マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

PTAの在り方

2015年09月04日 | ハ行

国策推進の道具になるな
 
 本音炸裂だった。約850万人が加入するピラミッド型組織、日本PTA全国協議会(日P)の頂点に立つ前会長の発言だ。

 ──PTAで「大人のいじめ」のようなことも起きています。
 「人が集まるところでは、いじめのようなことは起こるものです」

 ──(PTAへの不満の背景には)共働きの増加など家庭環境や時代の変化があるのでは。
 「『共働きだから忙しい』という理屈はよく分かりません。私が一番忙しいと思います」

 立ち話ではない。フォーラム面で5月に5回続けたPTA特集と、読者約3千人の声を受けたインタビューでのことだ。

 PTAは入退会自由だが、実際には保護者は入会を拒みにくい。そして、多くの公立小中学校のPTAは、保護者が払った会費の一部を上部団体に上納し、PTA大会や講演会に保護者らを動員する。日Pの前会長は、フォーラム面のデジタルアンケートで過半を占めたPTA不要の声の真意を聞かず、「帰属意識や規範意識、地域を思う気持ちなど、PTAは人間形成にもってこいの場」、「安定した日本の労働力を確保することにもつながる」と主張した。

 日P会長は、地元のPTA会長、市や県のPTA連合会の役職を兼務することが多く、歴代の役員たちの多くは「自営業」「子ども複数」「男性」だ。保護者の代表というにはあまりに偏っている。

 4年前からPTAを取材してきた私は、保護者が有休を使ってPTAの生け花教室に参加したり、子どもを家に残して宴会でお酌をさせられたりする話にはもう驚かない。

 強い同調圧力の中で、親は「子どもが人質になっている」と感じ、会費の使途や活動内容が不透明だと思っても口には出せず、貴重な時間と気力を浪費させられていく。楽しく役立つPTAがある一方で、ブラック企業と変わらないような「ブラックPTA」も放置されているのだ。

 心配なのは、PTAが国の政策にお墨付きを与えたり、国の政策を上意下達で家庭に広めたりする装置として利用されかねないことだ。

 日P会長は中央教育審議会の委員でもある。前会長はシンポなどで、保護者間で意見が割れる道徳教育について個人的な推進の立場で発言していた。一方、日Pは例えば原発事故後に給食の安全に関する要望を出していない。各地の親の切実な声を国に届けているとは言いがたい。

 安倍政権は学校を中心とした地域活性化の絵を描き、PTAも活用しようとしている。国が望む家族観や道徳観を広める道具にならないか。親たちの思いとは隔たりのあるPTAのリーダーたちも取材してきた私は、大いに危倶している。

(朝日、2015年08月04日。記者有論、経済部・堀内京子)

  参考・タテ場とヨコ場の権力

 東京の多くの運動は、自然保護にしても、障害児やフェミニズムや公害や民族差別の問題にしても、個別の問題について同意見の人々が寄り集まってうさ晴らしをしているきらいがある。労働組合にしてもそうだ。みな電車に乗って集まって会合をして電車に乗って散らばる。でも自分の町では保守政党の支配する町会に町会費を納めてオトナシクしている。「地域に根ざす」はほとんどの運動体のスロ−ガンだが、だいたいスローガンで終わる。一人の人間に職場でも地域でも何もかもやれというのは無理だけど、町場の方も何とかしなくては。
 と雑誌をたずさえ、勇んで入ってみた地域は聞きしにまさる前近代、疲れるところだった。とりわけ「町会」の強い東京の下町だからか、労働基準法も男女雇用均等法も通用しない世界だ。(中略)

 とにかく「若い」と「女」の二条件でもうダメ。「生意気」「女のくせに」「ただの主婦」「素人風情」など何十回いわれたかしれないが、徹底的にバカにされると気持ちがよいもので心が据わる。チャホヤされるよりバカにされた方が、よはど本音が聞け、モノが見える。警戒されないので自由に動けることもわかった。

 下町の町会や業者団体はほとんど行政の下請け、あるいは保守党の別動隊といってよい。さすがGHQに解散させられただけのことはあると妙な感心をする。選挙のときは町会青年部の面々がずらりジミントーの事務所にはりつく。日頃は区役所の印刷物の配布ルートになり、開発計画も町会長さえ集めて説明すれば、あとは町内政治で「俺の顔を立てて」ですんでしまう。何年かすれば区から表彰される。それが楽しみ。区民が個人で何をいっても、役所に行けば、町会が正当な代表だから町会を通じて言えという。

 だが、町会へは年々、加入者が減り、入っていてもお義理で月二百円を納めるだけで、関心も薄く活動への参加も少ない。一方、地域を足場に何かやりたいというグループはいまとても増えている。強大な生協のほか、地域雑誌、ギャラリー、読書会、コンサート、芝居や舞踏、スポーツなど文化的自己実現型のグループや、ハンディキャップをもつ人々の工房、普通学級や学童保育へ入れる支援活動、平和遺跡の記録、後楽園競輪反対やNO2、酸性雨の測定など教育、平和、環境、あらゆる面に無党派のさまざまなグループが登場しはじめた。

 こうしたグループには若くて行動的で創造力に富むメンバーが多く、しかも同時にいくつもの団体に所属している人が多いため、悪くいえば金太郎餞だが、よく考えれは、情報の流れが多層的で、知りあい方も濃い。子育てや共働きの悩みを分かちあいながら強固に結びついている。周年マンネリ行事型の町会とちがい、つねに新しいことを考え出しおもしろがっているからパワーがある。

 というわけで、現在の地域とは、町会など既存組織の形骸化した権力と、新しい諸集団の実質的パワーの変ないい方だが狷鷭展⇔肋態″のようである。そして前者はいわゆるピラミッド型のタテ社会であり、後者はネットワーク型のヒラ場の組織を基本とするので、これがどこでもマサツを起こす。簡単にいうと、町会が「代表とサシで話をつけたい」というとグループは「代表なんていないヨ」とかわす。グループが誰かれかまわず声をかけると町会の顔役は、「なんでオレのとこに話を通さない」とへソを曲げる。

 町会と下手につきあうと大変だ。根まわしと挨拶の世界なので、それにエネルギーの大半をとられ、やりたいことができなくなる。できるだけ公式なつきあいは避け、個人として仲良くしている方がよい。しかももう少し政治センスの鋭い行政側からは、私たちが行政の方針とちがった意見をもつだけで、あれはアカだ、過激派だというデマ宣伝が、町会のタテ社会にストレートに入るので、偏見を取り除くだけでも一苦労である。一度、ある町会長が「とはいってもあの連中は思想がある」と私たちといっしょにお祭りをやるのに難色を示したとき、別の商店会長が「思想もない奴に雑誌などつくられてたまるか」と反論してくれたことがあった。コップの中の嵐かもしれないが、けっこうスリリングな知恵くらべと闘いでもあるのだ。(森まゆみ著『路地の匂い町の音』旬報社1998年、102-5頁)

 感想

 東京でよつば牛乳の会をやっていた時、三里塚の農民の収穫祭に参加する機会がありました。トラックを舞台にしたいかにも農民的なお祭りで楽しかったです。それに続いて、高温殺菌のよつば牛乳と違って低温殺菌の牛乳の運動をしている団体の収穫祭にも参加しました。偉い方々がいるようで、その人達は胸に花のリボン飾りのようなものを付けて、別の所に座っていました。これは左翼系の運動らしいのですが、「へえー」と思いました。

 このよつ葉牛乳の会からはその後身を引きました。私が広報をしていたのですが、「あそこは何でも発表すると思われるのは拙い」という意見が出てきて、情報の公開が十分に出来なくなったからです。思うに、民主主義にとっては「情報の最大限の公開」と「言論の自由」とが最も大切です。これが欠けるとその組織ないし運動は堕落してゆくと思います。

 さて、今いる引佐町のその又田舎で、私は昨年(2014年)の3月末をもって自治会を退会しました。会費が1世帯月3000円で、自治会長の手当が年36万円であるのに賛成出来ない、というのが主たる理由です(私の自治会長の時は14万円でした。今はとなりの自治会と合併したので、こうなっています。その後少し減額されたみたいですが)。2回も自治会長をやって実績を挙げてありますから、何も言われませんでした。その後、二人の方が退会しました。地域の為に働く事は自分でやっています。独り身の老人に食べ物を持って行く事とか、道路の掃除や修繕とかが主です。






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誇るべき長寿企業

2015年09月03日 | カ行

 帝国データバンクの調べによると、創業100年を超える日本の企業は、2014年現在2万7335社で年1千社以上増えている。200年を超える社は3千社以上、最古は木造建築工事を行う大阪の金剛組で飛鳥時代に創業し、1400年以上の歴史がある。

 2位のドイツを大きく引き離して世界一の長寿企業大国である。島国で外敵からの侵略を免れたことが大きいが、勤勉に家業を守ろうとする国民性も企業存続に寄与している。

 長寿企業に共通する特色として、短期的な利益を追わず、長期的視野に立って経営し、人材重視で終身雇用が多い。実務を「番頭」格の社員に任せる所有と経営の分離型も目を引く。資金調達に関しては保守的で、質素倹約を旨とする。環境の変化に敏感で、本業を基調にしながら、新しい事業にも果敢に挑戦する。老舗の当主は「伝統とは革新の連続」で、事業の継承は経営者の継承という。引き継いだバトンを次の走者に渡すことが使命とも語っている。

 第2次世界大戦で焦土と化した国が奇跡的に早く復興したのは、全国各地で長寿企業が
それぞれ懸命に事業を立て直したことも大きい。地域の雇用を守り、文化事業にも貢献して、社会の安定に資している。

 株主重視で短期の利益を追い求める米国式経営が幅を利かせつつある現在、日本の企業風土にあった日本古来の長寿企業のあり方に改めて注目すべきではないか。大部分が中小、中堅企業で一つ一つは地味な存在だが、草の根で日本を支えており、日本の底力となっている。

 「継続は力なり」だ。長寿企業には秘められた力があり、学ぶべき点が多い。日本の誇るべき存在だ。     (朝日、2015年08月11日。経済気象台、提琴)

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Die Logik der Selbstprüfung des Bewusstseins bei Hegel

2015年09月01日 | Deutsche Abhandlungen

             Original: japanisch
MAKINO Noriyuki

 Was in der 'Einleitung' zur Hegelschen "Phänomenologie des Geistes" gesagt ist, könnte sich der Reihe nach in den folgenden 9 Punkten resumieren lassen.

1. Die Kritik gegen die damals herrschenden Gedanken: das Werkzeug des Erkennens solle vor dem Erkennen selbst geprüft werden.

2. Da eine wahre Theorie selbst bei ihrem ersten Auftritt so gut wie jede andere eine bloße Erscheinug ist, muss sie auch ihre Wahrheit entfalten, was diese "Phänomenologie des Geistes" ausmachen wird.

3. Die Phänomenologie des Geistes ist eine Vollendung der Verzweiflunmg des Bewusstseins.

 4. Die Bestätigung der Wissenschaftlichkeit der Phänomenologie des Geistes und der Vollständigkeit der Gestalten des Bewusstseins.

 5. Das Ziel der Fortbewegung des Bewusstseins ist ein wissenschaftliches Wissen, dessen Erzielen notwendig ist.

 6. Das Bewusstsein ist fähig, aus eigener Kraft die immer höhere Stufe zu erreichen, und der Steigenshebel, der Maßstab für die Selbstprüfung des Bewusstseins, befindet sich im Bewusstsein selbst.

 7. Mit dem Formwechsel des Bewusstseins ereignet sich auch der Wechsel seines Gegenstandes.

 8. Der Unterschied des Standpunktes zwischen uns und dem Bewusstsein. Das Tun des Bewusstseins könnte man als 'Erfahrung des Bewusstseins' bezeichnen.

 9. Das Verhältnis der "Phänomenologie des Geistes" und der "Wissenschaft der Logik".

 Nun liegt unser Interesse vor allem auf dem sechsten Punkt, einer sehr bekannten Behauptung, das Bewusstsein sei fähig, von sich selbst die Schranken jeder Stufe zu überwinden und von einer niedrigeren Stufe auf die höhere zu steigen. Im Bewusstsein selbst gebe es den Maßstab für Selbstprüfung des Bewusstseins. Deshalb brauchten wir (der Philosoph) nur zuzusehen, wie das Bewusstsein das tut.

Bei der Erläuterung der "Phänomenologie des Geistes" werden zwar diese allzu bekannten Worte immer wiederholt, habe ich jedoch noch nie die Auffassungen dieser Behauptung durch den Schreiber gelesen, und was für ein wirklicher Inhalt mit den Worten Hegels gemeint ist, bleibt längst noch nicht erklärt. Handelt es sich philosophisch eigentlich nicht darum ?

 Den gewähnten Punkten 4 und 5 folgend sagt Hegel so;

 Es würde dienen, etwas über die Methode der Ausführung der Selbstreinigung des Bewusstseins zu erwähnen. Diese Darstellung scheint nicht ohne irgendeine Voraussetzung stattfinden zu können. Denn die Prüfung besteht in dem Anlegen eines angenommenen Maßstabes. Aber hier, wo die Wissenschaft erst auftritt, hat die Wissenschaft sich nicht als das Ansich, den Maßstab, gerechtfertigt.

