今の派遣とか非正規雇用とかの状況を見ていると、結局、勝ち続けるのは個人じゃなく企業なんだなぁと思い知らされる。
1980年代初頭にフリーターなる言葉が出てきたとき、思ったものだ。「これからは目標も持たずになんとなく就職するんじゃなく、自分のやりたいことを目指す社会になるんだな」と。
ライフスタイルとしての個人主義って言葉は当時すでにあったけど、ワーキング・スタイル的にも集団(企業)ではなく個人の時代が来たんだな、と感じた。
それまでの企業中心主義社会では、企業の終身雇用制が社会的なセーフティネットの役割を果たしていた。仕事は保証する。死んだら会社が墓も作ってやる。そのかわりカイシャに隷属せよ、と。
そんなカイシャは否応なくプライベートに侵入してくる。冠婚葬祭では上司の部長が音頭を取り、退社後の花見では場所取りをやらされる。暑くても上着を着ろネクタイをしろ革靴を履け。カイシャ中心のライフスタイルを生き、カイシャ中心主義的な価値観を持てと要求された。それが安全な生き方だよ、と。
だからこそ学生たちはモラトリアムな大学4年間を楽しんだ。人生最後の晩餐である。で、その後は安定してはいるけど、魂をカイシャに預ける人生の軟禁生活を耐え抜いた。
なぜ彼らは耐えられたのか? それは妻子のためだったり、親のめんどうを見るためだったりした。ひっくるめて言えば、広い意味で社会のためである。もちろん自分が食うためでもあるのだが、他者のための物語がまだ有効に機能していた時代だった。こうして社会はうまく回っていた。
一方のカイシャは終身雇用制を敷くことで、技能や才覚など能力のある人材を組織の内部に蓄積できた。それがエネルギー源になり、1970年代までの高度経済成長を成し遂げた。
ところが1980年代初頭にフリーターが登場し、カイシャと社員の蜜月時代が壊れていく。
「オレは自分のやりたいことをやるんだ」
自分の意思で就職せず、アルバイトをしながら自己実現しようとする生き方が出てきた。相対的に他者のための物語は崩壊し、結婚しない人が増えたり、婚期がドーンと後退した。核家族化が決定的に進んだのも、この前後だ。
で、バイトをしながらバンドをやったり、演劇やったりマンガ描いたり小説書いたり。もちろん明確にそんな目標を持ったやつばかりじゃなく、自分のやりたいことがわからないから就職しないてな人もたくさんいた。というか、むしろそっちのほうが多かった。つまり自分探しである。
だけどそういう人たちも、「いつかは自分のやりたいことを見つけて自己実現するんだ」と考えていた。キーワードは自己実現と自分探しだ。これが80年代から90年代にかけて起こった社会的な価値観の転換である。
オフタイムだけでなくライフスタイル全般に、組織に属さず個人主義を生きる。この大きなパラダイムシフトを迎え、企業のほうも変わらざるをえなかった。
それまでの買い手市場が崩壊し、新人が入社してくれない。入社したとしても言うことを聞かない。
昔なら上司は、「釘を持って来いと言ったら、金槌もいっしょに持ってくるんだよ! 馬鹿野郎」と一喝すればよかった。けど、「なぜ金槌も持ってこなきゃいけないのか?」を社員に丁寧に説明しなきゃならなくなった。
でないと一喝した時点で、その社員はカンタンに辞めてしまうからだ。こうして雇われる側主導の形で、企業は変わって行った。
ところがさすがはカイシャである。転んでもタダじゃ起きない。80年代に起こったこのパラダイムシフトを逆手に取り、反転攻勢に出たのである。
新卒が入ってこないなら、もう外注しちまえ。大幅なアウトソーシングで人件費を削り、コストダウンしようじゃないか
で、派遣業界はご覧の通りである。
80年代のフリーターは自分の意思で就職しない人だった。だけどそんなわけで今のフリーターは、就職したいのにできない人たちである。
さて、そんな若い人たちに何かサジェスチョンできるとすれば、自分探しシンドロームにハマらないことだ。
