植物園「 槐松亭 」

バラと蘭とその他もろもろの植物に囲まれ、メダカと野鳥と甲斐犬すみれと暮らす

虫を殺すくらいで罰が当たるか?

2023年07月04日 | 雑感
昨日は菩提寺の和尚さん(若坊さん)から頼まれていた「増えすぎたメダカ」を引き取ってきました。出入りの業者さんから貰ったメダカが、ホテイアオイの根などに産卵し、孵化繁殖しているうち増えすぎて、面倒を見切れなくなったのです。川などに放流するのは古来の原種メダカの保護のために規制があります。そこで、世話人であるワタシが、メダカの繁殖をしているのを聞きつけて依頼してきたのです。お金を払うから処分引き取り願いたいということでした。下見したら、プラ舟二つにせいぜ100匹足らずで、4千匹ほど飼っているワタシにとっては「誤差」のうちでありますから、気持ちよくタダで引き受けたのです。

先代のお上人の奥様が、メダカの世話をしていて稚魚を可愛がっていたようです。なので、小さな器にうつしてはすこしずつ数が増えていったのでしょう。今回はも、すべて持っていかれると楽しみが減るので、孵化したての稚魚だけは残しておいてということでした。

ワタシの感じた問題点は、①「サカマキガイ」 が大量にいて、これだけはうちのメダカプールへの侵入は阻止せねばならない ②大小4,5個の容器をどうするか ③お寺の境内で「殺生」はどこまで許されるか、でありました。

「サカマキガイ」はスネールと呼ばれ、水槽の中で大繁殖して嫌われるお邪魔虫です。メダカの糞などを食べるのですが彼らも糞をするので水質改善にはなりません。単性繁殖、つまり一匹で産卵繁殖するので厄介なのです。多くはメダカを貰う、あるいは浮かべるホテイアオイの中やひげ根に紛れ込んで侵入します。また、卵は透明のゼリー状なので容器や根についていても気づかないのです。
ひとたび孵化すると芥子粒のような小さな幼体が水中を湧き上がるように舞います。これは動く微細な生餌とも言えるので、メダカの餌になるという唯一の利点がありますが、さほど好物でもなさそうで、ほかにちゃんとした餌を与えれば見向きもしません。

ご住職の目の前で、水槽・容器にへばりついたスネールを素手でぶちぶち潰していくのです。これは立派な殺生ではなかろうか、見ていた若坊さんが背後でお念仏でも唱えるのではないか、と冷や冷やしていたのです。一匹のヤゴ(トンボの幼虫)も発見しましたが、これは大きめの昆虫で、殺生が目立つのでそこらの砂利に放り投げました。殺してませんよ(笑)、逃がしてやったのであとは本人が生きられる環境をみつけられるかです。

孵化したての稚魚(針子)も数十いたのです。これはもともと雑種でペットショップでも喜ばれないもので、餌をやって育てるほどの価値はありませんが、皆さんの見守る中で、メダカの容器ごとそこらに撒くわけもいきませんので。目の細かいメダカ掬い網で掬って、持ち帰りました。

さて、今朝も出だしは園芸、そのはじめは特大蚊取り線香に火をつけるのです。これは、日中8時間くらいずっともつので重宝なのです。今年は例年以上にやぶ蚊が多く、蚊よけスプレーを手や首筋などに吹きかけるくらいでは防御できません。フマキラーなどの殺虫剤も併用してなんとかかに食われないようにしておりますが、やはり長袖のシャツ・長ズボンはどんなに暑くても省けません。剪定のついでに見つけたコガネムシも踏みつぶしました。

仏教では、「殺生」は「五戒」の一つで、これを破ると死後には地獄や畜生道に落とされるそうです。全部をちゃんと守ると「極楽浄土」に行けるという教えのようであります。ただし、これは、仏教徒・在家の信者ですから、無宗教・無信者には適用されないようです。昨日も鳥用に作った巣箱にアリが巣をつくって無数の卵の塊を発見し、即座に殺虫剤で殲滅しました。ガーデニングをする人間にとっては、殺生は日常茶飯事、これなしではまともに植物は育てられません。大量殺戮を毎日続けているのです。

ワタシは、子供の頃から「仏壇・神棚」の無い家で育ちました。父親は何かあると「南無阿弥陀仏」と唱え、母は、大分の田舎の神社の神主の娘であります。しかし、宗教的な行動は生活の中には感じられませんでした。盆暮れやお墓参り、初詣などは、宗教に関係のない日本人の普通の一般行事です。
そんなことでワタシは、この歳になるまで一貫して無信教・無宗教で通してきました。どちらかといえば、「罰当たり」でしたか(笑)

仏教に帰依して「殺生」をしたら、地獄生きなどはまっぴらであります。極楽に行きたいとも思いません。死んだら「無」になる、生きたという痕跡は名前や製造物・子孫とその記憶には残ることだけのこと、自分は魂はおろか体も意識もすべて灰になります。そこらを漂ったり墓の中で待っていたら怖くて仕方ない。地獄も天国もあるはずもない、それは「観念」としての想像の世界だけのことです。

とはいえ、殺生も相手によってとらえ方が違ってきます。ワタシにとっては、どれだけ人間に近いか、とその大きさ(重量)、そして好きか嫌いか、によっております。例えばゴキブリ、これは無条件に嫌いで、割と小さな害虫、これを見つけたら出来る限り成仏させます。でも、うちの畑を荒らし果実をかすめとる「アライグマ」はどうやっても殺そうという気にはなれない、ということです。

人生で最も大きな動物を弑たのは、鶏であったような気がします。中学生の時家で飼っていた鶏は卵を産まなくなると「潰し」て食肉にするのです。父親に命じられてやりましたが、50年以上も前のその時の光景をいまだに脳裏に残っております。さらに、嫌な記憶でいえば父親が所持していた空気銃であります。遠いところにいるカラスなどには当たらず、当たってもほとんどダメージはありません。親の居ないときに内緒で、空気銃で「メジロ」「つぐみ」を撃ち落としたときの何とも言えない後悔の気持ちを忘れることは出来ないのです。これが「罰が当たった」ということなのかもしれませんね。

社会人になってからは、昆虫以外に動物を殺した記憶はありません。ねずみも蛇も殺しませんでした。魚釣りに突き合わされて釣った魚が、結局死んでしまうのは殺生には当たらないでしょうか。仏教徒でなくても無信心でもやはり殺生は嫌なものです。

お迎えが近くなると信心深くなるそうであります(笑)
今年4月からお寺の世話人をお引き受けしましたが、やはり自分は仏教徒ではないのです。お施餓鬼というのには行ってきますが。

今、柄にもなく神仏に拝むのは、自分の健康や幸せ、あるいは極楽往生ではありません。
子供が生まれずに妊活に励む子供夫婦、ぜひ神様仏様、この二人に子宝をお恵みください、と毎日手を合わせております。

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