マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

関口文法へのサポート、詳細索引・西洋語

2016年12月05日 | 「関口ドイツ文法」のサポート
     詳細索引・西洋語

129──定形の位置に関しては、現代の~はたいてい前結法。ドイツ語は中間的。
150──~には真の意味での主語・属詞関係の繋辞はない。
447──同じ語句の近い所での繰り返しを嫌う。
609──通念には定冠詞を使う。

632──具体化規定を避けるために不定冠詞を使う。
633──不定冠詞の持つ~の奇癖。「1」から出立しているが、「1」と関係なく「どんな?」を問題にするときに使う。
647──~の冠詞用法の難しさ
738──時制の一致
765──~の完了時制

794──時間的にすぐ前のことに過去形ではなく、現在形を使う.会話で。
879──日本語では動作相を使う場合に、~では状態相を使う。
882──633と同じ。
885──単回遂行相の擬音副詞は~には存在しない。
886──状態相による遂行相の指示。
894──同上。

1052──~には仮定話法がある。間接に裏面から言う。
1128──~には擬音の副詞が少ない。
1153──~では限定語句と被限定語句の順序が決まっていない。
1210──否定の強調ではその否定を何らかの概念と組み合わせなければ表現できない。

1334──非情の受け身と自然可能的な受け身は~の影響。
1359──「Aの中のA」という最上級表現は~の習慣。
1432──交叉配語は~の原則の1つ。

1450──目的語の代名詞による繰り返しは~の常識。
1477──~では「一文には一主語」
1478──「バターは値が上がる」における~の語理。
1507──~でのrの発音


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エンゲルスの「サルの人間化」論文の意義

2016年11月25日 | ア行

 この「サルの人間化における労働の役割」論文についてはこれまでにもいくつかの論文で触れてきました。主たるものは、『ヘーゲルの目的論』所収の翻訳「サルの人間化における労働の役割」及び同「伊藤嘉昭氏の『原典解説』を使ってみて」、第3に、『労働と社会』(特に85~8頁)です。

 最近またこのエンゲルス論文の意義を考え直しましたので、論じてみます。

 核心は、人間と動物の違いについてのまとめだと思います。それが、いくつかの段階を踏んで、急所へと絞られてゆくのです。第1段階は、「動物の自然への働きかけは無意識的で人間のそれは意識的である」ということです。これを第1命題としましょう。

 しかし、これは植物ならともかく、動物となると「計画的・意識的」行動が出てくると認めて、撤回して第2の命題が出てきます。それが即ち、有名な次の文です。まずドイツ語の原文を掲げます。

 独原文・Kurz, das Tier benutzt die äussere Natur bloss und bringt Aenderungen in ihr einfach durch seine Anwesenheit zustande; der Mensch macht sie durch seine Aenderungen seinen Zwecken dienstbar, beherrscht sie. (要するに、動物は外的自然を利用するだけである、自然界に変化をもたらすと言ってもそれは「そこに居ることで」に過ぎない。人間は〔動物と違って〕先ず自分自身を変えてから自然に立ち向かうことで、自然をして人間の役に立つように作り変える、つまり自然を支配するのである。牧野訳)

 この文は少しは知られていますが、その重要性に比しては知られておらず、ましてほとんど研究されていません。現に『原典解説・サルが人間になるにあたっての労働の役割』(青木書店、1967年)を書いた伊藤嘉昭氏ですら、この命題の説明を「利用」と「支配」という言葉の対置で捉えて事足れりとしているほどです。この命題の意味を知るには、更に一歩つっこんで、利用と支配とはどう違うのかと問い、その違いをもたらすものは何かと考えてみることです。すると、それは durch seine Anwesenheit と durch seine Aenderungen であることに想到します。すると、このAnwenheitとはどういうことか、人間の Aenderungen とはどういうことかと考えることになり、従来の訳では何の役にも立たないことが分かるのです。

 これまでの訳を見ると、durch seine Anwenheit の方は、どれも、「その存在によって」といったような直訳をしていますから、別に検討しません。問題はdurch seine Aenderungen です。入手した訳を検討した結果を報告します。

A・誤訳

訳例1・要するに、動物は外部の自然を単に利用し、そして単純に自分の存在することによって自然の中に諸変化を起こさせたまでである。人間は自分のもたらす諸変化によって自然を自分の諸目的に役立つようになし、自然を支配する。(田辺振太郎訳、岩波文庫『自然の弁証法』上巻、1956年、254頁)

訳例2・要するに、動物は外的自然を利用するだけであり、もっぱらその存在によってのみ外的自然に変化をもたらすのであるが、人間はみずから変化をもたらすことによって自然を自分の目的に奉仕させ、自然を支配するのである。(国民文庫版『猿が人間になるについての労働の役割』1965年、20頁)

感想・訳例2は困って訳例1を見て訳したのではないでしょうか。「変化をもたらす」と言いますが「どこに」その変化をもたらすのでしょうか。これが分かっていないので、曖昧な訳になるのです。
と言うより、場面は、労働で対象に直接かかわって労働する「前」の事を言っているのだというのが分かっていないようです。ですから、「諸変化をもたらす」などと、労働そのもの及びその結果と取れる表現を使うのです。durchというのは「そこを通って」ということです。「そこを通って」対象に取り組むことになる、という事です。

B・直訳しただけのもの

訳例3・要するに、動物は単に外的自然を利用し、且つ単に自らの存在によって自然の中に諸変化を生ぜしめるにすぎなかった。之にひきかへ、人間はその変化によって自然を自己の目的に役立たしめ、これを支配する。(加藤正・加古祐二郎訳、岩波文庫上巻、1929年、181頁)
感想・加藤正という人はとても優秀な人だと思っていますが、ここは分からなかったようです。直訳で逃げました。

訳例4・要するに、動物は外部の自然を利用し、その存在によって自然に変化をおこさせるだけであるが、人間はその変化によって自然を人間の目的に奉仕させ、自然を支配するのである。(伊藤嘉昭の前掲書、1967年、128頁)
感想・「原典解説」を書く人がこれでは困ります。

 訳例5・英訳・In short, the animal merely uses external natur, and brings about changes in it simply by his presence; man by his changes makes natur serve his ends, masters it.
 感想・訳例4も5も直訳です。最後の「自然を支配する」はその前の「自然をして人間の役に立つようにする」を言い換えただけであり、従って「即ち」と入れても好いくらいの所だということが分かっているのでしょうか。疑問です。

C・自信のない訳

訳例6・要するに、動物は単に外的自然を利用し、たんにその存在によってだけ外的自然に変化をもたらすが、人間はみずからその変化によって自然を彼の目的に利用し、自然を支配するのである。(寺沢恒信・菅原仰訳、国民文庫『自然弁証法』第1分冊、1953年、223頁)
感想・訳例3を見て訳したのか、不明ですが、「みずから」をなぜ入れたのでしょうか。却って訳例3よりも悪くなったと思います。「みずから」はどの語にどう掛かるのか、不明確です。自信がないのでしょう。

訳例7・要するに、動物は外的自然を利用して、たんにその場に居あわせることによってのみ、外的自然に変化をもたらすにすぎないが、人間はみずからその変革によって自然を彼の目的に利用し、自然を支配するのである。(許萬元『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』大月書店、1968年、66頁)
感想・恩師である寺沢の訳(訳例6)を見て訳したようです。Anwesenheitを「その場に居あわせること」としたのは感心します。が、肝心の所は手本と同じです。「変化」を「変革」と代えていますが、これでは「人間自身の自己変革」より「対象変革」を考えていたのかな、と思ってしまいます。その点で後退さえしているかもしれません。いずれにせよ、余計な「みずから」を入れたのはいただけません。

D・正しく訳した例

訳例8・要するに、動物はただ外部の自然を利用するだけであり、ただ自分がそこにいることによって自然のなかにいろいろな変化を引き起こすだけである。人間は自分のいろいろな変化によって自然を自分の目的に役立つものにし、自然を支配する。(岡崎次郎訳。河出書房新社刊『エンゲルス』(世界の大思想の1冊)。2005年)
感想・これは一応「正しい訳」と認めて好いでしょう。「自分のいろいろな変化によって」ではイマイチ不正確ですが(「まず自分の方を色々と変えてから」くらいにすれば、もっと良かった)、他の訳よりははるかに良い訳だと思います。