特に1980年代以降、マスコミを中心に、「目標のある生き方をしなきゃいけない」、「人生に目的を持つことでこそ、あなたは自己実現できる」、「だからナンバーワンになるんじゃなく、あなただけのオンリーワンを探そう」てな壮大な洗脳が行われてきた。
自分だけの人生を生きろ。あなたには必ず何か魅力がある。好きなことに向かって努力すれば絶対にやり遂げられる──。
とっても口当たりのいいコピーばかりだった。だから人々はあっさり洗脳された。
だけど勝ち組がいれば負け組が必ずいるのと同じで、人間なんてみんながみんなオンリーワンをもってるやつばかりじゃない。
機械的に9時に出勤して5時に帰ることそのもので、対価を得る人もいる。他人にお茶をいれ、快適を売ることで収入をもらう人だっている。人間が100人いれば、それぞれの社会的な役割が決まってる。それがあなたの役割なんだ。
100人のうち、上から5人くらいはホントの天才だ。あなたがその5人と同じ生き方をしようとし、いくら自分探ししたって意味はない。だって彼らはあなたとちがって天才なんだから。
100人のうち、まあ30人くらいはオンリーワンなるものがあり、自分だけのとっておきな生き方ができる人なんだろう。
さて、もしあなたが残り70人に当たるなら要注意だ。分不相応な自分探しは時間のムダである。早めに自分の人生に折り合いをつけるのが賢い。
勉強しろとたきつける学校は勝とうとすることは教えても、上手な負け方なんて教えてくれないんだから。
イヤな仕事をガマンして趣味に生きるもよし。家族とのコミュニケーションを生きがいにするもよし。何かとんでもなくスペシャルな生き方をしなくたって、人生はいくらでも楽しくなる。それを見つけるのもまた一興、である。
これは決して敗戦処理じゃない。
あなたが真の負け組にならずにすむかどうかは、いつ自分探しシンドロームから抜け出せるか? にかかっているのだ。
【関連エントリ】
『人生をスルーした人々』
『自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋』
『「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん』
※追記/釘と金槌を入れ替えた(2007-11/1)
1980年代初頭にフリーターなる言葉が出てきたとき、思ったものだ。「これからは目標も持たずになんとなく就職するんじゃなく、自分のやりたいことを目指す社会になるんだな」と。
ライフスタイルとしての個人主義って言葉は当時すでにあったけど、ワーキング・スタイル的にも集団(企業)ではなく個人の時代が来たんだな、と感じた。
それまでの企業中心主義社会では、企業の終身雇用制が社会的なセーフティネットの役割を果たしていた。仕事は保証する。死んだら会社が墓も作ってやる。そのかわりカイシャに隷属せよ、と。
そんなカイシャは否応なくプライベートに侵入してくる。冠婚葬祭では上司の部長が音頭を取り、退社後の花見では場所取りをやらされる。暑くても上着を着ろネクタイをしろ革靴を履け。カイシャ中心のライフスタイルを生き、カイシャ中心主義的な価値観を持てと要求された。それが安全な生き方だよ、と。
だからこそ学生たちはモラトリアムな大学4年間を楽しんだ。人生最後の晩餐である。で、その後は安定してはいるけど、魂をカイシャに預ける人生の軟禁生活を耐え抜いた。
なぜ彼らは耐えられたのか? それは妻子のためだったり、親のめんどうを見るためだったりした。ひっくるめて言えば、広い意味で社会のためである。もちろん自分が食うためでもあるのだが、他者のための物語がまだ有効に機能していた時代だった。こうして社会はうまく回っていた。
一方のカイシャは終身雇用制を敷くことで、技能や才覚など能力のある人材を組織の内部に蓄積できた。それがエネルギー源になり、1970年代までの高度経済成長を成し遂げた。
ところが1980年代初頭にフリーターが登場し、カイシャと社員の蜜月時代が壊れていく。
「オレは自分のやりたいことをやるんだ」
自分の意思で就職せず、アルバイトをしながら自己実現しようとする生き方が出てきた。相対的に他者のための物語は崩壊し、結婚しない人が増えたり、婚期がドーンと後退した。核家族化が決定的に進んだのも、この前後だ。
