■総務省や文科省が誹謗中傷対策に乗り出す
去年から今年にかけ、ネット上の誹謗中傷や有害サイトをなんとかしよう、って動きが活発になってきた。(文末の「参考サイト」参照)
今回は総務省や文科省など、お役所が対策作りに乗り出してるだけに本格的だ。うかうかしてると将来的には、「なんでもかんでも実名にしてしまえ」てな暴論に基づく法律ができちゃう可能性もなくはない。
そこで今回は実名制の実現性と、実名論議が陥りやすい「ポジショントークの罠」について考えてみる。
■局面を限定した実名制以外は空理空論だ
まず最初にお断りしておこう。私はインターネットの実名化に反対だ。だけど単に反対してるだけじゃ、お役所にとんでもない案件を通されかねない。
で、あえて実名制の肩をもち、どんな実名制なら実現する可能性があるか? を提案の意味も込めて考察してみることにした。
いちばん実現の可能性が高く現実的なのは、局面を限定した実名制だと私は思う。それ以外の実名論はたいてい空理空論に近い。
リアル世界の芸能人や評論家、学者などの有名人を除き、だれも名前を明かしたがらないのに制度だけ導入しても意味はない。「実名でなきゃダメなの? なら、ネットなんてやめるわ」と、せっかくユニークな発想や思考、文章、絵、動画を発信してるネットユーザがごっそり減るだけだ。
そんなことになってしまえば、ネット上における総体としてのクリエイティビティは大幅に下落する。とんでもない損失だ。
私が実名制に反対する理由はこれである。
■一種のローカルルールとしての実名制
さて局面を限定した実名制に話を戻そう。
たとえば仮に、ある分野の「専門家」が実名で情報発信してるとする。じゃあこの人は以下、どっちの実名主義なのか?
【シーン別実名主義】
「オレの学説を取り上げ、ほめたり批判したりするときには、『お前』も実名で意見を書け」
【365日実名主義】
「オレは実名で情報発信している。だから匿名の『お前』もオレと同様、常に実名で情報発信しろ。自分だけ匿名でモノを言うお前は卑怯者だし、今の状況は不公平だ」
くらべてみてどうだろう?
自分は勝手に実名で書いているのに、「周りの人間すべて」に同じことを強要する──。「365日実名主義」がいかにナンセンスな論理かよくわかる。
一方、最初にあげた局面限定主義の実名論なら、まあ現実味はある。一種のローカルルールみたいなものだ。ただしこの場合、「自分が運営する実名ブログのコメント欄に、匿名書き込みがあれば削除する」ってだけじゃない。
「ネット上のあらゆる場面で『オレ』の学説を取り上げる場合、実名を使え」って話だ。ゆえに厳密な意味ではローカルルールじゃない。
(断っておくが、私自身は匿名で私のことが取り沙汰されようが気にしない)
■Googleがテスト中の実名版Wikipedia「knol」は支持される?
また前述のケース以外にも、局面限定主義の実名論はありえる。たとえばGoogleがテストしている実名版Wikipedia「knol」なんかもそうだ。
「Wikipediaみたいな客観的事実を積み上げた辞典を作りたい。ついては実名化することにより、文責がだれにあるかを明らかにする。そのことでノイズを減らし、論述のクオリティを上げたい。客観的事実を書くぶんには、実名でも差障りないでしょう?」
上記のような論理なら理解できるし、それはそれで現実的だと思う。ちみなにこの場合も「knol上では実名で書け」って話だからローカルルールだ。
いったんまとめよう。
こんなふうに局面や媒体を限定した上での実名制なら話はわかる。だけど「365日実名主義」には賛成できない。また現実味もない。
■「人種」を限定した人権論はおかしい
一方、実名論議をすると必ず出てくる言説で、「それはおかしいだろう」という物言いをひとつだけやっつけておきたい。
それは次のような主張である。
「実名で情報発信する専門家の人権は守られるべきだ。その専門家が誹謗中傷や荒らしに遭わないよう、守られるべきだ」
この人自身が専門家だから、いわば自分の権利を主張してるんだけど……目指すべきは、あらゆる人がネット上で誹謗中傷にさらされない世界の実現じゃないだろうか?
専門家や実名者の人権だけでなく、匿名者も含めたすべての人の人権が等しく守られるべきなのだ。
なのに「専門家」の人権だけを主張するこんな言説は、実名主義者のポジショントークにすぎないといえる。
■実名者をいくら攻撃しても許される?