"Dieser Widerspruch und seine Wegräumung wird sich bestimmter ergeben, wenn zuerst an die abstrakten Bestimmungen des Wissens und der Wahrheit erinnert wird, wie sie an dem Bewusstsein vorkommen. Dieses unterscheidet nämlich etwas von sich, worauf es sich zugleich bezieht; oder wie dies ausgedrückt wird: es ist etwas für dasselbe; und die bestimmte Seite dieses Beziehens oder des Seins von etwas für ein Bewusstsein ist das Wissen. Von diesem Sein für ein Anderes unterscheiden wir aber das Ansichsein; das auf das Wissen Bezogene wird ebenso von ihm unterschieden und gesetzt als seiend auch außer dieser Beziehung; die Seite dieses Ansich heißt Wahrheit. ……

Untersuchen wir nun die Wahrheit des Wissens, so scheint es, wir untersuchen, was es an sich ist. Allein in dieser Untersuchung ist es unser Gegenstand, es ist für uns; und das Ansich desselben, welches sich ergäbe, wäre so vielmehr sein Sein für uns; was wir als sein Wesen behaupten würden, wäre vielmehr nicht seine Wahrheit, sondern nur unser Wissen von ihm. Das Wesen oder der Maßstab fiele in uns, und dasjenige, was mit ihm verglichen und über welches durch diese Vergleichung entschieden werden sollte, hätte ihn nicht notwendig anzuerkennen." (Suhrkamp Verlag ‘Werke’ Bd.3, S.76)

Kurz, wäre dann eine Selbstprüfung des Bewusstseins nicht unmöglich? Hegel antwortet selbst;

 "Aber die Natur des Gegenstandes, den wir untersuchen, überhebt dieser Trennung oder dieses Scheins von Trennung und Voraussetzung. Das Bewusstsein gibt seinen Maßstab an ihm selbst, und die Untersuchung wird dadurch eine Vergleichung seiner mit sich selbst sein; denn die Unterscheidung, welche soeben gemacht worden ist, fällt in es. Es ist in ihm eines für ein Anderes, oder es hat überhaupt die Bestimmtheit des Moments des Wissens an ihm; zugleich ist ihm dies Andere nicht nur für es, sondern auch außer dieser Beziehung oder an sich; das Moment der Wahrheit. An dem also, was das Bewusstsein innerhalb seiner für das Ansich oder das Wahre erklärt, haben wir den Maßstab, den es selbst aufstellt, sein Wissen daran zu messen." (ibidem S.76-7)

So ist es. Davon, dass es außer dem gewussten Ansich auch das Ansich selbst gibt, geht Hegel sofort und unmittelbar dazu über, dieses Ansich 'das, was das Bewusstsein innerhalb seiner für das Ansich oder das Wahre erklärt' umzunennen. Er gibt keine weiteren Erklärungen dazu und geht unbekümmert weiter, mit der Annahme, es sei mit dem Beweis von der Möglichkeit der Selbstprüfung des Bewusstseins fertig.

 Wie sollen wir das auffassen? Sollen wir Hegel widersprechen, da das Ansich und das, was das Bewusstsein für das Ansich erklärt, nicht dasselbe sind. Nein! Wir müssen uns eher überlegen, was Hegel damit wirklich meint, anhand seiner Gleichsetzung der beiden. Denn es ist erstens eine nicht zu negierende Tatsache, dass das Bewusstsein von einer niedrigeren Stufe auf eine höhere steigt, seine Selbstprüfung ist zweitens dazu unentbehrlich, die logische Struktur dieser Selbstprüfung muss drittens unbedingt erklärt werden und zum Schluss versucht Hegel gerade diese Struktur zu erklären. Mit der Feststellung dieser vier Punkten hat man jetzt keine Schwierigkeiten dabei mehr, Hegels Worte zu verstehen. Man braucht nur die Stellen zu studieren, wo er diese Methode angewendet hat.

 Die sinnliche Gewissheit, die erste Gestalt der “Phaenomenologie”, 'meint', das Einzelnste als solches auszudrücken, indem sie ihren Gegenstand mit 'Dieses' ausdrückt. Das heißt, das, was sie für das Ansich erklärt (die Seite des Ansich), ist das Einzelnste. Sie kommt jedoch in ihren Erfahrungen zu der Erkenntnis, dass jeder Gegenstand mit 'Dieses' ausgedrückt werden kann, und dass das, was sie in Wirklichkeit mit 'Dieses' ausdrückt (die Seite des Wissens), nicht das Einzelnste, sondern das Allgemeinste ist. Das heißt, das Bewusstsein misst innerhalb seiner an dem Maßstab des angeblichen Ansich das, was wirklich damit gemeint ist, um die Erkenntnis zu bekommen, dass sein Wissen seiner angeblichen Wahrheit nicht entspreche. Es wird sich nämlich seines Irrtums bewusst. Kurz, das, was Hegel für die dem Bewusstsein gehörende Wahrheit bezeichnet, ist das, was es zu wissen meint. 'Das Wissen des Bewusstseins' ist dagegen der Inhalt als socher, den es in Wirklichkeit weiss. So gefasst, würde man ohne Zögern zugeben, dass es im Bewusssein eigentlich diese zwei Seiten gibt.

 Um es anschaulich zu machen, möchte ich hier ein sehr alltägliches Beispiel nennen. Ein gewisser Herr A will, sagen wir, den 7 Uhr Zug nehmen und kommt zum Bahnhof nach seiner Armbanduhr um 6:50 Uhr. Der Zug ist aber leider schon weg, denn seine Uhr geht 15 Minuten nach. Bei diesem Beispiel meint er, um 6:50 Uhr gekommen zu sein. Das heißt, sein 'Meinen' macht das Ansich aus. In Wirklichkeit aber kommt er um 7:05 Uhr und er wird sich dessen bewusst. Das ist die Seite des Wissens. Natürlich geschieht dann zugleich in seinem Bewußtsein die Vergleichung des Wissens mit seinem Meinen; eine Selbsterkenntnis seines Irrtums. Er hatte um 6:50 Uhr kommen sollen, das heißt, er hatte auch in Wirklcihkeit so tun sollen, wie sein Meinen sagt. Das Fazit: in diesem Fall macht sein Meinen das Ansich aus.

 Vor allem muss man feststellen, dass objektiv falsch zu sein und sich des Irrtums bewusst zu werden zwei verschiedene Dinge sind. Wenn man das zugibt, muss man demnach diesen Unterschied einen gehörigen Platz in der Erkenntnistheorie einnehmen lassen. Eine kindische Widerspiegelungstheorie, die mit Selbstzufriedenheit behauptet, dass die Erkenntnis Widerspiegeln sei, und dass man sich durch die Vergleichung desselben mit dem Objekt seines Irrtums bewusst werde, könnte die Philosophie keinen Schritt weiter forttreiben.

 Intellektueller Fortschritt eines Menschen setzt eigene Erkenntnis seines Irrtums durch den Menschen voraus. Darin ist zugleich enthalten, dass man in diesem Kopf seinen falschen Zustand (oder seine falsche Erkenntnis) mit dem richtigen (od. der richtigen) vergleicht. Zwar gibt es zwei Arten des Irrtums, einen, der der Natur einer gegebenen Bewußtseinsstufe gehört, und einen zufälligen, versehentlichen. Bei den beiden Fällen aber ist es dasselbe, dass man in seinen Erfahrungen sein Meinen mit der Wirklichkeit vergleicht, um zur Selbsterkenntnis seines Irrtums zu gelangen.

 Was Hegel in der Einleitung zu seiner "Phänomenologie des Geistes" interessiert, ist der erstere. Indem er dann die zwei Seiten des Bewußtseins aufwies, erläuterte er die Logik sowohl des Selbsterkennens des Irrtums durch das Bewußtsein als auch seiner Ueberwindung des Fehlers . Und die beiden Seiten sind das Meinen des Bewußtseins und die Wirklichkeit oder die gewusste Wirklichkeit. Und die beiden sind für das Selbsterkennen jedes Irrtums unentbehrlich.

 Das ist der wirkliche Inhalt von der Lehre Hegels über den doppelten Charakter des Bewußtseins.

(Original:Japanisch; 1971)

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「文法」のサポート、詳細索引・um

2015年08月31日 | 「関口ドイツ文法」のサポート

156──伏在主語を表す

260──差を表す

386──A um Aは一つ一つ念を入れる感じ

387──Stunde um Stunde

428──伏在主語を表す

449──伏在主語を使う文でのan, in, umの違い

578──時刻の表現

815──直後に引き続いて生ずる事実を指すum

1418──伏在主語を表す


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NHKの無駄づかい

2015年08月30日 | ア行

NHK、余った“皆様の受信料”でムダ遣い&贅沢三昧

 厳密に言えば税金ではないが、「国民から徴収した受信料」で経営しているNHKも、ムダ&ぼったくりの温床だ。先月、NHKは社屋の建て替えを発表、その莫大な建設費が問題となった。その額、3400億円。六本木に移転したテレ朝の社屋の建設費500億円の実に7倍近くという規格外の建設費。元NHK職員で現在は「NHKから国民を守る党」代表で船橋市議会議員の立花孝志氏は、「初めに3400億円使うことありきでソロバンを弾いた」のだと指摘する。

「NHKは累積黒字が2000億円もあり、国会でも問題となって受信料の10%値下げを行うはずだったのですが『不景気で契約率の低下もある』と7%の値下げにとどめたのです。ところが、2011年度は223億円の黒字。受信料値下げを避けるため、長期計画になかったものが急浮上してきたのが、社屋建て替えです。それを口実に、値下げへの圧力を回避しようとしているのです」

 立花氏は「そもそも建て替えの必要性も疑問」と語る。

 「大阪府庁舎のように戦前から使っている建物はほかにもあるし、今まで免震強化はまったく計画になかったのに、建て替えとともに免震強化が突然言われるようになった。

仮にそれが必要だとしても、3400億円もいらないはず。番組制作設備、送出・送信設備などを、必要性のあるなしにかかわらず、高額なものを新たに買い揃えることによって、建て替えの予算を膨らましていったのでしょう。

 NHKはもともとコスト意識が希薄なのです。例えば、番組を作る際も予算の枠内ではなく、言い値で番組を作れてしまう。それでも予算を使い切るのは大変だから、余ったお金で職員給与を高くする。NHKの職員の平均年収は1800万円です。今どき非常識なほど高い。籾井会長が仕事ではなくゴルフに行ったハイヤー代を経費で落としたことが問題になりましたが、その程度の経費の不正使用はNHK内では常態化しています。

 そこまでして余っているお金を使うくらいならば、受信料の値下げという形で視聴者に還元すべきなのですが、どんな使い先であっても自分たちで使ってしまおう、という発想なのです」

 あり余る予算の使い道に苦心するNHKだが、その一方で強引な受信契約の取り次ぎや受信料の取り立てが問題になっている。表向きには「皆様の受信料で成り立っている」と言いながら、陰ではこうしたムダ遣いが横行しているのだ。

NHK関連事業 ワースト5】

1位:NHK社屋建て替え

番組制作設備、送出・送信設備等、内部設備だけでテレ朝の約3倍という規模。同じ場所で建て替えるため工事が長期化、最終的には4000億円を超えるという予想もある

2位:NHK受信契約営業予算

NHKの営業予算は年間760億円。
受信契約を増やすための予算だが、これだけ予算をかけて受信契約数が劇的に増えるわけでもなく、費用対効果で大いに疑問

3位:NHK職員の人件費

NHK職員の人件費は年間約1800億円。1人あたりの平均年収は約1800万円となる。年金、職員寮、保養所も充実。籾井勝人NHK会長は年収3000万円以上

4位:独占放送権料

NHKが相撲協会に支払っている大相撲の放送権料は年間約30億円。かつては民放も放送していたが、現在はNHKだけが中継。「独占」の名のもと高い放送権料を支払う

5位:NHK番組の記念品

番組記念品は個別の番組の予算に含まれ、全体予算では計上されていないがムダが多い。その管理はずさんで、NHK職員がキャバ嬢などに無造作に配っているという報告も

取材・文・撮影/横田一 SPA!税金ぼったくり取材班

(SPA!、2015年8月27日から。ネット配信されたもの)
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ウィンクラーさんのお墓

2015年08月29日 | 読者へ

 7月30日の記事「ウィンクラー氏の生涯」に「はまちゃん」さんがコメントを下さいました。ウィンクラーさんの墓を訪ねて横浜の外人墓地へ行ってくださったとの事です。それで分かった事は、平日には人を墓地内に入れないということ、写真撮影は禁止されていること、です。

 では、スケッチをして、それを写真に撮ってブログにアップすることなら出来るということでしょうか。裁判では写真撮影が禁止されていますが、新聞社はそのようにしてスケッチを紙面に載せていると思います。

 絵心の有る方でそれをしてくださる方はいないでしょうか。勝手なお願いですが、よろしくお願いします。

8月29日、牧野紀之

     関連項目


ウィンクラー氏の生涯
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映画「ジミー」 映画「生きる」──批判は易しく、創造は難しい(再論)(その1)

2015年08月19日 | ハ行

1、ケン・ローチ監督の映画『ジミー、野を駆ける伝説』
2、牧野の批評
3、黒澤明監督の映画『生きる』
4、牧野の批評
5、「われら無期囚」
6、安保法制反対運動
7、メルケル独首相
8、小林秀雄の政治家論
9、真の政治的シンクタンクを
10、ソーシャル系の台頭
11、終わりに


 1、ケン・ローチ監督の映画『ジミー、野を駆ける伝説』

 この3月にケン・ローチ監督の『ジミー、野を駆ける伝説』を見ました。原題はJimmy’s Hallですが、「ジミーの作った集会所」という意味でしょう。ケン・ローチ監督の作品をみるのは『大地と自由』に続いて2つ目です。私には映画を論ずる資格があるとは思っていませんが、社会思想に関心のある者としてこの際、表題のテーマで一言せざるを得ません。

 この映画を見ていない人とも一緒に考えられるように、まずあらすじを確認します。極めて優れたあらすじ紹介をAさんのブログ(でしょうか)『ハニカム』とかいうウェブ・マガジン(2015年01月15日)からそのまま借用します。

──『ジミー、野を駆ける伝説』の時代背景は、カンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得した2006年の『麦の穂をゆらす風』と同じくアイルランドの近代史である。後者では、1920年代初頭のイギリスからの独立運動、イギリス・アイルランド条約調印、さらには条約をめぐる内戦を、或る兄弟の悲劇にフォーカスして描いたが、本作の舞台はそれから約10年後となる。1932年、かつて土地の借用権をめぐる闘争に関わり、いわれなき罪でニューヨークに渡る羽目となった元活動家のジミー・グラルトン(バリー・ウォード)が、10年ぶりに祖国に帰ってくるシーンから始まる。

10年前にジミーが建て、現在は閉鎖されてしまった「ホール(集会場)」は、いまや伝説として、未来の見えない若者たちの憧れとなっている。そこでは老若男女が音楽や芸術やスポーツを学び、ダンスに興じ、人生や政治に関わる自由闊達な議論を行うのだ。

