)は、「断れない状況だった」と振り返る。1950年ごろ、天津にいた一家は当局から突然、「助けが必要です。天水に移動してもらいます」と告げられ、内陸の高原地帯に移された。900人近い技術者とその家族も一緒で、技術者らはそれから2~3年間、約350㌔の鉄道建設に従事した。「当時は『連行された』という気持ちを持っていた人もいたでしょう」。

 それでも、と橋村さんは語気を強める。「現地の中国人や技術者たちとは仲良くやっていました。私も学校でたくさんの友人ができた」。ほかの人からも、戦争の加害者、被害者の関係を乗り越えて「協力しあった」という話を聞いた。すぐに日本に帰れず、さぞ苦しく悔しかったのだろうと思っていただけに、意外だった。現地の中国人と彼らの交流は今も続き、取材した人の多くが両国の懸け橋として活動していた。

 残された資料は少ない。入院したと聞いたものの、回復を待つうちに亡くなった人もいた。安定した暮らしの人が多かったせいか、残留孤児や満蒙開拓団ほどにはメディアでも報じられていない。だが、国策のもとで満州などに渡り、敗戦後の動乱を生き抜いたことに変わりはない。日本へ帰ると「アカ」と呼ばれ、苦労した人も少なくないという。

 歴史は複雑に絡み合いながら今につながっている。留用の実態は分からないことが多いが、日本人の技術や能力を欲していた中国側に、帰国したくても戻れない日本人が利用された側面は否定できない。ただ、連れて行かれた現場で中国人と共に働き、結果的に深い人間関係を築いた人もいた。自らの技術が役立ったことへの喜びを口にする人もいる。私はそんな留用者の言葉を聞き続けたい。残された時間はあまりない。(朝日、2016年11月26日、記者有論。国際報道部・今村優利(ゆり))

2、牧野の感想

 私も全然知らなかったことで、残しておきたいと思ったので、載せました。これを読んで、星徹さんの本を思い出しました。

 3、撫順戦犯管理所

 日本の敗戦後、曽田はソ連カザフスタン共和国内に抑留され、労働にかり出された。ソ連の五年間では、自身の罪行について振りかえる機会も余裕もなく、戦争中の認識とまったく変わらなかった。

 そして五〇年七月、曽田も中国・撫順戦犯管理所へと送られた。初めのうちは、「俺は日本の軍隊の常識内でやっただけで、そんなに悪いことはしていない。俺は下っ端の将校で、命令されて国のために働いたんだ。それなのに、何でこんな監獄に入れるんだ!」という不満でいっぱいだったという。

 五一年の頃から、中国全土で三反五反運動が盛り上がっていった。「自らの罪行を告白し、国民各層の人々が社会の不正・汚職を告発しょう」「自らすすんで正直に罪を認めれば、どんなに重大な罪でも寛大に対処しよう」という運動だ。それを知って曽田は、「俺も罪行をすべて白状すれば、許してもらえるのでは」と考え、隠そうなどとは思わなくなった。そこで、自分が中国へ出征していた時期の「暦表」を作成し、思い出せる限りの罪行を書き込んでいった。そして、それら罪行の数々を坦白書に書いて部屋の皆の前で発表した。「私は○○で△人を殺しました」「○○で家を△軒焼きました」……。
 その発表を聴いた仲間たちから、「あなたの坦白は、罪行の羅列にすぎない」「被害者の気持ちをひとつも酌んでいない」などと徹底的に批判された。やはり「下心」のある表面的な坦白では、すぐにメッキがはがれてしまうことを、曽田はこのとき思い知ったという。

 曽田は撫順へ来るまでは、中国人なんて人間のクズだと思っていたので、人を殺したという認識があまりなかった。しかし撫順で中国人職員らから親身な扱いを受けるうち、そういった蔑視感情は徐々に薄れていき、彼らに感謝さえするようになっていった。そして「俺は確かに悪いことをした。

 中国人民に申し訳ないことをした」と思うようになった。こういった感情面からの心の変化とともに、学習による論理面からの頭の変化も同時に進行していった。レーニン著『帝国主義論』や野呂栄太郎著『日本資本主義発達史』などの学習を通じて、日中戦争・「大東亜戦争」(アジア太平洋戦争)の意味を問い直した。「こういった学習を通じて、『支那事変(日中戦争)や大東亜戦争は聖戟である』と言われ、それを信じてきたのが、嘘じゃないか! 帝国主義の侵略戟争じゃないか! ということに気づいていったのです」。

 このような両面からの「気づき」によって、曽田は本来の人間性を取り戻し、真理に目を見開くようになっていった。そして、何度も坦白書を書き直した。

 「本当の認罪・坦白というものは、『被害者の立場になって自分の行なったことを批判し、一つひとつの罪行によってどれだけ多くの中国人民が苦しみ、悲しんだかを推しはかり、反省することだ』ということが、徐々に分かってきたのです。しかし、撫順にいる間は、まだ大ざっばな理解にすぎませんでした」。そう曽田は語る。

 五六年の夏、曽田は起訴免除され、帰国を許された。帰国後しばらくしてから、中隊の「戦友会」にときどき顔を出すようになった。機会があれば、初年兵教育の教官としてまた小隊長として、部下の皆に罪を犯させたことに対してお詫びをしたい、と思っていたからだ。しかし、会はいつも皆の手柄話などで盛り上がり、そういった雰囲気にはならず、ついに言い出せなかった。そこで、この人には分かってもらえると思えば、手紙や資料を送り、自分の思いを伝えた。元部下の一人は、曽田の熱意に心を動かされ、自らの罪行と謝罪の気持ちを「冊子」にまとめて皆に配った。徐々にではあるが、曽田の思いは確実に伝わりつつある。そして、それが自らの生涯にわたる認罪学習である、と曽田は確信している。

 曽田にはいま、どうしても日本の皆に伝えたいことがある。
「平時でも、人殺しは死刑になるほどの大罪です。ましてや日本がやったことは、他国に『ドロ靴』で侵入した侵略戦争であり、平和に暮らす人々を組織的・大規模に、そして残虐な方法で殺していったのです。『あれは戦争だから仕方なかった』などと、被害者の立場になったら言えないでしょう。そしてまた、中国人民の兵士を殺しても、『戦争だから五分五分だ』と言えるでしょうか? 私も農民でしたが、彼らもまた我々が行かなければ、平和な農民として暮らすことができたでしょう。しかし、彼らの目の前で、日本軍に親を殺され、家族を強かんされ、食糧を奪われ、家を焼き払われるので、仕方なしに鍬を鉄砲に持ちかえて戦ったのです。そう考えたら、ぜんぜん『五分と五分』ではないはずです」。
(星徹著『私たちが中国でしたこと』増補改訂版、緑風出版、2006年、230-3頁)

4、牧野の感想

 人間には、他人(ひと)に足を踏まれたことはいつまでも覚えているが、他人の足を踏んだことはすぐに忘れるという「傾向性」があると思います。これを知性で修正するのが本当のあるべき姿だと思います。

 8月6日と8月9日とには毎年、「原爆投下の記念式典」が行われますが、私は釈然としません。8月6日は12月13日(南京大虐殺の日)とペアにし、8月9日は3月1日(朝鮮人民の蜂起の日)とペアにして、両方を同じ程度の記念日とするべきだと思っています。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

私の自家感作性皮膚炎(活動報告に代えて)

2017年02月17日 | カ行

 1、病気になりました

 この正月以来、「自家感作性皮膚炎」とかいう初耳の名前を持った病気に罹っています。「帯状疱疹の再発かも」と思って1月6日に診療所に行きました。親しくしているK医師は「皮膚病は専門ではないので確言は出来ないけれど、多分、自家感作性皮膚炎でしょう。帯状疱疹でないことはたしかです。皮膚科で見てもらったらどうですか」と言ってくれました。