で、バイトをしながらバンドをやったり、演劇やったりマンガ描いたり小説書いたり。もちろん明確にそんな目標を持ったやつばかりじゃなく、自分のやりたいことがわからないから就職しないてな人もたくさんいた。というか、むしろそっちのほうが多かった。つまり自分探しである。
だけどそういう人たちも、「いつかは自分のやりたいことを見つけて自己実現するんだ」と考えていた。キーワードは自己実現と自分探しだ。これが80年代から90年代にかけて起こった社会的な価値観の転換である。
オフタイムだけでなくライフスタイル全般に、組織に属さず個人主義を生きる。この大きなパラダイムシフトを迎え、企業のほうも変わらざるをえなかった。
それまでの買い手市場が崩壊し、新人が入社してくれない。入社したとしても言うことを聞かない。
昔なら上司は、「釘を持って来いと言ったら、金槌もいっしょに持ってくるんだよ! 馬鹿野郎」と一喝すればよかった。けど、「なぜ金槌も持ってこなきゃいけないのか?」を社員に丁寧に説明しなきゃならなくなった。
でないと一喝した時点で、その社員はカンタンに辞めてしまうからだ。こうして雇われる側主導の形で、企業は変わって行った。
ところがさすがはカイシャである。転んでもタダじゃ起きない。80年代に起こったこのパラダイムシフトを逆手に取り、反転攻勢に出たのである。
新卒が入ってこないなら、もう外注しちまえ。大幅なアウトソーシングで人件費を削り、コストダウンしようじゃないか
で、派遣業界はご覧の通りである。
80年代のフリーターは自分の意思で就職しない人だった。だけどそんなわけで今のフリーターは、就職したいのにできない人たちである。
さて、そんな若い人たちに何かサジェスチョンできるとすれば、自分探しシンドロームにハマらないことだ。
特に1980年代以降、マスコミを中心に、「目標のある生き方をしなきゃいけない」、「人生に目的を持つことでこそ、あなたは自己実現できる」、「だからナンバーワンになるんじゃなく、あなただけのオンリーワンを探そう」てな壮大な洗脳が行われてきた。
自分だけの人生を生きろ。あなたには必ず何か魅力がある。好きなことに向かって努力すれば絶対にやり遂げられる──。
とっても口当たりのいいコピーばかりだった。だから人々はあっさり洗脳された。
だけど勝ち組がいれば負け組が必ずいるのと同じで、人間なんてみんながみんなオンリーワンをもってるやつばかりじゃない。
機械的に9時に出勤して5時に帰ることそのもので、対価を得る人もいる。他人にお茶をいれ、快適を売ることで収入をもらう人だっている。人間が100人いれば、それぞれの社会的な役割が決まってる。それがあなたの役割なんだ。
100人のうち、上から5人くらいはホントの天才だ。あなたがその5人と同じ生き方をしようとし、いくら自分探ししたって意味はない。だって彼らはあなたとちがって天才なんだから。
100人のうち、まあ30人くらいはオンリーワンなるものがあり、自分だけのとっておきな生き方ができる人なんだろう。
さて、もしあなたが残り70人に当たるなら要注意だ。分不相応な自分探しは時間のムダである。早めに自分の人生に折り合いをつけるのが賢い。
勉強しろとたきつける学校は勝とうとすることは教えても、上手な負け方なんて教えてくれないんだから。
イヤな仕事をガマンして趣味に生きるもよし。家族とのコミュニケーションを生きがいにするもよし。何かとんでもなくスペシャルな生き方をしなくたって、人生はいくらでも楽しくなる。それを見つけるのもまた一興、である。
これは決して敗戦処理じゃない。
あなたが真の負け組にならずにすむかどうかは、いつ自分探しシンドロームから抜け出せるか? にかかっているのだ。
【関連エントリ】
『人生をスルーした人々』
『自分探しに疲れたあなたに贈る処方箋』
『「答え」を振りかざしたオウム。そしてほりえもんさん』
※追記/釘と金槌を入れ替えた(2007-11/1)