 訳例9・仏訳・Bref, l’animal utilise seulement la nature extérieure et provoque en elle des modifications par sa seule présence; par les changements qu’il y apporte, l’homme l’amène à servir à ses fins, il la domine.
 感想・この訳が最高でしょう。フランス語版『マルエン三巻選集』にある訳です。「人間が〔y=自然に立ち向かう際にそこへ〕持ってゆく諸変化によって〔即ち、予め自分を変えてから対象に立ち向かうことで〕」です。これがきちんと分かっていると推察できます。

以上の検討で、このdurch seine Aenderungen がこれまでいかに研究されていないかが分かりました。肝心な点はこの「諸変化」とは労働対象を労働の結果において変化させたことではなく、労働する前に「人間自身が自分を変化させたこと」なのです。

では、更に具体的には、この「人間が自分自身の中に引き起こす諸変化」とはどのような変化でしょうか。これを初めて研究したのが拙稿「労働と社会」でした。そこに書いたことは、要するに、この「諸変化とは、道具の改良とか、新しい機械の製作とかだけではなく、技術や技能の向上も含み、更に労働組織の在り方の適正化まで入っているのです。エンゲルスは会社の経営に関与していましたし、軍事技術などにも4詳しかったようですから、こういう事まで分かっていたのだと思います。

このように広く理解すると、許萬元が「労働過程における手段(道具)の作製こそ、人間実践の優越性を現実的に保障するものである」(前掲書62頁)と言うのは狭すぎる事が分かります。喫茶店で「実践的認識論」について談論風発するだけの講壇学者の正体が好く分かる言葉です。

更にもう1つ。これはマルクスの「フォイエルバッハに関する11のテーゼ」(いわゆる「フォイエルバッハ・テーゼ」の「第6」にある「人間の現実的本質は社会的関係の総和である」の理解と関係してきます。この命題も無思慮に使われています。なぜ「無思慮」と言うかといいますと、第1に、マルクスには人間の定義として、これの他に「労働する動物」という定義と「類的存在(Gattungswesen)」という定義とがあるのに、これらの3つの定義の関係を考えていないからです(私見は『労働と社会』の171頁以下にまとめてあります)。第2に、この「社会的諸関係の総和」とは言葉としてどういう意味か、従って我々が人間研究でどういう事に気を付けなければならないか、が考察されていないからです。
 これは先に指摘しましたdurch seine Aenderungenの中の「労働組織の在り方」がまず入ります。しかし、これを「工場内分業」と捉え直しますと、分業の全体像を確認しておいた方が好いでしょう。即ち、分業は大きく三大別できます。普遍的分業(農業、工業、商業、等々への分業)、特殊的分業(工業内部の分業、農業内部の分業、商業内部の分業、等々)、個別的分業(工場内部の分業)です。前二者は「社会内分業」とまとめることが出来ます。最後のものが「工場内分業」です。ですから、これらの「分業」のどこかに「変化」が起きれば、人間による自然支配にも変化が起きるのです。

 要するに、エンゲルスの先の定式化はこのように広い視野を持ったものだったのです。かのドイツ語を正しく近いするか否かはこういう社会観と関係していたのです。ついでに付言しておきますと、ヘーゲルは『法の哲学』第198節で分業の根本的な諸問題について詳しく指摘しています。

 最後に、最近知った例で考えてみます。日本のラグビーチームは、昨年(2015年)のワールド杯で強豪南アフリカチームにタイムアップ直前に劇的な逆転トライを決めて勝利しました。日本中が大興奮しました。この日本チームのメンタル・トレーナーを務めていた荒木香織(園田学園女子大学教授)へのインタビュー記事が雑誌『ラジオ深夜便』2016年10月号に載っていました。その中に次の言葉がありました。

 ──誰でも不安なときは、「どうしよう」と思い詰めてしまいます。そこから抜け出すには何が不安なのかを明確にして、自分にできる対策を立てることが必要です。そしてそれに取り組めば不安はなくなる。日本代表メンバーでも一般人でも、その対処法は同じです。
 試合相手との体格の違いも試合展開も、変えることはできない。コントロールできるのは心構えや準備の仕方、試合中の判断に対する準備。つまり自分の内にある事柄なのです。──

 最後の「コントロールできるのは~自分の内にある事柄」というのが面白かったです。人間は自然を支配するにはdurch seine Aenderungenだと言ったエンゲルスの言葉と同じだったからです。翻って考えるに、これはもっと広く言える事でしょう。勝負事でも政治運動でも自分が勝つには「まず自分を変えて、よりよくして試合に臨む」しかないわけです。人生全体をとって考えても同じでしょう。

 私の好きな言葉は「修身斉家治国平天下」です。これを応用すれば、「真のオルグは自分を高めることである」となります。逆に、「自分を高めないでするオルグはお節介の別名である」となります。お節介オルグを沢山してきたわが身を反省することしきりです。(2016年11月24日)
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ロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義(松田道雄)

2016年11月12日 | マ行

  ロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義(松田道雄)           

    はじめに

 思想と教条との相違は、その生活力にある。思想は創造する頭脳のなかに生まれ、その生国の土壌によってやしなわれ、他国にうつされ、そこで、おなじ過程で成長していく。したがって、思想は、その成長の過程にしたがって、なにほどか土壌のにおいを身につけている。教条は、これに反して聖職者によって儀式に使用される器具の一種である。教祖のいだいた思慮のなかから、儀式の必要に応じて、成立の背景を無視して部分がとりだされ、みがかれ、信徒の礼拝のためにそなえられる。世界宗教が、ある国の総本山によって統率されるという状況においては、教条の画一性は総本山の権威のシンボルである。

 したがって、思想には「型」がありうるが、教条には「型」はゆるされない。

 ここにあえてロシア型マルクス主義と日本型マルクス主義とを対比するのは、生活力のある思想としてのマルクス主義を、二つの国で比較したいからにほかならない。

      一

 十九世紀のロシアにおいて、マルクス主義は革命の思想であった。

 支配権カを打倒すべき勢力が、現存の権力よりも正当な存在理由をもっていることを弁護する革命思想は、もともと西欧に発したものである。ロシアにおける最初の権力批判者であったラディーシチェフが、フランス革命の思想をうつしたことからもわかる。

 ロシアの革命思想の生育すべき土壌の特徴とでもいうぺきものをあげるならば、西欧にたいする後進牲をまずあげねばならない。そして、この後進性を克服しようとするロシアの知的エリートの内部統一の欠損も重大な特徴である。さらに、ロシアが西欧と地つづきであり、支配権力からいえば、革命家の知的交流をはばみえないし、革命家にすれば亡命によって思想の純粋培養ができるということも、特異な点としなければならない。

 西欧にくらぺて、ロシアが後進国であるということは、西欧から移入する革命思想がロシアでは、大きな「時差」を示すという結果になった。市民的自由を前提にした西欧の社会主義の革命思想は、ロシアにはいってくると、市民的自由そのものの存在しないということで戸まどいせねばならぬ。

 ロシアの革命家たちが、最初に決定しなければならなかった問題は、ロシアは、はたして西欧の通過した道を、もう一度あゆまねばならぬかということであった。

 西欧において、市民革命によって打ちたてられたブルジョア体制が、社会主義者によって、もう一度革命されねばならぬということは、ブルジョア体制そのものの「悪」を証明しているではないか。

 それならば、とロシアの革命家はかんがえた、われわれは資本主義段階をとびこそうではないか。

 ロシアには、西欧諸国においては、すでにほろび去った農村共同体がまだ存在する。社会主義が理想とする共有と協同の社会は、ロシアにおいては、ここにのこっている。この共同体を、資本主義によってむしばまれないうちに、社会主義に突入すればよい。ロシアの革命家たちは、ロシアの後進性そのものをてこにして西欧に追いつこうとしたのだ。

 ロシアが西欧においつくためには、ロシア独自の道をえらぶべきであるという結論には、ロシアの革命家は一挙にして到達したわけではない。最初の革命家であるベリンスキーもゲルツェンも、はじめは西欧の道を追うことを信じた。彼らは、当時のロシアの最高の知的レベルにおいて論争し、論敵のスラブ主義者とわかれ、西欧の道をえらんだ。だが、一八四八年の西欣の革命の敗北によって、ゲルツェンはロシア独自の道へかえってきたのだ。