久方ぶりに踏んだ祖国の地で静かに暮らそうと思っていたジミーだが、若者たちの声に押されて、「ホール」再建を決意する。そして、再び「ホール」は地域住民たちの交流の場として機能するようになるが、それを快く思わない教会や、地主、警察権力といった保守勢力との乱轢も生じていく……。

 まさにローチ作品のヒーローそのものであるジミーの、痛快なまでの「まっとうさ」に惚れ惚れする。と同時に、本作にはここ最近のローチの作風の変化も反映しているように思われる。『麦の穂をゆらす風』には終始、不穏な空気が漂っていたが、本作は厳しい現実の中にも、常に心地よい風が吹き抜けているのだ。ジミーを演じるバリー・ウォードのキャラクターに負うところも大きいだろう。

 また、ラストで主人公に厳しい現実を突きつけ、スパッと幕を下ろすことの多かったローチだが、近年の作品では、終わりかけにうっすらと希望の曙光を覗かせることも増えている。本作もまた、ハッピーエンドではないが、どこか明るい光の差すラストとなっている。

 ただ、それはむしろ、社会がいよいよシャレにならないほど(かつてのフィクショナルな想像力を越えるレベルで)過酷な状況となっている、というローチの現状認識からきているのかもしれない。この徹底した「まっとうさ」の先に希望が見えないのだとしたら、それほど絶望的なこともないからだ。むろん、ここ日本も無縁ではない。(引用終わり)

 2、牧野の批評

 描き方は少し変わっているのかもしれませんが、いずれにせよ、闘争としては「敗北」するのです。この主人公は又ニューヨークに渡ってその後更に10年間生きて死ぬそうです。しかし、そこでどう生きたかとか、自分のこれまでの戦い方をどう反省したかは描かれていません。映画監督としては、こういう映画を作ることで記念碑を立てたのか、未来に希望を託したのかもしれませんが、私見では「闘争は(少なくとも、最後には)勝たなければならない」と思うのです。そして、勝利する道筋を持っていなければならないと思うのです。しかし、世に出ているものには、ほとんどの場合、この勝利への展望が示されていないのです。在るのは、好く言っても「未来への希望」、悪く言うならば「負け惜しみ」でしかないと思うのです。

 1930年代のスペイン内戦を舞台にした同監督の映画『大地と自由』でも同じだったと思います。これはスターリン主義的共産主義運動の悪質性の批判にはなっていると思いますが、そしてそのこと自体は大切な事だと思いますが、「闘争としては」民主派ないし(スターリン主義者達の謂うところの)トロツキスト派は「負ける」のです。スターリン主義者に対しても、従って又フランコを首領とするファシスト達にも。確かに闘争ですから負ける事もあるでしょう。しかし、負けた場合に、「負けたけれど、我々は正しかったのだ」「戦ったのだ」と負け惜しみを言って自己満足するのはいただけないと思うのです。「自己満足などしていない」と反論するならば、「負け戦をどう反省して、その後どのように戦っているか」を発表しなければならないでしょうが、それがありません。その後の生き方が暗示さえされていないのでは、「映画」としてはどうか知りませんが、「思想」としては決定的に不十分でしょう。

闘争は勝たなければならないのです。アメリカの公民権運動で歌われた歌の題名にあるとおりWe shall overcome somedayという目標を持っていなければならないでしょう。敗北の原因を研究し、勝つためにはどうしたら好いかを考え、提案する、そしてそれを一緒に進めるのが社会思想家なのだと思うのです。

3、黒澤明監督の映画『生きる』

 同じ頃、朝日新聞の土曜版の連載「映画の旅人」の最終回としてこの『生きる』が取り上げられました。DVDで再度見てみました。又、同じ問題を考えました。これのあらすじも優れたもの(Bさんのブログ『お薦め映画』)がネットに出ていますので、それ(1999年08月31日)を借ります。

──無気力、無感動な人生を送ってきた定年間際の地方公務員の男が、自分の余命があとわずかだと知ってから、公僕としての自分の仕事に目覚める。人間として自分は何をすべきかに目覚める。そして何よりも「本当に生きる」ことに目覚める…。「社会派・橋本忍」の脚本が光りに光った黒澤映画の最高傑作である。1952年、東宝。黒澤明監督作品。

 市民課長の渡辺勘治(志村喬)は役所でも毎日の生活でも、文字通り「死んだような」生活を続けていた。ところが或る日、彼は自分は胃がんであることに気付かされた。死をすぐ目前にして初めて、ようやくこの主人公は自分のこれまでの人生に疑問を抱き始める。このまま死んでいいものかと思い悩むのだ。

 一人寂しく飲んでいた居酒屋で知り合った三文小説家(伊藤雄之助)に案内されて、渡辺課長はパチンコ店、ダンスホール、バー、ストリップ劇場などをはしごする。生まれて初めて夜の歓楽街を体験したのだが、果たしてこれが自分に残された時間でやりたかったことなのだろうかと渡辺課長はふと疑問に思う。さらに翌日からは、退屈な役所の仕事に嫌気がさして辞表を出しに来た若い女性職員(小田切みき)と一緒にお茶をしたり、スケート場や遊園地や映画館に行ったりして遊び回るが、それでもやはり胸につかえた思いは消えない。

 三十年間を無欠勤で通してきた渡辺課長は、役所を何日も無断欠勤して遊び回った。異例な出来事はさまざまな憶測を呼んだ。渡辺課長にすれば「一人息子のために三十年間がむしゃらに働いてきた」との思いがあるのだが、そんな父親の気持ちを息子(金子信雄)はもちろん、息子の嫁(関京子)もだれも理解してはくれない。自分が胃がんであることさえ息子に告げられない。そんなもどかしい気持ちを彼は、役所を辞めたばかりの若い女性にぼそぼそと語り出した。

 「何かしたい、でも何をしたらいいか分からないんだ…」「私は今は工場でおもちゃを作っている。課長さんも何か作ってみたら」「役所で何が…」「あそこじゃ無理ね」「もう遅い…。いや、遅くない、あそこでもやればできる、ただやる気になれば…」

 渡辺課長はそこで突然、何かを思い付いたかのように立ち上がって喫茶店を後にするのだった。ちょうどその時にたまたま、喫茶店で誕生パーティーを開いていた女子学生たちの「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」の合唱が渡辺課長の後ろ姿にかぶさる。まさにこの瞬間こそが、渡辺課長の「本当の人生」が誕生した時だったのだ。だらだらしていた状況はここから一気に展開していく。

 役所に復帰した渡辺課長は、たらい回しにされてほこりをかぶっていた黒江町の暗渠(あんきょ)埋め立ての陳情書を引っ張り出した。面倒くさいだけなので、だれもが放置していた陳情案件だった。「そんなの無理です」と言う市民課員に、渡辺課長は「やればできる」と動き出す。市民課が主体となって、公園課や土木課など関係各課を次々に説得して回るのだった。そして5カ月後、渡辺課長は死んだ。自分の造った公園で一人寂しく…。

 通夜の席に、新聞記者たちが「助役さんに会わせてくれ」と詰めかけた。
記者「あの公園を造ったのは、表向きは市の公園課と地区の市会議員と、そして助役さんの尽力となっていますが、本当は渡辺さんじゃないんですか」。助役「公園を造るのは公園課の主管事項でね」。

記者「しかし、何度か立ち消えになりそうだったあの公園の計画を、最後まで粘ってまとめあげたプロモーターは渡辺さんではないのですか。開園式の時に渡辺さんが無視されて一番隅の席に座っていたことに、同情の声が集まっています」。助役「自殺でも、覚悟の凍死でもない。渡辺君の死因は胃がんだ。胃がんによる内出血だよ」

 取材不足の記者たちはそこで引き下がった。だが、通夜の席には白けた空気が漂った。みんなは公園ができた事情をよく知っているからだ。居心地が悪くなって渋い顔で酒を飲み続ける助役(中村伸郎)が、沈黙に耐え切れなくなって口を開く。「どうもね…。新聞記者のものの考え方や神経は…。役所というものについて無理解なのは困ったものだね。役所の機構というものを知らな過ぎる。黒江町の公園にしても、世間には渡辺君が造ったと考える向きがあるが、おかしな話だ。あくまでも市民課長の職権内でのことであって、市民課長が公園を造ったなどというのはナンセンスだよ」。後ろめたいからこその冗舌さである。

 「ごもっともなことです」と、いちいちうなづく市役所職員たちが情けない。気をよくした助役が「あえて言えば公園課長、土木部長が功労者だ」と言うと、土木部長は「私たちは仕事を事務的に進めただけで、あれほど事情の入り組んだ市会をうまくさばいた助役こそ最大の功労者です」と調子のいいことを言い出すのだった。

 そこへ、黒江町のお母さんたちが「ぜひお焼香させてほしい」と大勢でやって来た。居並ぶ市役所幹部たちの前で、泣きながらお焼香をする人々。そんな姿を目のあたりにして、さすがの幹部連中もバツの悪そうな表情で下を向くだけである。だれが公園建設を実現したかを、これほどまでに雄弁に物語るものはほかにはないだろう。さすがにいたたまれなくなったのか、助役たち市の幹部連中は逃げるように帰って行くのだった。

 残った市民課や公園課の職員たちは「あの公園は政治の力でできたんだ」と話し始めた。「設計・予算・工事の施行は公園課の仕事なんだ」「役所にはちゃんと縄張りがあるんだから」「役所というのはそういうところなんだ」。あくまでも愚劣な役人根性に心底あきれ返ってしまう場面だ。

 しかし実際にやる気のない各課の役人を動かしたのは、連日のように担当各課に通い詰めた渡辺課長の熱意と粘りだった事実はだれもが認めざるを得ない。公園を造り上げるという目標だけが、弱り切った渡辺課長の心身を支えていた。残されたわずかな時間のすべてをかけ、渡辺課長は全力を挙げて「本当の仕事」に取り組んだのだ。

 「そうなったら、われわれだって渡辺さんのようにやるよ」と口をそろえる小役人たち。これには「だったら最初からやれよ」と思わず突っ込みたくなる。ところがこの期に及んでもなお、小役人たちは「役所というところは何もしちゃいけないところなんだ」「あの複雑な仕組みの中では何もできないんだ」などとうそぶくのだった。怒りを通り越して涙が出てしまう情けない台詞が延々と続く。黒沢監督はそんな情けない小役人の姿を徹底的に描いて見せた。

 雪の降る公園でただ一人ブランコに乗って、本当に楽しそうにしみじみと「命短し恋せよ乙女…」と歌いながら死んでいった渡辺課長。しかしその人生の締めくくりは実に充実していたのだ。彼は決して空しく孤独に死んでいったのではない。人生の最後の最後になって、渡辺課長は精いっぱい自分の人生を燃焼し尽くして生ききったのである。

 「僕はやるぞ。渡辺さんの後に続くぞ。生まれ変わったつもりでやるよ」などと通夜の席で殊勝にも誓い合う小役人たちだったが、しかし翌日も役所にはいつもと変わらない風景があった。彼らは結局はそれまでと同じ「何もしない生活」を続けるのだった。のんべんだらりと書類に判子を押すだけの風景は何も変わらない。一見、抵抗するかのような素振りを見せた職員(日守新一)にしても、書類の山に埋もれるだけで実際には何もしようとはしなかった。「いろいろ難しいんだよ。やりたくてもできない事情というものがあってね」。そんな言い訳が聞こえてきそうな場面だ。やるべきことがあるのに何もしない人たちは、何もしようとしないことの言い訳を常にいくつも用意しているのだろう。

 けれども、渡辺課長が人生の最後にやり遂げた「本当の仕事」は確実に残った。薄汚なく不衛生だった暗渠はきれいな公園として整備され、地元の人たちの生活に欠かせない存在として立派に残されたのだから。「やろうとさえ思えばできる」「やる気さえあればできる」ということを渡辺課長は事実として証明してみせた。それは本当なら、必ずしも死期が迫っていなくてもできるはずである。市民のかけがえのない税金を使い、市民生活を豊かにするための「大切な仕事」を与えられているはずの全国の公務員に限らず、これはどんな職業に就いている人にも言えることだろう。「できない」と言うのは実はやろうとしないだけであって、やる気がないことを隠すための言い訳に過ぎないのだ。

 映画公開から五十年近く経ったというのに、少しも色あせない内容である。人間が生きることの本質を鋭く突いた最高の脚本と演出は、何回見ても感動で胸が詰まる。それとともに黒澤監督はこの作品を通して、民主主義の在り方と公務員の本来あるべき姿勢とを実に分かりやすく具体的に描いて見せたのだった。(引用終わり)

4、牧野の批評

論者は、「『やろうとさえ思えばできる』『やる気さえあればできる』ということを渡辺課長は事実として証明してみせた。それは本当なら、必ずしも死期が迫っていなくてもできるはずである。市民のかけがえのない税金を使い、市民生活を豊かにするための「大切な仕事」を与えられているはずの全国の公務員に限らず、これはどんな職業に就いている人にも言えることだろう。『できない』と言うのは実はやろうとしないだけであって、やる気がないことを隠すための言い訳に過ぎないのだ」と言いますが、本当にそうでしょうか。問題はそのような「個人の心構え」の問題でしょうか。黒沢監督は解決策は示さず(示せず)に、ただ「本当の意味で生きている」と言える生活とそうでない生活とを対比的に示して、解決策は観客に任せたのではないでしょうか。あるいは、本当に生きるには「死」を直視する必要があると、言いたいのではないでしょうか。

5、「われら無期囚」

それを考えるのに好い文章があります。

──小柄な囚人が、頭痛を訴えて医務室へやってきた。が、具合が悪いというのにひどくはしゃいでいた。しきりにシャレをとばす。笑い声をあげる。笑いながら不意に涙をうかべる。奇妙な泣き笑い。陰気な拘置所のなかで、かれの振る舞いはいかにも唐突だった。
 「かれは何かを恐れ、同時に何かを楽しんでいました。その異常な心理は、新米精神科医として着任したばかりの私には、まったく了解できませんでした」と小木貞孝上智大学教授は回想する。