 私は病名を聞きたかったので、「しばらく自分でやらせてほしい」と言って帰宅しました。そして、その日から毛沢東ばりの持久戦を始めました。

 作戦としては、①ドクダミ茶を飲むことと②ドクダミ酒を患部に擦り込むこととの2つを採用しました。

 ドクダミ茶は、水600ccを沸かして、ドクダミの茶葉15グラムを入れて、水が半量(300cc)くらいに成るまで煎じて、それを飲むというものです。

 ドクダミ酒というのは皆さんも聞いたことがないでしょうが、手元にある果実酒の本にも載っていないものです。そのような物がこの世にあるのかも知りません。昨年の10月にふと、「ドクダミ酒でも造ってみようかな」と思い立って、仕込んであったものです。ドクダミの茶葉15グラムに35度の本格焼酎を600cc入れて作るものです。これだけです。砂糖などは入れません。

 このほかに少し試みてみたものを列挙しておきますと、以下の通りです。

 ③ 45度の本格焼酎を患部に塗る。これは農文協の『民間療法』に「かぶれ対策」として載っていたので、試みてみました。最初はかなり沁みましたが、続けませんでした。45度は高価ですし。残ったものはドクダミ酒に使いました。

 ④ 小豆湯を飲む。『ゼン・マクロビオティック』(桜沢如一著日本CI協会刊)には、「すべての湿疹は、病的な疲労した腎臓から来る」とあり、「腎臓疾患には小豆湯を飲むのがよい」とありましたので、試してみました。

 小豆湯というのは、「大さじ1杯の小豆を約2リットルの水で煮て、1リットルくらいまで煮詰めたものに、塩ひとつまみを入れたもの」と書いてあります。私は、これを半分で試してみました。つまり、小豆5~6gに水1リットルを加えて煎じて半量にし、塩1gを加えました。美味しいというものではありませんが、「不味い」という事もありませんでした。悪いとは思いませんでしたが、続けませんでした。

 その後の血液検査では、腎臓は「正常」とのことでした。

 ⑤ 耳の穴の入り口付近と孔の中の壁にケシの実ほどの小さな粒が出来ました。このときは、診療所でもらった「リンデロンソローVG」とか書いてある「軟膏」を綿棒に着けて塗りました。一応効きました。又、アエロの液を同じようにして塗ったこともあります。これも悪くはなかったようです。

 こういう作戦で戦ったのですが、1月末までの最初の1か月間は敵の猛攻にあって、ほぼ全身に発疹が出来てしまいました。しかし、1月末頃からは、こちらの作戦も効果を発揮し始めました。腕がすこし腫れたのですが、その腫れが引いて、正常な形に成ってきました。現在は脚の腫れの引くのを待っている所です。これはなかなか引いてくれませんが、全体としては敵の力は明らかに衰えてきています。

 残りは腹部と背中ですが、これも峠は越しましたので、時間はかかりそうですが、これまで通りの作戦を続ければ勝利するでしょう。

 昨年の帯状疱疹は「軽症」でしたが、今回の皮膚炎は「重症」でした。それなのに発熱がなく、だるさもないので、K医師も「これだけ全身に発疹が出ているのに熱が出ないなんて、不思議だ」と言っていました。私は、「初めての経験で勉強になるでしょう。」と言いました。今後も2週間に1度は報告と相談に出向くつもりです。

 PS これを詳しく書いたのは同じ病気の方の参考になるかもしれないと思ったからです。逆に、同じ病気を經驗した方の好きアドヴァイスをいただければありがたいと思ったからです。

 2、運転免許証を返納しました

 1月27日に返納しました。昨年の秋に視力検査に通らないことがはっきりして以来、あきらめていましたが、最後の方は、運転中に眠くなることが頻繁に起きて、ややもすると眠ってしまうようなことが2度も起きました。事故を起こす前に返納に追い込まれてよかったと思っています。

 3、『小論理学』の再校

 そのようなわけで、病気にはなっているのですが、熱もなく、だるさもないし、身体の本体部分(?)は元気なので、仕事はこれまでどおりのペースで続けています。つまり、昨年末以来、『小論理学』(本体は1100頁前後になりそうです)の再校をしています。

 しかし、これがやってみたら、その「これまでどおりのペース」というのが、その成果から判断しますと、心づもりよりははるかに遅いペースになっています。いわゆる「校正」、つまり誤字誤植類の是正は問題ないのですが、「索引づくり」にものすごい手間がかかっています。

 『小論理学』は鶏鳴版を初版と考えれば、今回の未知谷版は再版に当たる訳です。今回は大いに「改良」しましたが、もう第3版を出す意志も余裕もありません。それに、この「小論理学」については、本書の中で「ヘーゲル研究は『小論理学』に始まって『小論理学』に終わる」と書いた程重要な作品です。焦って仕事をして悔いを残すのは愚の骨頂です。

 今回はその「索引」を丁寧に作っています。いわゆる「索引」の部分も該当頁にどういう事が書いてあるかを記したほかに、「箴言集」を作っています。他の本、例えば聖書から引いたものでも、ともかくこの本に出てくる「箴言みたいな言葉」はそれだけで集めて、整理してみました。

 いや、その後更に、「例解集」というのも「あった方が好いのではないか」と考えました。「ヘーゲルは抽象的で分からない」という悪評が確立していますが、きちんと読んでみれば、「日常生活の例で解説している所」も結構沢山あるのです。そこで、それらを「例解集」としてまとめて、わが師の汚名返上に一肌脱ごうかと考えた次第です。

 よって以て、これらの索引等が付くことで、本訳書はもともと付いている沢山の訳注や挿入が生きて、いわば「ヘーゲル哲学の小辞典」的なものに成ってきたと思っています。ですから、少し出版が遅れても充実したものにしたいと思っています。

 そんなこんなで前回の「活動報告」で「出版は3月くらいになりそう」と書きましたのは、実行できなくなりました。早くて4月下旬、多分、5月になると思います。6月に入るのは避けたいです。しかし、無理は絶対にしない方針で行きますので、どうなるかな。

 4、エンゲルスの評価

 前回の「活動報告」で、「最近、『フォイエルバッハ論』を訳し始めてみて、その『方法と体系の矛盾』説に疑問を持った」旨の事を書きました。その後、エンゲルスの全生涯を考えてみると、私の心の中での彼の評価は益々下がってきています。

 確かにエンゲルスは天才的な人でしたから、ヘーゲル解釈においてもいくつかの不朽の功績を残してくれました。その点については無条件に評価をし、感謝しています。しかし、例の「方法と体系の矛盾」の指摘はあまりにも軽率だったと思います。これは不勉強な自称マルクス主義者に「体系的な論文を書く努力」をサボル口実を与えてしまいました。これの及ぼした害悪の大きさは計り知れないと思います。つまり、エンゲルスのあの間違った指摘は彼の多大な功績全部を帳消しにしてしまうくらいのものだったと思うようになりました。

 私は『フォイエルバッハ論』の訳の中でこれを証明しようと思います。その後考えたことは、思想のスケールの大きさという点で、マルクスもエンゲルスもヘーゲルに及ばなかったのではないかということです。マルクスもエンゲルスもヘーゲルから学び足りなかったのではないかということです。

 『小論理学』の仕事が終わりましたら、この大問題と取り組むつもりです。

2017年2月17日、牧野紀之


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

活動報告、2016,12,29

2016年12月29日 | カ行

 前回の報告が7月でしたので、まあ大体半年に一度の報告という事になります。これくらいの頻度でいいのかなと思っています。

 1、研究の第一は、許萬元の諸著作をまたまた(これで何度目になるのかな)精読して「評注」を書いたことです。彼の論文の書き方の特徴が好く分かりました。

 2、『小論理学』の方は、校正に入っています。1000頁を越える大著に成っていますので、校正刷りも半分ずつ受け取っています。初校の校正刷りの前半を受け取ったのが6月11日で、校正を終えたのが9月3日でした。後半の刷りを受け取ったのが9月1日で、校正を終えたのが⒒月19日でした。