一方、同じことは匿名主義者にもいえる。「自分が匿名だから関係ないや」と、無責任な物言いをするポジショントークの例だ。これも実名論議になると繰り返し出てくる珍説である。
「実名で書いてるやつは売名が目的だろ? 自分を宣伝するために実名で書いてるんだから、匿名者から攻撃されるリスクはちゃんと織り込んでおけよ」
言い換えれば、「お前は宣伝のためにやってるんだから、殴られても文句は言うな。それは自分が悪いんだ」って論法だ。ところが一方の匿名者サイドは、いくら攻撃しようが誹謗中傷しようが許されるんだ、みたいな話になっている。
つまりこれは匿名者が、周囲の匿名者たちの空気を読んで行なう言説なのだ。
この論法では、「実名者なら攻撃してもオッケーだ」ってことになってしまう。明らかな暴論である。
繰り返しになるが、人権が守られるべきは「実名者か匿名者かを問わず」だ。同様に誹謗中傷は、「実名者か匿名者かを問わず」許されるべきではない。そんなものは当たり前である。
まあ、もとは「実名を出すなら自己責任でやれ」って主張なのかもしれない。もちろんそれはそうだ。けど、だからといって逆側(匿名者)が行なう暴力が許されるんだ、って話にはならない。
こんな暴論を主張する匿名者がいるから、○○さんみたいな人が「実名者だけ」の権利を主張するようになっちゃうわけ。まさに悪循環の堂々めぐりだ。
もうひとつ言っておきたい。
このテの暴論をタテに、匿名者の暴力を「オッケーだ」なんて認めていると……いやまじめな話、お役所が「よーし、もう見逃せんわ。さあみんな、明日からインターネットは365日実名でやることにしたぞ」とかいってヘンな法律を出してきかねない。
私はそんな事態になることを、真剣に危惧している。
【参考サイト】
『学校裏サイト:文科省が実態調査 対策案策定も検討』(毎日jp)
『「情報通信法」(仮)が最終報告――ネットに「最低限の規律」』(@IT)
『“闇サイト”など違法・有害情報の対策強化へ、総務省が検討会を開催』(INTERNET Watch)
『携帯サイトフィルタリング、未成年者は原則加入に』(ITmedia)
『有害サイト削除、民主が独自法案・プロバイダーに義務化』(日経ネット)
去年から今年にかけ、ネット上の誹謗中傷や有害サイトをなんとかしよう、って動きが活発になってきた。(文末の「参考サイト」参照)
今回は総務省や文科省など、お役所が対策作りに乗り出してるだけに本格的だ。うかうかしてると将来的には、「なんでもかんでも実名にしてしまえ」てな暴論に基づく法律ができちゃう可能性もなくはない。
そこで今回は実名制の実現性と、実名論議が陥りやすい「ポジショントークの罠」について考えてみる。
■局面を限定した実名制以外は空理空論だ
まず最初にお断りしておこう。私はインターネットの実名化に反対だ。だけど単に反対してるだけじゃ、お役所にとんでもない案件を通されかねない。
で、あえて実名制の肩をもち、どんな実名制なら実現する可能性があるか? を提案の意味も込めて考察してみることにした。
いちばん実現の可能性が高く現実的なのは、局面を限定した実名制だと私は思う。それ以外の実名論はたいてい空理空論に近い。
リアル世界の芸能人や評論家、学者などの有名人を除き、だれも名前を明かしたがらないのに制度だけ導入しても意味はない。「実名でなきゃダメなの? なら、ネットなんてやめるわ」と、せっかくユニークな発想や思考、文章、絵、動画を発信してるネットユーザがごっそり減るだけだ。
そんなことになってしまえば、ネット上における総体としてのクリエイティビティは大幅に下落する。とんでもない損失だ。
私が実名制に反対する理由はこれである。
■一種のローカルルールとしての実名制
さて局面を限定した実名制に話を戻そう。
たとえば仮に、ある分野の「専門家」が実名で情報発信してるとする。じゃあこの人は以下、どっちの実名主義なのか?
【シーン別実名主義】
「オレの学説を取り上げ、ほめたり批判したりするときには、『お前』も実名で意見を書け」
【365日実名主義】
「オレは実名で情報発信している。だから匿名の『お前』もオレと同様、常に実名で情報発信しろ。自分だけ匿名でモノを言うお前は卑怯者だし、今の状況は不公平だ」
くらべてみてどうだろう?