 「かれは死刑囚だったのです。その異様な心理に魅入られ、日本全国の拘置所の死刑囚をたずね回りました」。面接した四十四人の死刑囚。その八割が、最初に医務室であった小柄な囚人とそっくりだった。かれらには、はちきれんばかりの感受性があった。何を見ても何を聞いても、かれらの心には鮮明に、感動的に刻みこまれるようだった。とにかくせわしないのである。ひと晩に二十句も三十句も俳句をひねり出す老人。難解な本をたて続けに読破する青年。すばやい筆の運びで絵をかきまくるにわか画家。バー・メッカ殺人事件の正田昭〔昭和二十八年、東京・新橋のバーで証券ブローカーを絞殺、現金を奪った〕は三年の間に、一人の女性に三百通もの手紙を書いた。一人一人が実に個性的にハツラツとしていた。かれらの生活は、一日一日が猛烈に濃縮されていた。

 だが、無期囚たちは違う。初めて無期囚たちに会った精神科医はみんな奇妙な体験にとまどう。面接調査を終えて宿舎に戻ったとき、途方にくれてしまうのである。会ったばかりの囚人たちの印象がたがいににじみあって、個人個人を区別し思い出すことができないのだ。 空色の囚人服が同じだからではない。無期囚たちの応対の仕方から動作、話し方、表情までが、あまりにも似ていて、そこには個性のカケラもないからなのだ。

 小木教授は死刑囚と比較対照するため千葉刑務所に何日も泊まりこんで観察した。無期囚たちは感動するということがなくなっていた。芸術や人生哲学などと無縁であった。塀の外の世界にも興味を示さない。関心は看守のごきげんとか今夜のめしは何だろうとか、そんな身辺のことに限られている。視野はせばめられ、単調な生活にもあきることがない。刑務所の役人に対しては従順そのもので、卑屈でさえある。囚人たちは毎朝一定の時間に起こされ、あわただしく洗面をすませ、毎日ほとんど同じメシをたべ、隊列を組んで工場へと歩く。自由時間にスピーカーから流されるラジオ放送も、あらかじめ刑務所が選択したものだ。

 かれらに関するすべてのデータは、ボール紙で表紙をつけた身分帳にとじこまれていく。過去、入所時の性格・心理・知能テストの結果、刑務所内での規則違反……。身分帳にたくわえられた情報を、囚人をとりまく役人たちは自由に見ることができる。が、当の本人が自分の身分帳をみる機会は永遠にない。がんじがらめの規律。四六時中の監視。そんな刑務所生活が、かれらの自発性、個性を奪ってしまうのだ。いわゆるプリゾニゼーション(刑務所ぼけ)である。刑務所に入れられた囚人たちは、初めささやかな反逆を試みる。スリはせっけんを失敬し、殺人犯はほかの囚人とけんかしてケガをさせる。みごとに個性を発揮するのだ。しかし、四年もたつと、個性は急速に薄れてゆく。時間がすべての個性を洗い流し、飲みこんでゆく。十年もたつと「反逆」も個性もまったく消える。

 死刑囚と無期囚。どちらも大半が殺人犯だ。教育、遺伝、経歴に違いはない。とすれば、この二種類の囚人たちの心の違いは素質的な差によるものではないといえるだろう。死刑囚を変えたのは、確実にやってくる死であった。南方の島で玉砕した日本兵たちは、前夜飲みあかし、ゲラゲラ笑い、泣き、実に多感だったと生き残り兵はいう。がんを宣告された学者や作家、そして死刑囚にも、傑作を残す人が少なくない。死に向かいあうと人間の精神生活はひどく濃密になる。

 一方、無期囚には死へのせっばつまった恐れはない。そのかわり、自由のない単調な生が続く。そして、すばらしい作品を残した無期囚の話はあまり聞かない。では、塀の外のわれわれは──。毎日、ハンで押したようにラッシュアワーを出勤する。勤務先では看守ならぬ上役の、最近とみに精細をきわめてきた管理の目にさらされる。自分に関するデータは、囚人番号に似た社員番号とともにコンピューターという名のスマートな身分帳に記録される。仲間で酒を飲んでの話題といえば、無期囚同様、上役の悪口、社内人事……。「無期囚らしさを身につけたとき、囚人は模範囚と名づけられるんです。模範囚と模範社員とは似ていると思いませんか」。作家である小木教授は、ペンネームの加賀乙彦の顔になってニヤリと笑った(朝日新聞科学部『心のプリズム』朝日文庫、181-4頁。改行を少なくしました)。

 この文を読んで先の映画『生きる』に帰ります。渡辺課長は言わば死刑囚だったのです。死がすぐ先に見えていて、首も配転も恐れる必要はなかったのです。それに対して、まだ20年前後もの先のある現役公務員は無期囚なのです。首になる可能性は少ないとしても、上司に楯突くと配転とかで不利なことになる可能性があるのです。それによる自分と妻子への影響を考えざるをえないのです。

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批判は易しく、創造は難しい(再論)(その2)

2015年08月19日 | ハ行

 6、安保法制反対運動

 安保法制反対運動が盛り上がっています。私は60年安保で出合った問題を追求し続けてきた者として以下のような考えを持って行動しています。

 出発点になる事実としては、安倍内閣の支持率は急降下しているが、政党の支持率ではほとんど変化がないという点、及び特に憲法改正問題では顕著ですが、それ以外の問題でも、世論調査の結果と議員の意識調査の結果との乖離が極めて大きいという点を取り上げます。

 まず前者ですが、これは何を意味しているでしょうか。野党、特に民主党に対する不信だと思います。逆に言えば、多くの人々は「自民党政権下でもう少し常識的な政策を実行する内閣に代わってほしい」と思っているのでしょう。こうなったのは、民主党には政権担当能力の無いことが証明されたが、その後反省もしておらず、行動も変わっていないからでしょう。民主党は以前の社会党と同じく、「反対するだけの党」だと思われているのです。実際、私もそう思います。

 しかも、「一般大衆」だけでなく、平均以上の見識を持っていると思われる識者も事実上「ではどうしたら好いのか」という問いに明確な答えが出せていないのです。これが本当の問題だと思います。その1例としてCさんのブログの最後の言葉を引きます。

──私たちは今、そういった「立憲デモクラシーの危機」の真っただ中にいる、ということを決して忘れてはならない。そして、一刻も早くこの危機的状況を打開しなければならない。(引用終わり)

 つまり、「危機的状況を打開するにはどうしたら好いか」は分からない、というのです。この論者は、別の機会に、「危機的状況は2014年12月の総選挙で安倍自民党が圧勝した時から始まった」と書いていましたが、私は、それは民主党政権の大失敗が「政権交代」の可能性をゼロに近い所まで引き下げたことから始まったのだと思います。

 では、民主党は政権を握ったのに、なぜ手放さなければならなかったのでしょうか。政権担当能力がなかったからです。行政組織の実情を知らず、それの意義を理解していなかったからです。民主党の最初の総理であった鳩山由紀夫は、「(普天間基地の移転先は)最低でも県外」などという寝言を言って潰れました。防衛の問題では日本がいかにアメリカと深く結びついているかを知らない坊ちゃん総理らしい醜態でした。次の総理の管直人は、首相になる数年前の選挙期間中に「私が総理に成ったら、1ヶ月で諫早の潮受け堤防を開けて見せます」などと叫びました。実際には、管は総理を1年余務めましたが、そして裁判所で「開門」の判決が出たにもかかわらず、開門出来ませんでした。厚生大臣として、エイズ関係の資料を部下に命じて出させたくらいの事で、「何でも出来る」と過信していたのでしょう。

 これらは民主党のトップがいかに行政の仕組みと難しさを理解していないか、研究していないかを証明するものです。政治主導とは行政官僚を無視することではないのです。官僚の知識と能力を活かして、正しい目標に向って導くことなのです。骨身にしみた民主党は3人目の野田総理で完全な官僚丸投げに転落しました。

 7、メルケル独首相

 日本の総理の情けない様子に比べるとひときわ目立つのがドイツの総理大臣メルケルです。今では「EUの女王」とも言われているそうです。この3月にメルケルが来日した際には朝日新聞は別刷りでドイツ特集を作りました。しかし、ここには日本のジャーナリズムの低さが出ていたと思います。その特集記事の見出しを並べてみましょう。

 漫画「ダーリンは外国人」の著者・小栗左多里さんの「人目ぼれの街、宝探しの感覚」
 編集部の記事「伝統の楽団、前衛のテクノ」
 ベルリン・フィルコンサート・マスターの樫本大進さん「どの街よりも開かれている」
 編集部の記事「EV充電器街に溶け込む」
 編集部の記事「激動伝える二つの博物館」
 編集部の記事「造形学校の美意識継ぐ」
 編集部の記事「多彩な料理映画祭でも」
 ピアニストのアリス・紗良(さら)・オットさんの「発展的で人間的」
 特別編集委員の冨永格さんの「名車生み出す進取の気風」
 編集部の榊原謙さんの「捕虜が伝え、深めた交流」

賛美一色です。これでは困ります。『八勝二敗で日本の勝ち』とか同じく『九勝一敗で日本の勝ち』とかいう本を出している川口・マーン恵美は極端としても、それ程辛い点を付けてはいないが、様々な側面を伝えている熊谷徹などにも一文を書いて貰うくらいの見識があっても好かったのではないでしょうか。

一番困るのは、政治を論じたものがゼロだという事です。本当の問題は、「なぜメルケル首相は10年間も政権を担当していることが出来るのか」ではないのでしょうか。それが論ぜられていないのです。その後には例えば次のような報道もありました。

──ドイツのメルケル首相が5月10日、モスクワを訪問した。ロシアのプーチン大統領と並んで、クレムリン近くの無名戦士の墓に献花し、第2次世界大戦中のドイツと旧ソ連との戦いの犠牲者を悼んだ。首脳会談では親ロシア派武装勢力による東部の支配が続くウクライナ情勢を話し合った。
 首脳会談の冒頭、プーチン氏は「ナチズムとの戦いで亡くなった方々を悼むために訪れたことに感謝する」と述べた。メルケル氏は「戦後70周年の機会に、ここに来ることが非常に重要だった」と応じた。
 会談後の記者会見でプーチン氏は、メルケル氏やフランス、ウクライナ両国の大統領と4人で2月にまとめたウクライナ東部の停戦合意の履行が重要だという考えを強調。メルケル氏は親口派、ウクライナ政府側の双方が合意を守っていないことに懸念を示した。
 独政府によるとメルケル氏は、5月9日にモスクワで開かれた対独戦勝70周年記念式典を欠席し、翌日にプーチン氏と共に献花することについて、電話でプーチン氏に直接提案したという。欧米の首脳が軒並み記念式典を欠席した中での訪ロについて、メルケル氏は2日の映像メッセージで「ロシアと意見の相違は深いが、戦没者を共に追悼することは重要だ」と述べ、国民に理解を求めた。
 ウクライナヘの介入を正当化する機会になりかねないロシア主催の式典は欠席するが、敗戦国として戦没者慰霊の姿勢を示すと同時に、経済の結びつきが強いロシアとの関係改善の糸口も残しておくための妥協策とみられる。
 ロシア側も、「欧州の盟主」と目されるドイツとの関係維持には気をつかっている。タス通信によると、プーチン、メルケル両氏今年、今回の首脳会談までにすでに2回会談し、電話室で16回意見交換した。」(朝日、2015年05月11日。モスクワ=駒木明義、ベルン=玉川透)

 ギリシャの経済困難などでは相手に自己改革を求める強硬な姿勢を貫いて相手の一部からは憎まれていますが、他方難民の受け入れでは最も多くの人を受け入れることもしています。カリスマ性はもちろん派手さはゼロですが、仕事はきちんと遣っているのです。つまり、「情に囚われる事なく、冷静に全体を見て、国益に最適な手を打っている」という事なのだと思います。「哲人政治こそ政治の理想」と言われますが、その理由はこの「冷静に全体を見る」点にあるのではないでしょうか。

 私が自治会長に成ることになった時のことです。或る人が「牧野さんで大丈夫か」と公然と疑念を口にしました。この人は中卒ながら才覚を発揮して中小企業の経営陣にまで上り詰めた人です。それだけに自信もあるようですが、いかんせん、学問がなく、視野が狭いのです。まあ、その場は他の人が「我々の組で責任を取りますから」と収めました。1年後、私の任期は無事どころか、多くの改革をやって終わりました。不文律で処理されていた事を文書化してはっきりさせました。その人は「牧野さんが自治会長やって好かったよ」と言ってくれました。しかし、行政のトップの条件は何かは分からないようです。世の「有識者」でも分からないのですから仕方ないでしょう。

 8、小林秀雄の政治家論

 これを考えるのに好都合な文章が「天声人語」(朝日、2015年08月08日)に載りました。

──「批評の神様」と呼ばれた小林秀雄は、「僕は政治が嫌いです」と公言していた。「僕の思想は反政治的です」とも。しかし、政治から目を背けていたわけではない。政治という人間の営みについて、一つの冷徹な見方を持っていた。
▼政治とは崇高な仕事であり、政治家とは人々を導く偉人であるといった考え方を小林は取らない。『学生との対話』に収められた質疑応答で、民主主義は日本を救うかと問われ、政治はそんな大層なものではない、とたしなめている。
▼小林の考えでは、政治とは「事業」である。みんなで社会を作り、うまく生活していくための方法にすぎない。「私の人生観」という講演では、政治は「一つの能率的な技術となった方がいい」と語っている。誠に実務的、散文的な政治観だ。
▼となれば英雄は不要。政治家は「社会の物質的生活の調整」にあたる技術者であればよい。「政治家」と題する古い文章が、きのう発売の文芸誌『新潮』で発掘されたが、ここで小林は、大臣という存在を「才腕ある事務員」と表現している。
▼政治を突き放して見る。過剰な期待を抱かない。なぜなら、ファシズムに見られるように、熱を帯びすぎた政治は「兇暴な怪物」となって、私たちを「食い殺し」かねないからである。そうした苦い洞察が、小林の冷めた政治観の根っこにある。
▼選挙権年齢が18歳以上に引き下げられ、主権者教育のあり方が問われる。その教材の書棚の一角に、これらの小林の作品が並んでいてもいい。(引用終わり)