 ロシアの農村共同体を基礎にして社会主義の社会をつくりだそうとする農民社会主義が、十九世紀の六十年代から八十年まで、ロシアの革命家の頭脳を支配した。

 国家権力から解放されれば、農民は、その創意にもとづいて自由な共同体の連合をつくるだろうというバクーニンの思想が、出発点となった。「すべての将来の政治組織は、自由な労働者の自由な連合、農民または工場の職人のアルテリの連合以外の何ものでもあってはならぬ。それゆえ、政治的解放の名において、われわれは何より国家の徹底的な破壊をのぞむ…」

 彼らの直接にむきあったものはツァーリをシンボルとする国家権力であった。しかし、彼らは農民の蜂起を期待しながらも、革命的インテリゲンチアと農民との結合について具体的な方法をもったわけではなかった。人民から孤立した革命家は、少数者でできるもっとも効率のいい方法に訴えざるをえない。とくに、西欧の資本主義の発達のもたらす「悪」をみて、ロシアでブルジョアに先んじられまいとする焦燥感にかられたトカチョフは、亡命地のジュネーブで一八七五年に、ロシア向け非合法新聞『警鐘』の初号にかいた。

 「兄弟愛と平等とを打ちたてるためには、第一に社会風習の現在の条件を変更しなければならない。人間の生活に不平等、敵意、羨望、競争をもたらすすべての制度を破壊しなければならない。それらには反対の制度の基礎をおかねばならぬ。第二に人間の本性自身を変更し、教育せねばならぬ。この偉大な任務をはたす人たちは、もちろん、これを理解し、解決にむかって真に努力する人たちである。すなわち、知的にも道徳的にも発達した人たちである。すなわち少数者である。この少数者は、よりよく発達した知力と道徳とによって、多数者の上に知的、道徳的権力をもつし、またもたねはならぬ。……
 
 一般に現代社会においては、とくにロシアにおいては、物質的な力は国家権力に集中されている。したがって真の革命──物質的な力による道徳的な力の現実的変形──は、ただひとつの条件によってのみ達せられる。すなわち、革命家による国家権力の掌握である。いいかえれば、革命の当面の直接目的は政権を奪取し、現在の保守的国家を革命的国家に転化することでなければならない。

 したがって、革命的国家の活動は二重でなければならぬ。革命的破壊的活動と革命的建設的活動とである。

 前者の本質は闘争である、したがって暴力である。闘争は、つぎの諸条件を結合しえたときにのみ成功する。すなわち、中央集権、厳格な規律、迅速、決断、行動の統一性である。あらゆる譲歩、動揺、妥協、闘争力の分散は、闘争力のエネルギーをよわめ、活動力をまひさせ、勝利のチャンスを闘争からうばい去る。」

 トカチョフの少数者革命の理論はネチャーエフ事件をひきおこし、ドストエフスキーをして『悪霊』をかかせることになった。だが、陰謀的な暴力をよろこばない分子は、ネチャーエフらに反対して、一八六九年に結成されていたチャイコフスキー団に結集した。チャイコフスキーらは、ロシアの多くの都市にサークルをつくり、民主主義の啓蒙をおこなった。この運動が最高潮に達したのは一八七四年の「人民の中へ(ヴ・ナロード)」のカンパニアであった。三〇〇〇人の学生が農村のなかに工作隊としてはいっていった。ここからロシアの革命家はナロードニキとよばれることになった。しかし、この啓蒙運動は農民の無関心につきあたって挫折した。

 農民によって実現されるべき農民社会主義が農民にうけいれられないとなったら、革命家たちは、自己の組織以外にたのむところはない。ふたたび、強力な中央集権的な組織に革命家たちは結集することになった。この頃の組織は完全な非合法をまもりとおしたために、歴史家に文献的な手がかりを残さなかった。

 一八七六年ごろに成立した「土地と自由」という革命家集団は、たしかに中央集権的な党としての性格ももっていたが、そのなかにはさまざまの潮流がまじっていた。「土地と自由」のメンバーの思想の多様性は、ようやく生まれてきた労働者の組織(一八七五年の「南口シア労働者同盟」、一八七八年の「ロシア労働者北部同盟」)と関係がある。

 ロシアの「マルクス主義の父」プレハーノフが「土地と自由」のなかに参加したのは、まさにこのような時期であった。鉱山専門学校の学生であったプレハーノフは、古い世代の革命家とちがって、はじめからエ場労働者との接触のなかで成長した。彼がロシア語訳の『資本論』をよんだのは一八七五年か七六年と推定されているが、それによってマルクス主義を完全にうけいれたのではない。一八七九年に彼が「土地と自由」第三号にのせた彼の最初の論文「社会の経済的発展法則とロシアにおける社会主義の任務」は、農民社会主義とマルクスの二番煎じ(煎じたのはロシアにおけるマルクス主義の紹介者ジーべルだが)との混合であった。だが、このなかでプレハーノフは、ある個人が権力をにぎって上から命令によって社会変革をおこなおうという革命家は時代おくれだということをはっきりいっている。

 したがって「土地と自由」が、農民のなかの宣伝の不成功の欲求不満を個人的テロによって発散させようとする傾向をつよめてきたとき、プレハーノフはがまんできなくなる。農民よりも労働者に、革命のてこを求むべきではないかという、彼の体験が、古い型の革命家に反発させたのだ。

 成員のなかの意見の不一致によって、「土地と自由」は一八七九年に合意解散をするが、テロ支持派は「人民の意志」を結成し、正統派を主張するものはプレハーノフを中心に「黒土再分割」にあつまった。「黒土再分割」派の同名の機関誌の第一号にプレハーノフの一八八〇年にかいた「人民の声は神の声」は、「黒土再分朝」派の綱領としてうけとられた。そこで彼はいう。

 「わが党の実践的任務にかんするわれわれの見解は二つからなりたつ。科学の一般的指示とロシアの歴史と現状との特殊条件である。われわれは社会主義をもって人類社会の科学の最後のことばとする。社会主義によって所有と労働との集団主義が勝利することは、社会経済構造の進歩のアルファでありオメガである。われわれは、『自然は飛躍しない』という表現が、狭義の自然現象にあてはまるように、人間社会の進歩の過程にもあてはまるとする。」

 プレハーノフのこのことばのなかに、テロによって飛躍的に権力を奪取しようとする革命家へのつよい反対が感じられる。農民の力が信じられないでやるテロを否定するというのなら、いったいロシアの革命家は何を信じればいいか。プレハーノフは進歩の科学への信頼をよびかけている。

 それでは、どうして革命をやるのか。プレハーノフはつづけていう。

 「社会革命の党は、人民を国家への積極的な闘争に導き、人民のなかに自立と活動をそだて、人民を闘争に組織し、あらゆる小さな機会をとらえて、人民の不満をかきたて、ことばと行為とによって人民に現在および本来の社会関係の正しい見方をつたえることを目的とせねばならぬ。これによって党は、人民を、上からの「黒土再分割」を寝て待つことをやめさせ、下心ら『土地と自由』を積極的に要求するようにさせねばならぬ」

 革命は人民の下からの運動でなければならない。そうなれば「黒土再分割」のような少数革命家の組織は、人民の運動と、どういう関係にたつのか。ここでプレハーノフははじめて大衆団体としての党の問題につきあたる。

 『黒土再分割』第三号(一八八一)にプレハーノフは「『黒土再分割』編集部への手紙」をのせていう。

 「ゆえに、すべてのロシアの社会主義者の党が、その努力の最大の目的が人民のなかにおける社会革命の組織の創出であることをみとめ、ついで、この組織が政府と上層階級に提出する当面の要求のなかに、政治的自由の要求が入れられたとき、はじめて『黒土再分割』の任務はおわったとしてよい」

 「黒土再分割」の組織は、人民の党ができて公然と政治的自由の要求をかかげるまでの暫定的なものとされたのだが、事実では、「黒土再分割」の組織は、プレハーノフやアクセリロットの亡命によって、その年のうちに消滅した。プレハーノフのスイスヘの亡命は、実は機関誌の『黒土再分割』の発刊に先だつ一八八〇年の一月であった。