自分は勝手に実名で書いているのに、「周りの人間すべて」に同じことを強要する──。「365日実名主義」がいかにナンセンスな論理かよくわかる。
一方、最初にあげた局面限定主義の実名論なら、まあ現実味はある。一種のローカルルールみたいなものだ。ただしこの場合、「自分が運営する実名ブログのコメント欄に、匿名書き込みがあれば削除する」ってだけじゃない。
「ネット上のあらゆる場面で『オレ』の学説を取り上げる場合、実名を使え」って話だ。ゆえに厳密な意味ではローカルルールじゃない。
(断っておくが、私自身は匿名で私のことが取り沙汰されようが気にしない)
■Googleがテスト中の実名版Wikipedia「knol」は支持される?
また前述のケース以外にも、局面限定主義の実名論はありえる。たとえばGoogleがテストしている実名版Wikipedia「knol」なんかもそうだ。
「Wikipediaみたいな客観的事実を積み上げた辞典を作りたい。ついては実名化することにより、文責がだれにあるかを明らかにする。そのことでノイズを減らし、論述のクオリティを上げたい。客観的事実を書くぶんには、実名でも差障りないでしょう?」
上記のような論理なら理解できるし、それはそれで現実的だと思う。ちみなにこの場合も「knol上では実名で書け」って話だからローカルルールだ。
いったんまとめよう。
こんなふうに局面や媒体を限定した上での実名制なら話はわかる。だけど「365日実名主義」には賛成できない。また現実味もない。
■「人種」を限定した人権論はおかしい
一方、実名論議をすると必ず出てくる言説で、「それはおかしいだろう」という物言いをひとつだけやっつけておきたい。
それは次のような主張である。
「実名で情報発信する専門家の人権は守られるべきだ。その専門家が誹謗中傷や荒らしに遭わないよう、守られるべきだ」
この人自身が専門家だから、いわば自分の権利を主張してるんだけど……目指すべきは、あらゆる人がネット上で誹謗中傷にさらされない世界の実現じゃないだろうか?
専門家や実名者の人権だけでなく、匿名者も含めたすべての人の人権が等しく守られるべきなのだ。
なのに「専門家」の人権だけを主張するこんな言説は、実名主義者のポジショントークにすぎないといえる。
■実名者をいくら攻撃しても許される?
一方、同じことは匿名主義者にもいえる。「自分が匿名だから関係ないや」と、無責任な物言いをするポジショントークの例だ。これも実名論議になると繰り返し出てくる珍説である。
「実名で書いてるやつは売名が目的だろ? 自分を宣伝するために実名で書いてるんだから、匿名者から攻撃されるリスクはちゃんと織り込んでおけよ」
言い換えれば、「お前は宣伝のためにやってるんだから、殴られても文句は言うな。それは自分が悪いんだ」って論法だ。ところが一方の匿名者サイドは、いくら攻撃しようが誹謗中傷しようが許されるんだ、みたいな話になっている。
つまりこれは匿名者が、周囲の匿名者たちの空気を読んで行なう言説なのだ。
この論法では、「実名者なら攻撃してもオッケーだ」ってことになってしまう。明らかな暴論である。
繰り返しになるが、人権が守られるべきは「実名者か匿名者かを問わず」だ。同様に誹謗中傷は、「実名者か匿名者かを問わず」許されるべきではない。そんなものは当たり前である。
まあ、もとは「実名を出すなら自己責任でやれ」って主張なのかもしれない。もちろんそれはそうだ。けど、だからといって逆側(匿名者)が行なう暴力が許されるんだ、って話にはならない。
こんな暴論を主張する匿名者がいるから、○○さんみたいな人が「実名者だけ」の権利を主張するようになっちゃうわけ。まさに悪循環の堂々めぐりだ。
もうひとつ言っておきたい。
このテの暴論をタテに、匿名者の暴力を「オッケーだ」なんて認めていると……いやまじめな話、お役所が「よーし、もう見逃せんわ。さあみんな、明日からインターネットは365日実名でやることにしたぞ」とかいってヘンな法律を出してきかねない。
私はそんな事態になることを、真剣に危惧している。
【参考サイト】
『学校裏サイト:文科省が実態調査 対策案策定も検討』(毎日jp)
『「情報通信法」(仮)が最終報告――ネットに「最低限の規律」』(@IT)
『“闇サイト”など違法・有害情報の対策強化へ、総務省が検討会を開催』(INTERNET Watch)
『携帯サイトフィルタリング、未成年者は原則加入に』(ITmedia)
『有害サイト削除、民主が独自法案・プロバイダーに義務化』(日経ネット)