 政治嫌いの小林は政治をきちんと研究していないので、狭義の政治家と行政官僚との区別と関係という大問題を考慮していないようですが、まあそれは大目にみましょう。しかし、それに気づかない天人筆者はいただけません。これが朝日新聞のレベルなのでしょう。

 9、真の政治的シンクタンクを

私も小林の考えに「一応」賛成します。政治は「技術」であり、政治家は「事務員」で好い、という考えです。但し、「才腕ある事務員」は放っておいても出てくるものではないと思います。正しい政治教育が必要なのは前提として、それだけでなく、そういう「事務員」を生み出すシステムを作る必要があると思います。又、この「事務員」は「権限」を持っていますから、「事務員」はいつでも「権力者」ないし「独裁者」に転化する危険を持っています。ですから、それを防ぐシステムも又必要です。それ以上に問題なのは「無気力トップ」です。「長」と名の付く地位にある公務員(市長、教育長、校長など)を見ていますと、「毒にも薬にもならない」という言葉が思い出されます。実際、無気力な「長」ほど世の中を毒している存在は他にないと思います。

では、これらを防ぐにはどうしたら好いでしょうか。私はそれを「真の政治的シンクタンク」に見いだします。つまり、民間にも公的な官庁に対抗する組織を作るということです。その仕事は、断片的に発表される情報を体系的にまとめる事です。そして、公務員の活動を日頃から監視することです。「議員に通信簿を付ける会」はあちこちにあるようですが、これを全ての議員について組織的に行うだけでなく、全ての公的組織について行うのです。そして、選挙に出て、本当の政治主導を実行するのです。こういう準備をしてきた人でなければ、給料をもらって何十年もやっている公務員を使いこなすことはできないでしょう(すべての公務員が悪いのではありません)。

 こういうシンクタンクは堺屋太一と野口悠紀雄との対談で言われていました(雑誌『文藝春秋』2010年10月号。ブログ『マキペディア』の2011年12月21日に転載。その要旨は下記に箇条書きにしました)。しかし、両氏には先頭に立ってこれを作り、育てようという意志はないようです。

 松下政経塾が出来た時、多くの人が漠然と期待していたのもこういう人材養成機関だったのではないでしょうか。しかし、単なる実業家にすぎない松下幸之助には政治と行政の難しさは分からなかったようです。政経塾出身者の議員は増えましたが、その人達の仕事が必ずしも芳しくなかったので、今では政経塾への期待は消えました。

 では「才腕ある事務員」たる政治家(議員)を生み出すシンクタンクはどのような条件を備えていなければならないでしょうか。先の堺屋・野口の対談の要旨の第5点は「官僚の力の源泉」についてこう述べています。

 ──なぜ官僚が力を持っていたのでしょうか。理由はいくつかありますが、官僚の力の基本的な源泉は、情報を独占していることです。
 この場合の情報には2種類あって、ひとつは制度に関する情報。たとえば年金制度や税制は非常に複雑で、仕組みを正確に知らなければ政策論ができません。これを知るだけで大変なエネルギーが必要です。
 もう1つは、今現在進行中の事態についての情報。徴税であれば、事業所得の実態がどうなっているのか、といった類の情報です。官僚は、この2つの情報を独占することで、その力を推持し続けてきました。
 官僚は情報の収集のみならず、その発信も独占しています。そして業界との癒着が官僚の力を下支えしています。(引用終わり)

 もちろん「真の政治的シンクタンク」は独立した財源を持たなければなりませんので、費用は基金を作ってその基金の運用で賄うのは大前提です。
そのシンクタンクの仕事の第1点は、「公務員(政府及び官庁など。学校なども含む)の活動を学問的に正しく、かつ分かりやすい形で発表したホームページ」を作ることでしょう。これを日々改良してゆくのです。

 第2点としては、これをベースとして、研究員は自分の出る選挙区(及びそれと関係の深い地域)については独自のホームページを作り、又住民と接触してゆくのです。

 第3点として、このシンクタンクの研究員の条件は以下の通りです。ー,料挙に出ること。その際、選挙の供託金(これが高すぎるのも改善する必要があります)はシンクタンクから出してもらえること。落選は3回まで認められること。但し、どの政党から出るかは、自由とします。「全体」を見て判断すれば、その後の考えは自由ということです。△泙箸發糞詬燭支払われること。但し、選挙に通ったら、給与の1割をシンクタンクに寄付すること、次回の選挙で落選した場合は研究員に戻れること。C△掘活動が不十分な場合は、解雇されること、などです。

 これによって、先に指摘した「議員の意識と国民の意識との大きな乖離」は克服できると思います。今では、多くの国民にとって選挙に出ることは大変なリスクなのです。

10、ソーシャル系の台頭

 最近の『ダイヤモンド』誌によると、安保法制反対運動でソーシャル系の若者たちはデモなどには加わらず、距離を置いているそうです。「反対」を言うのではなく、自分の力で正しい在り方を実現しようという考えのようです。

 私はこの動きに注目しています。思うに、資本主義は封建社会の中にあってそれに代わる経営を実行し、実力で封建的経営を打ち勝ったのです。ですから、もし社会主義を信奉するならば、資本主義社会の中で社会主義的経営を実行して、資本主義的企業に勝てば好いと思います。つまり、ワーカーズコレクティブ(略称「ワーコレ」)です(『小さな起業で楽しく生きる』ほんの木刊、2014年)。と、こう考えて世の中を見回して見ますと、すぐにも気づくのは消費生活協同組合です。これはかなりの実績を挙げているようですが、これはマルクスの軽蔑するロバート・オーウェンの始めた仕事です。生産活動の面でも労働者の協同組合で、例えばトヨタ以上の自動車生産会社を経営して見せるべきでしょう。こういう実績もないのに、力で政治権力を握って経済を上からの命令で改革しようとした所に「原理的な無理」があったのだと思います。

 政治の分野でもソーシャル系の政治集団が出来ると面白いと思います。かつてベ平連は「ベトナム戦争反対」という個別的な問題で政治運動の新しい形を示しましたが、一般的な形での政治団体の在り方で新しいものが来ないものでしょうか。上に述べました「真の政治的シンクタンク」はそういう動きの基礎を築くことになると思っています。

 私自身も「批判だけではダメで、代案を提示し、実行して見せなければならない」と考えてきました。学生時代、我々はこれを「否定一般はない」という言葉で表していました。その「代案」が出せなくて、教授連中に笑われました。しかし、苦労の末、哲学については『生活のなかの哲学』その他を出し、哲学教育については『哲学の授業』にまとめた実践を作り出し、ドイツ文法については『関口ドイツ文法』を出し、そしてドイツ語教育については『辞書で読むドイツ語』の改訂を重ねて「一応の完成」にたどり着きました。

 しかし、本当の目的である「公正な社会を作る」は実現していません。「本当の学校」も作りたいと思っていたのですが、ともかく実業家的才能が無さ過ぎました。まだ完全に諦めた訳ではないのですが、もう75歳に成ってしまいました。

11、終わりに

 行文の中には書きにくかった重要点を2つ、最後に書いておきます。
映画『ジミー』のチラシを見ると気になる言葉があります。「手を見て下さい、爪には泥が。僕は学者ではない」と「野を駆け、野に生きた労働者」です。ここには20世紀中頃までの「古い社会主義運動」の固定観念が好く出ています。労働者であること自体を「偉い事」だと思い込み、学者である事や学問を、口ではどう言うかに関係なく、心の底では軽蔑する考え、ないし態度です。難しい言い方をするならば、労働者の立場と労働者階級の立場の区別を理解出来ないことです。学者であることは偉くない事でもなければ、悪い事でもありません。社会運動の指導者には或る程度以上の「本当の学問」が必要です。労働者である事自体は偉い事でもなければ、偉くない事でもありません。労働者階級の立場に立っているか否かだけが問題なのです(『ヘーゲルと自然生活運動』に所収の「労働者の立場と労働者階級の立場」を参照)。

 映画『生きる』では、真の問題は首長(市長、町長等)にあることが監督にも脚本家にも分かっていないらしいことが問題です。助役は出てきますが、区長(市長?)が出てきません。「組織はトップで8割決まる」のです。しかし、監督はこれを意識していません。問題の解決策を提示できなかったのは当然です。

公 務員の世界は軍隊と同じです。その大きな枠組みでは命令で動いているのです。この映画で描かれたような働き方を変えられるのはトップである区長か市長だけです(田中康夫が長野県知事をしていた時は、公務員の態度は変わりました。なぜ長野県民は田中県政をもう少し長く続けさせなかったのでしょうか。理解出来ません)。しかるに、この「長」を選んだのは結局は市民なのです。市民にはこれについての反省が必要です。内閣支持率が変わっても政党支持率には変化がなく、本当の政党を作るにはどうしたら好いか分からない国民には、いつまでたっても「官僚主導政治」も「消化試合政治」も変えることはできないでしょう。

   付録・堺屋と野口の対談の主要点の箇条書き

 1、戦後日本の経済体制は、生産者優先、競争否定の理念の下、終身雇用、間接金融、直接税中心の中央集権的財政などを柱とした国家体制で、これは1940年ころに成立したものである。いわば消費者の犠牲のもとに供給側の成長を促し、外に自らの行政指導力を誇示していった。官僚主導と業界協調が人事的にも意思的にも一体となって経済成長に邁進していく。

 2、世界的に、1980年頃から、社会システムにおける官僚の影響力を減らし、自由化、市場化、グローバル化を進めようという流れが強くなった。ところが、その頃の日本はバブル景気を謳歌していて、世界の流れには無関心だった。

 3、かくして大臣の地位は限りなく軽くなる。今では大臣の方が官僚に遠慮している。官僚たちも所轄の大臣を無視して、直接官房長官や首相官邸に意見を具申するようになっている。金融庁でも、金融担当大臣よりも、金融庁長官の方が経験も人脈もある。だから、大臣が長官に遠慮している。

 4、小泉さんは、経世会の支持団体である農協組織や医師会、建設業界や郵便局ネットワークなどを潰そうとしています。その結果、職業の縁でつながった戦後の「職縁社会」を解体し、再び官僚主導に依存することになります。「職縁社会」を潰すのなら、それに代わる民の代弁機関、地域コミュニティや「好みの縁」でつながった政治力を育てなければならない。

 5、なぜ官僚が力を持っていたのか。理由はいくつかあるが、官僚の力の基本的な源泉は、情報を独占していることである。この場合の情報には2種類あって、ひとつは制度に関する情報。たとえば年金制度や税制は非常に複雑で、仕組みを正確に知らなければ政策論ができない。これを知るだけで大変なエネルギーが必要である。
 もう1つは、今現在進行中の事態についての情報。徴税であれば、事業所得の実態がどうなっているのか、といった類の情報。官僚は、この2つの情報を独占することで、その力を推持し続けてきた。
 官僚は情報の収集のみならず、その発信も独占している。そして業界との癒着が官僚の力を下支えしている。

 6、世間の多くの人は、官僚の意思決定は数多くのエリートが議論を重ねた上で1つの合意に至っていると思っているようだが、全く違う。かなり大きな政治的課題であっても、それこそ局長や担当課長、同補佐など、ごく少数の人間の意思がかなり重要なのである。

 7、確かに官僚が取り締まるべき分野をきちんと取り締まり、徴税、徴収を行なうことはもちろん重要だ。しかし、官僚が国の重要政策を決めたり、民間業界に恣意的に干渉していくようなことはやはり問題である。これを止めさせる方法は、宮僚が国家指導の主体としていかに信用できないかを、日本人1人1人がきちんと理解するしかない。

 8、官僚に握られている情報についても、業界や官庁とは別の所に民間のシンクタンクを置き、そこで独自に知的蓄積を図る必要がある。

      関連項目

批判は易しく、創造は難しい(第1論文)


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関口 語学苦心談1

2015年08月06日 | サ行

   私はどういう風にしてドイツ語をやってきたか
      (語学苦心談)

                    関口 存男(つぎお)著

                    牧野紀之注釈

お断り(注釈者)

 この文章が単行本の中に入れられたのは関口の『趣味のドイツ語』(三修社、1954年)が最初でしょう。その本の「はしがき」の最後に「この本は、実は数年前、『月刊ドイツ語』という雑誌を私一人で一年間隅から隅まで全部書いたことがあるので、その一年間の原稿を多少秩序立てて編集したものにすぎない」と書いています。又、池内紀(おさむ)はその『ことばの哲学──関口存男のこと』(青土社、2010年。以下「池内」と略します)の136頁でこの文章を「翌二十四年から一年間、『月刊ドイツ語』誌上に連載したエッセイ」としています。第3に、この本文では「私の年令は今年で五十……八だったかな?九だったかな?」と言っています。

 ですからこの「語学苦心談」の書かれたのは、第1の根拠に依りますと「1954年から数年前」ですから1949-50年ころになります。第2の池内説に依りますと1949年となります。第3の言に依りますと、関口の生まれた1894年から58ないし59年経った時ですから、1952年ころとなります。しかし、第3の発言は単行本に入れる時に訂正した可能性がありますから、額面通りには受け取れません。やはり第2の池内説を採るべきでしょう。第11節には「西暦2049年頃には」という句がありますが、これは「書いている時から100年後」という事なのでしょうから、やはり池内説で好いと思います。

 原文の漢字とかなとの使い分けとか、古い用語とかは、注釈者の考えで変えた所がかなりあります。

 原文には章節の区分がなく、全体が一つの文章で、関口独特の四角で囲った言葉で区切りを入れています。私はこの遣り方に賛成できませんので、それを「節」としました。(牧野紀之)

   内容上の小目次

  第1節、学歴
  第2節、最初の苦心
  第3節、14歳のときに決心
  第4節、最初、何にくらいついたか?
  第5節、最初おぼえたドイツ語はどんな風に頭の中へつめこまれたか?
  第6節、文例によるドイツ語文法を思い立って、文例整理ノートを設けた時のこと
  第7節、流読
  第8節、最初の自信
  第9節、精読と流読
  第10節 暗記について
  第11節 文化語学か実用語学か
  第12節、会話と作文
  第13節、暗記と記憶に関する私見
  第14節、関心と慾が決定的要素
  第15節 時間の利用
  第16節 放心と、老後の生活態度
  第17節 睡眠
  第18節 終わりに・肌の相違