 ジュネーブで、プレハーノフは西欧の市民的自由の空気を心からの満足をもって吸いこんだ。ここでは労働者は集会をやっても、文書をだしても警官につかまることはない。また、ここへは西欧の社会主義者がやってきて社会主義政党の話をしてくれる。市民的自由のなかにおいて労働者の党は、はじめて自由にたたかえる。プレハーノフはそう感じた。一九一八年までロシアの土をふむことのなかった彼が、西欧のマルクス主義の旗手になったこともむりはない。

 プレハーノフのマルクス主義理論の「原蓄〔原始的蓄積〕」は一八八〇年から八二年まで精力的におこなわれた。しかし、ナロードニキのプレバーノフがマルクス主義者になることは、容易ならぬ努力を必要とした。それはバロンのいうように後進国にマルクス主義を適用する最初の試みであった。

 西欧で生まれた社会主義であるマルクス主義がどうして、西欧とはことなる段階にあるロシアに妥当するのか。マルクス主義が正しいとすれば、いままでのナロードニキの努力のすべてはぜロでないか。

 自然科学者としてたとうと一時おもったことのあるプレハーノフの合理主義的な性格から、この困難な問題への解き口がでてきた。マルクスのいう社会発展の法則を、自然科学のおしえる自然法則と同一化することである。

 ポノマリョフ監修の『ソ連邦共産党史』によって「ロシアのマルクス主義者の最初の著書」といわれた『社会主義と政治闘争』(一八八三年)はプレハーノフのナロードニキヘの訣別の辞である。

 そこで彼はいう。

 「ダーウィンがおどろくぺく簡単かつ正確な、種の起源についての科学的理論で生物学をゆたかにしたのとおなじに、科学的社会主義の創始者たちは、われわれに、生産力の発展と、生産力とたちおくれた『生産の社会的条件』との闘争とのなかで、社会組織の種の変化の原理をしめした。」

 農民への絶望からテロにうつろうとする革命家からわかれて「黒土再分割」の綱領をかいたときにいった「人類社会の科学の最後のことば」をプレハーノフはマルクス主義のなかにみつけた。

この発見が、ロシアの内部で専制と死闘をつづけている革命家たちをどんなに元気づけたか。小状況におけるたたかいがどんなに失敗しても、大状況は自然法則のように進歩にむかってすすんでいるからだ。

 プレハーノフがジュネーブについた一八八〇年から、ボルシェビキの党ができる一九〇三年まで二十年以上もあるのだが、このあいだに、彼がロシアの革命組織に言いのこした人民を基盤とした党はどうなるのか。

 『社会主義と政治闘争』のなかで党に言及されているところをひろいあげてみよう。

 「さいわいロシアの社会主義者は、もっとしっかりした土台の上に希望を托すことができる。彼らは、彼らの希望を何よりもさきに労働者階級に托すことができるし、また托さねばならぬ。他の階級もそうだが、労働者階級の力は何よりも、その政治的意識の明確性、その堅固さと組織性とにかかっている。この労働者階級の力の諸要素は、わが社会主義インテリゲンチアの影響のもとにあるべきだ。インテリゲンチアは当面の解放運動において労働者階級の指導者とならなければならぬ。労働者階級の政治的経済的利益およびこれらの利益の相互関係を説明してやらねばならぬ。ロシアの社会生活のなかの労働者階級の独自の役割にむかって準備してやらねばならぬ。インテリゲンチアは、あらゆる力をつくして、ロシアに憲法のできた最初の時期に、わが労働者階級が、一定の社会的政治的綱領をもった独自の党として登場するようにしなければならぬ。」

 プレハーノフは労働者階級が独自の党をもって政治の舞台にでるのは、ブルジョア革命によって市民的自由がえられたあとの時期であるとかんがえていた。プレハーノフの党についての、このかんがえを最初に指摘したのは、粛清された「党史」の著者ポポフであった。彼はつけくわえていう。

 「この時期まで、『社会主義的インテりゲンチア』は将来の労働者党の要素を用意する事だけを仕事とせねばならなかった。もちろんこのことはインテリゲンチアの指導下に、労働者階級が専制との革命的闘争に参加することを除外するものではない」。

 革命は何ものがてこになるにしても、これを指導するものはインテリゲンチアであるという思想は、プレハーノアもレーニンもふくめて、ロシアの革命家のかたい信念であった。革命における労働者階級のヘゲモニーの思想が、一八九八年にアクセリロットから発したという説もあるが、ジノビュフは『党史』のなかで、一八八九年バリの第二インターナショナルの席上でプレハーノフが、「ロシア革命は労働者階級の革命としてのみ勝利するだろう、そうでなければ勝利することはないだろう」といったのを、その最初にかぞえる。

 プレハーノフにおけるプロレタリアートのヘゲモニーの思想が、インテリゲンチアによる党の指導と矛盾しないことは、第二回党大会における彼のレーニン支持によってわかる。

 エンゲルスのいう「歴史的必然性」に賭けたプレハーノブにとって、ロシアにも資本主義は発達するという論証にすすむことは、論理的にも当然である。彼はこの課題を一八八四年の「われわれの相違」でときはじめ、それはレーニンの『ロシアにおける資本主義の発達』にひきつがれる。社会主義者が、みずからの社会に資本主義の存在を論証しなければならぬというのは先進国ではありえないことだった。資本主義の「存在証明」にさきだってプレハーノフは『社会主義と政治闘争』のなかで西吹の歴史法則にしたがって、ロシア労働者階級とブルジョアジーとの革命における関係を予見していう。

 専制の打倒と社会主義革命とは本質的にことなったことであり、社会主義政府の早期の可能性はロシアでは信じがたい。ブルジョアジーとともに専制にむかってたたかうが、労働者階級に、ブルジョアジーとプロレタリアートとの敵対性をおしえることをやめないというドイツの共産主義者の例にしたがうという理論は今日いう革命二段階説である。ブルジョア革命に協力はするが、政権をとってはならないとする、のちのメンシェビキ理論の萌芽がここにある。

 プレハーノフが労働者党の結成をいそがなかったことは、はじめて組織された国外のマルクス主義者グループ「労働解放団」のためにプレハーノフがかいた綱領をみてもわかる。はじめの綱領(一八八四年)には、「社会主義者は労働者階級に、来たるぺきロシアの政治生活に積極的に有効に参加する可能性を提供すぺきだ」としかかいてない。第二草案(一八八七年)にいたってはじめて「ロシアの社会民主主義者は、この基礎にたって革命的労働者党の創立を第一の最大の義務とする」ということになる。

 労働者階級の党をはやくつくらねばならぬということでイニシァチーフをとったのは、レーニンであった。レーニンは一八九五年秋に非合法につくった「労働者階級解放闘争同盟」を革命党の萌芽と考え(邦訳全集第二巻三三六頁〉、その年に逮捕された獄中で「社会民主党綱領草案」をかき、シベリア流刑中、想をねって、刑期がおえた一九〇〇年、党をつくる目的でスイスに亡命した。

 レーニンの職業的革命家による中央集権の党の思想は、マルクス主義にそれまでなかったものであり、ロシアの後進性に適応した理論である。彼の党の理論は「何をなすぺきか」のなかに定式化され、事実上の結党大会である一九〇三年の第二回大会で、参加者は、示された綱領草案の事務的な用語の背後にレーニンの「何をなすぺきか」の思想をよみとった。おおくの反対者は、これをマルクスの理論の侵犯として反撥した。たとえば七月二二日の第九次会議において「経済主義者」のアキーモフはいう。

 「このことは党の任務の章でいっそうはっきりする。そこで党とプロレタリアとは、完全にひきはなされ対立させられる。党は積極的に行動する集団的な人物であり、プロレタリアは、その上に党が作用する受動的な媒体である。だから提出された草案で党という名詞はいたるところ主語としてかかれ、プロレタリアという名詞は補語としてかかれている。

 まったく同様に政権の奪取の章も他国の社会民主主義の網領とくらべてちがって編集されている。それは、つぎのように解されうる。いや、実際プレハーノフによってつぎのように解釈された。指導組織の役割は、それによって指導される階級をうしろにおしやり、指導組織を指導される階級からひきはなすことだと。それだから、われわれの政治的任務の規定は、『人民の意志』派のと全くおなじだ」