 再校の前半の届いたのが12月23日でした。今、それと取り組んでいます。

 「ヘーゲル哲学小辞典」とでも言えそうな「索引」を作っています。全体で1200頁くらいになりそうです。出版は3月ころに成りそうです。

 3、初校と再校の間が空きましたのでに、考えるところがあって、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』を訳し始めました。かつては「押し頂く」ような態度で読んだエンゲルスを、客観的・学問的に読めるようになっている自分を発見しました。例の「ヘーゲルにおける方法と体系の矛盾」とやらの主張は根拠が薄弱だと気づきました。「体系」についてのエンゲルスの考えないし説明が不十分で、概念的ではないと思います。いずれ発表する機会があると思います。

 4、健康は帯状疱疹の「軽い後遺症」が続いていますが、これに促されて無理をしないように気を付けています。

 では、皆さん、どうぞ好いお年を。

2016年12月29日            牧野紀之

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

姫路文学館と関口存男(つぎお)

2016年12月09日 | ハ行

 関口存男は姫路市出身です。姫路文学館というのがあることを知ったので、ネットで調べてみましたら、関口について特別の顕彰をしていないらしいということが分かりました(資料の収集はしていた)。

一昨年の秋以来、館と交渉して、改善してもらえることになりました。たまたま、姫路城の大改修と関係があるのでしょう、文学館も大改修する予定だったようです。1年以上の休館を経て、今年の7月末にリニューアル後のグランドオープンとなりました。

どういう顕彰をしたのか、写真を送っていただきました。ホームページでは好く分かりませんが、まあ、他の人と同じようにしてくれたようです。やはり実際に足を運んでみないと好くは分からないでしょう。

姫路に行ける人は、機会があったら、文学館にも寄ってみてほしいと思います。そして、どうだったか、レポートしてくださるようにお願いします。

2016年12月9日    牧野紀之
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

関口文法へのサポート、詳細索引・西洋語

2016年12月05日 | 「関口ドイツ文法」のサポート
     詳細索引・西洋語

129──定形の位置に関しては、現代の~はたいてい前結法。ドイツ語は中間的。
150──~には真の意味での主語・属詞関係の繋辞はない。
447──同じ語句の近い所での繰り返しを嫌う。
609──通念には定冠詞を使う。

632──具体化規定を避けるために不定冠詞を使う。
633──不定冠詞の持つ~の奇癖。「1」から出立しているが、「1」と関係なく「どんな?」を問題にするときに使う。
647──~の冠詞用法の難しさ
738──時制の一致
765──~の完了時制

794──時間的にすぐ前のことに過去形ではなく、現在形を使う.会話で。
879──日本語では動作相を使う場合に、~では状態相を使う。
882──633と同じ。
885──単回遂行相の擬音副詞は~には存在しない。
886──状態相による遂行相の指示。
894──同上。

1052──~には仮定話法がある。間接に裏面から言う。
1128──~には擬音の副詞が少ない。
1153──~では限定語句と被限定語句の順序が決まっていない。
1210──否定の強調ではその否定を何らかの概念と組み合わせなければ表現できない。

1334──非情の受け身と自然可能的な受け身は~の影響。
1359──「Aの中のA」という最上級表現は~の習慣。
1432──交叉配語は~の原則の1つ。

1450──目的語の代名詞による繰り返しは~の常識。
1477──~では「一文には一主語」
1478──「バターは値が上がる」における~の語理。
1507──~でのrの発音


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

エンゲルスの「サルの人間化」論文の意義

2016年11月25日 | ア行

 この「サルの人間化における労働の役割」論文についてはこれまでにもいくつかの論文で触れてきました。主たるものは、『ヘーゲルの目的論』所収の翻訳「サルの人間化における労働の役割」及び同「伊藤嘉昭氏の『原典解説』を使ってみて」、第3に、『労働と社会』(特に85~8頁)です。

 最近またこのエンゲルス論文の意義を考え直しましたので、論じてみます。

 核心は、人間と動物の違いについてのまとめだと思います。それが、いくつかの段階を踏んで、急所へと絞られてゆくのです。第1段階は、「動物の自然への働きかけは無意識的で人間のそれは意識的である」ということです。これを第1命題としましょう。

 しかし、これは植物ならともかく、動物となると「計画的・意識的」行動が出てくると認めて、撤回して第2の命題が出てきます。それが即ち、有名な次の文です。まずドイツ語の原文を掲げます。

 独原文・Kurz, das Tier benutzt die äussere Natur bloss und bringt Aenderungen in ihr einfach durch seine Anwesenheit zustande; der Mensch macht sie durch seine Aenderungen seinen Zwecken dienstbar, beherrscht sie. (要するに、動物は外的自然を利用するだけである、自然界に変化をもたらすと言ってもそれは「そこに居ることで」に過ぎない。人間は〔動物と違って〕先ず自分自身を変えてから自然に立ち向かうことで、自然をして人間の役に立つように作り変える、つまり自然を支配するのである。牧野訳)

 この文は少しは知られていますが、その重要性に比しては知られておらず、ましてほとんど研究されていません。現に『原典解説・サルが人間になるにあたっての労働の役割』(青木書店、1967年)を書いた伊藤嘉昭氏ですら、この命題の説明を「利用」と「支配」という言葉の対置で捉えて事足れりとしているほどです。この命題の意味を知るには、更に一歩つっこんで、利用と支配とはどう違うのかと問い、その違いをもたらすものは何かと考えてみることです。すると、それは durch seine Anwesenheit と durch seine Aenderungen であることに想到します。すると、このAnwenheitとはどういうことか、人間の Aenderungen とはどういうことかと考えることになり、従来の訳では何の役にも立たないことが分かるのです。

 これまでの訳を見ると、durch seine Anwenheit の方は、どれも、「その存在によって」といったような直訳をしていますから、別に検討しません。問題はdurch seine Aenderungen です。入手した訳を検討した結果を報告します。

A・誤訳

訳例1・要するに、動物は外部の自然を単に利用し、そして単純に自分の存在することによって自然の中に諸変化を起こさせたまでである。人間は自分のもたらす諸変化によって自然を自分の諸目的に役立つようになし、自然を支配する。(田辺振太郎訳、岩波文庫『自然の弁証法』上巻、1956年、254頁)

訳例2・要するに、動物は外的自然を利用するだけであり、もっぱらその存在によってのみ外的自然に変化をもたらすのであるが、人間はみずから変化をもたらすことによって自然を自分の目的に奉仕させ、自然を支配するのである。(国民文庫版『猿が人間になるについての労働の役割』1965年、20頁)

感想・訳例2は困って訳例1を見て訳したのではないでしょうか。「変化をもたらす」と言いますが「どこに」その変化をもたらすのでしょうか。これが分かっていないので、曖昧な訳になるのです。
と言うより、場面は、労働で対象に直接かかわって労働する「前」の事を言っているのだというのが分かっていないようです。ですから、「諸変化をもたらす」などと、労働そのもの及びその結果と取れる表現を使うのです。durchというのは「そこを通って」ということです。「そこを通って」対象に取り組むことになる、という事です。

B・直訳しただけのもの

訳例3・要するに、動物は単に外的自然を利用し、且つ単に自らの存在によって自然の中に諸変化を生ぜしめるにすぎなかった。之にひきかへ、人間はその変化によって自然を自己の目的に役立たしめ、これを支配する。(加藤正・加古祐二郎訳、岩波文庫上巻、1929年、181頁)
感想・加藤正という人はとても優秀な人だと思っていますが、ここは分からなかったようです。直訳で逃げました。