 私のドイツ語苦心談がどれだけ参考になるかは疑問ですが、マア一席やって見ましょう。

     第1節、学歴

 まず身の上話から始めますが、私は皆さんのように正規に高等学校や大学を通って来た人間ではなくて、中学(姫路中学ですが)を2年でよして、それから大阪の地方幼年学校に入学(1)、陸軍士官学校を卒業、見習士官と胸膜炎とに同時になって、少尉に任官したら早速休職を仰せつけられ、その次は型の如く「お前はやめろ」と来た。成績はそう悪い方ではなかったつもりですが、いっぺん胸膜炎なんてものをやってしまうと、陸軍大学はどうせ体格でペケに決まっている、陸軍大学が駄目なら軍人をやったって仕様がない……こう思って、21歳で方向転換をしたのです。
(1) なぜかなりの倍率の入試を突破して入った名門中学を「中途退学」して「陸軍幼年学校」に転校したのか、つまり軍人の道を選んだのか、その理由が書いてありません。池内も19頁で、この点に関しては「くわしいことはわからない」としています。
 なお、生誕は1894年11月21日で、死去は1958年7月25日です。享年64歳、死因は脳溢血です。つまり日清戦争の始まった年に生まれ、敗戦を挟んで、日本の経済成長が始まったばかりで、60年安保の直前に死んだのです。

 えゝと、一寸申し遅れましたが、私の年令は今年(1952年?)で五十……八だったかな?九だったかな?(どうも自分の年という奴は困るものです、今年こそは断然覚えてやろうと思って年頭に断然覚える事もあるんですが、翌年になるとモウ違って来るので、しょっちゅう頭の中で混乱して今日に及んでいます。58というのも、ひょっとすると二三年前に覚えたやつかも知れません。家内に訊くと分かることもあるんですが)(1)。
(1) この「語学苦心談」は55歳の時点での「半生記」と言うべきものです。半生記というものは、その人がどういう人であったかを好く表していると思います。自分のこれまでを「全面的に」振り返って、残りをどう過ごせば良いかを考え直す好機のはずですが、全体として、関口はこのチャンスを正しく利用したとは言えないと思います。理由は後述します。ヘーゲルの『精神現象学』(1807年)はヘーゲル37歳の時の作品ですが、彼の「思想的半生記」だったと思います。こちらは思想界へのデビュー時点での「半生記」です。ここに予告されていた「学問体系」がその後変更された事を見ても、好い「反省」に成ったと思います。

 ドイツ語は、実はその幼年学校で学んだのです。幼年学校の事なんぞ知ってる人は大していないでしょうが、幼年学校では英語という奴は教えなかった。それは、士官学校へ行けばどうせ普通の中学で英語をやった連中が入って来るから、少数の幼年学校出身者にだけは英語以外をやらせておくというわけなんでしょう、とにかく地方幼年学校では、ドイツ語班とフランス語班との二組になっていました(東京の中央幼年学校では其の他になおロシヤ語班というのがありました)。競技などやる時には、いつも此の独仏両班が対抗するのですが、どういうわけか知らんが、どの幼年学校の話を開いても、優勝するのは必ずドイツ語班と決まっていたようです。こういう事を云うとフランス語班の人達はむきになって怒るが、事実だから仕方がない。

 また、妙な事には、ドイツ語班へ入って来る男とフランス語班へ入ってくる男とは、顔の感じが違うんですな。士官学校で各幼年学校の者が集って来た後、私は大阪から来た者以外に関しては何も知らず、誰が仏班で誰が独班かということは、別に徽章をつけているわけでもないから、本当は分からない筈なのに、顔の感じだけで言い当てたことを記憶しています。ちょいちょい間違うこともないではかったが、それでも十人について七八人まではピタリと当たりました。どう云うんでしょうかな?ドイツ語班へ入って来てder,des,dem,denとかgegangenとか何とかやっているうちに顔が段々gegangen 式になって来るのか、それとも、ゲーテのいわゆる親和力といったような以心伝心的な相互吸引作用があって、「おれはドイツ語をやろう」、「おれはフランス語にしよう」と決定する瞬間に、或る種の顔(従って性格)の持主はどうしてもドイツ語ないしフランス語の方へ微妙に吸引されてしまうのでしょうか?──これだけはいまだに不思議に思っています。

 小生の顔はここにご紹介申しあげた通りですから〔関口の顔写真は省きます〕、ドイツ顔というのはどんな顔かということは、これによってお察しを願います。若い時は顔中一杯無精ひげを生やしていましたが、終戦後は御時勢がニヤケて来たので、おれもニヤケなくちゃ不可んかなと思って、ほとんど毎日ひげを剃ることにしましたが、時間がかかって弱ります。

 どうしてドイツ語を選んだか? これはどうも、全然無意識にやったことで、理由なんぞ覚えていません。察するところ、英語が第一でその次がドイツ語、などという極く世間並な評価に従って、第一がないから第二にしたと云ったような、ごく無定見な考えだったのではないかと思います。それと、当時ドイツの陸軍は非常に有名だったからでしよう。なにしろ14歳の小僧のことだから、無理もない話です。

 14歳で気がついたが、なるほど、この点私は非常に条件がよかったんですな。普通の人はみんな高等学校や大学へ行ってからドイツ語をはじめるのに、私はそれよりも数年前にはじめたのだから、これは何と云っても一歩の長です。殊に14,5歳当時の数年という奴は、事語学に関する限り、非常に影響する所が大きい。語学と音楽だけは、とにかく早くはじめた者が得です。兎のように途中で昼寝さえしなければです(私は二三度昼寝をしたことがあります、殊に23、4歳頃、一時新劇に凝って、1〜2年の間ドイツ語のドの字も開けて見たことのない時期がありました、まさかドイツ語で飯を食うことになるとは思わなかったので……今の青山杉作君などといっしょに新劇の革新陣営をゴロゴロしていたのです。いまだって新劇はやりますよ、本当! 嘘と思うならやって見せましょうか? その代り下手だぞ……)。

     第2節、最初の苦心

 さて、14の時から始めて、大阪地方幼年学校でどう云う風にドイツ語をやったかという話に移りますが、こいつがなかなか厄介です。しかも、此の最初の苦心をよくお話するということが一番大切ではないかと思います。というのは、これは現に当時わたしと一緒に同幼年校にいた連中が(最高は中将、多くは少将または大佐程度で終戦になったと思ぃますが)まだおそらく300人や400人は生き残っているだろうから、わたしも嘘は云えず、また謙遜して嘘を云う必要もないから、自信を以て断言しますが、とにかく地方幼年学校の3ヶ年在学中に、断然ドイツ語が出来出したことは事実なんで、しかもそれが或る種の異常な努力と熱中との賜であったことは、当時の学友がすべて認めてくれるだけではない、むしろ所謂る「ひとつばなし」になって今でも残っているはずです。とにかく驚異の的だったのです。自分からこんな事を云うのはおかしいが、嘘は大嫌いだから、笑われても構わない、ハッキリ威張っておきます、とにかく驚嘆されたものです。しかも──ここが面白いのですが──自分ながら奇蹟としか思えないのです。

 努力と奇蹟、奇蹟と努力! これですな結局。若い時にやることが何か物になるとすれば、わたしはここじゃないかと思う。努力と奇蹟、奇蹟と努力!──努力が奇蹟を生む。そして奇蹟が努力を生むのです(前者は普通の修身講話になってしまうが、後者に注目していただきたい。自分でどう考えてみても、そんな努力ができた筈はないと思うのですが、何かの奇蹟で、とにかくやったものらしい)(1)。
(1) ラジオ深夜便には「私のがむしゃら時代」というコーナー(森田美由紀担当)がありますが、一家を為した人にはほとんど皆、「がむしゃら時代」があったようです。関口のこの回顧も「がむしゃら時代」の一種だと思います。

     第3節、14歳のときに決心

 どんな努力をしたかと云うと、一言にして云えば、つまり無謀きわまる事を企らんだのです。すなわち、ABCを教わり、発音の概略を会得し、やがて出るとか出んとか出すとか云う例の夫婦喧嘩みたいな所が終わって、とにかく自分で辞書が引けるようになった頃だったと思います(何時頃だったかはハツキリ記憶しません、あるいは一年生の始めの頃、あるいは半ばだったかも知れません)、語学以外は別に何一つむつかしい事もなし、ただドイツ語だけが全然新たな学科だったものですから、「よし、俺はこいつを物にしてやる!」と或る日決心したわけなんです。この決心には何のわけもない(1)、いわゆる断言命令的・盲目的・無茶苦茶的・駄々ツ児の意地張り的・天降り的・その他いろんな的決心だったので、しかも此の決心をすると同時に、何だかドエライ者になったような気がして、同輩の顔を見渡しても、なんだか自分より二三級位の下の連中みたいな気がしたことをおぼえています。
(1) これは「その選択の根拠が本人には意識されていない」という事でしょう。小さな頃に何かを選択する場合はたいてい「本人にはなぜかは意識されていない」と思います。しかし、それは必ずしも「何のわけもない」「客観的に何の根拠もない」という事にはならないと思います。私見では、人はその人の中に隠れている素質に対応して反応するのだと思います。関口は後にはハイデッガーの存在論を高く評価することになりますが、ヘーゲルの論理学には興味を持たなかったようです。これも、関口の素質の中に前者に対応する要素は多分にあったが、後者はほとんど無かったということだと思います。私は高校三年の夏までは「数学か理論物理をやろう」と思っていましたが、唯物弁証法という言葉を知るに及んで「哲学をやろう」と変えました。結果として正解だったと思っています。なお、親に強制されて何かを選ぶ場合があります。これは好い結果を生む場合もあれば、そうでない場合もありますから、親には余程しっかりした判断が求められると思います。

 幼年学校では上級生が下級生をなぐりに来るのは毎日の行事でしたが、最初は、何の理由もないのにポカポカなぐられると、くやしくて、夜消燈ラッパが鳴って床の中で一人きりになると、シクシク泣いたこともありましたが、此の「よし、おれはドイツ語をやって見せる、おまえたちなんかどうだって好いんだ!」という挑戦的決心をしてひねくれてしまってからというものは、いくら殴られても口惜しくも何ともなくなりました。その代り入学の当初は、しきりに父母がこいしくて、姫路ということを聞いただけでも、脱走して帰りたいほどセンチになったものですが、いったんこの決心をすると同時に、なんだか心が両親を離れたというのか、孝心が薄らいだというのか、だいいち親許へ手紙を書かなくなり、夜眠る前にすら故郷のことを考えなくなってしまいました。

 当時、上領という大尉の人が私たち12期生の生徒監で、この人の人格は思いうかべただけでもなつかしくて涙が出るようですが、この人も私にこういう転期のあったことは恐らく御存じあるまいと思います。しかし、或る時この人に呼びつけられて、深夜12時頃まで、おまえは近頃少しどうかしている、なにか悩みがあったら、今全部言ってしまえと言って、やさしく諄々とさとされた事がありますが、私は、しまいには泣き出してしまったが、そんな決心をしたことだけは遂に言わなかった。最も崇拝する人であったにもかかわらず、どうしても言えなかったのです。言えば理由を問われる。ところが、理由というのは、前述の通り、なにもないので、ただ駄々児の意地張りで、しかもこの決心に居直って世の中を見ると、どいつもこいつも自分より以下に見えるという、とにかく理屈では言えない自己救済的決心だったので、そいつを、自分の最も崇拝する上領大尉殿に詳しくジロジロ見たり批評されたりするということが堪えられなかったのです。

 ──けれども同大尉にはまことにすまなかったので、2、3時間1人きりで部屋の隅に立たされた後、一切の返事に代えて私は泣き出してしまいました。大尉は、口だけはきびしく「軍人が泣いたりしちゃいかん!」と言いましたが、顔は実にやさしい顔をして、小さな声で、「よし、もう好いから、かえって寝ろ」と言いました。私は外へ出てから、思い切って言ってしまおうかと考えましたが、しかし、そうすると、「同じ決心をするなら、ドイツ語なんて変なものに決心しないで、立派な軍人になる決心をしたらどうだ」と言われそうな気がしたので、そう言われると、軍人よりドイツ語の方が好いという理由はどうしても考えつかなかったものですから、悪いな、とは思ったが、そのまま寝てしまいました(その後、同大尉から私の父にあてて、関口は最近少し性質が変わって、陰険になる徴候があるから注意されたいという手紙が来たそうです。それまでは淡白な児だったと見えます)。

 14、5歳の少年でも、性格がすっかり変るほどの決心をすることがある、ということがこれでも分かりましょう。だから、少年が性質が変わったり、淡白でなくなったりしても、それをすぐ何か悪い事のように思うと間違います。少年には、多情多感な、すこぶる危険な時代があるのです。私のは、生れてはじめて両親の膝下をはなれ、しかも厳しい幼年学校へ入り、上級生には毎日ポカポカ殴られ、箸の上げおろしにまで一々文句を言われたので、入学当初の数ヶ月は、まるで世界が変わったようで、しかもまだ親しくつき合って打ちとけ合う友人といっては1人もなし、そのままで行ったら、あるいは飛んでもない不良になるか、あるいは親許へ逃げてかえって世間の物笑いになっていたかも知れないのです。この多情多感の危機を自から救おうとしてかじりついたのが偶然ドイツ語だったわけです。

 たとえば、お灸をすえるとき、感じのにぶい人は平気で我慢できるでしょうが、感じの鋭い人は、何か、下っ腹に力を入れるとか、誰かの腕をギュッと握るとか、とにかく何かにしっかりつかまって渾身の力を拳に集中しないと、熱さに対抗できないでしょう。それと同じことです。私も、まるで横っ腹の一番くすぐったいところにお灸をすえられるような多情多感な少年時代の危機に対抗するために、何かにかじりつこうとしたのです。するとドイツ語が一番手近かにあったきりの話です。若い人たちはこの話はわかつてくれるでしょうな?
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関口 語学苦心談2

2015年08月06日 | サ行

     第4節、最初、何にくらいついたか?