 アキーモフの反撥はレーニンにとっては何でもなかった。レーニンは『何をなすぺきか』のなかで、そのことはとっくに明言しているのだ。

 「われわれのあいだでは革命運動の歴史がろくに知られていないために、ツァーリズムにたいして断固たる戦争を布告する戦闘的な中央集権組織を考えたりすると、なんでも『人民の意志主義』だと呼ばれるのである。しかし、一八七〇年代の革命家がもっていたみごとな組織は、われわれがすべて模範としなければならないものであるが、あの組織をつくりだしたのは『人民の意志』派ではなく、『土地と自由』派であり、これがのちに『黒い割替』派と『人民の意志』派とに分裂したのである。(邦訳大月版全集五巻511頁)。

 レーニンは『何をなすぺきか』のなかに示した革命党の組織原理が、ツァ-リズムにたいして「断乎」としてたたかってきたロシアの革命の組織の伝統を継承するものであることを宜言している。第二回大会においてプレハーノフが終始レーニンをバックアップしたのも、少数インテリゲンチアによる労働者階級の指導という彼の理論、ナロードニキとしての彼の体験からしてむしろ当然であった。ここでロシアのマルクス主義の旗手のあいだで完全なバトンタッチがおこなわれた。職業革命家の中央集権的な秘密組織としての党の理論は、その後のロシアのマルクス主義の背骨としていまにいたっている。マルクス主義がロシアの土壌にうつされて、もっとも大きな「発展」をみせたのは、この党組織の理論であり、そこにロシアの革命運動の伝統が生きているとすれば、レーニン主義をロシア型マルクス主義といっていいだろう。

      二

 一九二六年、日本共産党の結成以来、日本のマルクス主義は、ソ連からの移入品だけが正統とされるにいたった。したがって現在、正統を呼号するマルクス主義は、さきにいったロシア型マルクス主義である。そのなかに日本型をみいだす仕事は、戦前の部分については鶴見氏らの「転向」においてこころみられた。だが、ここでは、福本によって日本にロシア型マルクス主義が移入されるまえに、鎖国状態のなかで成長した日本のマルクス主義をかんがえてみたい。ロシア型マルクス主義が日本にはいってきたとき、もっともはげしくたたかれた「古くなった」マルクス主義者山川均のなかに、私は日本型マルクス主義をみたい。

 ある思想が、どんな条件をそなえればマルクス主義とよんでいいかは、容易に一致をみないことだろう。定義の仕方によっては、「私は過去一○年間マルクス主義の原理を説き続けてきた」と一九一八年に宜言した片山潜(『日本における労働運動』岩波文庫三六八頁)をマルクス主義者ということもできるかもしれない。だが一九〇三年に

「炭坑の中しかも二千尺の深い炭坑の中で働く所の人間是も 天皇陛下の赤児である。吾々今日此石炭の恩沢を受ける者、今日識者を以て任ずる所の者は、我労働者、たとい九州の隅で働くにしても東京の街に於て働くにしても彼等の為めに救助の方法を講ずると云うことは、日本国民として又識者として必要であります。」(『社会主義』明治三十六年十一月号、八頁)

 という演説をやっている片山潜と、そのとき不敬罪によって巣鴨監獄で三年目の重禁命にたえている山川均とを、おなじ尺度ではかる定義には賛成できない。

 マルクス主義は革命の思想である。こう限定すれば、日本における革命思想家は、一九〇三年に創立された平民社を中心にしてしか存在しなかったから、そのなかから生まれ階級闘争の理論によって初志をつらぬこうとした人たちにしぼられてくる。そういう意味で私は山川均を日本に生まれたマルクス主義の代表とかんがえる。

 ロシアと日本との革命思想の発生をくらぺて、もっともめだつ相違は、日本では明治二十年代において知的エリートの統一があって反権力運動のブランクがあったことである。ロシアでは十九世紀の初めから一九一七年まで、ほぼ一世紀にわたる反権力の思想の連続があった。日本では明治維新における変革につづく急速な近代化が知的エリートを「完全雇用」にちかい状態にもっていくことに成功し、編成がえの摩擦として自由民権運動がおこったものの、指導者のおおくは権力の体制のなかにくみこまれた。

 体制からはみでた知的エリートが平民社に結集したときには、「原蓄」はすでにおわって資本主義体制が確立されていた。さらに、ロシアとちがって日本の島国としての地理的条件は、日本の革命家の亡命先をアメリカにだけ局限した。それはダイジェスト版マルクス主義をもたらしただけでなく、アメリカにおけるアナーキズムがロシアに十月革命がおこるまで日本の革命思想に大きい影響をおよぼすことになった。

 いまひとつ、日本のマルクス主義がながい苦難ののちに一本だちしたとき、十月革命がおこって、そのショックをうけた。

 以上のような事情が日本のマルクス主義をロシアのマルクス主義とちがった形のものにつくりあげたといっていい。以下、そのいくらかの特徴をひろってみたい。

 反権力の知的エリートの層がうすかったということから、日本のマルクス主義は、創造的な仕事よりも、翻訳にその力をそそがねばならなかった。弾圧のひどさが、翻訳しかゆるさなかったということもあるが、マルクス主義のなかでの国際的水準に達する理論を『平民新聞』『直言』『大阪平民新聞』『社会主義研究』のなかにみつけることは困難である。わずかに十月革命以後の山川の論文にみるぺきものがあるだけである。

 マルクス主義とアナーキズムとの分離が、ずっとおくれたということも、それが、弾圧によって小さなサークルのなかにとじこめられていたということによって説明されるだろう。

 キリスト教社会主義の『新紀元』からも自己を区別し、改良主義の『社会新聞』とも対立して、解散させられた『日刊平民新聞』の代用として大阪でだされた『大阪平民新聞』(のち『日本平民新聞』と改題)には、日本のマルクス主義者が集まったが、ここでも、社会主義と無政府主義とは区別されていなかった。(森近運平、「春寒余録、」『日本平民新聞』明治41年3月5日号)

 したがって、どういう方法で権力とたたかうかについて明確なかんがえをもてなかったのもむりはない。一九〇七年に幸徳秋水は、東京の社会主義運動の沈滞の「重大なる原因」として「社会主義実現の手段及び運動の方針に関する意見の未だ一定」しないことをあげている。(『大阪平民新聞』明治四十年九月五目号)

 無政府主義と完全な分離がおこなわれるのは、ようやくさかんになった労働組合の運動におされて、「もはや札つきの社会主義者の団体ではない」、「多数の労働運動者、文化団体の代表者、進歩主義的な思想家」が参加して、一九二〇年に日本社会主義同盟を結成してからあとである(荒畑寒村『自伝』二六八頁)。プレハーノフが『社会主義と政治闘争』によって無政府主義の申し子のナロードニキから訣別してから四十年ちかくたってからである。

 アナーキズムとの訣別はおくれたけれども日本のマルクス主義者は支配権力としてのブルジョアとは、その生誕の日から対決せねばならなかった。日本の社会主義者は、日本は西欧の道をとるべきか否かという問題をかんがえる余裕はなかった。西欧化しつつある状況のなかにはじめからおかれていたからだ。大逆事件の犠牲になった大石誠之助は、社会主義の日本的な道について論じた数少い一人である。彼は「日本に於ける社会改革の運動は徹頭徹尾日本社会と言う畑地に自発誕生せるものでなくてはならぬ」という田添鉄二のことばに反対していった。

 「余が思うに、我等が運動の対象は現在日本の経済社会と産業制度であって其君臣の間に立入り国体の歴史を論ずるが如きは我等の問題の外である。……近世泰西に放ける資本主義の濁流が滔々として我国に注入し、古来の愛すぺき風俗と習慣とを破毀し尽して、今のいわゆる紳士閥(ブルジョア)なるものは我国が未だ嘗て歴史に於いて見たる事なき侮辱と掠奪とを平民の頭上に加えつつあるではないか。‥…然るに田添君が今に於いて尚お日本の歴史に執着し、我等の改革運動が日本に自発したものでなくてはならぬ、欧米社会運動の翻訳であってはならぬというは、恰も敵が舶来新式の機関砲を採って平民軍に当るに対し、我等はどこまでも昔の弓矢甲胃を以て之を防がねばならぬというが如く、あまりに愚直にして亦迂闊きわまる説ではあるまいか。…‥資本家の運動方法がすでに万国的のものとなった今日に於いて、我らは如何で小さき日本的の手段を以て之に対抗することができようか」(禄亭生「読緑蔭漫五」『大阪平民薪輔』明治四十年月九二十日号)。

