ブログ「CONCORDE」のTristarさんと、弁護士の小倉秀夫さんからトラックバックをいただいた。お二方とも集合知に疑問をお持ちのようだ。そこで寄せられたご意見をもとに、集合知について概観してみよう。
■集合知が機能するためには多様性や独立性が大切だ
結論を先に言えば、集合知がうまく機能するには条件がある。集まった個が多様であること、また彼らが他人に影響されない独立性を保っているか? などの要素により、集合知が有効に働く場合とそうでない場合があるってことだ。
まず議論の前提をはっきりさせるために、集合知の定義を確認しよう。わかりやすい参考文献をあげておくので、ご一読願いたい。
●『Web2.0と集合知』(Much Ado about Web ウェブのから騒ぎ)
●『多様化する個を集めて新しい価値を生み出す「Wisdom of Crowds」』(伊藤直也の「アルファギークのブックマーク」)
●『The Wisdom of Crowds: Why the Many Are Smarter Than the Few and How Collective Wisdom Shapes Business,Economies, Societies and Nations』(H-Yamaguchi.net)
ではTristarさんのご意見から見て行こう。
いや別に過剰な期待などしていない。私は前々回のエントリで、国家が戦争を回避するケースや会社の売上高を予測するケースを例に取り、集合知が有効に機能した場合の説明をしている。
文中で私は、多様性が重要なポイントだと書いた。また売上高予測の項では、逆に多様性がなく、集合知が適切に働かないケースについても触れている。「集合知は常に有効だ」とか、「必ず正しい」なんていう極論は書いてない。
加えて私は以前、ネットに過剰に期待しすぎると「参加型ジャーナリズム」はどうダメになるか? さらには人々の集団が衆愚に陥る危険性についても言及している。次のエントリをお読み願いたい。
●『質を問わない「参加型ジャーナリズム」って意味あるの?』
●『参加型ジャーナリズムと「衆愚」のあやうい関係』
つまり意図(集合知がうまく機能する場合)と逆の結果が出る可能性を常に考えながら、頭の中でバランスを取るのが大事だってことだ。そうすれば「自分の考えはいつも正しい」みたいな愚を犯さずにすむ。
だからこそ私はメディアリテラシーが大切だと書いているし、
●『ほりえもんに見るメディアリテラシーの憂鬱』
なぜブログ界に多様性が必要なのか? についても次のエントリでふれている。
●『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』
■Googleは集合知を集約しフィルタリングするシステムだ
さて、結論としてTristarさんはこうお書きになっている。
いや現にGoogleは、玉も石もあるネットの大海から、効率よく有益な情報をすくい上げている。
Googleやソーシャルブックマーク、Wikipediaなどは、集合知を集約してうまく機能させるツールである。人々から得られた知識やものの見方をあれこれ比較し、よりよい結論を出すためのシステムだ。これらがあれば効率のよさは担保されるし、同時に多様性も維持できる。別に専門家だけが集まって何かをやる必要なんてないのだ。
■問題は「総体」として信頼性が高いかどうかだ
じゃあ次は小倉さんのエントリに移ろう。
もちろんすべての人間が能力や誠実さをもっているのが理想だ。だけどそんな世の中ってありえない。小倉さんの持論通り、ノイズは一定レベルで存在する。ではどうすればいいのか? 先に書いたように、Googleやソーシャルブックマークを使えばいいのだ。そうすればノイズをフィルタリングしながら、質的にも総体として一定水準をクリアできる。
こんなふうに小倉さんは、部分を見て全体をジャッジしようとする。だけど問題は全体のほうではないだろうか?
もちろん小倉さんが指摘しているようなケースは一部にはあるだろう。だけど問題は総体として信頼性が高いかどうか? である。
ちなみにイギリスの科学雑誌「Nature」は、「Wikipediaの情報はブリタニカと同じくらい正確だ」という調査結果を出している。体感的にも同意できる分析だ。
なにより小倉さんの極論メソッドで行けば、Googleの検索結果の10万位に「バカ!」「死ね」って出てきたからGoogleはダメだ、捨ててしまえ、って話になりますよ。小倉さん、Googleやめますか?
■スルーはノイズをフィルタリングするための民間療法だ
で、小倉さんはこんなふうに結論づけている。
同じことを何度も書くことになってしまうが、これまで見てきた通りだ。数や多様性は集合知が成立する前提条件である。たくさん集まったせいでノイズが混入したら、あとからGoogle等でふるいにかければいい。
その意味じゃスルーは、ノイズをフィルタリングするための自分でできる民間療法といえるだろう。
逆に多様性がなく、意見がひとつやふたつしかなければ保険がきかない。それらの意見がまちがっていればおしまいだ。前々回のエントリで書いた通りである。
■ブクマする前に他人のコメントを読まないのは正解か?