 ドイツ語を物にしてやろうと決心した前後の事情はだいたいこれくらいにしておいて、さて、その次には、その実行の模様を出来るだけ思い出して書いて見ます。これは大いに御参考になるだろうと思います。ただし、その実行方法が誰に話しても恥かしくない模範的なものだったから参考になるというのではなくて、模範的でないから参考になると思うのです。あんまり頭の好い人に読まれるとチョット困るんだが、どうせこんなくだらん記事を読む人にはそう頭の好い人も居まいから、思い切って正直に書きます。模範的でない人には模範的でない事の方が模範になるでしょう。

 とにかくですな‥‥‥とにかく決心すると同時に日曜日に(大阪の幼年学校に居たのですから)心斎橋通の丸善支店へ出かけて沢山ならんでいる洋書の前に立ったわけです。「とにかく本を買おう!」という気持でいっぱいでした。ところが悲しいことには何を買っていいか分かりません。うっかり医学書なんか買ってはつまらん……(堂々たる本はどうもみんな医学書らしいのです)と思って、あっちこっち見廻っているうちに、財布との関係もあるので、とうとう例のレクラム叢書ばかり詰まっている書棚の前に立って眺めはじめました。星1つが5銭だったと記憶しますが、あるいはもう10銭にもなっていたかも知れません。とにかく星1つがいくらと書いて貼ってあったから、安心して標題を眺めはじめました。ただ、店員が見ているので、辞書を出して引くことができないのには弱りました。

 とどのつまり買ったのは、非常に分厚い、星が7つ8つも付いているドストエフスキイの『罪と罰』の独訳です。私にとっては実になつかしい本です。なんと思ってこんな本を買ったかというと、ちょっと中を開けて見ると、1頁の中にistとかinとかichとかいう、既に充分知っている単語が、たてつづけに5つ6つ並んでいるところが眼についたからです。それと、とにかくウント分厚い本を買ってそれをみんな読んでしまうんだ!という、少年らしい、実に誇大な感情があったからです。星の一番多い本が偶然この『罪と罰』だったのです。

 この点は、我が事ながら非常に面白い。何の定見もなく、ただモウ膨大だったから買ったという事実……この事実が凡てを語っているように思われます。いったい若い者のやらかす無意味なことほど意味深いものはありません。若い者が何かおかしなことをしたら、教育家はその点を最も尊重すべきだということが分かります。

 さて、それをどういう風に読んだかというと、それが実に思い切った無茶苦茶な読み方なんです。学校ではまだやっと、御存じの方があるかも知れませんが、昔方々で使っていたGerman BookというHier ist ein Mannで始まっている読本の最初の半分ぐらいしかやっていない時に、しかも世の中の事を大して知らなぃ14歳の少年が、突然ドイツ語の小説を読み出したのですから、どんな風に読んだか大体察しがつくでしよう。というよりはむしろ「どんな風に読めたか」ということが今でも私自身には疑問です。とにかく、最初の一行からして全然意味が分からなかったのじゃないかと思います。単に、ところどころに istとかnichtとかHausとかschönとかいう分かる単語がないこともないので、そんなのが出て来ると大体その辺の意味がボンヤリ分かったような気がしたのじゃないかと思います。頭の好い少年なら、「こりゃあ全然分からん!こんな分からんむつかしい本に齧りついていては時間の無駄だ!」というハッキリした認識が起るでしょうから、好い加減に見切りをつけて、よしたかも知れません。ところが私はそういう実際的なことにかけては実に頭が悪かった。それに、大人に相談したり、先生に知恵を借りたりすることが大嫌いだった(初めての家に訪れる時など、人に道を聞くのなども、軽く聞け出したのは40歳近くになってからだと思います。今でも問題によると、どうも人の知恵を借りるのが嫌いです。どんなに損をしたって、損の方はいっこう痛く思わない、ただとにかく自分の思ったように下手なことをしないと生きているような気がしないという困った癖があります。つまり「頑固な病人」というタイプですな。学問上の事も然り。学界で80年も前に発見してしまっていることを最近自分で発見して感心しているようなことが沢山あります。人の忠告は、うがった忠告であればあるほどきらいです…‥)。ドイツ語の先生とは毎日顔を合せているのだから、相談すればきっと好い本を教えてくれたでしょうに(1)。
(1) しかし、関口は事実上、万巻の書を読んだのですから、「本を通して他人の知恵を借りる」のは嫌いではなかったはずです。そして、その読書の中にはヘーゲルの本も入っていました。が、残念ながら、『論理学』は読まなかったようです。

 ちっとも分らないままで5頁や6頁は読む人もあるかも知れませんが、私のように100頁も200頁も(しかも丹念に)読んだという人はあんまりないでしよう。私はそれをやったのです! 頭の好い人ならイヤになるところだが、私はいっこうイヤにならなかったのです。──意味が分からないままで読むと云っても、決して上すべりして字の上を滑走したというのではありません。とにかく「分かろう、分かろう」と思って、片っ端から辞書を引いて、辞書に書いてあった意味を何でもかんでもその語の妙な響きに結びつけて、そうして1行か2行を穴の開くほど睨みつけて、10遍も20遍も30遍も読みなおして、そして、ああじゃないか、こうじゃないかと、とにかく14歳の少年の知恵に及ぶ最後の限界まで考えつめたのです。

 とにかく……どうも「とにかく」が多過ぎるが、……とにかく人に言わせないで自分で最後まで考えることは子供の時から好きでした。女学校へ行っている姉がよく色んな謎をおぼえて来て私に課しましたが、姉のは一寸癖がわるくて、人に謎をかけておきながら、人が考えている最中に、からかいながら、答を露骨に暗示するような事をはたから云うので、よく怒って喧嘩したことをおぼえています。おしまいには、姉が謎を云うと、私は直ぐ裏へ行って、裏戸をあけて、耳に固く指をつっこんで考えたものです。

 つまりそれとおんなじ気持で、分からぬ本を1年半か2年ばかり挑めていたのです。途中、同県人の下宿で、誰だったかこの「罪と罰」の翻訳が出るとか何とか云ったのを偶然聞いたことがありましたが、その時の不愉快な気持は今でも一寸おぼえています。もちろん、そんな反訳などを参考にする気持はありませんが、とにかく、自分がこうして大事にして探っている一歩一歩の秘密が、翻訳家だか何だか知らないが、抑々世の中の誰かに、ちゃんと日本語に直せるほどハッキリ分かってしまっているのだ……という感じは甚だ不愉快なものでした。そういう偉い人に会ったとしたら、私はとても同席していることはできなかったにちがいありません。

 それから、とにかく、訳も分からないくせに、その本がとにかく非常に好きになりました。バラバラに破れてしまってからも、新なな表紙をつける気になりませんでした。とにかくその茶褐色の表紙が自分の命の一部分になってしまったので,それが白になったり緑になったりすることは考えられなかったのです(これを以て見ると、わたしのドイツ語勉強の発心は、精神的、内容的なものではなくて、全然外形的、動物的なものだったらしい。何が書いてあるか分からない本を、単に表紙の色に対する愛着から、1年半も2年も、毎日毎日とり出して、こんなに好きな表紙の本だから何とかして解りたいと思って一心不乱ににらめっくらしたのですからね……こう云う無茶苦茶な馬鹿な気持は、人に分かるかどうか、それがちょっと私にはわからないが……しかしこんなことは誰にもあるのじゃないでしょうか? 人間というものは、口ではみな相当立派な筋道立ったことを云うけれども、やっている事はみんな大体この程度の変なことばかりなのじゃないでしょうか?)。

 要するに、ちょっと1000頁近くもある本を、訳もわからねままに、2年ばかりかかって、数百頁読みました。するとどうでしょう、おしまい頃には、なんだか……分かり出したのです!

 「分かり出した」と言うと嘘になるかも知れません。「なんだか」分かり出したような気がし出したのです。この「なんだか」も実を言うと只今の私にはよく思い出せない。しかし、とにかく、こういう事はできます、すなわち、第1には、小説の中の筋が分かり出したのです。主人公のラスコルニコフはどうもこの女が好きになったのじゃないかという気がしはじめると、はたしてその通りになったりなどするのです。そんなことをしたって無駄じゃないかと思つて読んでいると、はたして作者が、「しかしそれは無駄であった」と言ったりするのです。これは正に私に話の筋が分かり出した証拠です(1)。
(1) 科学での仮説の正しさの証明法として、「予見性」があるのと似ています。どこかに書いたと思いますが、私も寺沢恒信のゼミに出ていて、3〜4年経った頃、「ここについては寺沢先生はこういう説明をするだろうな」と予想出来るようになり、それが大体当たるようになりました。囲碁や将棋では実力にかなりの開きがあると、上位の人は下位の人の指す「次の一手」を予見出来るそうです。更に広げて考えますと、私は、何らかの分野で能力に上下のある場合、上位の人は下位の人を正しく評価出来るが、逆は不可能で、下位の人は上位の人を正しく評価する事はできない、と思います。巷間の噂話では下位の人が上位の人について勝手な事を得意げに論評する場合も多いですが、「言論の自由」ですから、禁止は出来ませんが、学問的には笑止な事です。

 ところが妙なことには、話の筋は大体分かってきたのに、文章の関係や、その他文字のことはホトンド霧の日に隣の家を見るように、朦朧と霞んで、なに一つハッキリ分からない。たとえば、ズラット1行の文章が並んでいると、わたしはいつもの癖で、すぐそれを発音してベラベラと読んで(1)、幾度も繰り返して、おしまい頃には、2行か3行までの文章なら、二三度読むと、すぐ眼をつぶってそれを暗記で言えたものです。ところが、その中には、ほんの飛び石のように、あちこちに知った単語があり、ちょいちょい知った句があるくらいのもので、全体の構造などはわかりもせず、翻訳して見ろと言われたって出来ません……が、それにも拘らず話の筋はよく分かって来たのです!
(1) 関口はこういう場合の擬音を「ベラベラ」としています。私は「ペラペラ」の方が適切だと思います。池内も「ペラペラ教授法」とか「ペラペラ式メトーデ」とか書いています。しかし、ベラベラでも間違いではありませんから、原文のままとします。

 文章の意味が分からずに話の筋が分かるというのは、実におかしな話ですが、実際そうだったんだから、決して嘘ではありません(1)。とにかく、訳の分らぬ本を、毎日毎日にらんで、それを2年ばかり続けた後の状態というものはそういうものだと見えます。
(1) 「文の意味が分からずに話の筋が分かる」というのは、子供が母語を習得して行く過程で辿る一つの段階として、当然通過する段階なのではあるまいか。池内によると、「現在ではオーラル・ティーチングとして、教授法が定まっている」そうです。もっとも、完全に同じではないらしいですが。私の娘がドイツの語学学校で学んだ時も、先生によって違いはあったようですが、「個々の文の意味は分からないけれど、何を言っているのかは分かる」という段階があったと言っています。なお、関口は「文(Satz、個々のセンテンス)」の事を「文章」と言うことが多いです。私見では、「文章」は一まとまりの思想を表現した文章の事にして、個々の「文」とは分けた方が好いと思います。語・句・文・文章という区分が常識的だと思います。言語学では語の下位に音素とかを分類するようですが、文法学ではそこまでは考えなくて好いでしょう。

 そうだ、書いているうちに重要な事実を思い出しました。当時の私は、別にドイツ人の発音を聞いたわけではなかったが、いつも「若林」という先生の口調が頭にあったので、たとえば床に入って眠りこむ時には、意味の分からないドイツ語の長い長い文章が(2行3行ぐらいの)しきりに頭の中で聞こえるのです。まるで蓄音器をかけるように!

 こんなことがありました。或る夜、床の中で例によってまるで近所のうるさいラウドスピーカーのように耳朶を搏つそうしたドイツ語の句や文章に悩まされながら、何かたわいもない事を考えながら眠り込もうとしていると、どうも1つだけどうしても鳴りをしずめない変な文章があるのです。もうウルサイ、はやく寝よう、と思って右に寝がえり打ったり左に向いたりしますが、またしても又しても同じ文章を頭の中で繰り返して、自分ながら手がつけられません。おしまいには、続けるところまで続けてやれと思って、頭を冴えさせて、その次を次をと頭の中で綴って見ると、驚くなかれ、ほとんどレクラム版の1頁近くもあろうかと思うほどの文章ができあがる、しかも、フト、それがどの頁にあったかも思い出したので、そっと床を出て、本を出して、便所へ行って、暗い電球に本を近づけて、その場所を探したのです。すると、すぐ見つかりました。しかも、読んでみると、1字2字の差はあったが、ほとんど私が知らずに暗記していたままでした。しかもそれが、ほとんど1頁近い長さなのです(もっとも中の筋がおぼえそうなところでしたが)。

 これは、私が、分からないままにも、同じ箇所を何度も何度も口に唱えながら、おそらくは一晩の内に1頁ほどの所を何十度と繰り返して読んだ日がその二三日前にあったことを証します。暗記しようと思って暗記したのではなくて、とにかく小野の道風の蛙のように、飛びついてはおっこち、飛びついてはおっこち、ほとんど気違いじみた単調な努力を、子供の一心で、1年半あるいは2年ばかり繰り返しているうちに、あの大きな本の中のあらゆる半わかり、或いは3分の1わかりの文句を、ゴッチャにではあるが、とにかく潜在意識の中に不知不識の間に叩きこんでしまったわけです(1)。
(1) この勉強方法はやがてフランス語を学ぶ場合にも、多分、その他の外国語を学ぶ場合にも、継承したようです。しかし、この方法を実行出来る人も、それが向いている人も、多くはないと思います。私見では、何を学ぶ場合でも大切な事は、何の為にそれを学ぶのかという「目的」だと思います。それがはっきりしていれば、自分の勉強が適当か否かを判定する基準があるから、自己反省がしやすいと思います。関口の場合は、「とにかくドイツ語をものにしてやろう」ということでした。これは基準にはなりませんでした。関口のドイツ語学の長所と短所の根本原因はここにあったと思います。私の関口文法研究の目的は「ヘーゲルをもう少し自信を持って読み且つ訳せるように成りたい」ということでした。私の研究結果が『関口ドイツ文法』と『小論理学(未知谷版)』(近刊)という形を採った事は、この目的を明確に自覚していたことと無関係ではありません。敢えて言いますと、皆さんの勉強を見ていますと、この「何の為に」という目的と手段との関係が曖昧だと思います。ドイツ語を学んでどうしたいのか、まずそれを確認してみることをお勧めします。更に付け加えるならば、私がヘーゲル哲学を学ぶのは、それを通して自分の哲学を作り、よって以て世の中を少しでも公正なものにしたいからであって、「ヘーゲル弁証法」について喫茶店で談論風発したいからではありません。

     第5節、最初おぼえたドイツ語はどんな風に頭の中へつめこまれたか?