 彼ら明治の社会主義者たちは、明治の末期をもって「資本家の全盛時代」(日本平民新聞』明治四十一年五月五日号)と感じ、それにたいして、山川均は「主力と主力との決戦」における労働者の「実際の武器」としての「総同盟罷工」を提唱したのだった。(同上十二月二十日号)

 日本の社会主義は生まれた日から資本主義とたたかってきたということは山川均にとっては自明のことであった。それだからこそ、昭和のロシア・マルクス主義の徒が、コミンテルン綱領によりかかって、日本を、スペイン、ポルトガル、ポーランド、ハンガリー、バルカン諸国なみの「中位の資本主義的発展段階にある国」とし、日本の革命を社会主義革命に転化するブルジョア・デモクラシー的革命だといったとき、反対したのは当然である。平民社から大逆事件をくぐりぬけ、大震災であやうく抹殺されようとしながら四分の一世紀をたたかったのが、ブルジョア・デモクラシーをもたらすためであるとは、ばかもやすみやすみいえという気持だったろう。山川均が日本の革命一段階説を固執したのは明治以来の革命家の心情にたってのことであった。

 山川の一段階説をさらにつよめたものは、十月革命のインバクトであった。彼はロシア革命の成功を「ブルジョア・デモクラシー制度が根底をおろす前に、之を無産階級革命に推し進め」たためであるとかんがえた(「普通選挙と無産階級の戦術」無産階級の政治運動、一七二頁)。したがって、日本でもブルジョア・デモクラシーの安定をさけるべきであるとしたのだった。

 無政府主義と分離し、革命一段階説を抱いて、サークルの中で純粋培養されたマルクス主義をひっさげて山川は大衆と近づこうとした。これが一九二二年の「無産階運動の方向転換」である。

 「日本における今日までの社会主義運動は、ごく少数の運動であった。……日本の社会主義は、今日にいたるまで、一度もまだ大衆的の運動となったことはない。……日本の社会主義運動は、過去二十年間を通じて、常に階級闘争と革命主義との上に立っていた。…‥われわれは思想的には純粋の革命主義者となった。…日本の無産階級運動──社会主義運動と労働組合運動──の第一歩は、まず無産階級の前衛たる少数者が、進むぺき目標を、はっきりと見ることであった。われわれはたしかにこの目標を見た。そこで次の第二歩においては、われわれはこの目標に向って、無産階級の大衆を動かすことを学ばねばならぬ。……『大衆の中へ!』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならぬ。……われわれの運動は大衆の現実の要求の上に立ち、大衆の現実の要求から力を得て来なければならぬ。」

 山川は「無産階級が小ブルジョア進歩主義のうちに溶け去ることなしに、独立した無産階級の政治勢力に結晶する」(「政治勢力の分布と無産階級の政党」前掲書三三〇頁)ために、「組合に組織せられた工業労働者と農民とを中堅とする」「全無産階級党たる目標に近い」政党を普選をまえにしてつくろうとした。

 まさにこのときに、福本がロシア・マルクス主義をカバンに入れて帰朝し、山川を小状況に終始する組合主義者として刻印をうったのであった。
 (『思想』1964年12月号から)

 説明

 本を整理していたら、この雑誌を見つけました。テーマは「現代とマルクス主義」となっていました。自分の頭で考えている人の文章だけパラパラとめくってみました。この論文は面白いと思いました。保存しておく価値があると思いましたので、ここに載せます。
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山村留学、その2

2016年10月28日 | サ行

「誰もが光るもの持つ」信じて

子どもたちの登校後、長野県大町市の山村留学施設「八坂美麻(みあさ)学園」は静まりかえる。1階の指導員室を除いては。

 ほぼ毎朝9時半から、6人の指導員が子ども一人ひとりの様子について情報交換し、個性や、特性を生かした指導方法を考える。学園生は31人。議論は3時間を超えることもある。9月のこの日は11月の収穫祭に向け、子ども一人ひとりが考えた体験発表のアイデアを持ち寄った。

 「おやきにどんな具材を使うか地元の人にアンケートして、自分で作ってみるって」、「いろいろな材料で作って、人気投票してもおもしろいね」。経験豊富な統括主任の赤坂隆宏さん(36)と、学園に来て10年になる吉沢かおりさん(37)が、ほかの20代の4人にアドバイスする形で進む。

 学園で山村留学を経験した邑上貴厚さん(26)と伊藤僚さん(24)が指導員になって驚いたのは、打ち合わせの濃密さだった。「こんなに見られていたのか」、「大勢にフォローしてもらっていたんだ」。立場が変わって初めてわかった。

 子どもたちは月の半分を地域の農家で暮らし、残り半分は学園で集団生活をする。学園では6人が子どもたちと寝食を共にし、細かな変化に目配りする。親に代わって学校と連絡を取り合い、学習や生活習慣、人間関係に気を配る。離れて暮らす親との連絡も欠かせない。地域との良好な関係づくりも大切だ。学校が休みの週末には、農作業や自然体験などに引率する。

 「誰もが本来、光るものを持っている」と赤坂さん。そこに光を当て、自ら伸ばせる力を引き出す──。そんな信念が、多忙な仕事を支える。

 学園には、不登校や発達障害などの子を持つ親からの相談が増えている。だが、赤坂さんは「山村留学は万能ではない」と言う。環境が変わって心や体に変化が表れる子がいる一方、そうでない子もいる。親元で暮らした方がいいと思われる場合などは入園を断っている。

 繊細な子、環境になじめなかった子、親の愛情に飢えた子…‥.。まれに途中退園する子どももいる。無念の思いで見送った日を、赤坂さんは忘れられない。    (朝日、2016年10月22日。菅野雄介)

感想

学校教育は個々の教師がするものではなくて、「校長を中心とする教師集団」が行うもの、というのが私の考えです。

 この学園(学校ではなくて、留学生の寄宿舎ですが)はそうなっていると思います。生徒数31人、指導員6人だからできる、という意見もあると思います。しかし、これを目指してできる限りの努力をしている学校がどれだけあるでしょうか。

 世間の人々も、学校の問題が起きると「教師の問題」と考えるのではなく、「校長の問題」と考える人がどれだけいるでしょうか。
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山村留学

2016年10月20日 | サ行

       山村留学40年で1万1000人

 長野県の旧八坂村で1976年に始まったとされる山村留学。北海道の農村や鹿児島県の離島など、これまでに全国で約1万1千人が都会で暮らす親や友達と離れて住民票を移し、農山漁村で義務教育を受けた。

 NPO法人「全国山村留学協会」(東京)がまとめた2013年度の報告書によると、2013年度は24道府県の68市町村で山村留学が行われ、小学生は約360人、中学生は約200人が参加。小学生の3割、中学生の半数以上は2年以上続けている。

 その一方で、小学校は89校、中学校は42校が受け入れ態勢をとったが、25小学校、6中学校では山村留学生が集まらなかった。これまでも、留学生が集まらずに受け入れをやめたケースも少なくない。協会の担当者は「カリキュラムや施設に不備があるなど、留学生の教育より地元の学校の存続に重きを置いたような所もある。それでは親は預ける気にならない」と話す。

 協会は文部科学省の委託で「山村留学ガイドライン」を作成、ホームページで公開している。
・責任者や費用は明確か
・子どもの様子を定期的に情報発信しているか
・傷害保険に加入しているか
・地域の特色を生かした体験活動はあるか
などのチェックリストもある。

 1980年代以降、受け入れ地域が増えたが、留学生は2004年度の860人をピークに減少傾向だ。学校の統廃合や、里親の高齢化などでやめた地域が目立った。受け入れ自治体が「平成の大合併」でなくなったこともあるという。2009年度からは500人台で推移している。
  (朝日、2016年10月13日)
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茶草場(ちゃぐさば)農法