訳例4・要するに、動物は外部の自然を利用し、その存在によって自然に変化をおこさせるだけであるが、人間はその変化によって自然を人間の目的に奉仕させ、自然を支配するのである。(伊藤嘉昭の前掲書、1967年、128頁)
感想・「原典解説」を書く人がこれでは困ります。

 訳例5・英訳・In short, the animal merely uses external natur, and brings about changes in it simply by his presence; man by his changes makes natur serve his ends, masters it.
 感想・訳例4も5も直訳です。最後の「自然を支配する」はその前の「自然をして人間の役に立つようにする」を言い換えただけであり、従って「即ち」と入れても好いくらいの所だということが分かっているのでしょうか。疑問です。

C・自信のない訳

訳例6・要するに、動物は単に外的自然を利用し、たんにその存在によってだけ外的自然に変化をもたらすが、人間はみずからその変化によって自然を彼の目的に利用し、自然を支配するのである。(寺沢恒信・菅原仰訳、国民文庫『自然弁証法』第1分冊、1953年、223頁)
感想・訳例3を見て訳したのか、不明ですが、「みずから」をなぜ入れたのでしょうか。却って訳例3よりも悪くなったと思います。「みずから」はどの語にどう掛かるのか、不明確です。自信がないのでしょう。

訳例7・要するに、動物は外的自然を利用して、たんにその場に居あわせることによってのみ、外的自然に変化をもたらすにすぎないが、人間はみずからその変革によって自然を彼の目的に利用し、自然を支配するのである。(許萬元『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』大月書店、1968年、66頁)
感想・恩師である寺沢の訳(訳例6)を見て訳したようです。Anwesenheitを「その場に居あわせること」としたのは感心します。が、肝心の所は手本と同じです。「変化」を「変革」と代えていますが、これでは「人間自身の自己変革」より「対象変革」を考えていたのかな、と思ってしまいます。その点で後退さえしているかもしれません。いずれにせよ、余計な「みずから」を入れたのはいただけません。

D・正しく訳した例

訳例8・要するに、動物はただ外部の自然を利用するだけであり、ただ自分がそこにいることによって自然のなかにいろいろな変化を引き起こすだけである。人間は自分のいろいろな変化によって自然を自分の目的に役立つものにし、自然を支配する。(岡崎次郎訳。河出書房新社刊『エンゲルス』(世界の大思想の1冊)。2005年)
感想・これは一応「正しい訳」と認めて好いでしょう。「自分のいろいろな変化によって」ではイマイチ不正確ですが(「まず自分の方を色々と変えてから」くらいにすれば、もっと良かった)、他の訳よりははるかに良い訳だと思います。

 訳例9・仏訳・Bref, l’animal utilise seulement la nature extérieure et provoque en elle des modifications par sa seule présence; par les changements qu’il y apporte, l’homme l’amène à servir à ses fins, il la domine.
 感想・この訳が最高でしょう。フランス語版『マルエン三巻選集』にある訳です。「人間が〔y=自然に立ち向かう際にそこへ〕持ってゆく諸変化によって〔即ち、予め自分を変えてから対象に立ち向かうことで〕」です。これがきちんと分かっていると推察できます。

以上の検討で、このdurch seine Aenderungen がこれまでいかに研究されていないかが分かりました。肝心な点はこの「諸変化」とは労働対象を労働の結果において変化させたことではなく、労働する前に「人間自身が自分を変化させたこと」なのです。

では、更に具体的には、この「人間が自分自身の中に引き起こす諸変化」とはどのような変化でしょうか。これを初めて研究したのが拙稿「労働と社会」でした。そこに書いたことは、要するに、この「諸変化とは、道具の改良とか、新しい機械の製作とかだけではなく、技術や技能の向上も含み、更に労働組織の在り方の適正化まで入っているのです。エンゲルスは会社の経営に関与していましたし、軍事技術などにも4詳しかったようですから、こういう事まで分かっていたのだと思います。

このように広く理解すると、許萬元が「労働過程における手段(道具)の作製こそ、人間実践の優越性を現実的に保障するものである」(前掲書62頁)と言うのは狭すぎる事が分かります。喫茶店で「実践的認識論」について談論風発するだけの講壇学者の正体が好く分かる言葉です。

更にもう1つ。これはマルクスの「フォイエルバッハに関する11のテーゼ」(いわゆる「フォイエルバッハ・テーゼ」の「第6」にある「人間の現実的本質は社会的関係の総和である」の理解と関係してきます。この命題も無思慮に使われています。なぜ「無思慮」と言うかといいますと、第1に、マルクスには人間の定義として、これの他に「労働する動物」という定義と「類的存在(Gattungswesen)」という定義とがあるのに、これらの3つの定義の関係を考えていないからです(私見は『労働と社会』の171頁以下にまとめてあります)。第2に、この「社会的諸関係の総和」とは言葉としてどういう意味か、従って我々が人間研究でどういう事に気を付けなければならないか、が考察されていないからです。
 これは先に指摘しましたdurch seine Aenderungenの中の「労働組織の在り方」がまず入ります。しかし、これを「工場内分業」と捉え直しますと、分業の全体像を確認しておいた方が好いでしょう。即ち、分業は大きく三大別できます。普遍的分業(農業、工業、商業、等々への分業)、特殊的分業(工業内部の分業、農業内部の分業、商業内部の分業、等々)、個別的分業(工場内部の分業)です。前二者は「社会内分業」とまとめることが出来ます。最後のものが「工場内分業」です。ですから、これらの「分業」のどこかに「変化」が起きれば、人間による自然支配にも変化が起きるのです。

 要するに、エンゲルスの先の定式化はこのように広い視野を持ったものだったのです。かのドイツ語を正しく近いするか否かはこういう社会観と関係していたのです。ついでに付言しておきますと、ヘーゲルは『法の哲学』第198節で分業の根本的な諸問題について詳しく指摘しています。

 最後に、最近知った例で考えてみます。日本のラグビーチームは、昨年(2015年)のワールド杯で強豪南アフリカチームにタイムアップ直前に劇的な逆転トライを決めて勝利しました。日本中が大興奮しました。この日本チームのメンタル・トレーナーを務めていた荒木香織(園田学園女子大学教授)へのインタビュー記事が雑誌『ラジオ深夜便』2016年10月号に載っていました。その中に次の言葉がありました。

 ──誰でも不安なときは、「どうしよう」と思い詰めてしまいます。そこから抜け出すには何が不安なのかを明確にして、自分にできる対策を立てることが必要です。そしてそれに取り組めば不安はなくなる。日本代表メンバーでも一般人でも、その対処法は同じです。
 試合相手との体格の違いも試合展開も、変えることはできない。コントロールできるのは心構えや準備の仕方、試合中の判断に対する準備。つまり自分の内にある事柄なのです。──

 最後の「コントロールできるのは~自分の内にある事柄」というのが面白かったです。人間は自然を支配するにはdurch seine Aenderungenだと言ったエンゲルスの言葉と同じだったからです。翻って考えるに、これはもっと広く言える事でしょう。勝負事でも政治運動でも自分が勝つには「まず自分を変えて、よりよくして試合に臨む」しかないわけです。人生全体をとって考えても同じでしょう。

 私の好きな言葉は「修身斉家治国平天下」です。これを応用すれば、「真のオルグは自分を高めることである」となります。逆に、「自分を高めないでするオルグはお節介の別名である」となります。お節介オルグを沢山してきたわが身を反省することしきりです。(2016年11月24日)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義(松田道雄)

2016年11月12日 | マ行

  ロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義(松田道雄)           

    はじめに

 思想と教条との相違は、その生活力にある。思想は創造する頭脳のなかに生まれ、その生国の土壌によってやしなわれ、他国にうつされ、そこで、おなじ過程で成長していく。したがって、思想は、その成長の過程にしたがって、なにほどか土壌のにおいを身につけている。教条は、これに反して聖職者によって儀式に使用される器具の一種である。教祖のいだいた思慮のなかから、儀式の必要に応じて、成立の背景を無視して部分がとりだされ、みがかれ、信徒の礼拝のためにそなえられる。世界宗教が、ある国の総本山によって統率されるという状況においては、教条の画一性は総本山の権威のシンボルである。