 そういう調子だったものですから、私の頭の中には、なんだかよく意味の分からない、あるいは半わかりのドイツ語の短文や断句がゴシャゴシャと詰めこまれてしまったわけです。意味がよく分からなくても、いっこう苦にならない。というよりは、むしろ、いろんな文句がペラペラッと出てくるのだから、それでつまり解っているような気がしていたものと見えます。たとえばelf(十一のこと)という語にお目にかかるたびに、何の理由もなく Es schlug gerade elf(ちょうど11時を打った)という文句が頭の中に反響します。ところがgeradeの意味はよく解っていないのです。そんなのは、そう言ってもまだよくまとまった短文ですが、大抵はまとまらない意味のものが多い。たとえば、よく覚えている例で言うと、整列して訓示を聞いている最中に、何か「息子」という言葉が耳に聞こえたのです。すると、息子というドイツ語は Sohn だということはよく知っていたのですが、Sohn!と考えると同時に、どういうわけだか die die liebe Base meinem Sohne hat angedeihen lassenという相当の長句が蓄音器をかけたようにペラペラと思い浮びました。整列している最中のことですから、暇なので、die dieっていったい何だろうかと思ったり、angedeihenというのは動詞にはちがいないが、どうすることなんだろうと思ったりしましたが、殊にBase[バーゼ]という単語が、響きが何となく怪奇な感じをおこさせるので、訓示がすんだら直く辞書を引いてやろうと思っていると、訓示がひどく長くなって、解散すると同時にすぐ体操服に着替えてまた整列となり、それから三四時間ばかり次へ次へ何かあって、ついに夕食後にやっと辞書を引きました。するとBaseというのが2つあって、1つは「塩基」、1つは「親戚の女」とか何とかいうのですが、どちらだか解らない。その後10年ばかりはとにかく「塩基」(というのがそもそも何だか解りませんでしたが)とか「親戚の女」とかいうとすぐにこの die die liebe Base meinem Sohne hat angedeihen lassen という句を考える。10年後に、ちょっと気にかかって、angedeihenというのを辞書で調べてみたが、それでもまだ何のことやら要領を得ず、ついに30歳近くになって、法政大学でドイツ語の先生をし出した時、下調べをしていると、またこのangedeihenが出てきて、しかもやはりangedeihen lassenという結合で出てきた。けれどもその時には辞書も何も引かずに、このむつかしい語がピタっと解り、しかも意識的に自分のものになったことを覚えています。

 以上はほんの一例ですが、わたしの頭の中に詰まっているドイツ語というやつには、多少の差こそあれ、すべてこれに似た妙な曰く因縁がある。しかも、単語として覚えているものよりは、むしろ文章や句で覚えているものの方が多い、つまり、わたしの頭というガラクタ箱にいっぱい詰まっているのは、小石ではなくて、縄の切れっぱしなのです。ちょっと見えている端っこを引っぱると、ぞろぞろと長い縄が出てくる。しかもその縄があっちこっちもつれていて、1本だけ引っぱり出すわけにゆかない。1本引っぱれば、それにもつれて何の関係もない別な縄が2本も3本も出てくる……

 だから(これはマア15年も20年も後の話になりますが)法政大学の予科や独文科や、最初元気の好い頃の私に教わった人たちはおそらく記憶があるでしょうが、わたしは何かというとすぐにチョークをとって黒板にペラペラと長い文例を書きました。老熟して来ると、ごく簡潔な、キチンと意味のまとまった、ほんの三四語か五六語でまとまった文例を書いたが、未熟な若い当時は、とにかく思い浮んだままのゾロゾロした長い縄をそのままならべて見せたものです。講義を聞かされる学生たちこそいい迷惑です。けれども、そのために「あの先生はものすごい」という評判になって、たちまちのうちにドイツ語の天才だということになってしまった。学生にとってはドイツ語の天災だったわけです。

  第6節、文例によるドイツ語文法を思い立って、文例整理ノートを設けた時のこと

 けれども、こうしたわたしのペラペラ的メトーデ[方法]がそれから10年20年後には驚くべき威力を発揮したことは事実です。30歳になる前頃、演劇の方では到底めしが食えないことが分かり、ついにドイツ語で飯を食うことに決心した或る日、わたしはこの「句と文章」を中心とした行き方の一大ドイツ語論を書くことを思い立ち、それから後は、わたしがその時まで無意識に機械的にやっていた勉強法を、いよいよ合理化して(1) ノートにとることにしました。只今わたしの座右にある行李に一杯ほどの分量の、百冊近くもあるノートがそれです。どんなノートだか、それは商売上の秘密でちょっと言われないが、大抵の人はチョット開けてみただけでもウワーと言ってびっくりしてしまう。
(1) こういう所を「合理化」と言って「体系化」と言わない所に、関口の考え方の不十分性が無意識の内に出てしまっていると思います。関口には「合理化」する意識はあっても「体系化」する意識は「明確には」なかったのです。

 このノートは終戦の直前、長野県の妻籠〔つまご〕へ疎開する際、まるで探偵小説みたいな隠れん坊をして私を心配させました。私たちは、荷物をすっかり造って、宇田川という近所の運送屋さんに万事を頼んで、身体だけ4月前に妻籠へ行ったのです。ところが、何時まで待っても荷が来ない。どうしたんだろうと思っていると、そのうちに到頭留守宅にいた長男の存哉〔ぞんや〕から「イエヤケタ、ミヒトツカイシヤヘユク」という電報がきた。いったいこの存我という奴は気が利かない点で有名なんですが、荷が出たら出たと附け加えれば安心するのに、荷のことはなんにも言わずに、単に「家焼けた」と言ってきたから、こっちは勿論荷が出ないうちに家といっしょに焼けたものと思って、すっかり覚悟してしまった。殆んど半生もかかって書きためたノートが焼けてしまったのですから、これはモウ学者としての資格はゼロになった。半生かかって計画して来たドイツ語の「句と文とから行く文法」もモウ灰になってしまった、と思いました。ところが、それから10日か20日ばかり経つと、ヒョッコリと一荷車分の荷物が着いたのです! しかも、後で聞くと、荷が家を出たのは4月12日、即ち家が焼けた前の日だというじゃありませんか。1日の差で、いや、詳しく言うと十時間ぐらいの差で荷が助かったわけです。

 ところが話はまだそれだけではないので、ノートの運命はもっと際どいことになっていたのです。ノートは、3個の木箱に入っていたのですが、荷をほどきながら検べて見ると、その木箱がどうしても2個だけしか来ていないことを発見しました。なまじっか喜んだ後のことなので、これにはガッカリしました。わたしに取つて見れば、衣類や勝手道具がいくら沢山助かったって一向ありがたくはない、肝腎かなめのノートが、3分の2になってしまったのでは、だいいち用をなさない。全然来ないのと大差ないわけです。私はまたガッカリしました。

 ところが、それから一月ばかりたつと、また追加の荷がついて、ソレと云うので駈けつけて見ると、来た来た、すっかりあきらめて居た1つの木箱が、何食わぬ顔をして入口に投げ出されてころがっている! 運送屋さんから来た手紙によると、12日に目白駅へ荷を運んだところが、荷が荷車に積みきれなくて、五六個残ったのだそうです。ところが、神佑〔しんゆう〕と言いますか、その荷物の残りを、もし私の家へ運び戻していたら、家と一緒に焼けていたのですが、運送屋さんが、〔空襲の警戒〕警報が鳴ったものだから、荷を自分の店の前に投げ出したまま警防団の詰所か何処かへ出かけてしまい、そのために助かったのです。なるほど、こんど東京へ帰って来て見ると、運送屋さんの家の一角だけが焼けずに島のようになって残っている!

 つまらんおしゃべりに頁を空費しましたが、とにかくそうした劇的運命を閲〔けみ〕して、そのメートはまだ無事に私の座右にあります。それは実に混沌たり鬱蒼たるジャングルのごときノートです。30年近くの間、毎日毎日、丹念に書きためた、但し私以外の人には恐らく利用のできない一種異様なノートです。たとえば前置詞inだけのために、相当の厚さの一冊があって、それが数多の項目に分かれていて、どこを見てもタイプの細かい字が一杯打ち込んであって、それに赤や青や黒や緑のいろんな印がついたり、注意書きが書き込まれたりしている。だいいち、開けるのにも相当用心して開けないと、風の吹く時に開けようものなら、整理に10日や20日はかかるでしょう。つまり、ノートというやつは、わたし自身の頭よりはずっと微妙に細かく出来ているので、ノートによって頭の整理をすることはできますが(またそのためのノートでもあるわけですが)、頭でノートを整理するなんてことは到底できません。火事も困るが、風も相当恐ろしいのです(1)。

(1) inについて整理するならば、「合理化」でも好いと思います。あるいは前置詞全体の場合でも「合理化」で十分でしょう。なぜなら前置詞をABC順に並べて、その一つずつについてinのように整理すれば好いからです。もっとも関口は「前置詞の全体を整理」しませんでしたが。しかし、ドイツ語文法全体となると「合理化」では済みません。それは優れて「体系化」の仕事です。私よりドイツ語の出来る人はゴマンといたし、今でもいるのに、「関口ドイツ文法」をまとめた人は私一人であるのはそこに根拠があるのだと思います。拙著はドイツ文法を「哲学した」本だと、私自身は考えています。

 池内の75-6頁にこう書いてあります。「関口存男の死後、厖大な文例は、個別型・包み型・ノートブック型の三つのかたちで残されていた。(中略)ノートブック型は他の二つとはちがっていて、既に文法上のテーマとカテゴリーを持ち、全体の構想の中で位置づけられている。ノートそれぞれが詳しく章を作っていくはずだった」。
 これは最後の所が分かりません。「全体の構想の中で位置づけられている」のは多分「事実」なのでしょう。最後の「ノートそれぞれが詳しく章を作っていくはずだった」は池内の推測なのでしょう。が、推測か事実かを曖昧にしておいたり、それを一緒くたにしたりするのは困ります。「全体の構想の中で位置づけられている」のが事実なら、具体的に「どう位置づけられているのか」書くべきです。こういう事を忘れるのは池内自身に「体系化」の重要性、学問にとっての決定的重要性が分かっていない証拠です。と言うと、反論する人が出るかもしれません。池内は書いています。「こういった分類の成立過程を数字であらわすと、ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』にほどこした整理法と、奇妙なほど一致する。一、二、三、と分けていって、一から派生したものは一・一とする。そこから思考が進んだものは一・一一、枝分かれした場合は一・一二、枝分かれを発展させれば一・一二一といった具合だ。とすると、ほぼ同じ頃に地球の両側で、日夜、奇妙なファイルの出し入れが続けられていたことになる」(83頁)。これについて一言しておきますと、こういう「整理法」は外面的なもので、私の問題にしているのは「内容的整理法」です。なお、関口は自分の文章を章・節などに整理しない場合はもちろん、整理する場合でも、最後の段階には数字を使わずに「内容上重要な言葉を四角で囲う」という妙な癖を持っています。この「語学苦心談」もそうです。章・節の区分は無く、私が「第1節」とした所は数字無しに四角で「学歴」を囲っているだけです。関口は生涯、この遣り方を変えませんでした。橋本文夫の『詳解ドイツ大文法』もこれを踏襲しています。悟性的明快さを必要とする所はきちんと番号を振るべきだと思います。

『関口ドイツ文法』を出したとき、関口の孫とかいう人から出版社に電話があったそうです。「関口の為すべきことで為さなかった第1点」として「ドイツ語の包括的な文法書を残さなかったこと」と書いた事に抗議したかったのでしょう、「その準備はしていた」と言ったそうです。「準備をしていた」のと「実際に出版した」のとでは天と地ほどの違いがあります。後者だけが問題なのです。人生に言い訳なし。
関口がもし墓の中から出てきて『関口ドイツ文法』を手に取ってみたら何と言うでしょうか。多分、第一声は「誤解や間違いが多いな」でしょう。疑問点だけ記して答えの書けなかった点も含めて、「ここはこうだ」と教えてくれるかもしれません。そうあって欲しいです。最後まで見てから、「そうか、俺にはヘーゲルの『論理学』の勉強が欠けていたのか」と呟いてくれたら嬉しいです。

     第7節、流読

 また脱線しましたが、これでいよいよ私の初歩時代の話を打ち切るために、「ハハア、おれにはドイツ語が読める」という最初の自信を得た瞬間のことを述べておきましよう。これはハッキリと覚えています。

 学校で教えられるドイツ語を全然度外視し、初級中級をカッ飛ばしていきなり千頁近くもある原書にくらいつき、まるで猛獣に巻きついて食うか食われるかの死闘を演ずる熱帯の大蛇のごとき鼻息で、執拗な、単調な努力を、およそ1年半ないし2年も続けたでしょうか(生活環境に対して非常に敏感で、軍人の学校へ入ったことを忽ち後悔した私は、この無謀無策にして単調且つ執拗なる内面的死闘によって当面の焦慮から救われたのでした)。あの厖大な書物の3分の2ばかり、解らぬままに読んだのち、2年生から3年生になる当時だったと思いますが、なんだかコウ、ところどころ、イヤにはっきりよく分かる個所が頻々として出てくるのに気がつき始めました。時とすると、半頁も1頁も、スラスラと読めて、よく意味が分かるのです!

 この時の妙な嬉しい気持は非常にハッキリ記憶しています。おかしな話だが、語学というものは意味が解って読まなければいけないものだということに、生れて初めて気がついたのです。というよりはむしろ、まるでコロンブスがアメリカを発見したように、「横文字で書いたものにも、やはり一語一句ハッキリした意味があるのだ」ということを発見して、まるで一大発見をしたような気持がしたのです。


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