2016年10月09日 | タ行

 里山維持、味や香り増す

 お茶の名産地、静岡県掛川市東山地区。年内最後の摘み取り時期になる9月下旬に訪れると、一風変わった風景が広がっていた。

 茶畑の奥にはススキやササが伸び放題。これらの草が東山地区で行われている伝統的な栽培方法「茶草場農法(ちゃぐさばのうほう)」を支えている。

 東山地区の茶作りは1年がかりだ。春から秋までの摘み取りが終わると、茶園の周りで伸びたススキやササを刈り取る。乾燥させ、10センチ程度に細かくした後、茶園の畝(うね)と畝の間に詰める。作業が終わると、もう春が間近だ。

 敷き詰めには、肥料や保水性の向上、雑草防止の効果があり、お茶の昧や香りが増すという。

 メリットは茶の側だけにとどまらない。畑の周りでは、ススキの他にも、秋の七草のハギやクズ、フジバカマ、オミナエシが見られた。地方によっては姿を消しつつある秋の七草は、この茶草場では、全種類が見られるという。絶滅のおそれがある動植物の姿を目にする機会も多い。

 毎年人が手を入れることで維持される里山の環境が茶草場にはある。地域が大切にしてきた150年の農法が、お茶の昧と生物多様性にとって重要な環境も守ってきた。東山のお茶PR・販売店「東山いっぷく処」の代表杉山敏志さん(65)は「お茶がおいしくなって、自然にも優しいってことは、この農業はいいことをしているんだろうと思う」と控えめに誇る。

 取り組みが評価され、国連食糧農業機関(FAO)が認定する、世界農業遺産にも2013年に選ばれた。選考理由では、「伝統的農法の模範例」とされ、「Chagusaba」の名も記された。

 秋の刈り取りなどの体験や、地元の農家がガイドする散策など、外部の人にも農法を身近に感じてもらえる催しも企画する。農家で、ガイドも務める山城みや子さんは「お茶のうまさだけでなく、私たちが守ってきた農法、1年をかけたお茶作りの工程を知って欲しい」と話す。
 (朝日、2016年10月04日夕刊。小坪遊)
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読書感想文を考える

2016年10月02日 | タ行

 1、朝日新聞の記事

読書感想文マニュアルの記事に対し、読者から多くの反響をいただきました。感想文の書き方を示したマニュアルを子どもたちに渡すのは是か非か。主な声を紹介します。

 9月2日付の記事では、今年夏、童話「シンデレラ」を例に書き方を細かく指南するマニュアルを或る小学校が配ったところ、SNSで賛否の意見が飛び交う議論になったことを紹介した。記事への感想や意見の投書でも、賛否は分かれた。

 名古屋市内の中学校の国語教師、伊東達矢さんは、マニュアルの活用を提案する。生徒が提出してきた夏休みの宿題の読書感想文のなかには、書きなぐったような文字が連なっているなど、嫌々書かされたような印象を受けるものもあった。任意提出にしたら、ほとんどの生徒が出さなくなると考える。「ならばいっそ、マニュアルを整備し、制限された状況で伝えるべきことを文章化する訓練として感想文をとらえた方が、生徒たちにとって有益なのでは」。

 三重県鈴鹿市で小中学生対象の国語教室を開いている川戸恵子さんは、多くの子どもが感想文に苦手意識を持っていると感じる。自身も小学生の頃、読書は大好きだったのに感想文の書き方がわからず、苦しんだ。そんな経験もあって、感想文の「型」を教えるのは、安心して書くために必要だと思う。

 「型に沿って書けば、形の上では画一的に感じられるかもしれないが、子どもが本を読み、自分の力で書き上げたなら、まずそれを評価していくことが大切。それを出発点にして、書き方の工夫をしていけばいい」と指摘する。

 「マニュアル本は使い方次第でとても有効」との意見を寄せたのは、神奈川県の主婦だ。今年の夏休み、小学1年の長男に出された宿題の読書感想文の提出は任意だったが、苦手なひらがなを学ばせるために取り組ませた。マニュアル本を参考にしながら書かせたところ、感想文コンクールの学校代表に選ばれた。長男は生き生きとした顔を見せたという。

 一方、マニュアルに疑問を投げかける声も根強い。

 札幌市の元大学教授、伊藤進さんは、マニュアルを与えると、「課題を表面的に処理し、形だけ整った文書を書く習慣をつくってしまう弊害がある」という意見だ。大学でリポートなどの書き方を教える授業を担当した。大半の学生は調べたり考えたりしたことを簡潔、明瞭に書くスキルを身につけないまま入学してきていたという。「小学校から高校まで、書くことをもっと系統的に学ばせる必要があると思う」。

 大津市の元小学校長、安田直次さんは「目先の要求に負けてマニュアル化して済ませようとする現代教育に通底する問題ではないか」と感じた。感想文のマニュアルは必要ないが、子どもたちに「書き方」を教えることは大切だと思う。

 現役の教員時代、感想文を書く際の頭の整理の仕方を考えた。①読んだ本について、「○○と書いてあった」(A)と「○○と私は思った」(B)の二つに分けて書き出す、②Bの中から大事だと考えるものを三つ選び、その根拠となるAを探す、③BとAを組み合わせて文章を構成する──というものだ。様々な文章を書くのに応用できると考えている。

 児童生徒に感想文を課すこと自体に反対という意見もあった。千葉県鴨川市の主婦、石川真理さんは本を読み終えた後の余韻を味わうのが楽しいのに、感想文で結論を急がせる必要があるのか疑問だという。

 どうしても感想文を書かせたいなら、たとえば金子みすゞの詩を一つ指定し、「他人と同じにならないように感想文を書いてくるように」と指示してみては、と提案する。違う感想文を読むことで、「『私はこう思ったけど、○○さんはあんな考え方をするんだなあ』と新たな発見があるはず。それこそ金子みすゞの詩にあるように、『みんな違ってみんないい』教育だと考える」と結んだ。
(朝日、2016年9月23日。杉山麻里子)

 2、牧野の感想

 ・先生自身が文章を書いていない。生徒に言うことは、原則として、自分のできることか実行している事でなければならない。自分のできない事を生徒にやらせる場合は、「自分は出来なくて困った」とかの「反省」を言ってからにするべし。

・読書の習慣を付けさせることと文章を書く練習をさせることとを分けるべし。文章を書く練習をさせるには、書きたくなるような問題を出せば好い。特に学校の在り方や教師の態度や教え方には生徒はいろいろな不満を持っている。こういう「切実な問題」をテーマにすれば生徒は真面目に書くはず(拙著『哲学の授業』を参照)。

・生徒に提出させたものには、先生はそれこそ「読んだ感想」を書いて返すべし。自分がしていない事を生徒にやらせるな。更に、「教科通信」を発行して、いくつかのものを載せて、先生の考えなどを書くべし。これがあると、生徒はやる気が出る(この点も拙著『哲学の授業』を参照)。

・要するに、生徒の姿は先生の姿を映しているだけです。
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文化・芸術の力で町起こし

2016年09月23日 | マ行


              北海道文化財団理事長・磯田 憲一

 2040年までに国全体で2千万人の減少が予測される人口減社会。「消滅可能性都市」という言葉まで登場し、自治体経営には濃霧が立ちこめる。しかし、だからこそ、時代と向き合う自治体の姿勢が地域の将来を左右する。「住んでよし、訪れてよし」の魅力ある自治体の共通項は、人口の多寡ではなく、地域資源を生かす知恵に満ち、個性を明瞭に発信している地域だ。地域の歴史や風土、固有の文化的資源に裏打ちされたソフトパワーは人の心を捉える。それが呼び覚ます共感や感動が人やもの、経済をも動かしていることは、人口減時代でも「にぎわい」や「交流」を創出している自治体があることを想起すれば得心がいく。

 そのソフトパワーに着目して、文化庁は2007年度から、文化芸術分野で成果をあげた自治体を「文化芸術創造都市」として表彰している。9回目の今年、これまでで最も人口の少ない北海道剣淵町(3280人)が、並みいる他都市を抑えて受賞した。旭川から北へ50㌔の純農村地帯だが、28年前、隣町に住む絵本作家の呼びかけに心を響かせ、子どもの心と生命を育む「絵本の里」づくりをスタートさせた。1991年創設の「けんぶち絵本の里大賞」は、今や新人作家の登竜門と言われる。特筆すべきは、基幹産業を担う農業者が「絵本」に「農業」と通底する力を見いだし、中心的役割を果たしてきたことだ。結果として「絵本の里」の農産物のブランドカを、さらには「文化芸術」の薫りを持つ町としての知名度を高めている。