 したがって、思想には「型」がありうるが、教条には「型」はゆるされない。

 ここにあえてロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義とを対比するのは、生活力のある思想としてのマルクス主義を、二つの国で比較したいからにほかならない。

      一

 十九世紀のロシアにおいて、マルクス主義は革命の思想であった。

 支配権カを打倒すべき勢力が、現存の権力よりも正当な存在理由をもっていることを弁護する革命思想は、もともと西欧に発したものである。ロシアにおける最初の権力批判者であったラディーシチェフが、フランス革命の思想をうつしたことからもわかる。

 ロシアの革命思想の生育すべき土壌の特徴とでもいうぺきものをあげるならば、西欧にたいする後進牲をまずあげねばならない。そして、この後進性を克服しようとするロシアの知的エリートの内部統一の欠損も重大な特徴である。さらに、ロシアが西欧と地つづきであり、支配権力からいえば、革命家の知的交流をはばみえないし、革命家にすれば亡命によって思想の純粋培養ができるということも、特異な点としなければならない。

 西欧にくらぺて、ロシアが後進国であるということは、西欧から移入する革命思想がロシアでは、大きな「時差」を示すという結果になった。市民的自由を前提にした西欧の社会主義の革命思想は、ロシアにはいってくると、市民的自由そのものの存在しないということで戸まどいせねばならぬ。

 ロシアの革命家たちが、最初に決定しなければならなかった問題は、ロシアは、はたして西欧の通過した道を、もう一度あゆまねばならぬかということであった。

 西欧において、市民革命によって打ちたてられたブルジョア体制が、社会主義者によって、もう一度革命されねばならぬということは、ブルジョア体制そのものの「悪」を証明しているではないか。

 それならば、とロシアの革命家はかんがえた、われわれは資本主義段階をとびこそうではないか。

 ロシアには、西欧諸国においては、すでにほろび去った農村共同体がまだ存在する。社会主義が理想とする共有と協同の社会は、ロシアにおいては、ここにのこっている。この共同体を、資本主義によってむしばまれないうちに、社会主義に突入すればよい。ロシアの革命家たちは、ロシアの後進性そのものをてこにして西欧に追いつこうとしたのだ。

 ロシアが西欧においつくためには、ロシア独自の道をえらぶべきであるという結論には、ロシアの革命家は一挙にして到達したわけではない。最初の革命家であるベリンスキーもゲルツェンも、はじめは西欧の道を追うことを信じた。彼らは、当時のロシアの最高の知的レベルにおいて論争し、論敵のスラブ主義者とわかれ、西欧の道をえらんだ。だが、一八四八年の西欣の革命の敗北によって、ゲルツェンはロシア独自の道へかえってきたのだ。

 ロシアの農村共同体を基礎にして社会主義の社会をつくりだそうとする農民社会主義が、十九世紀の六十年代から八十年まで、ロシアの革命家の頭脳を支配した。

 国家権力から解放されれば、農民は、その創意にもとづいて自由な共同体の連合をつくるだろうというバクーニンの思想が、出発点となった。「すべての将来の政治組織は、自由な労働者の自由な連合、農民または工場の職人のアルテリの連合以外の何ものでもあってはならぬ。それゆえ、政治的解放の名において、われわれは何より国家の徹底的な破壊をのぞむ…」

 彼らの直接にむきあったものはツァーリをシンボルとする国家権力であった。しかし、彼らは農民の蜂起を期待しながらも、革命的インテリゲンチアと農民との結合について具体的な方法をもったわけではなかった。人民から孤立した革命家は、少数者でできるもっとも効率のいい方法に訴えざるをえない。とくに、西欧の資本主義の発達のもたらす「悪」をみて、ロシアでブルジョアに先んじられまいとする焦燥感にかられたトカチョフは、亡命地のジュネーブで一八七五年に、ロシア向け非合法新聞『警鐘』の初号にかいた。

 「兄弟愛と平等とを打ちたてるためには、第一に社会風習の現在の条件を変更しなければならない。人間の生活に不平等、敵意、羨望、競争をもたらすすべての制度を破壊しなければならない。それらには反対の制度の基礎をおかねばならぬ。第二に人間の本性自身を変更し、教育せねばならぬ。この偉大な任務をはたす人たちは、もちろん、これを理解し、解決にむかって真に努力する人たちである。すなわち、知的にも道徳的にも発達した人たちである。すなわち少数者である。この少数者は、よりよく発達した知力と道徳とによって、多数者の上に知的、道徳的権力をもつし、またもたねはならぬ。……
 
 一般に現代社会においては、とくにロシアにおいては、物質的な力は国家権力に集中されている。したがって真の革命──物質的な力による道徳的な力の現実的変形──は、ただひとつの条件によってのみ達せられる。すなわち、革命家による国家権力の掌握である。いいかえれば、革命の当面の直接目的は政権を奪取し、現在の保守的国家を革命的国家に転化することでなければならない。

 したがって、革命的国家の活動は二重でなければならぬ。革命的破壊的活動と革命的建設的活動とである。

 前者の本質は闘争である、したがって暴力である。闘争は、つぎの諸条件を結合しえたときにのみ成功する。すなわち、中央集権、厳格な規律、迅速、決断、行動の統一性である。あらゆる譲歩、動揺、妥協、闘争力の分散は、闘争力のエネルギーをよわめ、活動力をまひさせ、勝利のチャンスを闘争からうばい去る。」

 トカチョフの少数者革命の理論はネチャーエフ事件をひきおこし、ドストエフスキーをして『悪霊』をかかせることになった。だが、陰謀的な暴力をよろこばない分子は、ネチャーエフらに反対して、一八六九年に結成されていたチャイコフスキー団に結集した。チャイコフスキーらは、ロシアの多くの都市にサークルをつくり、民主主義の啓蒙をおこなった。この運動が最高潮に達したのは一八七四年の「人民の中へ(ヴ・ナロード)」のカンパニアであった。三〇〇〇人の学生が農村のなかに工作隊としてはいっていった。ここからロシアの革命家はナロードニキとよばれることになった。しかし、この啓蒙運動は農民の無関心につきあたって挫折した。

 農民によって実現されるべき農民社会主義が農民にうけいれられないとなったら、革命家たちは、自己の組織以外にたのむところはない。ふたたび、強力な中央集権的な組織に革命家たちは結集することになった。この頃の組織は完全な非合法をまもりとおしたために、歴史家に文献的な手がかりを残さなかった。

 一八七六年ごろに成立した「土地と自由」という革命家集団は、たしかに中央集権的な党としての性格ももっていたが、そのなかにはさまざまの潮流がまじっていた。「土地と自由」のメンバーの思想の多様性は、ようやく生まれてきた労働者の組織(一八七五年の「南口シア労働者同盟」、一八七八年の「ロシア労働者北部同盟」)と関係がある。

 ロシアの「マルクス主義の父」プレハーノフが「土地と自由」のなかに参加したのは、まさにこのような時期であった。鉱山専門学校の学生であったプレハーノフは、古い世代の革命家とちがって、はじめからエ場労働者との接触のなかで成長した。彼がロシア語訳の『資本論』をよんだのは一八七五年か七六年と推定されているが、それによってマルクス主義を完全にうけいれたのではない。一八七九年に彼が「土地と自由」第三号にのせた彼の最初の論文「社会の経済的発展法則とロシアにおける社会主義の任務」は、農民社会主義とマルクスの二番煎じ(煎じたのはロシアにおけるマルクス主義の紹介者ジーべルだが)との混合であった。だが、このなかでプレハーノフは、ある個人が権力をにぎって上から命令によって社会変革をおこなおうという革命家は時代おくれだということをはっきりいっている。