最後に小倉さんは文末で、こんな指摘をされている。
もちろんこれはありえる話だ。集合知が成立する要件のひとつに、「参加者がほかの参加者の影響を受けず、たがいに独立していること」がある。小倉さんの言うような同調圧力が強ければ、確かに独立性は損なわれるだろう。
また私は以前、エントリ『いきなりコメントを書いてブクマするか、他人のブクマコメントを読んでからはてブるか』で、次のように書いている。
これも意味は同じだ。他人のコメントを先に読むと感化され、独立性が失われる。その結果、集まった意見に多様性がなくなる。で、これを避けるため、他人のコメントを先に読まないようにするわけだ。
だけどこれって集合知がうまく働く場合もあれば、そうでない場合もあるというだけの話である。だからといって集合知なんかダメだ、使えない、ってことにはならない。くれぐれもそのテの極論の愚には陥らないようにしたいものである。
■集合知が機能するためには多様性や独立性が大切だ
結論を先に言えば、集合知がうまく機能するには条件がある。集まった個が多様であること、また彼らが他人に影響されない独立性を保っているか? などの要素により、集合知が有効に働く場合とそうでない場合があるってことだ。
まず議論の前提をはっきりさせるために、集合知の定義を確認しよう。わかりやすい参考文献をあげておくので、ご一読願いたい。
●『Web2.0と集合知』(Much Ado about Web ウェブのから騒ぎ)
●『多様化する個を集めて新しい価値を生み出す「Wisdom of Crowds」』(伊藤直也の「アルファギークのブックマーク」)
●『The Wisdom of Crowds: Why the Many Are Smarter Than the Few and How Collective Wisdom Shapes Business,Economies, Societies and Nations』(H-Yamaguchi.net)
ではTristarさんのご意見から見て行こう。
「ネットのオープンさ」に対してなのか、「ブログ」に対してなのか、
ともかくそれらに過剰に期待しすぎてはいませんか。
●『現実世界へのメリットや有益有能が前提なら、それ専用の場でするのが効率的だと思うよ、という図示』(CONCORDE)
いや別に過剰な期待などしていない。私は前々回のエントリで、国家が戦争を回避するケースや会社の売上高を予測するケースを例に取り、集合知が有効に機能した場合の説明をしている。
文中で私は、多様性が重要なポイントだと書いた。また売上高予測の項では、逆に多様性がなく、集合知が適切に働かないケースについても触れている。「集合知は常に有効だ」とか、「必ず正しい」なんていう極論は書いてない。
加えて私は以前、ネットに過剰に期待しすぎると「参加型ジャーナリズム」はどうダメになるか? さらには人々の集団が衆愚に陥る危険性についても言及している。次のエントリをお読み願いたい。
●『質を問わない「参加型ジャーナリズム」って意味あるの?』
●『参加型ジャーナリズムと「衆愚」のあやうい関係』
つまり意図(集合知がうまく機能する場合)と逆の結果が出る可能性を常に考えながら、頭の中でバランスを取るのが大事だってことだ。そうすれば「自分の考えはいつも正しい」みたいな愚を犯さずにすむ。
だからこそ私はメディアリテラシーが大切だと書いているし、
●『ほりえもんに見るメディアリテラシーの憂鬱』
なぜブログ界に多様性が必要なのか? についても次のエントリでふれている。
●『偏った視点でブログを目利きする「必殺選び人」待望論』
■Googleは集合知を集約しフィルタリングするシステムだ
さて、結論としてTristarさんはこうお書きになっている。
実名匿名どっちにしたって才能を生かしたエントリー・有益な文章が前提なのであれば、実名匿名のメリットデメリットに話が矮小化されてまとめられつつある件について。(2007.07)より再掲しますが:『我は「玉石の玉なり」と信ずる者たちの"ゲーテッド・コミュニティ"』のなかで発信/コミュニケーションを行えばメリットを得るにしろ"集合知"の醸成にしろはるかに効率的ではないのでしょうか?