 同時受賞の富良野市はドラマ「北の国から」で知られるが、こちらも農業主体の小規模自治体だ。「富良野演劇工場」が2000年にオープンし、NPOが中心になって、学校や企業、地域で、演劇によるコミュニケーション教育を多彩に展開。演劇と人づくりを融合させ、交流人口の拡大を図っている。

 いずれも、文化芸術を核にした戦略が活力を生みだしている好例だ。ハコモノなど形の見える成果を求めるあまり、文化予算がやせ細る自治体は多い。文化は権威に依拠するものではないとしても、文化のパワーを信じて挑戦する自治体にとって、文化芸術創造都市の表彰は大きな励みになる。創造都市の交流が進み、文化の持つ創造力が地域の活力を生むパワーであることへの理解が進めばと願っている。目先に惑うことなく、「時間」が熟成する価値に着目し、文化戦略を地域発展の基軸の一つに据える勇気を持つ自治体にこそ未来は微笑(ほほえ)むに違いない。人々は確かなアイデンティティーを求めて、文化の力を備えた心和む地域や故郷に回帰していくはずなのだから。

(2016年09月14日。朝日、私の視点欄)

 感想

 私も本当にそう思います。我が浜松市を考えると、いつでも、「根本的に文化力がない」と感じます。「ない」で悪ければ「低すぎる」と感じます。「隣の芝生は青く見える」のかもしれませんが、隣の磐田市と比べても、掛川市と比べても、浜松市の方が「文化的に低い」と感じます。

 かつて長野県の松本市で生活したことのある人と話したことがありますが、彼も実感としてそう思うと、私の考えに賛成してくれました。

 音楽都市を掲げ、国際ピアノコンクールを開催していますが、それに費やしている費用及びエネルギーに比して十分な効果が上がっているとも思えません。
費用の正確な数字は公表もされていません。

 根本的に教育に問題があるのだと推定しています。教師のレベルが低すぎると感じます。特に校長にお粗末な人が多いようです。

 今年の4月からの朝ドラ「とと姉ちゃん」では、初めのころ、浜松が舞台でした。来年の大河ドラマは井伊直虎だそうで、これは北遠が舞台なので、今、市を挙げて「このチャンスを生かそう」と頑張っているようです。

 しかし、外からの好機をどれだけ生かすかは結局は日ごろの自分たちの努力だと思います。これが根本的に変わらなければブームも一過性のものに終わるでしょう。
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校庭の芝生化、磐田市の場合

2016年09月19日 | カ行

 磐田市が市立保育園や幼稚園などの園庭の芝生化に取り組んでいる。もともと、小中学校の校庭の芝生化に先進的に取り組んでできたが、管理に手間がかるため近年は動きが止まっていた。そこで保育園など3園を対象に、管理が容易な芝に変えて試行する。

「転んでも大丈夫」

 8月31日、磐田市二之宮の二之宮保育園で「芝生開き」があった。約110人の園児が市のイメージキャラクター「しっぺい」とともに、園庭の中央に張った芝生の上でダンスをしたり駆けっこをしたりした。

 「芝生なら転んでもけがをしにくいし、雨の後でもぬかるまないので、外で遊べる。裸足になれば土踏まずが芝に触れ、運動能力が刺激される効果もある」と岩本久美子園長は話す。

 市は今年度、二之宮保育園のほか豊岡南幼稚園と福田こども園も芝生化することを決め、今月1日と2日に芝生開きをした。福田こども園では、ヤマハ発動機ジュビロのスタッフによるラグビー教室もあった。

 市は「スポーツのまちづくり」の一環で、2003年度から小中学校の校庭の芝生化に取り組み、14年度までに20校に芝生が張られた。芝生は転んだ際にけがをしにくいとされ、地面の照り返しによる暑さも抑えられることから、子どもの外遊びを促すのに適しているという。ただ、サッカー場などに用いる「ティフトン」という芝を使っていたため夏場の生育がよく、刈り込みや水やりが大変だった。

 教頭らが管理を担当してきたが、手が回らず、大半の学校がシルバー人材センターに作業を依頼。それでもここ2年は、小中学校では導入例がない。

 そこで今回、保育園や幼稚園向けに「ウィンターフィールド」という省管理型の芝生を選んだ。背丈が低く、踏まれることに強いのが特徴。水やりは園の職員が行うものの、サッカー場のようにこまめに刈りそろえる必要はないという。


3園で経費258万円

 ただ、市の施設などに植えられていたものを再利用できたティフトンに比べ、ウィンターフィールドは芝の調達や作業を業者に委託する必要があり、3園で約258万円かかった。

 「芝生が子どもにどんな効果をもたらすかや、冬にすり切れる分の補修も含めた管理の手間を勘案し、他の園にも広げるか判断したい」と市幼稚園保育園課の担当者は話している。

      (2016年09月03日、朝日、静岡版。大島具視)

 感想

 浜松市では校庭の芝生化は、多分、ゼロです。市長に見識がないのだから、仕方ないです。
 それはともかく、鳥取方式をなぜ採用しないのでしょうか。

  鳥取方式
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朝日新聞のジャーナリズム(その2)

2016年08月23日 | ア行

1、朝日、静岡版。2016年07月25日の記事

──完工の防潮堤に植樹。浜松・篠原工区で園児ら

 県と浜松市が遠州灘沿岸の浜松市域に造っている防潮堤のうち、篠原工区の本体工事の完工報告会と記念イベントが24日、現地であった。県や市、それに県に300億円を寄付した一条工務店グループの幹部らが出席。小学生やこども園の園児らと、堤にクロマツの苗木を植えた。

 県と浜松市は寄付などを元に、天竜川河口から浜名湖の今切口までの17・5㌔を四つの工区に分け、標高13㍍の防潮堤を造っている。そのうち、南区と西区にまたがる篠原工区は最初に工事が始まり、5月までに4・5㌔で本体工事が終了。まだ1㌔弱残っているが、大どころが終わったため、市民の防潮堤に対する関心を高めるべく報告会を開いたという。

 保安林伐採などに時間を要し、他の工区も含む全体の工事は遅れており、県の担当者は「2020年3月の完成を目指す」と話した。

 2、牧野の感想

 これを一言で評するならば、「事実ではあるが、真実ではない記事の見本」ということになると思います。

 この事業はもともと「津波の被害を防ぐ、あるいは軽減するための対策をしなければならない」という考えが前提となっていたと思います。

 そこに一条工務店が300億円の寄付を申し出てくれたわけです。そのために、この金をどう使うかという問題に具体化されたのです。

 その時、県知事や浜松市長にとっては「巨大防潮堤で津波を抑え込むのは当然」だったようです。そのため、どの程度の巨大防潮堤をどうやって作るかだけが問題になったのです。それ以外の方法は検討もされなかったようです。

 結局、クロマツを主とする「保安林」を一部削って、海岸沿いに巨大防潮堤を作ることになったのです。

 しかし、人々の頭の中には「クロマツ防潮林」信仰が残っています。また、他の一部の市民の中には宮脇昭の「その土地の潜在植生の混植・密植こそが最良の方法」という説を信奉している人も少なからずいます。

 私には好くは分からない経過を経て、上記の巨大防潮堤の北側の裾に幅1メートルくらいの「防潮林」を植えても好いことになりました。行政派はクロマツを植えることになりました。上の記事で紹介されているのはその活動の一環です。

 宮脇派は行政の許可を得た限りで、広葉樹の混植・密植を着々と進めています。巨大防潮堤の裾だけでなく、そこから百メートルくらい北側に前からある「小さな防潮堤」の上(裾ではありません。「上」です)にも植えています。

 朝日新聞と中日新聞は行政派の「クロマツ植樹」の時だけ切れ切れですが、報道しています。静岡新聞は6月13日の宮脇派の植樹活動を報道しました。

 事態の全体像が分かるような「真の報道」は今の所どこにもないようです。

関連項目

朝日新聞のジャーナリズム
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