 したがって「土地と自由」が、農民のなかの宣伝の不成功の欲求不満を個人的テロによって発散させようとする傾向をつよめてきたとき、プレハーノフはがまんできなくなる。農民よりも労働者に、革命のてこを求むべきではないかという、彼の体験が、古い型の革命家に反発させたのだ。

 成員のなかの意見の不一致によって、「土地と自由」は一八七九年に合意解散をするが、テロ支持派は「人民の意志」を結成し、正統派を主張するものはプレハーノフを中心に「黒土再分割」にあつまった。「黒土再分割」派の同名の機関誌の第一号にプレハーノフの一八八〇年にかいた「人民の声は神の声」は、「黒土再分朝」派の綱領としてうけとられた。そこで彼はいう。

 「わが党の実践的任務にかんするわれわれの見解は二つからなりたつ。科学の一般的指示とロシアの歴史と現状との特殊条件である。われわれは社会主義をもって人類社会の科学の最後のことばとする。社会主義によって所有と労働との集団主義が勝利することは、社会経済構造の進歩のアルファでありオメガである。われわれは、『自然は飛躍しない』という表現が、狭義の自然現象にあてはまるように、人間社会の進歩の過程にもあてはまるとする。」

 プレハーノフのこのことばのなかに、テロによって飛躍的に権力を奪取しようとする革命家へのつよい反対が感じられる。農民の力が信じられないでやるテロを否定するというのなら、いったいロシアの革命家は何を信じればいいか。プレハーノフは進歩の科学への信頼をよびかけている。

 それでは、どうして革命をやるのか。プレハーノフはつづけていう。

 「社会革命の党は、人民を国家への積極的な闘争に導き、人民のなかに自立と活動をそだて、人民を闘争に組織し、あらゆる小さな機会をとらえて、人民の不満をかきたて、ことばと行為とによって人民に現在および本来の社会関係の正しい見方をつたえることを目的とせねばならぬ。これによって党は、人民を、上からの「黒土再分割」を寝て待つことをやめさせ、下心ら『土地と自由』を積極的に要求するようにさせねばならぬ」

 革命は人民の下からの運動でなければならない。そうなれば「黒土再分割」のような少数革命家の組織は、人民の運動と、どういう関係にたつのか。ここでプレハーノフははじめて大衆団体としての党の問題につきあたる。

 『黒土再分割』第三号(一八八一)にプレハーノフは「『黒土再分割』編集部への手紙」をのせていう。

 「ゆえに、すべてのロシアの社会主義者の党が、その努力の最大の目的が人民のなかにおける社会革命の組織の創出であることをみとめ、ついで、この組織が政府と上層階級に提出する当面の要求のなかに、政治的自由の要求が入れられたとき、はじめて『黒土再分割』の任務はおわったとしてよい」

 「黒土再分割」の組織は、人民の党ができて公然と政治的自由の要求をかかげるまでの暫定的なものとされたのだが、事実では、「黒土再分割」の組織は、プレハーノフやアクセリロットの亡命によって、その年のうちに消滅した。プレハーノフのスイスヘの亡命は、実は機関誌の『黒土再分割』の発刊に先だつ一八八〇年の一月であった。

 ジュネーブで、プレハーノフは西欧の市民的自由の空気を心からの満足をもって吸いこんだ。ここでは労働者は集会をやっても、文書をだしても警官につかまることはない。また、ここへは西欧の社会主義者がやってきて社会主義政党の話をしてくれる。市民的自由のなかにおいて労働者の党は、はじめて自由にたたかえる。プレハーノフはそう感じた。一九一八年までロシアの土をふむことのなかった彼が、西欧のマルクス主義の旗手になったこともむりはない。

 プレハーノフのマルクス主義理論の「原蓄〔原始的蓄積〕」は一八八〇年から八二年まで精力的におこなわれた。しかし、ナロードニキのプレバーノフがマルクス主義者になることは、容易ならぬ努力を必要とした。それはバロンのいうように後進国にマルクス主義を適用する最初の試みであった。

 西欧で生まれた社会主義であるマルクス主義がどうして、西欧とはことなる段階にあるロシアに妥当するのか。マルクス主義が正しいとすれば、いままでのナロードニキの努力のすべてはぜロでないか。

 自然科学者としてたとうと一時おもったことのあるプレハーノフの合理主義的な性格から、この困難な問題への解き口がでてきた。マルクスのいう社会発展の法則を、自然科学のおしえる自然法則と同一化することである。

 ポノマリョフ監修の『ソ連邦共産党史』によって「ロシアのマルクス主義者の最初の著書」といわれた『社会主義と政治闘争』(一八八三年)はプレハーノフのナロードニキヘの訣別の辞である。

 そこで彼はいう。

 「ダーウィンがおどろくぺく簡単かつ正確な、種の起源についての科学的理論で生物学をゆたかにしたのとおなじに、科学的社会主義の創始者たちは、われわれに、生産力の発展と、生産力とたちおくれた『生産の社会的条件』との闘争とのなかで、社会組織の種の変化の原理をしめした。」

 農民への絶望からテロにうつろうとする革命家からわかれて「黒土再分割」の綱領をかいたときにいった「人類社会の科学の最後のことば」をプレハーノフはマルクス主義のなかにみつけた。

この発見が、ロシアの内部で専制と死闘をつづけている革命家たちをどんなに元気づけたか。小状況におけるたたかいがどんなに失敗しても、大状況は自然法則のように進歩にむかってすすんでいるからだ。

 プレハーノフがジュネーブについた一八八〇年から、ボルシェビキの党ができる一九〇三年まで二十年以上もあるのだが、このあいだに、彼がロシアの革命組織に言いのこした人民を基盤とした党はどうなるのか。

 『社会主義と政治闘争』のなかで党に言及されているところをひろいあげてみよう。

 「さいわいロシアの社会主義者は、もっとしっかりした土台の上に希望を托すことができる。彼らは、彼らの希望を何よりもさきに労働者階級に托すことができるし、また托さねばならぬ。他の階級もそうだが、労働者階級の力は何よりも、その政治的意識の明確性、その堅固さと組織性とにかかっている。この労働者階級の力の諸要素は、わが社会主義インテリゲンチアの影響のもとにあるべきだ。インテリゲンチアは当面の解放運動において労働者階級の指導者とならなければならぬ。労働者階級の政治的経済的利益およびこれらの利益の相互関係を説明してやらねばならぬ。ロシアの社会生活のなかの労働者階級の独自の役割にむかって準備してやらねばならぬ。インテリゲンチアは、あらゆる力をつくして、ロシアに憲法のできた最初の時期に、わが労働者階級が、一定の社会的政治的綱領をもった独自の党として登場するようにしなければならぬ。」

 プレハーノフは労働者階級が独自の党をもって政治の舞台にでるのは、ブルジョア革命によって市民的自由がえられたあとの時期であるとかんがえていた。プレハーノフの党についての、このかんがえを最初に指摘したのは、粛清された「党史」の著者ポポフであった。彼はつけくわえていう。

 「この時期まで、『社会主義的インテりゲンチア』は将来の労働者党の要素を用意する事だけを仕事とせねばならなかった。もちろんこのことはインテリゲンチアの指導下に、労働者階級が専制との革命的闘争に参加することを除外するものではない」。

 革命は何ものがてこになるにしても、これを指導するものはインテリゲンチアであるという思想は、プレハーノアもレーニンもふくめて、ロシアの革命家のかたい信念であった。革命における労働者階級のヘゲモニーの思想が、一八九八年にアクセリロットから発したという説もあるが、ジノビュフは『党史』のなかで、一八八九年バリの第二インターナショナルの席上でプレハーノフが、「ロシア革命は労働者階級の革命としてのみ勝利するだろう、そうでなければ勝利することはないだろう」といったのを、その最初にかぞえる。