いや現にGoogleは、玉も石もあるネットの大海から、効率よく有益な情報をすくい上げている。
Googleやソーシャルブックマーク、Wikipediaなどは、集合知を集約してうまく機能させるツールである。人々から得られた知識やものの見方をあれこれ比較し、よりよい結論を出すためのシステムだ。これらがあれば効率のよさは担保されるし、同時に多様性も維持できる。別に専門家だけが集まって何かをやる必要なんてないのだ。
■問題は「総体」として信頼性が高いかどうかだ
じゃあ次は小倉さんのエントリに移ろう。
集合知が価値を持つためには、意見を発する「衆」の側に一定の能力と誠実さがあることが求められます。「おふざけ」を含めた邪な気持ちで発信される情報の割合が増えれば、集合知の価値はどんどん下落していきます。
●『集合知の価値を維持するのは大変だ』(la_causette)
もちろんすべての人間が能力や誠実さをもっているのが理想だ。だけどそんな世の中ってありえない。小倉さんの持論通り、ノイズは一定レベルで存在する。ではどうすればいいのか? 先に書いたように、Googleやソーシャルブックマークを使えばいいのだ。そうすればノイズをフィルタリングしながら、質的にも総体として一定水準をクリアできる。
こんなふうに小倉さんは、部分を見て全体をジャッジしようとする。だけど問題は全体のほうではないだろうか?
例えばWikipediaですら、特定の人物に悪意を持つ者により執拗な「編集」が行われると、その内容は途端に実態を乖離したものとなります。Amazonのレビューでも、特定の人物に悪意を持った人々がその人物の著書について軒並み最低の評価点をつけることにより、その著書のレビューポイントを落とすことができます。
●同
もちろん小倉さんが指摘しているようなケースは一部にはあるだろう。だけど問題は総体として信頼性が高いかどうか? である。
ちなみにイギリスの科学雑誌「Nature」は、「Wikipediaの情報はブリタニカと同じくらい正確だ」という調査結果を出している。体感的にも同意できる分析だ。
なにより小倉さんの極論メソッドで行けば、Googleの検索結果の10万位に「バカ!」「死ね」って出てきたからGoogleはダメだ、捨ててしまえ、って話になりますよ。小倉さん、Googleやめますか?
■スルーはノイズをフィルタリングするための民間療法だ
で、小倉さんはこんなふうに結論づけている。
そういう意味で、単純に「集合知は、束ねられた意見の数が多ければ多いほど価値が増す」と言ってしまっている松岡さんの「集合知」に対する理解には疑問を挟まざるを得ません。
同じことを何度も書くことになってしまうが、これまで見てきた通りだ。数や多様性は集合知が成立する前提条件である。たくさん集まったせいでノイズが混入したら、あとからGoogle等でふるいにかければいい。
その意味じゃスルーは、ノイズをフィルタリングするための自分でできる民間療法といえるだろう。
逆に多様性がなく、意見がひとつやふたつしかなければ保険がきかない。それらの意見がまちがっていればおしまいだ。前々回のエントリで書いた通りである。
■ブクマする前に他人のコメントを読まないのは正解か?
最後に小倉さんは文末で、こんな指摘をされている。
さらにいえば、匿名さんは何をしても無責任でいられる環境では、匿名さんたちのお気に召さないであろう発言は回避されがちになり、結局、意見の多様性は奪われていきます。実際、匿名さんに牛耳られている場所では、匿名さんたちから「空気を読む」ことを強要されることもあって、しばしば、既存メディア以上に意見の多様性に乏しかったりします。
もちろんこれはありえる話だ。集合知が成立する要件のひとつに、「参加者がほかの参加者の影響を受けず、たがいに独立していること」がある。小倉さんの言うような同調圧力が強ければ、確かに独立性は損なわれるだろう。
また私は以前、エントリ『いきなりコメントを書いてブクマするか、他人のブクマコメントを読んでからはてブるか』で、次のように書いている。
はてブるとき、私は自分にひとつの決まりを課している。それは他人のコメントを決して先に読まないことだ。まず自分のファースト・インプレッションをコメントに書き、ブクマする。それからおもむろに、同じ記事をブクマしている他人のコメントを読むのである。なぜそうするのか? 先に人の意見を聞いてしまうと、影響されて自分の視点がブレるからだ。
これも意味は同じだ。他人のコメントを先に読むと感化され、独立性が失われる。その結果、集まった意見に多様性がなくなる。で、これを避けるため、他人のコメントを先に読まないようにするわけだ。
だけどこれって集合知がうまく働く場合もあれば、そうでない場合もあるというだけの話である。だからといって集合知なんかダメだ、使えない、ってことにはならない。くれぐれもそのテの極論の愚には陥らないようにしたいものである。