 プレハーノフにおけるプロレタリアートのヘゲモニーの思想が、インテリゲンチアによる党の指導と矛盾しないことは、第二回党大会における彼のレーニン支持によってわかる。

 エンゲルスのいう「歴史的必然性」に賭けたプレハーノブにとって、ロシアにも資本主義は発達するという論証にすすむことは、論理的にも当然である。彼はこの課題を一八八四年の「われわれの相違」でときはじめ、それはレーニンの『ロシアにおける資本主義の発達』にひきつがれる。社会主義者が、みずからの社会に資本主義の存在を論証しなければならぬというのは先進国ではありえないことだった。資本主義の「存在証明」にさきだってプレハーノフは『社会主義と政治闘争』のなかで西吹の歴史法則にしたがって、ロシア労働者階級とブルジョアジーとの革命における関係を予見していう。

 専制の打倒と社会主義革命とは本質的にことなったことであり、社会主義政府の早期の可能性はロシアでは信じがたい。ブルジョアジーとともに専制にむかってたたかうが、労働者階級に、ブルジョアジーとプロレタリアートとの敵対性をおしえることをやめないというドイツの共産主義者の例にしたがうという理論は今日いう革命二段階説である。ブルジョア革命に協力はするが、政権をとってはならないとする、のちのメンシェビキ理論の萌芽がここにある。

 プレハーノフが労働者党の結成をいそがなかったことは、はじめて組織された国外のマルクス主義者グループ「労働解放団」のためにプレハーノフがかいた綱領をみてもわかる。はじめの綱領(一八八四年)には、「社会主義者は労働者階級に、来たるぺきロシアの政治生活に積極的に有効に参加する可能性を提供すぺきだ」としかかいてない。第二草案(一八八七年)にいたってはじめて「ロシアの社会民主主義者は、この基礎にたって革命的労働者党の創立を第一の最大の義務とする」ということになる。

 労働者階級の党をはやくつくらねばならぬということでイニシァチーフをとったのは、レーニンであった。レーニンは一八九五年秋に非合法につくった「労働者階級解放闘争同盟」を革命党の萌芽と考え(邦訳全集第二巻三三六頁〉、その年に逮捕された獄中で「社会民主党綱領草案」をかき、シベリア流刑中、想をねって、刑期がおえた一九〇〇年、党をつくる目的でスイスに亡命した。

 レーニンの職業的革命家による中央集権の党の思想は、マルクス主義にそれまでなかったものであり、ロシアの後進性に適応した理論である。彼の党の理論は「何をなすぺきか」のなかに定式化され、事実上の結党大会である一九〇三年の第二回大会で、参加者は、示された綱領草案の事務的な用語の背後にレーニンの「何をなすぺきか」の思想をよみとった。おおくの反対者は、これをマルクスの理論の侵犯として反撥した。たとえば七月二二日の第九次会議において「経済主義者」のアキーモフはいう。

 「このことは党の任務の章でいっそうはっきりする。そこで党とプロレタリアとは、完全にひきはなされ対立させられる。党は積極的に行動する集団的な人物であり、プロレタリアは、その上に党が作用する受動的な媒体である。だから提出された草案で党という名詞はいたるところ主語としてかかれ、プロレタリアという名詞は補語としてかかれている。

 まったく同様に政権の奪取の章も他国の社会民主主義の網領とくらべてちがって編集されている。それは、つぎのように解されうる。いや、実際プレハーノフによってつぎのように解釈された。指導組織の役割は、それによって指導される階級をうしろにおしやり、指導組織を指導される階級からひきはなすことだと。それだから、われわれの政治的任務の規定は、『人民の意志』派のと全くおなじだ」

 アキーモフの反撥はレーニンにとっては何でもなかった。レーニンは『何をなすぺきか』のなかで、そのことはとっくに明言しているのだ。

 「われわれのあいだでは革命運動の歴史がろくに知られていないために、ツァーリズムにたいして断固たる戦争を布告する戦闘的な中央集権組織を考えたりすると、なんでも『人民の意志主義』だと呼ばれるのである。しかし、一八七〇年代の革命家がもっていたみごとな組織は、われわれがすべて模範としなければならないものであるが、あの組織をつくりだしたのは『人民の意志』派ではなく、『土地と自由』派であり、これがのちに『黒い割替』派と『人民の意志』派とに分裂したのである。(邦訳大月版全集五巻511頁)。

 レーニンは『何をなすぺきか』のなかに示した革命党の組織原理が、ツァ-リズムにたいして「断乎」としてたたかってきたロシアの革命の組織の伝統を継承するものであることを宜言している。第二回大会においてプレハーノフが終始レーニンをバックアップしたのも、少数インテリゲンチアによる労働者階級の指導という彼の理論、ナロードニキとしての彼の体験からしてむしろ当然であった。ここでロシアのマルクス主義の旗手のあいだで完全なバトンタッチがおこなわれた。職業革命家の中央集権的な秘密組織としての党の理論は、その後のロシアのマルクス主義の背骨としていまにいたっている。マルクス主義がロシアの土壌にうつされて、もっとも大きな「発展」をみせたのは、この党組織の理論であり、そこにロシアの革命運動の伝統が生きているとすれば、レーニン主義をロシア型マルクス主義といっていいだろう。

      二

 一九二六年、日本共産党の結成以来、日本のマルクス主義は、ソ連からの移入品だけが正統とされるにいたった。したがって現在、正統を呼号するマルクス主義は、さきにいったロシア型マルクス主義である。そのなかに日本型をみいだす仕事は、戦前の部分については鶴見氏らの「転向」においてこころみられた。だが、ここでは、福本によって日本にロシア型マルクス主義が移入されるまえに、鎖国状態のなかで成長した日本のマルクス主義をかんがえてみたい。ロシア型マルクス主義が日本にはいってきたとき、もっともはげしくたたかれた「古くなった」マルクス主義者山川均のなかに、私は日本型マルクス主義をみたい。

 ある思想が、どんな条件をそなえればマルクス主義とよんでいいかは、容易に一致をみないことだろう。定義の仕方によっては、「私は過去一○年間マルクス主義の原理を説き続けてきた」と一九一八年に宜言した片山潜(『日本における労働運動』岩波文庫三六八頁)をマルクス主義者ということもできるかもしれない。だが一九〇三年に

「炭坑の中しかも二千尺の深い炭坑の中で働く所の人間是も 天皇陛下の赤児である。吾々今日此石炭の恩沢を受ける者、今日識者を以て任ずる所の者は、我労働者、たとい九州の隅で働くにしても東京の街に於て働くにしても彼等の為めに救助の方法を講ずると云うことは、日本国民として又識者として必要であります。」(『社会主義』明治三十六年十一月号、八頁)

 という演説をやっている片山潜と、そのとき不敬罪によって巣鴨監獄で三年目の重禁命にたえている山川均とを、おなじ尺度ではかる定義には賛成できない。

 マルクス主義は革命の思想である。こう限定すれば、日本における革命思想家は、一九〇三年に創立された平民社を中心にしてしか存在しなかったから、そのなかから生まれ階級闘争の理論によって初志をつらぬこうとした人たちにしぼられてくる。そういう意味で私は山川均を日本に生まれたマルクス主義の代表とかんがえる。

 ロシアと日本との革命思想の発生をくらぺて、もっともめだつ相違は、日本では明治二十年代において知的エリートの統一があって反権力運動のブランクがあったことである。ロシアでは十九世紀の初めから一九一七年まで、ほぼ一世紀にわたる反権力の思想の連続があった。日本では明治維新における変革につづく急速な近代化が知的エリートを「完全雇用」にちかい状態にもっていくことに成功し、編成がえの摩擦として自由民権運動がおこったものの、指導者のおおくは権力の体制のなかにくみこまれた。

 体制からはみでた知的エリートが平民社に結集したときには、「原蓄」はすでにおわって資本主義体制が確立されていた。さらに、ロシアとちがって日本の島国としての地理的条件は、日本の革命家の亡命先をアメリカにだけ局限した。それはダイジェスト版マルクス主義をもたらしただけでなく、アメリカにおけるアナーキズムがロシアに十月革命がおこるまで日本の革命思想に大きい影響をおよぼすことになった。

 いまひとつ、日本のマルクス主義がながい苦難ののちに一本だちしたとき、十月革命がおこって、そのショックをうけた。

 以上のような事情が日本のマルクス主義をロシアのマルクス主義とちがった形のものにつくりあげたといっていい。以下、そのいくらかの特徴をひろってみたい。

 反権力の知的エリートの層がうすかったということから、日本のマルクス主義は、創造的な仕事よりも、翻訳にその力をそそがねばならなかった。弾圧のひどさが、翻訳しかゆるさなかったということもあるが、マルクス主義のなかでの国際的水準に達する理論を『平民新聞』『直言』『大阪平民新聞』『社会主義研究』のなかにみつけることは困難である。わずかに十月革命以後の山川の論文にみるぺきものがあるだけである。

 マルクス主義とアナーキズムとの分離が、ずっとおくれたということも、それが、弾圧によって小さなサークルのなかにとじこめられていたということによって説明されるだろう。

 キリスト教社会主義の『新紀元』からも自己を区別し、改良主義の『社会新聞』とも対立して、解散させられた『日刊平民新聞』の代用として大阪でだされた『大阪平民新聞』(のち『日本平民新聞』と改題)には、日本のマルクス主義者が集まったが、ここでも、社会主義と無政府主義とは区別されていなかった。(森近運平、「春寒余録、」『日本平民新聞』明治41年3月5日号)

 したがって、どういう方法で権力とたたかうかについて明確なかんがえをもてなかったのもむりはない。一九〇七年に幸徳秋水は、東京の社会主義運動の沈滞の「重大なる原因」として「社会主義実現の手段及び運動の方針に関する意見の未だ一定」しないことをあげている。(『大阪平民新聞』明治四十年九月五目号)

 無政府主義と完全な分離がおこなわれるのは、ようやくさかんになった労働組合の運動におされて、「もはや札つきの社会主義者の団体ではない」、「多数の労働運動者、文化団体の代表者、進歩主義的な思想家」が参加して、一九二〇年に日本社会主義同盟を結成してからあとである(荒畑寒村『自伝』二六八頁)。プレハーノフが『社会主義と政治闘争』によって無政府主義の申し子のナロードニキから訣別してから四十年ちかくたってからである。

 アナーキズムとの訣別はおくれたけれども日本のマルクス主義者は支配権力としてのブルジョアとは、その生誕の日から対決せねばならなかった。日本の社会主義者は、日本は西欧の道をとるべきか否かという問題をかんがえる余裕はなかった。西欧化しつつある状況のなかにはじめからおかれていたからだ。大逆事件の犠牲になった大石誠之助は、社会主義の日本的な道について論じた数少い一人である。彼は「日本に於ける社会改革の運動は徹頭徹尾日本社会と言う畑地に自発誕生せるものでなくてはならぬ」という田添鉄二のことばに反対していった。

 「余が思うに、我等が運動の対象は現在日本の経済社会と産業制度であって其君臣の間に立入り国体の歴史を論ずるが如きは我等の問題の外である。……近世泰西に放ける資本主義の濁流が滔々として我国に注入し、古来の愛すぺき風俗と習慣とを破毀し尽して、今のいわゆる紳士閥(ブルジョア)なるものは我国が未だ嘗て歴史に於いて見たる事なき侮辱と掠奪とを平民の頭上に加えつつあるではないか。‥…然るに田添君が今に於いて尚お日本の歴史に執着し、我等の改革運動が日本に自発したものでなくてはならぬ、欧米社会運動の翻訳であってはならぬというは、恰も敵が舶来新式の機関砲を採って平民軍に当るに対し、我等はどこまでも昔の弓矢甲胃を以て之を防がねばならぬというが如く、あまりに愚直にして亦迂闊きわまる説ではあるまいか。…‥資本家の運動方法がすでに万国的のものとなった今日に於いて、我らは如何で小さき日本的の手段を以て之に対抗することができようか」(禄亭生「読緑蔭漫五」『大阪平民薪輔』明治四十年月九二十日号)。

 彼ら明治の社会主義者たちは、明治の末期をもって「資本家の全盛時代」(日本平民新聞』明治四十一年五月五日号)と感じ、それにたいして、山川均は「主力と主力との決戦」における労働者の「実際の武器」としての「総同盟罷工」を提唱したのだった。(同上十二月二十日号)

 日本の社会主義は生まれた日から資本主義とたたかってきたということは山川均にとっては自明のことであった。それだからこそ、昭和のロシア・マルクス主義の徒が、コミンテルン綱領によりかかって、日本を、スペイン、ポルトガル、ポーランド、ハンガリー、バルカン諸国なみの「中位の資本主義的発展段階にある国」とし、日本の革命を社会主義革命に転化するブルジョア・デモクラシー的革命だといったとき、反対したのは当然である。平民社から大逆事件をくぐりぬけ、大震災であやうく抹殺されようとしながら四分の一世紀をたたかったのが、ブルジョア・デモクラシーをもたらすためであるとは、ばかもやすみやすみいえという気持だったろう。山川均が日本の革命一段階説を固執したのは明治以来の革命家の心情にたってのことであった。

 山川の一段階説をさらにつよめたものは、十月革命のインバクトであった。彼はロシア革命の成功を「ブルジョア・デモクラシー制度が根底をおろす前に、之を無産階級革命に推し進め」たためであるとかんがえた(「普通選挙と無産階級の戦術」無産階級の政治運動、一七二頁)。したがって、日本でもブルジョア・デモクラシーの安定をさけるべきであるとしたのだった。

 無政府主義と分離し、革命一段階説を抱いて、サークルの中で純粋培養されたマルクス主義をひっさげて山川は大衆と近づこうとした。これが一九二二年の「無産階運動の方向転換」である。

 「日本における今日までの社会主義運動は、ごく少数の運動であった。……日本の社会主義は、今日にいたるまで、一度もまだ大衆的の運動となったことはない。……日本の社会主義運動は、過去二十年間を通じて、常に階級闘争と革命主義との上に立っていた。…‥われわれは思想的には純粋の革命主義者となった。…日本の無産階級運動──社会主義運動と労働組合運動──の第一歩は、まず無産階級の前衛たる少数者が、進むぺき目標を、はっきりと見ることであった。われわれはたしかにこの目標を見た。そこで次の第二歩においては、われわれはこの目標に向って、無産階級の大衆を動かすことを学ばねばならぬ。……『大衆の中へ!』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならぬ。……われわれの運動は大衆の現実の要求の上に立ち、大衆の現実の要求から力を得て来なければならぬ。」

 山川は「無産階級が小ブルジョア進歩主義のうちに溶け去ることなしに、独立した無産階級の政治勢力に結晶する」(「政治勢力の分布と無産階級の政党」前掲書三三〇頁)ために、「組合に組織せられた工業労働者と農民とを中堅とする」「全無産階級党たる目標に近い」政党を普選をまえにしてつくろうとした。

 まさにこのときに、福本がロシア・マルクス主義をカバンに入れて帰朝し、山川を小状況に終始する組合主義者として刻印をうったのであった。
 (『思想』1964年12月号から)

 説明

 本を整理していたら、この雑誌を見つけました。テーマは「現代とマルクス主義」となっていました。自分の頭で考えている人の文章だけパラパラとめくってみました。この論文は面白いと思いました。保存しておく価値があると思いましたので、ここに載せます。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加